見出し画像

髪をかきあげて竜巻 第五話(最終話)

 僕は相変わらず広告を作り続け、多くの注文を安価で獲得できるネット媒体を探し続けていた。ノートパソコンの画面を見ながらクリックをし続け、ほとんど誰とも話さずに夕暮れを迎える日々が続いていた。まるで風がぴたりと止んだみたいに、僕のまわりから誰もいなくなった。栞さんの消息については何の手がかりも届かなかった。スマホにもメールにもコールセンターにも、栞さんの痕跡を示すものは何一つ届かなかった。ときどき顧客から、滝乃瀬さんのご様子はいかがですか? との問い合わせがあったが、体調が芳しくなく退職しましたと答えることにした。
 年が明け、久しぶりにメールソフトを立ち上げた。注文メールがいくつか届いていたが、なかに不審な内容のものが混じっていた。それらはすべて僕と僕の会社を揶揄する文章だった。
 お前の会社は健康食品を看板に挙げながら、実際は売春婦を送りつけているのか
 従業員も消臭スプレーを使って、千円のティッシュであそこを拭き取っているんだろ
 結局デリヘルだろ。ちゃんと風俗店の許可を取れよ
 誰がこんな健康食品を買うか。逆に病気になるわ。早く潰れろ
 爺さんと風俗嬢をセックスさせて、年金を巻き上げているのか。クソ経営者が
 大体が似たような文面だった。複数のSNSや掲示板を検索してみると、やはり同じような中傷のコメントが並べられている。世界中からトイレの落書きを集めたみたいに、書き捨てられた言葉がどこまでも続いていたので、僕は閲覧するのをやめた。
 石が一つ投げ入れられて波紋が広がるように、あっという間に情報が拡散する。石を投げたのは栞さんの夫であることに違いなかった。今回の件を知っているのは、今のところ僕と栞さんと栞さんの夫の三人しかいない。だからと言って、最初に石を投げた地点へ遡っていくのはほぼ不可能だ。その地点はすでに消失していることも考えられる。いくら栞さんの夫を問い詰めても、どこにも証拠は見つからないだろう。
 僕としては波が収まるのを待つしかなかった。ネット広告への出稿とダイレクトメールの郵送を中止し、コールセンターに掛かってくる電話に丁寧に対応するしかなかった。コールセンターのオペレーターは自分自身が罵倒されているようにじっと耐え、なんとか釈明しようとしてくれたが、ほとんどの客は聞き入れようとしなかった。そのうち波は収まるはずだと見積もっていた僕の判断は甘かった。以前からネット広告を拡大していたことで、ネットに対して抵抗がなかったり、詳しい知識を持っている顧客が想定以上に増えていた。それらの顧客たちが僕の会社への誹謗中傷を発見するのは難しいことではない。おそらく彼らは裏切られたような気分で僕の会社から離れていっただろう。
 一月が終わり、何もできないまま二月が終わり、顔を上げると三月がすでに終わっていた。コールセンターでの電話注文が減少するにしたがって、担当オペレーターの人数も少なくなった。一日に数件ほど届くウェブサイトからの注文メールは、半分がいたずらによるものだった。出荷センターでは消費期限が迫った在庫商品を廃棄せざるを得なくなった。そして月次処理を終わらせるたび、気持ちよく滑降できるぐらいの角度で売上のグラフは下降線を描くようになった。
 デリヘアで商品を買ってくれた顧客たちは、他の顧客よりも比較的購入を続けてくれた。しかしデリヘア自体のサービスが終了してしまったことで、彼らの購買意欲も失われてしまったようだった。結局彼らが信用していたのは僕の会社ではなく、やはり栞さんというメディアだったのだ。
 四月の静かな昼下がり、僕は窓の外を眺めていた。デリヘアを立ち上げようとしたのが、ちょうど一年前だ。自分で会社を所有しようとした、ただそれだけのはずだった。売上は前年同月比を大きく下回ってしまったが、商売をしている以上、数字のアップダウンは受け止めざるを得ない。それよりもノートパソコンの前でじっと座ったままの僕を捕らえていたのは、昔感じたことのある空しさだった。糖尿オーナーが三十歳の若手を後継に指名したときに感じたもの。それは形を変え、栞さんとの仕事が頓挫したことによって再び僕を捕らえようとしていた。
