見出し画像

昭和97年のドブネズミ 第一話

 午前中の外回り営業を終えた後、ドブネズミは駅の構内にある店で立ち食いうどんをすすっていた。一癖あるクライアントの担当者とはいっこうに話が進まなかった。朝から何も食べていないことも重なり、かつお出汁の湯気に包まれながらドブネズミはうどんに夢中になっていた。そんなとき、ワイシャツの胸ポケットでスマホが震えた。割り箸でうどんをすくいあげたまま、片手で通話ボタンを押すと、部長の愛想のない声が聞こえてきた。さっき君と打ち合わせた先方の担当者から私宛てにメールが届いたんだと部長は言った。内容はクレームだった。今日の提案内容は到底納得できるものではない、我々のメリットが最大限に設定されていない、あんな程度の広告に我々が出稿するはずがないことは少し考えればわかるはずだ、企画の説明もわかりにくかった、なぜ毎回あの担当者をよこすのか、率直に伝えるがいつも打ち合わせ中の不快感は否めない、もし次の機会があるとしても今後は担当者を変えてもらうことが前提になる。部長はメールの内容を淡々と説明した。
「一体どういうことなのかは、君が戻ってきてから詳しく聞かせてもらう。ただ一体どういうことなんだ」
 部長はまだ昼食をとっていないかもしれないとドブネズミは思った。いつものように部下を連れて昼休みを取ろうとしたときに、メールの受信に気づいたかもしれない。空腹が部長をいつもより苛立たせている。だがドブネズミはもう誰かの苛立ちにいちいちおののくような年齢ではなかった。それよりも電話中に温かさが失われつつあるうどんの方が気がかりだった。
 ドブネズミはうどんを一口すすって「すみません、いいですか」と部長に返した。
「なんだ、どうした」
「ちょっと今、うどんを食べてるんです」
 ドブネズミは素気なく言い、電話を切った。そしてスマホを足元の鞄の中に入れ、何事もなかったように再びうどんに向かって背中を丸めた。
 昔、ドブネズミはよくうどん屋に忍びこんで、生ごみの中のうどんを漁っていた。その頃のドブネズミにとって、うどんはまさに生き延びるための生命線であり、四十六歳になった今でも彼の食生活の中心を占めている。うどんを食べるために部長からの着信を無視することもできた。ただスマホが胸を震わせた瞬間、長年養われた広告代理店の営業職としての勘が働いた。なにか良くないことが起こったと察知し、やはりそれは現実に起こっていた。
 結局その日、ドブネズミは会社に戻らなかった。午後からは過去に取り引きがあった得意先の事務所を久しぶりに訪れた。まだ当時の担当者が在籍していたので、突然の訪問を詫びながらも昔話や世間話で笑い合った。その後はチェーン店のカフェに入ってコーヒーを注文し、スマホでニュースを流し読みすることで時間を潰した。ドブネズミにとってほとんどが読んでも読まなくてもいい文章だった。しかしガールズバンドの話題で彼の指が止まった。高校生らしき制服を着た女の子たちが、アスファルトの路上に寝そべっている画像が表示されている。彼女たちのデビュー曲についての記事で、あるパンクバンドが三十五年前に発表した曲をカヴァーしたという内容だった。三十五年前といえばドブネズミが新宿を走り回っていた頃だ。
 ドブネズミは指を止めたまま、その曲名をしばらく見つめた。それからスマホをテーブルの上に伏せて置き、頬杖をついて目を閉じた。会社からの着信が彼のスマホをしつこく震わせ始めた。しかし彼は身動き一つせず、まぶたの裏の暗闇を見つめていた。

 最初、その曲は新宿の小さなライブハウスで歌われた。一〇〇人も入らない収容人数のライブハウスで、見すぼらしい格好のパンクバンドが決して上手とはいえない演奏を披露した。シンプルなコード進行のエイトビートだ。当時、飽食の日々を過ごしていた若い聴衆からその曲が熱狂的な支持を受けるまで、さほど時間はかからなかった。その曲は全国のレコード店に並べられ、テレビやラジオでも流されるようになった。瞬く間にパンクバンドの名は知れ渡り、彼らの曲も彼らの代名詞として売れていった。コンサートホールに集まった若者たちは激しいリズムに合わせて拳を振り上げ、痙攣するように全身を揺らせ、髪を振り乱しながら叫ぶように歌った。右肩上がりの日本経済によって金が溢れていた時代、昭和六十二年のことだ。
