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グリーン・カーブ 第二話(最終話)

・・・・・

 夏が終わろうとしていた。空には雲が多く、生温かい風が吹きつけていた。どうやら台風が近づいているらしいぞと工場の守衛は言っていた。
 午前中、段ボール箱をパレットに積み上げてはフォークリフトに乗りこみ、工場のいちばん端にある出荷口まで運んでいた。出荷口には荷台の扉を開けたトラックが何台も待ちかまえていた。フォークリフトが到着するたび、工場の出荷担当者たちは私の運んできたパレットからトラックの荷台へと段ボール箱を手際よく積みこんでいった。荷台が満載になると、トラックは荒っぽいエンジン音を立てて走り去っていき、すぐに別のトラックがやってきた。フォークリフトを操作しているとき、あるトラックの運転手が話しかけてきた。
「初めてきたよ、この町」運転手はタオルで額を拭きながらそう言った。背が低く、小太りで、ボロボロの靴を履いていた。どうやら関東方面から来たみたいだった。
「みんなそう言うよ」私は言った。
「今まで全国走ってきたけど、全然知らなかったな、こんなところ」運転手は笑った。
 やたらと高い工場の天井にはいつもいろんな種類の音が響きあっていた。機械のモーター音や金属がぶつかり合う音、自動ドアの開閉する音や台車を乱暴に押し歩く音。すべての壁は真っ白で、人々はみな水色の作業服を着ており、業務で必要な言葉を発するとき以外は黙々と作業を続けている。昼休みのサイレンが鳴ると、各ラインの作業員は手を止め、工場の真ん中にある食堂へぞろぞろと向かう。その一時間、体育館ぐらいの広さがある食堂は、絶え間ない人々の移動とざわめきが入り混じった場所になる。大声で笑い合い、調理人にクレームをつけ、椅子を引きずり、食器を引っくり返し、テレビの大きな音量に夢中になっている。大きな窓からは丁寧に刈り揃えられた芝生が見渡せたが、そんなものに心静かに目を向けているものは誰一人いなかった。
 隅の方で昼飯を食べていると、伊勢が隣に座ってきた。伊勢と会うのは久しぶりだった。一週間ばかり顔を合わせていない。一週間前と比べると、彼の顔はどこか痩せたように思えた。
「調子はどう?」
 私がとりあえず訊ねようとしたことを、伊勢が先に訊ねた。
「特に」私は答えた。「いつもと同じだよ」
 伊勢はトレイの上に載せてきたコーヒーを口にした。
「食べないのか」私は訊ねた。
「最近はね。あまり食べなくても平気になった」
「顔色が良くないぜ」
「知ってる。でも食べる気がしないんだ」
「忙しいのか?」
「ここのところ、ずっと人の話を聞いてばかりいたから」
「それで顔を見せなかったんだ」
「そう。でもそのかわりいろんな話を聞けた」
 伊勢は肘をつき、指でこめかみを押さえながら、しばらく目を閉じていた。やはり彼はひどく疲れているようだった。私も黙って昼飯の続きを食べた。食べ終えると、伊勢は残っていたコーヒーを一気に飲み干し、自分の後についてくるように合図をした。建物を出て、私たちは誰もいない工場裏の階段に腰を下ろした。伊勢は煙草に火をつけた。私はポケットに片手を入れ、小石を握った。空には灰色の雲が広がっていた。
「いろんな人間からいろんな話を聞いたもんだから、俺自身もまだ完全に整理しきれてないんだけど」
 伊勢は地面を見つめながら言った。
「何か調べものでもあったんだ」
「どうやら」伊勢は煙を吐き出した。「島が町に近づいてきてるらしい」
「へえ」私は言った。
「かなり確かなことではある」
「誰がそんなことを?」
「誰も言っちゃいない。だけどいろんな奴の話を聞いて、これから起ころうとしていることを考えてみると、それしか答えが出ないんだ」
 アスファルトの隙間から生えていた短い雑草を引き抜いてみた。そして空中に軽く投げた。思ったとおりに雑草はばらばらにほどけて、地面に落ちた。
「島が帰ってくる」
 私がそう口にすると、伊勢は私を見た。その顏は少し微笑んでいた。「島が帰ってきて、何か問題でも?」
 私の質問を眺めて楽しむように、伊勢はしばらく微笑みを浮かべていた。
「グリーンカーブ」彼は言った。
「なるほど」しばらく考えて私は答えた。
「島が町をとりこもうとしている。いや、町だけじゃない。全部だ」
「ぜんぶ」
「そう」
「誰も島を流さなくなったから?」
「かもしれない」
「ふうん」
「とにかく町側はそれをなんとか阻止しようとしてる」
「都合が悪いことでもあるんだ」
「きっとそうだろう。たぶん都合の悪いことしかない」
 私は汲の部屋にいる猫のことを思い出した。汲の手をすり抜けて、長い尻尾をぴんと立てながら歩いていく姿を思い浮かべた。そういえばあの猫の鳴き声をまだ一度も聞いたことがないことに思いあたった。 
「本当の話みたいに聞こえる」私は言ってみた。
「本当らしく聞こえることが大事なんだ」彼は言った。
 少しずつ雨が降ってきた。手をかざさないとわからないぐらいだったが、細かな雨が降りはじめているのは確かだった。伊勢は立ち上がり、階段を下りると、しばらくそこに立ち止まっていた。
「もうひとつ」伊勢は振り向いて言った。「工場はここだけじゃない。いろんな町にここと同じような馬鹿でかい工場がいくつも建てられているらしい」
「どういう意味だろう」
「いろんな種類の企業が山ほど金を出しあってる。じゃなきゃできないことだ」
「島と関係は?」
「まだわからないね」
 伊勢は私の後ろを覗きこむように視線を移動させた。そして咳をしはじめた。長い髪を揺らし、上半身を折りたたむようにして、苦しそうに何回も肺を震わせた。私は後ろを見上げてみた。踊り場にはいつもと同じように長細い顏の男が立っていた。男は無表情に見下ろしていた。私か伊勢かのどちらかをじっと見つめていた。もう少しで昼休みの終わりを告げるサイレンが鳴るはずだった。
「なあ」私は伊勢に声をかけた。「島の街のことを聞かせてくれないか。そこで生まれ育ったんだろう」
「ああ」伊勢はなんとか声を出した。「俺も島の話をするべきだと思う。腎臓は二つある。片方だけじゃバランスが悪い。でも今はあまり時間がない。時間がなさすぎる」
 伊勢は苦しそうにそこまで言うと、階段を上がって私の横を通りすぎ、姿を消した。
 夕方、工場の中をいくら探しても伊勢の姿は見当たらなかった。
 アパートへの帰り道、私は伊勢が話していたことを思い返した。思い返しているうちに、島が近づいてくるとか工場の目的だとかは、やはりどこか本当ではない話のように思えてきた。私は町に住み、島は波に浮かんでいる。そのあいだには巨大な海が広がっているのだ。しかし、プールの底から島の街に入る、それも同じぐらい本当らしくない話だった。そこで私は息もすれば、どこかに向かって歩きもしている。本当らしくない世界で、本当のようなことを毎日している。