 スマホが震える。登録にない番号だったので無視しようとしたが、もしやと思って出てみると、相手は広告代理店だった。中野の後任に就いた男だ。紙メディアへの発注を控えていたため、ずいぶんと話をしていなかった。
「久しぶりだね」
「ご無沙汰しておりまして申し訳ございません」後任の男は明るい声だった。
「こっちも発注していなかったからね」
「篠原さん、それが正解ですよ。紙メディアはもうやばいです。あのそれと……事後報告になるんですが、実は私、先月会社を辞めました」
「そうなんだ」スマホを握りながら、頬杖をついた。「でもそれが正解かもしれないよ。僕もその方がいいと思う」
「ええ、ほんとあの会社、クソだなって思います。売上が下がっていくのを人のせいにばっかりにして、責任のなすり付け合い。しょせん広告代理店なんて人様の土俵で食わせてもらっているのに、いつの間にかヤクザみたいにふんぞり返って、ショバ代払えって言うだけになったんですよね。あの会社というか、この社会自体がろくなもんじゃないなって」
「昔からの慣習が続いている業界だからね」
「あ、すみません、愚痴っちゃって。もし発注があるときは新しい担当者が付きますんで、連絡してあげてください。あと篠原さん、ご存知ですか? 中野さんのこと」
「中野?」すぐにその顔が思い浮かばなかった。
「中野さん、再就職してずいぶんと頑張っているみたいですよ。篠原さんが昔いた会社に入社して、新しい事業のメンバーに加わっているらしいです。出張美容師です。ほらあの会社、化粧品とかダイエット商品とかを売っているでしょう。その購入者に出張美容師の案内を送って、美容師を派遣する。そして客の自宅でまた化粧品とかダイエット商品を売りつけるんですって。ターゲットはばっちりですよね。最近は日本全国に展開するために、各地域で美容師をたくさん雇おうとしているみたいです。でもそれって元はといえば篠原さんが始めたことですよね。私はちゃんと憶えていますから。確かに中野さんはやり手だと思いますが、そういう鼠みたいにちょこちょこ動くところはクソだなって思います、ほんとに」
「仕方ないね。たぶん特許は取れないだろうからね」僕は短く笑った。「まあ中野も家族がいるし、藁をも掴む気持ちだったんだろう」
「まあそうとも言えますね。それじゃあ失礼します」後任の男はあっさり電話を切った。
 僕は昼食をとることにした。事務所から五分ほど歩き、夫婦で営んでいる小さな中華料理店に入った。やけに腹が減っていた。レバニラ定食に餃子と唐揚げを追加した。まだ十一時を少し回ったぐらいで店内に客はおらず、注文したものが次々と運ばれてきた。テーブルいっぱいに並べられた料理を僕は一気に口に運んだ。一度も箸を置くことなく、唐揚げの衣のひとかけらも残さなかった。
 代金を支払って事務所へ戻る途中で、突然吐き気に襲われた。胃の中で釣られた魚が暴れ回っているみたいだった。腹を押さえながら近くにあった児童公園に駆けていき、茂みの中へ両膝をついて体を屈めた。そして食べたばかりの中華料理をすべて嘔吐した。絞り出される声と共に、目に涙が滲んでいた。僕はしばらくその場でうずくまったまま、呼吸を整えることにした。
 そろそろ回遊魚は力尽きようとしているのか、僕は肩を揺らしながらそう思った。いくら同じ場所を泳いでいれば良いといっても、回遊魚自身にも限界がある。もし一年前に何もしていなければ、何も変わらない一年後になっていたのだろうか。栞さんは姿を消さずに済んだのだろうか。竜巻は起こらなかったのだろうか。
 どちらにしても糖尿オーナーは手を引いて正解だった。やがてこうなることを、長年にわたって鍛えられた勘と経験は察知していたのだ。物事を客観的に測れる洞察力であり、先を見据えた判断力だ。おそらく今頃、出張美容師の先の事業を考えていることだろう。ただそれでも、やはり僕は糖尿オーナーから解放されたかった。偉そうな金という権威から解放されたかった。首根っこを掴んでいるものから解放されたかったのだ。「本当に正しいものは、どんな鏡にでも正しく映る」そう残したのはエミリー・ディキンスンだっただろうか。