『リンダリンダ』
 パンクバンドはブルーハーツという名前だった。彼らは『リンダリンダ』の歌詞の中でドブネズミのことを賛美していた。ドブネズミという生き物は何よりも美しい。なぜなら写真にはうつらない美しさがあるから、と。そして誰よりも優しく、何よりも温かい生き物だと歌っていた。
 その歌詞に心酔した若者たちはドブネズミのように生きたいと願った。自分たちも臭く汚いドブにまみれながら美しく生きていたいというイメージを持つようになった。だが実際、若者たちの多くはドブネズミを目にしたことがなかった。それはあくまで歌の中のイメージでしかない。実感を欲した若者たちは街に隠れ潜んでいるドブネズミを探し始めた。ブルーハーツが歌い掲げる象徴的存在、あるいは自分たちが理想とする生き方を体現している存在として、若者たちはドブネズミを街のあちこちに追い求めた。
 その頃、ドブネズミは新宿の下水道を棲み家にしていた。物心がついたときには両親はすでにいなかった。知り合いは少しいたが、基本的には群れを成すより単独で行動する方が性に合った。昼間は下水道や公園や食品会社の倉庫などの決まったルートを回って、水を飲んだり鳩の餌やスナック菓子の残りかすを食べたりした。何も見つからないときは小さな虫に食らいつくこともあった。
 日が暮れると繁華街に移動し、乱立する雑居ビルの隙間から隙間へと走り抜ける。居酒屋、立ち飲み屋、中華料理屋、ファストフード店、イタリア料理店、天ぷら料理店……。数えきれない飲食店のごみ捨て場については、縄張りがきちんと決められていた。都市で生まれ生き抜く彼らの習性によるものだ。だが店が休業日だったり、入れ替わりが頻繁な区画だったりすると、縄張りをはみ出して争いが起こることもあった。一方、ドブネズミの縄張りはほとんど荒らされなかった。他の多くは肉や魚などのタンパク質を好んだが、彼はそれよりも米や麺などの炭水化物に惹かれ、それらが生ごみとして多く捨てられる店を集中的に選んだ。特に──店舗数は少ないが──薄味の関西出汁をきかせたうどんに彼の心は奪われた。新宿バスターミナルから出発する大阪行きの高速バスを眺めながら、本場の関西うどんを食べに行くことをよく夢想していた。
 昭和六十二年の夏の夜、ドブネズミがレンタルビデオ店の前を足早に通り過ぎようとしたときだった。開けっ放しのドアから店内のBGMが聞こえてきた。ドブネズミはしばらく足を止めた。我に返って電信柱の陰に身を隠した後も、ドブネズミの耳にはその曲が残っていた。ドブネズミのことを歌った曲──美しく、優しく、温かいドブネズミのようになりたい。一体誰のことを歌っているのか、ドブネズミは一瞬わからなかった。確かに「ドブネズミ」と明瞭に発音されている。しかし写真に撮られた経験さえないドブネズミには、他人が自分をそんなふうに評価しているなんて信じられなかった。きっとふざけたコミックソングに違いない、おれにとって美しく、優しく、温かいものはうどんだな、いうまでもなく。ドブネズミは走り去った。
 追跡される日々が始まったのはそれからだった。ドブネズミがいつものように街を徘徊していると、路地を何度も行き来し、ビルとビルの隙間を熱心に覗きこみ、ごみ袋の山を崩してまわる者たちを見かけるようになった。大体が中学生から大学生ぐらいまでの若い年代だ。まるで四つ葉のクローバーでも探しているみたいに、彼らは視線を落として腰を曲げ、何か小さなものを探していた。だが若者たちが探し求めているものは四つ葉のクローバーなどではなく自分なのだと理解してから、ドブネズミは逃亡者みたいに新宿の街を走り回ることになった。
 最初は公園の茂みに身をひそめて、葉についた雨水をなめていたときだった。突然、茂みをかき分ける二つの手が現れた。差しこんできた光の中に女の子が顔を出す。前髪をまっすぐ切り揃えた女の子だった。
「こんにちは」
 女の子は赤ん坊に話しかけるようにドブネズミに向かって顔を傾けた。ドブネズミは茂みを抜け出した。そして公園から道路に飛び出し、いつも利用しているパン工場の配管の中にすばやく身を隠した。そこから公園の様子を遠目に窺う。女の子はまだ茂みの中を探し回っている。まわりの友達に大きな声で報告する。