 夜、雨風が激しくなってきた。がたがたと窓が震え、外で風が何かを倒している音が響いてきた。道路は誰も歩いていない。植木鉢は倒れ、その上に自転車が覆いかぶさっている。そのような台風に晒されている町を眺めていると、私はふと何かに揺り動かされたような気がした。焦りのような熱を持ったものだ。何に対しての焦りかはわからない。少し考えたが、泳ぎに行く準備をすることにした。明日からは水が抜かれて、学校のプールは来年まで閉ざされてしまうということだった。
 まるで盲目的な兵士たちが空から銃を撃ち続けているみたいに、プールの水面は激しい雨に打たれていた。水はプールサイドまで溢れ、まわりの排水溝まで波のように絶えまなく流れ出している。私は両足をぴたりと揃えてプールサイドの際に立ち、黒く揺れる水面をしばらく眺めていた。深い呼吸を何度も繰り返し、指先まで意識が行き届くと、傘を投げ捨て、シャツを脱ぎ、水の中に飛びこんだ。
 プールの底はいつもの静けさだった。何の音も聞こえてこない。水の上では台風がすべてを吹き飛ばそうとしているのに、ここでは何も聞こえなくなる。そして何も見えなくなる。私は体をまっすぐ伸ばし、脚を上下に揺らし、両腕をゆっくり動かしはじめる。目の前にあるはずの水を静かにかけわけていく。いつものように壁を蹴り、闇の中でひたすら往復を繰り返していく。意識を全身に染み渡らせていく。水は私と絡みあい、私から離れていく。ふと、ある疑問が闇の中に浮かび上がる。いったい何が私と関わりがあるのだろう。本当に私と関わりがあるものなどあるのだろうか。その問いは体のまわりを小魚の群れのようにまとわりつく。泳ぐのに邪魔になるぐらいに。仕方なく捕らえようとするが、ほんの指先のところで、後ろの方へくるりと素早くまわりこむ。そんなふうに私を肉体から引き離し、奥行きの奥行きへ誘いこんでいく。
 見えてきたのは海だった。ほとんど何も見えない闇の中に、淡い黄色の光がぽつんと見え、そのまわりで白い波がときどき反射していた。黄色く光っているものは、はじめ蛍のように小さかった。ただ海の上にぽつんと浮かんでいるだけだった。しかしそれは次第に大きくなっているように思えた。光が実際に大きくなっているのか、それとも私がゆっくりと落下しているだけなのか、闇の中ではうまく距離感がつかめなかった。どちらにしろとにかくそれは満月のように眩しく黄色い光を発するまでに私の眼前に迫ってきた。そこまで迫ってくると、それが何か私にもわかった。目を閉じてしまうほどの眩い光を放つ島は、やがて私をすっぽりと飲みこんだ。
 ──いつものように砂浜から起き上がろうとしていた
 荷物を広げて、わずかな金を砂にうっかりばらまいた後、溜め息をついて、歩き出そうとしていた。遠くにはやはり鉄塔が小さく見える。そばには誰もいない。いつもと同じ状況に思えた。だが何かが違った。その違いに気づくのに少し時間がかかった。擦りあわせた指先が濡れている。空を見上げると、水滴が次々と落ちてきている。雨が降っているのだ。荷物が濡れ、草が濡れ、土も濡れている。木の葉を打つ音も聞こえないほど細やかな雨だった。だが雨はたしかに降っていた。それだけではなかった。しばらく歩いてみたものの、いつもの話し声が聞こえてこない。舟の中のテレビは、固く人工的な光を闇に向けてぼんやりと放っている。画面を覗くと、男が映っている。男はつるつるとした坂を登っては、転げ落ちている。だが何も聞こえてこない。音量のつまみを左右に回してみるが、壊れているのだろうか、スピーカーは完全に死んでいる。ふとズボンのポケットに手を入れてみる。小石があった。慣れ親しんだ楽器を手にするように、私は右手の中に二つの小石をおさめ、すばやく転がしながら、再び歩きはじめた。
 木や草のあいだを進んでいくと、すぐに視界が開けてきた。土がなくなり、目の前にはアスファルトの道路が現れた。ガードレールを乗り越え、アスファルトの固さを確かめてみる。道路の両端には白い街灯が等間隔で並んでいた。どうやら道路は蛇行しながら、島の中心に続いているようだった。遠い先にはぼんやりとした街の光が見える。車の通る気配がいっこうになかったので、道路の真ん中を進むことにした。その途中、何人かと通り過ぎた。あたりが暗すぎて相手の姿はよく見えなかったが、彼らは私のことなどまるで気づかないようにどこかに向かって歩いていた。古ぼけた自動販売機が一台あった。その前でパーカーを着た少女たちが退屈そうに座りこんでいた。私も彼らのことなど気にせずに通りすぎていくことにした。
 歩くうちに、家屋やマンションや駐車場が目についてきた。部屋の明かりが点いている窓もあれば、開けっぱなしになっている窓もあった。閑散としたところで、たまに自転車が後ろからすっと追い越していった。施錠されたガソリンスタンドでは、浮浪者ふうの男が大きなリュックサックを枕がわりにして横たわっていた。信号は黄と赤の点滅を繰り返していた。誰もいない交差点をいくつか通りすぎながら、私は遠くに見えるテレビ塔を目印に足を進めた。舗道には見たことのある物体があちこちに並んでいた。町の舗道にも並べられている、あのアクリル製の球体だった。いろんな光が私の足元をいろんな色でぼんやりと照らしている。何匹かの猫が球体の上で身を寄せあっていた。