 そう、糖尿オーナーが手を引いたのは本当に正しかった。

 すっかり伸び切った髪を簡単にまとめてから、会社をたたむ手続きを相談するために僕は司法書士の元を訪れた。解散する会社に対してせめてもの慰めか、費用はそれほど掛からないようだったが、役所や税務署へ何度も書類を提出して完了までに何ヵ月か掛かるみたいだった。流れをフローチャートにまとめた紙を司法書士は渡してくれた。「どうしましょう、もう解散登記の手続きを進めましょうか」司法書士は無表情のまま訊ねた。「またあらためて電話を差し上げます」と僕は答えて、事務所を後にした。
 会社をたたんでも、他に仕事があるというわけではなかった。従業員兼役員という立場で雇用保険料を支払っていたから、失業給付金は受け取れるだろう。預金通帳にもしばらくは食べていけるぐらいの額は記されている。ランニングコストの支払いで会社の内部留保が減少してしまわないうちに廃業するのが一つの手だと思った。市場は人手不足だとテレビのニュースは伝えていた。四十三歳の独身男でも、コンビニでの深夜バイトであればどこかで雇ってくれるだろうか。その前にこの伸び切った髪を切っておかなければならない。
 荷物整理の続きをしようと、僕は事務所に戻った。一階の集合ポストを開けると、水回りのトラブル処理を宣伝するチラシや、オフィス用品のダイレクトメールなんかが詰めこまれている。その中に白い封筒が紛れていた。宛名には余裕のある字間で僕の名前が書かれている。裏面の隅には小さく、滝乃瀬栞とあった。僕はエレベーターに乗り、事務所の階に着くまでに封筒をじっと見ていた。送り元の住所はどこにも書かれていない。切手に消印が押されていたが、かすれた地名はほとんど読み取れなかった。ただ栞さんの名前だけが記載されているだけだ。
 事務所の部屋に入ると、僕は椅子に座り、鋏で丁寧に封筒を開封した。数枚の便箋にはやはり余裕のある字間で文章が書き連ねられている。僕は窓を開けた。人なつっこい猫のように暖かな風が入りこんできた。オオルリはまだ変わらず窓辺に佇んでいた。

 まず謝らなければいけません。突然いなくなってしまい、決まっていたたくさんの仕事を何も告げずに放り出してしまい、篠原くんには本当に取り返しのつかない迷惑をかけてしまいました。それだけではありません。会社の信用を落とし、多くのお客さんから非難され、現実的な損害も発生させたことでしょう。非難されるべきはわたしです。でもわたしはそこにおらず、逃げるように篠原くんを裏切りました。そしてそのことをきちんと伝えることさえせずに、数ヵ月間を過ごしてきました。
 最近になって、手紙を書ける状態になりました。気持ちが落ち着き、自分に起こったことを冷静に思い返せるようになりました。わたしは今、篠原くんに向けて手紙を書いています。でも篠原くんだけでなく、自分自身に向けて整理をするつもりで筆をとっています。もしわかりにくいところがあったら申し訳ありません。
 今わたしがいるところは仙台です。一人暮らしをしている娘のマンションにここしばらく住まわせてもらっています。このことはまだ誰も知りません。娘にだけは事情を伝えて、少しの間だけでいいから置いてもらうようにお願いしました。
 あの人と出会ったのは昨年の秋頃です。千葉の九十九里の方へカットをしに行ったときに、あの人はそこにいました。知り合いのおばさんが持っていたデリヘアのダイレクトメールに興味を惹かれて、電話を掛けたんだと言いました。篠原くんと同じように、あの人も一人で会社を経営していて、何か事業のヒントになるようなものはないかと探していたようです。年齢も篠原くんと同じで、独身でした。