「ねえ、こっちにいたよ! ドブネズミ!」
 ドブネズミは若者たちと何度も鉢合わせるはめになった。若者たちはドブネズミという生き物の習性をあらかじめ調べていた。地下道のトイレを一つ一つ確認する若者たち、道路脇にある排水溝のブロックを取り外して顔を突っこむ若者たち、工事現場の狭い通路で両側からゆっくりとこちらに近づいてくる若者たち。ドブネズミはそのたびに空腹の体に鞭を打ち、自分を捕らえようとする手の間を必死ですり抜けなければならなかった。一度、ドブネズミのデッサンをする若者もいた。鉄橋の下で眠るドブネズミに気づいた若者は、河川敷にそっとイーゼルを立てて静かに鉛筆を走らせ始めた。異変を察知したドブネズミが逃げ出すと、若者は肩を落としてドブネズミの後ろ姿を見つめた。
 若者たちから逃げ回っていたのは、ドブネズミとしての習性からくる反射的行動でもあった。いつも人目から隠れて生活をし、見つかれば一目散に逃げる。ドブネズミとはそういうものだ。しかし若者たちはドブネズミを発見しても、決して後ずさりをしたりしなかった。ドブネズミに近づき捕らえようとする表情にも敵対性は感じられなかった。むしろ友好的な関係を結びたいように嬉々とした笑みを浮かべていた。あの曲のせいだとドブネズミは思った。『リンダリンダ』。
 日が暮れてからもドブネズミは街に出ず、下水道に身を隠す日が続いた。日を追うごとにドブネズミを探す若者たちの人数が増えてきたのだ。遭遇を重ねることで若者たちはドブネズミの活動エリアを絞ってきたのだろう。昼夜に関わらず彼らは新宿の街を歩き回り、ドブネズミの居場所を中心にして着実にその輪を狭めてきた。下水道にはほとんど食べ物がなく、水を飲むぐらいでドブネズミは何日も過ごしていた。空腹のせいで軽快に走ることもできなくなっている。余計な体力を使わないために、同じ場所にじっと留まるしかなかった。
 次第に意識が朦朧とし、警戒心も低下していたのだろう。下水道の中を男が腰をかがめてゆっくり近づいてきたときも、それが人だとドブネズミは最初認識できなかった。壁面を影のような黒い塊がただ揺らめいているだけだと思った。黒い塊がだんだんと具体的な形をとりはじめ、男の手足が下水道の中を窮屈そうに動いている姿を認めて、ドブネズミはやっと体を起こした。
「大丈夫か」
 男は腰を屈めてドブネズミを覗きこみ、低い声で囁いた。ちょうど頭上にあるマンホールから光が差しこみ、男の姿をぼんやり浮かび上がらせている。黒い太縁の眼鏡、黒いネクタイ、黒いスーツ。ジェルでオールバックに固めた髪型。狭い下水道空間がさらに窮屈に見えるのは、男の体を覆う脂肪のせいもあるだろう。しゃがむ姿勢が辛いのか、鼻息が荒い。
「ガキの頃に見てたテレビアニメを思い出したんだ」男は一息ついてから言った。「ネコがネズミを追いかけ回すんだけど、いつもネズミが一手先に回るアメリカのコメディアニメ。その中でネズミがチーズを食べるシーンがよく映っていた。それを見た子供はみんな信じるよね。ネズミの大好物はチーズなんだって」
 ドブネズミは逃げ出そうとしなかった。逃げようとしても、足の先しか動かないほど彼の体はまだ低調だった。一気に走り抜ける瞬発力を出すにはもう少し時間が必要だ。男が上着のポケットからごそごそと出し、包装紙を取り外してドブネズミの目の前に置いたブロックチーズ。決して好物ではなかった。しかし少しでも体力を取り戻すために、ドブネズミは少しずつ前進して、ブロックチーズに噛みついた。
「なんとか大丈夫そうだな」男はドブネズミがブロックチーズを食べる姿を満足そうに眺めた。「あんまり一括りにはしたくないが、ネズミっていうのは齧歯類に数えられるんだろう、生物学的に。私もちょいと調べたんだけど、齧歯類は前歯が伸び続ける性質があるんだってね。だからいつも固いものを齧って前歯を削らないと、伸びすぎた前歯でものが食えなくなる。初めて知ったよ」