 どこまでも細やかな雨は降り続いていた。どこまでも同じような街並みが続いている気がしていた。しかし気がつくと、まわりには大勢の人が行き交っていた。いつのまにか派手な店やビルが建ち並び、道路は広くなっていた。赤信号で車が何台も停まっていて、人々は先を争うように横断歩道を渡ろうとしていた。ドラッグストアの看板や電飾なんかが目の前に掲げられている。いつのまにか賑やかな風景がまわりを取り囲んでいた。まるで工場ができたことで町の様子が少しずつ変わっていったように、知らないうちに街の様子は変わっていた。どこか奇妙だった。風が吹き、車は排気ガスを出し、通り過ぎる人々は何かを口にして笑顔を浮かべている。それでも街は奇妙な静けさに包まれていた。何も聞こえてこない。はじめは何かの加減で耳が遠くなっているだけなのかと思った。だが指を入れてみたり、叩いてみたり、独り言を呟いてみたが、別に問題はない。集中して耳を澄ましてみると、ほんの微かだがざわめきが聞こえる。テレビのボリュームを限りなくゼロに下げたみたいな静けさだ。目の前にいながら、彼らは同時に離れた場所にいる。意味の失われたわけのわからない言葉を呟きながらどこかに去っていく。遠くなっているのは私の耳ではなく、彼らの方だった。
 コンビニエンスストアの看板が光っていた。見慣れた光だ。人が音もなく出入りを繰り返している。喉が渇いていた。飲み物を買おうと思いついたが、やはり金はどこにも残っていなかった。ポケットには二つの小石しか入っていない。鉄塔はまだはるか先に見えていた。
 ──ここは本当に島の街なのだろうか
 コンビニエンスストアのガラスに人の姿が映っていた。一瞬、ガラスの向こうにいる人間と思ったが、それは反射している私自身の姿だった。二つの目は落ちくぼみ、頬がこけ、髪の毛は猿にむしられたようにぼさぼさだった。いつのまにそんなに疲れきったような顔になってしまったのだろう。そう思うと、本当に疲れてきた気分がした。こめかみが固くなり、誰かに強く押さえつけられているみたいに両肩が重く感じられた。道の端に身を寄せ、ガードレールに腰をかけた。雨は優しく降り続けている。しばらく休んだほういい、そう思ってコンビニエンスストアの中に入ろうと立ち上がった。そのときだった。目の前にあった雑居ビルのドアが押し開けられた。出てきたのは一人の女だった。背中まで伸びた髪を揺らして、鉄塔の伸びる方へ足早に向かおうとしていた。片手には草色のバッグを持ち、片手で耳元の髪をかき上げた。私は唖然として女を見つめていた。彼女の背中はどんどん離れていく。小指がなかった。髪を上げるとき、女の右手には小指がなかった。私はこめかみを強く押さえ、頭を軽く左右に振った。そして大きく息を吐いてから、女の後を追いかけた。
 どういった道を進み、どういった風景が通りすぎていったのか、私の目にはほとんど映っていなかった。いくつもの交差点を曲がりながら、女の先には常に鉄塔があった。まるで巣に帰る蟻のように迷うことも立ち止まることもなく、女はまっすぐに前を見据えて、速く無駄のない歩調で足を進めていた。その姿を見失わないように、彼女の背中に集中しなければならなかった。何人かの肩とぶつかった。突然車の前に飛び出してきた私に向かって、運転手が何かをわめき散らしたような気もする。しかし私の目に映っていたのは、前後に揺れる女の右手ばかりだった。暗くてはっきりとは確認できなかったが、やはり小指があるべき場所には何もないように見えた。
 女は長袖の白いシャツと紺色のロングスカートを身につけていた。その恰好に見覚えがあった。外出するときに姉がよくしていた恰好だった。昔、二人で水族館に行ったことをふと思い出した。そのときも姉は長袖の白いシャツと紺色のロングスカートという恰好だった。人気のない館内を姉は少年だった私の手を引いていった。そしていろんな種類の魚たちについて話してくれた。私は魚というものに対してそれほど興味を持てなかったが、姉は水槽の中を泳ぎ回っていく魚たちを入口から出口まで熱心に眺めていた。帰りの電車に乗って町の駅に戻ってきたとき、姉は二つの小石を私に手渡した。水槽の底に沈んでいた石をとってきたから、これをいつも持っていなさいと姉は小さな声で言った。そして何事もないように家に向かって歩き出した。どうやって姉が水槽から石を取り出したのか、不思議に思いながら小石を握った。それらは私の手の中にぴたりとおさまった。そんなことをぼんやり思い出しながら、女の後を必死に追っていた。ポケットの中では小石が回転を続けている。回転が速くなればなるほど、私の中で何かが高揚していくようだった。道は狭くなったり広くなったり、下ったり上ったり、次々と形を変えながら街の中心へと近づいていった。