 その日は朝から秋の涼しい風が吹いていて、空では淡い雲が尾を引いていました。わたしはトランクケースを手にして、いくつもの電車を乗り継ぎ、九十九里のあの人の自宅マンションを訪れました。インターフォンを押し、ドアが開かれてあの人が顔を出しました。わたしは靴を脱ぎ、リビングに案内され、カットの準備を始めました。そしてビニールシートと新聞紙を床にしきつめ、丸椅子に座ったあの人の首にヘアエプロンを着けたときには、わたしはもうあの人に惹かれていました。すでに完全に惹かれていました。そして同時に、あの人もすでにわたしに惹かれている、そのこともわたしにはわかりました。わかったとしか言いようがありません。カットをしている間、わたしたちは互いにいろんな話をしました。どこかぎこちない会話で、二人とも上の空にいるような感じでした。でも一方で、相手の気持ちが手に取るように伝わってきました。まるで互いの心が入れ替わった感じです。陳腐な言い方ですが、わたしたちはその日、一秒も変わらないまったく同じタイミングで、二人同時に恋に落ちたのです。
 カットが終わり、洗髪のために浴室に行きました。脱衣場でわたしとあの人は、互いの体に触れ合いました。そのとき、その場所においては、それはあまりにも自然な行為でした。でも帰り道、電車の外の風景をぼんやり眺めていると、一体何が起こったのか、自分でもよくわからなくなりました。自分が今どこにいて、どこに連れて行かれようとしているのか、ふと顔を上げると全然知らない場所に自分がいるような気がしました。
 その後も連絡を取り合い、あの人と何度も会いました。わたしの心はいつもあの人を追い求めるようになっていました。出張の前あるいは出張の後に、わたしはひっそりとあの人と二人きりで会っていました。そしてその度に、どこかの部屋の中で抱き合うことになりました。
 冬になって、年末に台湾出張に行くんだけど、一緒についてきてくれないかとあの人は頼んできました。わたしの心は決まっていました。すでに選択はされていたのです。わたしはあの人と一緒にいたいとすでに願っていて、そうするために必要な説明や手続きはすべて選択しなかったものの中にありました。出発の朝、わたしは必要最低限の物を詰めたトランクケースを手にして家を出て、平塚でのカットを終えると、その足であの人と待ち合わせた羽田に向かったのです。
 二週間後、台湾から戻ってきて、わたしはあの人の九十九里のマンションに住み始めました。あの人と一緒に住む生活に変わったのです。あの人が仕事に行っている間に部屋を掃除し、洗濯物を干し、食事を作りました。一人でいるとやはりときどき、自分がどこにいるのかわからなくなる瞬間があり、何も手につかなくなるときもありました。それでもあの人が帰ってくると、そんなことはきれいに忘れることができました。
 ある夜、二人で食卓のテーブルに座っているときでした。夕食を食べ終えて、わたしが食器を片付けようとすると、あの人は話し始めました。「結婚を考えている。ずっとこのままの関係というわけにはいかない。籍を入れて、僕もあなたも夫婦という関係になった方が良いと思うんだ」と真剣な口調で言いました。わたしはその言葉を耳にして、しばらく手にしたままの食器を見つめていました。そこに付いているソースの跡を見るばかりで、あの人の顔を見ることはなぜかできませんでした。「旦那さんとのこともあるし、すぐには無理かもしれない、でも今日の話は考えておいてほしい」とあの人は付け加えて、その夜の話は終わりました。
 ベッドに入っても、わたしは寝つけませんでした。目ははっきりと開き、意識は真冬の夜空のように澄みきっていました。あの人が結婚という言葉を出したことで、わたしは自分が今いる居場所を認識していました。あるいはこれから留まろうとしている場所を目にしていました。わたしはベッドの中で、体の向きをあの人が眠っている方へ変えました。静かに寝息を立てている寝顔を見ていると、かつての気持ちが自分の中から失われていることに気づきました。ほんの数ヵ月前にわたしを引き寄せ、混乱させ、鼓動を早くし、体温を高めて、どこかに連れていこうとしていた塊はどこにも見あたりませんでした。
 再び、わたしは姿を消すことになりました。あの人の部屋を訪れたときと同じように、トランクケースだけを手にしてあの人の部屋を去りました。あの人が嫌いになったというわけではないと思います。ただ、そこに留まることがもうできなくなったのです。それから一週間ほどホテル住まいを続けた後、娘に電話をして仙台行きの電車に乗ることにしました。