 ドブネズミは半分ほどでブロックチーズを食べるのをやめた。体に血液が回り始め、全身がじんわりと温まっていくのを感じる。頭が冴え、視界は明確になり、男がはめている腕時計の文字盤もはっきり視認することができた。街で流行しているシルエット姿のネズミがデザインされている。
「かっこいいじゃんか、私はそう思ったね」男はにやりと笑った。「一生伸び続ける歯を一生削り続けないと死んでしまう。ロックっぽいね」
「ロック」ドブネズミは反射的に言葉を繰り返した。
 男は笑みを消した。同時に醸し出していた親しげな空気もぴたりと遮断した。男はドブネズミにじっと見入っている。ドブネズミの目や鼻や口や体つきや足の形、まるでファッションモデルのオーディションみたいにドブネズミの全身をしばらく見回した。そして合点がいったように腕組みをして頷いた。
「私もまわりくどいのは好きじゃない」男は真剣な表情で言い、上着の内ポケットから名刺を取り出して、ドブネズミに差し向けた。「樫本と申します。堅苦しそうな名字だが、いちおう広告代理店の会社を細々とやらせてもらっています。ちっぽけなスペースブローカーの会社ですよ」樫本はそう挨拶をして頭を下げた。「今日お邪魔したのは他でもない、君にこの下水道から出てもらいたいという話だよ」
 ドブネズミはまだ樫本という男の腕時計を見ていた。耳の大きなネズミのイラスト。それは千葉県浦安市に四年前オープンした巨大なテーマパークを象徴するマスコットキャラクターだ。テーマパークには毎日長い行列ができ、キャラクターグッズは右から左へ次々に売れている。今や新宿を徘徊するネズミたちよりも、そのキャラクターの方が街に広まっているに違いないとドブネズミは思った。
「地上の若い連中がこの場所を突き止めるのは時間の問題だろうね。むろん彼らが君を追いつめてくれたおかげで、私はこの場所に来ることができたんだが」樫本はドブネズミの視線に気づき、咳払いをしながらもう一方の手で腕時計を覆った。「雨風をしのげる場所がなくなったら君も困るだろう」
「なぜこんなに追いかけ回されないといけないのか、よくわからない。あの曲の影響だろうけど」ドブネズミは言った。
「若い連中は君を探し求めている。もはや信奉していると言ってもいい」
「探し出してどうするつもりだろう」
 樫本は迷っていたが、意を決したように地面に腰をどすんと下ろした。そして上着のポケットから取り出した煙草に火をつけて、ゆっくり煙を吐き出した。「ブルーハーツは今やすごい勢いだ。リンダリンダを作ったパンクバンド。あの曲をきっかけにレコード……いや今じゃCDが爆発的に売れている。どこの店でも売り切れで、ヒットチャートにはリンダリンダ以外にも彼らの曲が何曲もランクインしている。でももったいつけてテレビには出ないから、生の姿を一目でも見ようと全国ツアーではどこの会場も満員だ。最初は食堂でうどんしか注文できなかった四人組が、今やホテルのレストランで毎日飲み食いしてる」
「そんなに人気なら、みんなブルーハーツだけを追いかければいい」
「確かに。ただ、彼らはスターになっちまったからね。時の人たちだ。汚くて狭苦しいライブハウスで演奏することはもうないだろうよ。でも君は違う。君はドブネズミとして美しく、優しく、温かい。若い連中は君を見つけてどうするんだろうね。写真を撮るのか? 捕まえて自分の部屋で一緒に暮らすのか? でもね、ドブで暮らしてこそのドブネズミだ。彼らが君を手に入れた瞬間、彼らの持つイメージはティッシュペーパーみたいに軽々と飛んでいっちまうだろうよ」
 樫本が話している間、ドブネズミは爪の先で地面を擦っていた。その場から走り去ろう思えばいつでも走り去ることができる。だがその先には多くの連中が自分を探し回っている。そういえば、とドブネズミは思った。そういえばうどんを最後に食べたのはいつだろう。もう何日もうどんを食べていない。
「おれはこの下水道で生きてきた」ドブネズミは言った。「この新宿でずっと生きてきた。おれに出て行ってもらいたいとあんたは言った。だけど、ここにやってきたのは彼らだ。おれが先で彼らが後。なぜおれが出て行かなければいけないんだろう」