 女の背中にあと五、六歩まで近づいたとき、誰かの体にぶつかってしまった。私と女とのあいだに突然大きな影が差しこんできた。女の背中に集中していたため、軽くよろめいてしまった。一瞬、何が起こったのかわからなかった。顔を上げると、まわりには大勢の人間が押し寄せていた。草野球ができるぐらいのスペースがある円形の広場に、多くの人々が無理やり押しこまれたみたいに入り乱れている。広場の中心には太い柱が建ち、四つの大型モニターが柱の四面にそれぞれ掛けられている。人々はみんなモニターを見上げながら笑ったり、眉間にしわを寄せたり、口をぽかんと開けたりしていた。女は人ごみの中へ砂粒のように紛れこんだようだった。私は人のあいだを強引にかけわけて進んでいった。しかしいくら探しても女はどこにも見つからなかった。人々の熱気でひどく蒸し暑く、脇の下を汗が流れ落ちていた。簡単に身動きが取れないところまで辿り着くと、仕方がないのでまわりの人々と同じようにモニターを見上げた。画面はやはりつるつるとした坂を必死に登っている男の映像だった。いったい何のことだ。私は額の汗を拭った。これは私と関わりのあることなのだろうか。人々はそこに重大なメッセージが掲示されるのを待っているかのように熱心にモニターを見つめている。
 私もしばらくモニターを見上げていた。映像はずっと同じだった。いくら駆け上がろうとしても、男は坂を滑り続けている。それでもその場を立ち去ろうとする者は誰一人いなかった。その繰り返される退屈な映像こそが自分たちの享受すべき恩寵であるかのように、彼らはほとんど瞬きもせず、大きな画面を見つめていた。だんだんと疲れを感じてきた私はその場を離れようとした。なんとか人ごみをかきわけて、人のいない場所までたどり着こうとした。人が少なくなるにつれて、街灯の光も弱くなっていった。
 そこはひんやりとした空気が漂う、薄暗い道だった。細い商店街のようで、両側の店はすべてシャッターを下ろしている。蒸し暑い人ごみの中で一点を見上げていたせいだろうか、頭の奥でずきずきと痛みが走った。こめかみをおさえながら歩いていると、路地を見つけた。入り口の片側にはプラスチックのゴミ箱が置かれていて、もう片側には大量の段ボール箱が積み上げられていた。そばの窓からは光がもれている。猫が一匹、目の前を横切り、路地へ入っていった。覗いてみると、奥に二つの人影があった。一人は女だった。私がずっと追っていた女だ。さっきと同じ服装で、壁を背にして立っている。もう一人はどうやら男のようだった。小太りで結構歳を取っているように見える。男は女に向かって、身ぶり手ぶりで何かを懸命に話していた。どこか怒っているようにも見えた。
 その様子を眺めて、私は男のことを思い出した。男は地主だった。はじめは薄暗くてよくわからなかったが、次第に見覚えのある姿を思い出した。男は私を罵倒したときと同じ表情で女に責め寄っていた。地主に間違いない。そんな汚れた表情を浮かべるのは地主しかいなかった。地主は女の肩をつかみ、壁に押しつけ、激しく揺らしはじめた。女は地主から必死に逃れようとしている。頭の中の痛みはひどくなり、全身からじわりと汗が滲み出ていた。彼ら二人から視線を外すことができなかった。できるだけ呼吸を落ち着けて、ポケットから右手を出した。あれほど汗ばんだ手で握っていたにもかかわらず、二つの小石は熱い砂のように乾いていた。私は小石を強く握りしめ、路地の中に足を踏み入れた。地主の頭を目がけて歩き出した。噴水のように血が溢れ出るところを想像した。きっと殺すのだ。ここにはまだ呪いがある。これが私と関わりのあることなのかもしれない。奥歯が小刻みに震えている。地面がぐらぐら歪んでいるような気がした。一歩ずつ確実に足を進めていく、荒い呼吸を何とか落ち着けようとする。それでも私の意志を無視して、呼吸はどんどん速くなっていく。暗闇にだんだんと目が慣れていく。地主の顏がはっきりしていく。首筋の後ろに大きなほくろがある。そんなほくろを覚えていたわけではなかった。だが目にしてみると確かにそんなものがあったことを思い出した。汚いほくろだった。地主のすぐそばまで近づいたとき、私は右手を大きく振り上げた。そのとき女の視線に気づいた。女は私の目をまっすぐに見つめて、必死に何かを口にしている。その声はかすかに空気を震わせている。言葉にならない言葉を叫んでいる。じがなんでゆめひゃり、さいあへう、そんな言葉がかすかに聞こえてくる。女は涙を浮かべていた。私は思わず動きを止める。次の瞬間だった。地主は振り返って、思いきり私の顔面に拳を食らわせた。強烈な衝撃だった。一瞬の閃光と共に、私は地面に倒れこむ。いつものように体が硬直をはじめる。アスファルトの地面の底へどんどん沈みこんでいく。再び暗い水の中に落ちていく。さらに底の底へ落とすように、地主はいつまでも私の体を蹴り続ける。女の声がまだ聞こえている。言葉にならない言葉が聞こえている。
──プールの水面は激しい雨にまだ打ちつけられていた
 呼吸がひどく荒れていた。私は頭を横に振り、髪をかきわけて、水の中をゆっくりと歩いてプールサイドに向かった。殴りつけられた痛みが体中に残っていた。頭は痺れていて、視線も定まらない。水が重かった。まるで大勢の人間が体中にまとわりついて私が進むのを押しとどめようとしているみたいだった。指先には血がついていた。どうやら唇が切れているようだった。
 プールサイドをつかんで体を持ち上げようしたとき、ふと視線を感じた。すぐ近くに誰かがいるような気配がした。刺し抜くような冷たく鋭い視線で誰かがこちらをじっと見ている。暗闇の中で金網がきらりと光った。その向こう側から、一人の男がこちらを見ていた。伊勢の後をずっとつけ回している、あの細長い顔の男だった。男は用心深そうに私を見つめている。激しい雨の中、胸のあたりまで水に浸かりながら、私は男をしばらく見上げていた。