 娘の部屋に住み始めて間もなくすると、妊娠していることがわかりました。自分が取った行動のせいなのはわかっていましたが、何日かの間は混乱してしまいました。でも混乱しても、することは一つしかありません。産婦人科に行くと、まだ初期だったので堕胎手術を受けることができました。今、この手紙を書きながら、なぜこんなことになったのかを考えています。理由らしきものは言葉にできるでしょう。あたかも理屈が通るように文章を組み立てることはできるのだと思います。でもそれは結局、輪郭をなぞっているだけのことじゃないかしら。輪郭の中にあるものなんて、誰にもわからないような気がします。これまでの文章を読み返して、申し訳ないですが自分ではそう感じてしまいます。
 もちろん最初に書いたとおり、現実的に非難されるべきなのはわたしです。旦那が篠原くんと顔を合わせて話したことは知っています。旦那が篠原くんにどういう態度を取ったのかは、大体想像がつきます。この手紙を篠原くんに送るのと一緒に、旦那には離婚届を送ります。手続きはすんなりとはいかないでしょう。これまでわたしが選択しなかったことのつけが回ってくるのだと思います。娘にもこれ以上迷惑をかけることはできませんから、近いうちにこの部屋からも出ていきます。篠原くんがずいぶん仕事を回してくれたおかげで、どこへ行こうともしばらくは暮らしていけそうです。デリヘアの仕事は本当におもしろかったです。あのときの篠原くんの口説き文句を思い出します。本当に自分の背中に羽が生えたようにいろんな場所を飛び回っていましたから。
 最後に繰り返しだけど、篠原くんに迷惑をかけたこと、篠原くんの会社に迷惑をかけたこと、篠原くんのお客さんに迷惑をかけたこと、あらためて深く謝ります。この先、わたしが責任を取れることがあれば取らせてください。
 そして、美容師としての可能性を与えてくれたことに感謝をしています。ありがとう。

 僕はその手紙を何度も読み返した。そして頭の中に染みこませた後、便箋を折りたたんで封筒に戻し、リュックの中に入れた。オフィスチェアの背もたれに体を預け、しばらく天井を見上げていた。九十九里に住む顧客をリストアップすることはもちろん可能だった。それほど多くの数ではないだろう。そこから僕と同じ四十三歳の甥がいそうな年齢の女を絞りこむこともできる。しかし、だからといってそれが何になるのか、と僕はかぶりを振った。そこに栞さんはすでにいない。ただ、栞さんがいた痕跡だけが残っているかもしれないだけだ。
 いつも窓辺で空を見上げているオオルリは、やはりそこにあった。片付いた部屋の壁には日焼けの跡がつき、天井の隅では蜘蛛の糸が張られていて、外からはパトカーのサイレンが聞こえてくる。目を閉じていると、この狭苦しい事務所から抜け出したくなってきた。どこか遠くへ飛んで行きたい気持ちが爪を立てて胸を掻きむしっていた。
 それまで日本各地に住む顧客のもとへ取材に訪れてきたが、まだ唯一足を踏み入れたことがない場所は高知だった。僕はネットで高知市内のビジネスホテルを適当に予約した。そしてしばらくの間事務所を不在にする準備を整えた。自宅に戻って着替えをキャリーケースに詰めることはしなかった。そんな作業は面倒くさかったし、着るものぐらいは現地で調達できる。僕はリュック一つで事務所のビルを出て、大きな通りでタクシーを捕まえ、羽田空港に向かった。大型連休の直前ということもあり、道路はトラックや社用車で混雑していた。ようやく空港に到着し、航空会社のカウンターで席の手配を頼むと、その日の高知行きはもう夜の便しかなくてほぼ満席の状態だった。どんな席でも構わないといって、僕はチケットを受け取った。