「私の話はそういうことじゃない」樫本は首を横に振った。そしてフィルター近くまで吸い切った煙草を地面に押しつけた。「いや悪かった。誤解させちまったね。私は別に君を駆除しにきたわけじゃない。あるいは君に遠くへ引っ越してもらって、上の若い連中を解散させたいとか、私の目的はそういうことじゃないんだ。私は役人じゃない。最初にも言ったとおり広告屋さ。私の提案は、彼らが君を見つけてしまう前に、君の方から先に彼らの前に姿をあらわしてみないかという話だよ」
 マンホールから差しこむ光が弱くなっている。樫本の顔に影がかかり、そのぶん彼の低い声が強調されて下水道内に響く。
「どういうことか、わからないけど」ドブネズミは言った。「仕事の話か」
「察しがいい。簡単にいえばスカウトだ」樫本は言った。「たとえば君はここ何年も食い物に困ったことはないだろう。めし屋のごみ箱には食いきれない食い物が毎日大量に捨てられてる。そうだろう? 金も同じだ。使いきれない金が毎日大量に日本中で使われている。物価はどんどん上がり、銀座は毎晩どんちゃん騒ぎで、タクシーは一万円札をちらつかせても乗車拒否で通り過ぎていく。だけどな、このお祭り騒ぎみたいな時代はもうすぐ終わるよ。膨れに膨れ上がった日本経済はもうすぐ一気に弾け飛ぶ。一夜限りの夢みたいに終焉を迎える。若い連中は無意識にそのことを予感してる。もう見せかけの煌びやかさは剥がれ落ちて、これからは貧乏の時代がやってくる。そんな時代に君はぴったりな存在なんだ」
 真っ暗になった樫本の顔からはもう何も窺えない。彼は言葉を発さずに、次の煙草に火をつけた。ドブネズミの返事を待っているようだった。
「浦安のテーマパーク」ドブネズミは呟いた。
「はいはい、浦安ね」樫本は小さく笑った。
「あそこで働くネズミのことは知ってる?」
「もちろん。彼も元々は茨城あたりの下水道でスカウトされたネズミだろ。でもあれは私の仕事じゃない。彼をスカウトしたのは私じゃないよ。もしスカウトしたのが私なら、今ごろ大金持ちだよ」
「あれと同じことをやれっていうこと?」
「へへ、同じことをやれって言っても、きっと君は嫌がるだろう。同じことをやっても浦安の二番煎じになるし、私もそんなつもりはない。君はああいうタイプではないし、私もああいうセンスは持ち合わせていない。今はまだ具体的なことは聞かない方がいい。それよりもまず、君自身はこの先どうするのか、じっくり考えてほしいんだ。このまま下水道で一生を終えるのか、それともどうせ死ぬなら広い世界を見渡してから死ぬのか」
 樫本はまず片膝を立ててから、勢いをつけて腰を上げた。そして体勢を整え、入念に尻をはたいた。「また明日、同じ時間にここにくるよ。そのときに返事を聞かせてほしい。急な話だとは思うが、こういうのはタイミングがとても重要なんだ。むしろタイミングがすべてだと言っていい」
「なぜおれなのか」ドブネズミは訊ねた。「他のネズミもいる。たまたまおれなのか。それとも、おれだからなのか」
 樫本はしばらく黙った。まるでドブネズミの質問は樫本よりドブネズミ自身に対して向けられている、そんな沈黙だった。
「偶然か必然か、そんなもの誰に区別できる?」樫本は口を開いた。「若者たちが集まっている中心に私は向かった。そしてその中心に君がいた。それが偶然なのか必然なのか、私にはわからないね。でもこれだけは確信している。君がどういう返事をしようが、いずれ君は表舞台に立つ。そして君がドブネズミであることを世に問うていくことになる。それじゃあ明日」
 樫本はドブネズミに背中を向け、やってきた方向へ進み出した。太った体を丸めて一歩ずつ進む姿はドブネズミに地道な農作業を連想させた。やがてその後ろ姿が見えなくなると、ドブネズミは残り半分のブロックチーズに噛みついた。ときどき地面に置きっぱなしにされた樫本の名刺に目をやった。

 二年後、樫本が予見したとおりに一つの時代が終わりを告げた。元号が変わり、日本経済は一気に不景気の底まで転げ落ちた。そしてそのときすでに、ドブネズミの姿は下水道になかった。

第2話:https://note.com/osamushinohara/n/ndd646ec4a293

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?