・・・・・

 どのようにして部屋に戻ってきたのか、まったく憶えていなかった。朝、ベッドで目を覚ましたとき、激しい頭痛が走った。凶暴な小人たちが鉄の棒を持って頭の中で暴れ回っていた。どうやら熱が出ているようで、全身の感覚が鈍く、関節がうまく曲がらなかった。工場に欠勤の連絡を入れた後、またベッドに横たわった。台風はもう去ってしまったのか、眩しい光が部屋いっぱいに差しこんでいる。私は目を閉じたり開けたりしながら、再び眠りがやってくるのを待った。何も食べたくなかった。外からトラックが曲がるときの警告音が聞こえた。島の街が思い浮かんだ。音のない路上、人ごみ、巨大なテレビ、そして路地。本当らしい街。
 目覚めると、すでに夕方だった。ベッドの上に座って、しばらく真正面の壁を見つめていた。頭痛はまだ残っていたが、体はだいぶ軽くなっていた。窓を開けてみた。空は赤く、秋らしい乾いた風が入ってきた。水を飲み、熱いシャワーを浴びて、服を着替えた。外の空気を吸いたい気分だった。
 下校途中の子供たちが列を組んで歩いていた。自転車の籠に買い物袋を積みこんだ主婦は子供たちのあいだをなんとか通り抜けようとしていた。私はいつものように学校の裏手に回り、丘の上に続く階段を上った。いちばん上の広場にはベンチがあって、そこから学校ぜんたいを見渡すことができた。プールの敷地には誰もいない。ビート板はすっかり片づけられている。私はポケットから二つの小石を取り出して、ベンチの上に置いてみた。昨日と比べて、石の色はなんとなく濃さを増しているように思えた。姉からはじめて受け取ったときはもっと白っぽかった。昨夜、街を歩いていた女はたしかに姉だった。地主は姉を責めていた。死んだ姉をまだ責めていた。自分の敷地で死なれたことを今でも根に持っているように。もう一度、街に入ってみたかった。しかしプールの中は完全に入口を閉ざしてしまった。まったくの空っぽになっていた。私は階段を下りて、通りを歩き、目についたバス停からバスに乗った。
 汲はあいかわらずテレビを見ながら、スパゲティを食べていた。薄っぺらな皿に、缶詰のトマトソースをかけただけの簡単なものだった。
「顏色があんまり良くないみたい」汲は私の顔を見るなり言った。
「今日は横になってた、一日中」
「ふうん」汲はテレビの画面に視線を戻した。「なんだかずっと押入れの中に入ってたみたいよ」
 私は窓際に座って、汲の背中越しにテレビをぼんやりと眺めた。開けられた窓から冷たい空気がときどき入ってきた。やはりまだ頭の中は泥を流しこまれたように重たく、視線をはっきりと定めることができなかった。壁が少しずつ押し迫ってくるようで、部屋の中が妙に息苦しかった。汲の背中が妙に遠く感じられた。
 テレビで若い男のアナウンサーがニュースを伝えていた。アナウンサーは四角張った顏で、青いネクタイを締めていた。どこかで目にしたような顔だと思った。昨夜の人ごみの中にそんな顔の男がいたかもしれないと思った。アナウンサーはある殺人事件を伝えていた。早朝、町の路上で男の死体が発見された。全身に殴打の痕がいくつも残っていて、直接の死因は地面で後頭部を強打したことによる脳挫傷ということだった。犯人は現在捜索中。アナウンサーは抑揚のない声で淡々と話し続け、死んだ男の顔写真が画面に映し出された。私は何気なく画面に目をやっていた。しかし男の写真がアップになったとき、思わず汲の隣まで身を乗り出した。どれだけ目を見張って画面を見つめてみても、死んだ男は伊勢だった。
「知ってるの?」汲は不思議そうに訊ねた。
「たぶん」私は掠れた声で言った。「知ってる男だと思う」
 汲は相槌を打っただけで、テレビに視線を戻し、それ以上何も訊ねようとはしなかった。やたらと猫が鳴いていた。汲は何回も猫の背中を撫で、えさを口に運ぼうとした。だけど猫はうろうろして、しきりに鳴いているばかりだった。

 工場は静かだった。無機的な機械音がいろんなところで響いているだけで、誰も無駄な話はせず、黙々と働き続けていた。昼休み、食堂の小さな丸いテーブルに二人の男が座っていた。一人は短い髪を金色に染めた男で、もう一人は丸坊主に黒縁の眼鏡をかけた男だった。彼らが伊勢と一緒にいるところを何度か見かけたことがあった。私は彼らの前に座り、伊勢のことを訊ねてみた。二人の眉をひそめて私のことを見返した。
「いせ?」
「誰それ」
 二人は顔を見合わせ、首をかしげて、不思議そうにもう一度私の方を見た。伊勢が殺されたというニュースがテレビで流れていたことを話してみた。しかし彼らは伊勢という見知らぬ人間について突然訊ねられても、どう答えたらいいのか戸惑っているような表情を浮かべていた。ふざけてとぼけているだけなのかもしれないと思って引き下がらずにいると、彼らは怒り出した。
「知らねえって」
「しつこいんだよ」
 二人は大声を出して、勢いよく立ち上がった。そしてそれ以上喋らせないように私を睨みつけ、そのまま立ち去っていった。まわりの人間はざわついて、何かこそこそと言い合っていた。私は二人が食べ残していった昼食を目の前にしながら、府に落ちない気分のままそこに座っていた。
 午後になって、フォークリフトを運転している途中、パレットから段ボール箱を落としてしまった。落ちないような積み方をしていなかったのと、ついスピードを落とさずに角を曲がってしまったせいだった。がちゃがちゃと派手な音を立てて五、六箱のダンボールが床に崩れ落ちた。中を開けてみると、整然と並べられていたスイッチの部品は見事にひっくり返っていた。なかにはばらばらに分解しているものもあった。数人がまわりに集まってきたが、それ以上別に気に留めることもなく、すぐに自分の持ち場に戻っていった。とりあえず段ボール箱をパレットに積み直そうとしたときだった。背中に小さな痛みが走った。先の曲がった針金で筋をくいっと引っ張られたような感触だった。持ち場に戻った後、班長に呼び出され、注意を受けた。病み上がりということもあって、その日はもう帰っていいと言われた。テレビのニュースが本当のことなのかどうか、私はずっと気になっていた。伊勢の死は見え隠れする影のように曖昧としていた。伊勢の姿はどこにも見当たらない。やはり彼に何かあったには違いない、そう思っていた。
 風は穏やかで、太陽が沈みかけている。ときどき工場から出てきたトラックが猛スピードで走り抜けていった。振りかえると、やはりあの細長い顏の男がついてきている。男は電信柱に寄り添うように立っていた。しばらく進み、また振り返った。男は同じくらいの距離をとって、私の後ろをついてきている。私は立ち止まり、向かい合って男を見つめた。気にすることはない、影みたいなもんさ、と伊勢は言っていた。死体には激しい殴打の痕がいくつもあったとアナウンサーは伝えていた。私は口元に手をやった。すでに血は固まり、かさぶたになった傷がある。地主に殴られた痕だ。それは現実のしるしのように私の体に残っている。男は虎のような赤い目で私を見ている。