 飛行機は夜の七時に羽田空港を離陸した。機内では人の頭が隙間なく並び、僕は最後部の窓際の席に座って、窓の外の暗闇にぼんやりと目をやっていた。もし僕が栞さんと関係を持っていたら、と想像していた。僕は栞さんを求め、もし栞さんも僕を求めていたとしたら──おそらくそれほど長く続かないうちに関係は破綻していたのだろう。二人ともあまり若くはなく、ビジネスパートナーの関係であり、栞さんは既婚者だ。社会的にも立場的にも足元を捕らえようとする何かから、僕たちは結局逃れられなかったと想像する。手紙に書かれていたあの人は、もしかしたら僕だった可能性もあったからだ。そう思うと、僕はひどく淋しかった。生きていくことが淋しかった。まるでどこまでも満たされない不完全さをただ確かめ合うために生きているようだった。きっと猫のハルオもクッションの上で淋しさと一緒にこの世を去ったのだ。
 高知空港に到着すると、タクシーに乗ってホテルに向かった。チェックインを済ませて、部屋にリュックを置くと、僕は駅前の通りに建ち並んでいる小さな居酒屋に入った。ちょうど初鰹のシーズンのようで、手書きのメニューにはいろんな種類の鰹料理が載っていた。すでに遅い時間で、店内ではネクタイを締めた五、六人の男のグループが酔っ払って大声を出していた。僕はそんな景色に背中を向けてカウンター席に座り、鰹のたたきを肴に徳利を傾けていた。明日はレンタカーでも借りて、海岸沿いを運転してみようかなどとスマホで検索したりしていた。
 男たちが近寄ってきたのは店を出たときだった。二本目の徳利を空にして、勘定を払い、ホテルに戻る道を確かめていると、騒いでいた男たちの一人が外に出てきて、僕の肩を掴んだ。
「あんた、いつ謝るんだよ」
 男は三十代ぐらいの風貌で、提灯のような赤い顔をしていて、目の焦点が定まっていなかった。僕が何も答えずに立ち去ろうとすると、手の力を強めた。
「さっきあんた、便所から出てきたときに俺に当たったよな。その肘を俺の背中に当てたよな。俺はずっと待ってた。あんたが謝りにくるのをずっと待ってた。でもあんたはずっと背中を向けたまま、結局店から出て行った。ちょっとさ、なめられてんのかなぁと思って」
 僕は後ろを振り向いたまま、男に向かって頭を下げた。
「もし本当に肘が当たったのなら悪かったよ。別に当てたつもりもないし、それがあんたの背中かどうかもわからない。でも、あんたがそう言うならそうかもしれないな」
「は」
「あんただって、気づかずに犬の糞を踏むことだってあるだろう」僕は再び歩き出そうとした。
「ちょっと待てや、おっさん! なんだよ、その態度。やっぱなめてんな」
 男は興奮したようで、僕の前に回りこんできた。そして僕の顔を睨みながら、ぶつぶつと汚い言葉を呟いていた。
「どうした」
 店の戸が開き、数人の男が外に出てきた。全員同じテーブルで酒を飲んでいた連中だ。
「いや、こいつがさ、辛気くさく一人で飲みながら気取ってやがって、なめた態度ばっか取りやがるんだよ」
 男たちは塊になって、みんな僕の姿を見回していた。みんな同じネクタイを締め、同じワイシャツを着て、同じスラックスを穿いていた。もしかしたら普通の会社員ではないかもしれないと思った。ヤクザのフロント企業だろうか。少なくとも仲間内でただ憂さ晴らしに酒を飲んでいるような集団ではなさそうだ。
「こっちの人間じゃないな。ちょっと来いや」一人が言った。
 男たちは僕のまわりを取り囲んだ。その日は朝から司法書士の元を訪れ、栞さんからの手紙が届き、そのまま飛行機で高知へ移動してきた。一日の疲れと二合の日本酒が僕を行くあてのない犬のようにさせていた。押し流されるように、僕は店の横にあった薄暗いコインパーキングに連れて行かれた。いちばん奥のスペースに軽自動車が一台だけ駐車されていて、その陰で男たちは立ち止まった。
 ふと軽自動車の窓を覗いてみると、運転席の座面に鳥の置物が転がっていた。放り捨てられたように足を上に向けて倒れている。はっきりとした形を確かめようと窓に顔を近づけたときだった。突然、腹に強烈な衝撃を受けた。息ができなくなり、殴られた腹を反射的に手で押さえ、身を屈めた。男たちは苦しむ僕の体を思いきり押し、足を引っかけた。アスファルトの上に倒れるとき、手のひらを擦りむいた。あとは何本もの足が僕を蹴り続けるだけだった。やはり全員同じ革靴を履いている。いくつもの同じ革靴が僕の太腿を蹴り、僕の背中を蹴り、僕の腹を蹴り、僕の胸を蹴った。泥のついた革靴の底はなじるように僕の頬をじりじりと踏みつけた。僕は立ち上がることができなかった。一つの革靴がずっと僕の首を強く踏みつけていたからだ。いくら手足に力を入れようとも、体の支点は鉄のおもりを置かれたように支配されていた。首が圧迫されているせいで呼吸がうまくできず、声を上げることもできない。激しい革靴の雨は執拗に僕の全身を痛めつけ、泥だらけにしていった。やはりそうなんだと思い出した。やはり僕が痛みを覚えるのは僕がここにいるからだった。そのことを忘れてはいけない。行為と場所に深い関係があるのと同じように。
「おい、そろそろ行くか」
 一人の男の言葉で、革靴の雨は止んだ。倒れこんでいる僕の状態をしばらく確認しているような沈黙があった。やがてざらざらと地面を引きずる足音を立てながら、男たちはコインパーキングを去っていった。次はソープランドにでも行くかという声が聞こえた。俺はゴムなしで強引にやってるぜと遠くで笑い合っていた。
 僕はゆっくりと手足を広げ、アスファルトの上で仰向けになった。夜空はどこまでも雲に覆われていて、高さの感覚がよく掴めなかった。息を吸いこむと、肋骨のあたりに鋭い痛みが走った。まるで太い筋を鋏で切断されたような痛みだ。しばらく目を強く閉じて耐えていると、なぜだか笑いがこみ上げてきた。笑うと再び激痛が走った。だがそれでも笑いは止まらなかった。可笑しいことなんて何一つないというのに、見上げた雲の形なんて一瞬で忘れてしまうというのに、僕は笑い続けた。そして痛み続けた。痛みと笑いを繰り返していると、ふと一つのアイデアが砂漠の中の泉のように煌めいた。
 ズボンのポケットが小刻みに震えている。夜空を見上げたまま、スマホを取り出す。LINEにメッセージが届いている。チアキからだった。
 ──マッキー、ひさしぶり。元気にしてる? やっと広島で手頃な物件が見つかって、今日ついに契約してきた。広いわりに家賃はそんなに高くないし、駅からも離れていない。ちょっと古いけど、ほとんどリフォームもせずに済みそうだから、来月にはオープンできそうだよ。マッキーもいつか遊びにきてよね!
 僕は画面を閉じ、スマホをポケットにしまった。そして夜空に向かって、ゆっくりと息を吐いた。
 おいチアキ、と僕は呼びかけた。自分の体を張って稼いだ金だ。体一つで自分の店を開くことができたのは尊敬する。実業家の愛人になって店を持たせてもらう奴なんかより、チアキの方がよっぽど信用に値する。確かにオオルリは空へ羽ばたくことができたな。ただチアキ、一体何を売るつもりだ。かつての客に営業メッセージをばら撒くのは間違っていないが、雑貨店なんて世の中に星の数ほどあるぞ。その中でどうやって差別化するつもりなんだ。どこにでもあるような店だと、客は目もくれずに通り過ぎていくだけだ。せっかくの妹との店を閉じてしまうことになる。大手の雑貨店には並んでいない品揃えでないと生き残ってはいけない。
 もし僕なら、と息を止め、勢いをつけて上半身を起こした。痛みは少し和らいでいる。もし僕なら、コンドームを売る。新しいコンドームだ。ただの避妊具ではない。男も女も互いに快感を増幅させることができる新しい材質のコンドームだ。何も着けないより、それを着けた方が快感は増す。だから男も女も使いたくなる。性病の感染予防にも役立てることができる。おそらく高めの価格を設定しても売れるだろう。店舗や通販で購入できるようにし、ラブホテルや風俗店にも卸すことができるようにする。消耗品だから継続的な購入も見込める。確か以前に訪問した顧客の中に、化学繊維メーカーの役員を務めていた老人がいた。電話をかけて、話を聞きにいき、新しい素材を作る必要がある。そして完成した商品を販売するためには、会社を潰すわけにはいかない。
 さあ、そろそろおもしろくなってきた、僕は頬についた泥を手でぬぐい、伸び切った髪をかきあげた。

〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?