 背中の痛みがとれない。とれるどころか、毎日少しずつ神経を侵していくように背中全体に広がっていった。薬を飲んでも、ほとんど効果はなかった。仕事中に痛みが走ると、その場に立ち止まって、じっとやり過ごさなければならなかった。そんなときは小石をじっと握りしめていた。
 激しい痛みで目覚めた朝、タクシーを呼んで病院に向かった。医者はいつものように私をベッドに寝かせ、両手で体を点検し始めた。
「運動は?」医者は訊ねた。
「ときどき」私は答えた。
「しすぎたか?」
「いや」
 設備の整った大学病院で検査するか、あるいはそこに入院するべきだというのが医者の判断だった。これから症状が悪化していくことになる、紹介状を書くから、この町を出て、できるならその病院でリハビリをしながらじっくり治療した方がいいと彼は言った。よく考えたほうがいい、帰り際にそう付け加えて、今までとは違う種類の薬をくれた。
 病院の外で細長い顔の男が私を待っていた。どうやら伊勢が死んで、今度は私の後をずっとついてきているようだった。男の顔を目の前にすると、なにか唐突な苛立ちを覚えた。子供の頃、島を流す姉を見ていたときに感じた苛立ちに似ていた。
 駅前の定食屋で飯を食べて、新しい薬を飲んだ。それから近くの公園のベンチに座り、遊んでいる親子連れたちをなんとなく眺めていた。朝と比べると、痛みはだいぶましになってきた。天気も良かったので、近くにの警察署に向かった。窓口に座っていた女に、このあいだの殺人事件で殺された男と知り合いだったので、彼の住所を教えて欲しいと言った。線香の一本でも立てに行きたいからと。振りかえると、ガラス扉の向こうに細長い顔の男がいた。男は疑わしそうにこちらを見ている。しばらくして女が戻ってきた。伊勢の住所は海の近くだった。そのアパートはかつて私が姉と一緒に住んでいた家のすぐそばにあった。
 駅前からバスに乗り、三十分ほど揺られて、海辺の停留所で降りた。そこには太くまっすぐに伸びる道路以外に何もなかった。道路を外れた林や草原の中に古い建物がいくつか建っているだけだ。何もないおかげで、伊勢のアパートはすぐに見つけることができた。二階建ての古いアパートで、林のあいだに隠れるように建っていた。そのあたりは子供の頃よく歩き回っていたはずだったが、そんなアパートがあったことなどまったく憶えていなかった。
 伊勢の部屋は一階だった。表札はなく、部屋番号のプレートは錆びついていた。ドアの表面には何かで引っかいた傷や思いっきり殴りつけたような痕が残っていた。ノブを回してみたが、やはり鍵がかかっていて、細かな木屑がぼろぼろと落ちるだけだった。窓の向こうは真っ黒で何も見えない。そんな部屋につい最近まで人が住んでいたとは思えなかった。それどころか、そもそもそのアパートで人が生活しているような気配はどこにもなかった。どの玄関先にも荷物や植木鉢は置いていなかったし、すべての窓は閉ざされていた。ときどき鼠が砂利の上を走り去っていった。誰も通りかからない、ひっそりとした場所だった。
 私は近くにあった大きな石に腰を下ろした。そして伊勢と最後に話したときのことを思い出してみた。島が近づいていると伊勢は言った。島が町を取りこもうとしているという。たとえば工場はそれを防ぐために建てられたのだろうか。でもそれが一体何だというのか。伊勢が殺されたことと何か関係があるのだろうか。草の匂いがした。なぜか伊勢の顔をほとんど思い出せなくなっていた。
 伊勢が島を抜け出してから、あの男はずっと伊勢の後をつけまわしてきた。そして伊勢はいなくなった。私がいなくなるまで、私は死んでしまうまで、あるいは私を殺すまで、男は私の後ろを歩き続けるかもしれない。ポケットの中で二つの小石を素早く回転させながら、そう考えていた。男はいつのまにか伊勢の部屋の中にいた。開いた窓から私を見ている。両腕を窓枠に乗せて、冷ややかな視線をこちらに向けている。
 しばらく男と視線を合わせていた。また苛立ちが生まれた。抑えることのできない苛立ちだ。私は立ち上がり、男に近づいた。男は動かずに私をじっと見ている。男の顏には眉毛がなかった。よく見ると皺もなかった。目や鼻や口は人形のように小さく、つるりとした質感の肌をしていた。男のすぐ前で立ち止まった。島では無理だった。でも今度は誰もいない。私は誰にも止められない。小石を強く握りしめた右手で、私は何の躊躇もなく男の顔面を思いきり殴りつけた。砂山が崩れるように、男はいとも簡単に倒れこんだ。薄暗い闇が広がる部屋の中に転がったまま、男は起き上がってこなかった。私はすぐに踵を返して、バス停へ向かった。

・・・・・

 男は現れなかった。道を歩くときや仕事をしているとき、バスに乗っているときに振り返ってみたが、男の姿はどこにも見当たらない。体の痛みは薬でなんとか抑えられていた。しかし体を強くひねったり走ったりすると瞬間的な痛みが走るので、注意して体を動かす必要があった。段ボール箱を運ぶときも、ゆっくりとした動作にならざるを得なかった。
 町を歩いていると、人々が集まって、緊張した表情で何かの情報の交換をしていたり、一緒に海の方に向かったりしている光景を目にすることがあった。島のことかもしれなかったが、はっきりとしたことはわからなかった。ただ何かが起こりつつあるような予感が町全体に漂っていた。
 眠ろうとすると、電話が鳴った。電話が掛かってくるなんて久しぶりのことだった。相手は汲だった。電話線を伝う彼女の声はどこか違う人間の声みたいに響いて、最初は汲だと気づかなかった。彼女は最初何をどう言っていいのか自分でもわからないように口ごもっていた。ぽつぽつと何気ない言葉を呟いては沈黙している。何回目かの沈黙の後、猫がいなくなったのと小さな声で言った。悪いとは思う、でも、すぐ来てほしいと思う、できるなら、そう途切れがちに言った。私が汲の部屋に行ったところで猫が見つかるとは思えなかった。でも受話器を置いた後、私は服を着替えて、出かける仕度をはじめた。バスの運行はすでに終了していた。白い月の下、私は一歩ずつゆっくりと歩いて汲のアパートに向かった。
 インターホンを鳴らしても返事はなかった。鍵はあいている。汲は部屋の隅っこで膝を抱えていた。テレビはつけっぱなしにされている。
「いなくなったのはいつ」
 そう訊ねると、汲は顔を上げて首を横に振った。ずいぶん疲れている顔だった。瞼を半分だけ開き、私の少し横を見ていた。
「わからない」汲は掠れた声で言った。「昼すぎに起きて、もういなかった。すぐに帰ると思ってたけど、ぜんぜん帰ってこないの」
「今までもあったの?」
「ううん。だっていつも窓もドアもちゃんと閉めて寝るから。昨夜も同じように戸締りして寝たのに」
 クリーム色の壁に囲まれた、ただ仮に住んでいるような部屋。そこから猫が一匹いなくなっただけで、汲という女までもがその殺風景な部屋の壁に溶けこんでしまったようだった。テレビのざわついた笑い声がやけに白々しい。
「連れていかれたのかも」汲はふと口にした。「あなたが前に話してたみたいに、島に連れていかれたかもしれない。わたしの知らないうちに」
「きみの知らないうちに」私は繰り返した。
「そう。わたしが眠っているあいだに誰かがそっと部屋に入ってきて、あの猫を連れていったのだと思う。あの話はやっぱり本当だったのかもしれない」
 汲は窓の外を見つめた。私は椅子に腰をかけて、足を組んだ。背中がきりきりと痛みはじめていた。
「何日かすればふらっと戻ってくるかもしれない」
「でも探し回ったのよ」汲は固く静かな声で言った。「いくら待っても帰ってこないから、外に出て町中を探し回ったのよ。公園や空き地の茂みをかけわけたり、他人の家の庭や建物のあいだとかを覗きこんだりして。でも何もいなかった。一匹の猫も見つからなかった。もしかしたら変な人にいたぶられて、捨てられたかもしれないって心配になって、橋の上からずっと川を見ていたの。でも何も流れてこなかった。それで川を眺めてるうちに思ったの。あなたが話したとおりかもしれないって」
 汲は膝の上に顔を伏せた。そして小刻みに肩を震わせはじめた。何かが自分の内から震わせているのをじっと我慢しているみたいだった。十分ほど何も喋らなかった。汲はぴくりとも動かず、私は窓の外を眺めていた。テレビの音が突然ぷつんと途切れた。何秒かの沈黙があり、再び音が流れた。混ざり合ったざわついた声。そんな声はいつもどこかで聞こえている。気づかないうちに私たちのすぐそばまでやってきている。部屋を見回してみる。狭く、息苦しい部屋。よぎった予感のとおり、それはそこにあった。汲が食事をする机の上。いつのまにか島が現れている。青々した短い草が生えていて、マンホールぐらいの大きさだ。かつて海に流されていた島と何も変わらない。
「まただ」
 汲は島を無表情に見つめていた。私は思わず立ち上がり、島に近づいていった。そもそも最初からそこにあったかのように、島は部屋の一部に溶けこんでいた。「はじめてじゃないみたいだな」私は言った。
「何度も」
「いつから」
「だいぶまえ」
 汲はゆっくりと息を吐きだした。そして何かを考えこむように部屋の隅を見つめた後、立ち上がって部屋の隅にあるクローゼットの扉を開けた。彼女はその前に立ち尽くしたまま、私を見つめている。私はなかを覗きこむ。それらはそこにあった。いくつもの島が座布団を重ねるみたいに乱雑に重ねられている。上にある島ほど若く、いちばん下の島はずいぶん前のもののようで平べったく押し潰されていた。草は茶色に枯れ、土は灰色に乾燥し、根はむき出しになっていた。古い畳のような匂いが漂ってくる。
「ふと気づくと、いつのまにかまわりにあるの。誰かがこっそり置いていったみたいに。どうしらいいのかわからなかったから」
 積み重なった島々に、私は思わず手を触れていた。島はかさっと乾いた音を立てて、わずかな土を落とした。わずかな土埃が舞う。積み上げられた島々は、はるか昔に捨て去った古い思い出を思わせた。もう誰のものかわかないぐらい古い思い出だ。
「海に」
 私はそう呟いた。

 全部で島は九つあった。私と汲は島を外まで運びだし、汲の自転車の前後に島を載せて、ビニールのひもで縛りつけた。そして自転車を交代で押すことにして、歩いて海まで向かった。海までの一時間近く、何も話さなかった。すっかり夜は更けていた。たまにトラックが通り過ぎていくだけで、人の姿はどこにも見あたらなかった。アクリル製の球体は虹色の光で足元を照らし、私と汲はその光のラインをたどるように進んだ。工場が現れた。もう工場のどこにも明かりはついておらず、何の音も聞こえてこなかった。あの学校と同じだ。夜の工場も安っぽい書割りのように平板に建っている。
 私たちは砂浜の前で自転車を止め、荷をほどき、島を一つずつ運んだ。砂浜は私の記憶より小さくなっているように思えた。工場の壁が徐々に押し迫っているかもしれない。島を流すことを警告する看板は夜の兵士みたいに砂に突き刺さっていた。
「流すのね」汲は砂の上にしゃがみこんだ。
「流すしかない」私は答えた。「昔はみんな流していた」
「もっと大きな島がこの先にある」壁に書いた文字を読み上げるように汲は言った。「そうなんでしょう?」
「でも実際は見たことないんだ。自分の目では」
「わたしの猫も、今ごろその島にいるのね」
 汲は一つの島を静かに押し流した。島はしばらくその場で波に揺られていたが、すぐに闇の奥に消え、見えなくなった。彼女は立ち上がり、同じように次の島を流した。私も島を一つ手に取って、流してみた。
「幽霊が出るの」
「幽霊」私は繰り返した。
「結婚してたときの相手。昔、他の町に住んでたときの話」
 そんな話を聞いたのは初めてだった。汲が結婚していたことがあるなどと考えたこともなかった。だが実際、彼女の口から告げられると、別に何でもないありふれた事実のように思われた。
「亡くなったの?」
「わからない」汲は少し考えてから答えた。「でも、今も生きてる。たぶん。よくわからないけど、いつのまにか部屋の中にいるの。生霊っていうものかもしれない。夜中までテレビを見てたりすると、スーツ姿にネクタイを締めて、ふっと後ろに立ってるの。それでじっと私のことを見てるのよ」
 夜の砂浜に、固く冷たい彼女の声が響いていた。
「わたし、逃げてきたのよ。あいつから。あいつはわたしを貶めたの。いろんな手段を使って、わたしを貶め続けた。わたしはあいつを憎んでた。でもそれ以上にあいつはわたしを憎んでたわ。なんであいつと結婚なんかしちゃたんだろうって、ずっと悔やんでた。そんなことを毎日考えてると、だんだん頭がパンクしそうなぐらいぼうっとしてきちゃって。それでこの町に逃げてきたの」
「島が現れたのはそれから?」
「そう。幽霊のあいつが現れた次の日は必ずって言っていいほど、島が現れた。まるであいつが嫌がらせで置いていったみたいに」
 そのとき小石が落ちたような小さく乾いた音が聞こえた。後ろで誰かが身を潜めているような気がしたが、誰もいなかった。私は手にしていた最後の島を流した。
「あれは」
 汲は短い声を出して、真っ暗な海をまっすぐ見つめていた。私も闇に目を凝らしてみた。
「見える?」汲は訊ねた。
「見えないな」私は答えた。
 最後の島を見送った後、私たちは何も見えない夜の海をしばらく眺めていた。そこではただ波の音が静かに繰り返されているだけだった。
「島ってほんとうにあるのかな」汲はそう呟いた。

・・・・・

 銀行の口座にある程度の金が貯まっていた。決しては多くはないが、当分のあいだ何もせずに生きていけるぐらいの数字は預金通帳に印字されていたので、朝から駅前の小さな銀行に行って、全額を引き出した。そして特急のチケットを買い、目についた店で杖を買った。体のいろんな部分をかばいながら生活しているうちに、なんだか体の重心が傾いてしまったようだった。午後から工場に行き、仕事を辞めるつもりだと班長に言った。親が脳卒中で倒れて、家業を引き継がなければいけないからなどと適当に嘘をついた。私としてはすぐその日にでも辞めたかった。しかしいきなりラインに空ができてしまうのは困ると班長は渋り、結局一週間後に辞めることになった。部屋に戻り、荷物を処分していった。ベッドを捨て、テーブルを捨て、食器を捨てた。一切合切が捨てられてしまうと、もうそこは自分の部屋ではなくなっていた。ただ一時的に自分が使っていた部屋というだけのことであった。私は部屋の真ん中に寝転んで、天井を見上げた。薬はすでにほとんど効かず、痛みはひどくなる一方だった。医者が紹介してくれた病院は関西にあった。そこは私が持っているような病に対して先端の治療を施している有名な病院らしかった。町を出ることを考えると、不思議な気分になった。町に住んでいたことで、それまで生き長らえることができたような気がした。つまり町を出た後、手持ちの金がなくなれば私は死んでいくだけだった。
 杖があっては仕事にならないということで、フォークリフトを一日中運転していた。誰とも何も話さなかった。最後の日、ロッカーを空けて更衣室を出ようとしたとき、班長が話しかけてきた。なぜか彼は私が島を流していたことを知っていた。島を流したことは工場に知れ渡っている、君のことを処分するかどうか考えなくちゃいけないところだったけど、おかげで手間がはぶけたよ、彼はそう言い残して消えた。そのようにして私は工場を去った。
 汲の部屋に行ってみた。インターホンを押しても返事はない。ドアには鍵がかかっている。窓の向こうに人の気配はなかった。この町から去ることを一言告げておこうと思ったが、いくら待っても彼女は帰ってきそうになかった。もしかしたら、と思った。もしかしたら彼女はまた逃げ出したのかもしれない。夫の幽霊から逃げ出すために、町を出ていってしまったのかもしれない。私はため息をついた。慣れない杖をつきながら、途方に暮れたような気分で町を歩いていった。

 朝から激しい雨が降っていた。着替えをつめこんだバッグを手にし、タクシーで駅まで向かった。そこから在来線に乗り、途中の駅で弁当と雑誌を買って、特急列車に乗りかえた。まわりは空席ばかりで、ときどき車掌や他の車両の乗客が横を通り過ぎていく。窓を打ちつける雨粒に目をやりながら、私は島を歩いたときのことを考えた。できるならばもう一度、島に入ってみたかった。そこでもう一度、あの女に会ってみたかった。きっと女はまだあの路地の奥で息を殺して身を潜めているに違いない、そんな気がしてならなかった。
 ふと、車両のドアが開いた。そこに立っていたのは細長い顔の男だった。男は氷の上を滑るように、すうっと私の目の前まで近づいてきた。そして真ん中に寄った赤い目で私を見下ろした。私の考えでは男はいなくなるはずだった。島から離れれば、町から離れれば、男も離れていくだろうと思っていたのだった。しかしそれは浅はかな思いこみだった。そう簡単に離れることはできない。私はポケットの小石に手を伸ばそうとした。その前に男は私の体の上に乗りかかってきた。男の体は柔らかい。水の入った布袋のようだ。いくら押しても手ごたえがない。無機的な視線は私の目の動きを素早く追いかけている。私の体をしっかり抱えこむと、男はポケットから黒い泥のようなものを取り出した。そして私の顔や背中や脚に貼りつけはじめた。次々とポケットから出してはべたべたと貼りつけていく。同時に私の耳元では言葉を浴びせ続けている。じむらじあごにしあぜがげるなじほんぼゆなかりどじなむぼりあじかりだげるさにほむらじそなくにおごにしほるどんあげんだしおするめじはぎなむごるべにこしにはじぼるごのでしとにじゅぜなかげしゅみだるどんばにじうむごるなちかげるはじもとごなじん……、泥まみれになった体はとても重い。手足の力を失い、頭がうな垂れ、窓の外が視界に入る。そこに何かが映った。雨粒でよく見えない。でもそれが島であることは違いなかった。巨大な島が、はるか水平線の上に現れている。テレビ塔は空を突き刺している。やはり私はプールの底に沈むように私の肉体を手放しはじめている。激しい雨の中を、特急列車はものすごいスピードで突き抜けていく。

〈了〉

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