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リテル

 目を醒ましてしばらくの間、真湖まこは古い小説の冒頭を思い起こすことになった。自分の体が虫に変身していることにグレゴール・ザムザが気づけたのは、窓から朝の光が射しこんでいたからだ。頭を起こし、自分の腹が筋の入った褐色に変わっていたこと、そして腹の側面で細い足が何本もうごめいていたことを発見できたのは、灰色の雲に遮られた陽光が──たとえ弱々しくとも──部屋の中で反射していたおかげだろう。
 自分には何の光も用意されていないと真湖は思った。気だるい朝の日射しなんてどこにも見当たらない。いくらまぶたを見開いても、眼前には何も映らない。変身どころか、現実に目が醒めているのかどうかさえ疑わしい。光のない夢かもしれない。あるいは現実だとしても、光がまったく射していない部屋にいるのか、それとも自分の視覚が完全に失われているのか。もしかしたら両方であるかもしれない。まだ判断ができない。グレゴールの場合は虫に変身したが、二つの眼球から伝達される視覚はかろうじて残されていた。そして部屋のカーテンは閉じられていなかったのだ。
 真湖は仰向けのまま、みぞおちのあたりに手をやってみた。布のような薄く滑らかな手触りはおそらくTシャツだろうと思った。日付が変わろうとする時間、椅子に座り、ノートパソコンのキーボードの上で十本の指を準備しながら、真湖はじっと耳を澄ましていた。確かそのとき着ていたのが、糸がほつれた寝巻きのTシャツだったことを憶えていた。下は安物のハーフパンツ。指をみぞおちからゆっくり下に這わせると、なだらかな曲線の先でへそのくぼみに触れた。少なくともいくつもの筋が走る膨らんだ腹には変化していないらしく、グレゴールが見ていたような夢の中でもなさそうだった。
 そもそも私が思い浮かべていたのはグレゴール・ザムザのことではなかったはずだと真湖は深呼吸をした。そう、机の端にはカセットデッキを置いていた。その側面の穴にイヤホンジャックを差しこみ、両耳をイヤホンで塞いでいた。再生ボタンを押したはずだった。デッキの中を覗くと、テープは確かに回転していた。だがイヤホンからは何の音声も流れてこなかった。真湖は椅子の上で体勢を変え、ノートパソコンと向かい合ったまま、目を閉じて、再びイヤホンの奥に神経を集中した。やはりいつまでも沈黙が続いた。どれくらい時間が経ったのかはわからない。何も聞こえてこないまま、目を醒ますと、自分は今ここにいる。真湖はゆっくりと深呼吸を続けた。
 結局カセットテープには何も録音されていなかったのか。それとも録音されていたが、カセットデッキの故障で正常に音声を再生できなかったのか。あるいは自分の聴覚が失われてしまったのだろうか──真湖は試しに小さな声を発した。まさに急場の虫が出すような貧弱な声だった。その響きは真湖の聴覚を刺激したが、彼女自身にはやはり疑わしかった。それが本当に自分の発声したとおりの音声なのか、そのときの真湖には確信が持てなかった。
 真湖の背中は硬めのクッションのような弾力で受け止められていた。身に覚えのある寝心地だった。ここは自分のベッドの上かもしれない。無音のカセットテープに集中しているうちに無意識に机の前からベッドに移動して、そのまま眠っただけかもしれない。真湖は体を横に向け、手を支えにして、上半身を注意深く起こしてみた。だからといって光がどこかから漏れたり、スプリングが軋む音が聞こえたりしたわけではなかった。自分のベッドにしてはよそよそしい反応だといぶかしんだ。
 真湖はすぐに立ち上がろうとしなかった。立ち上がるには状況が不明すぎた。そのかわり頼ったのは記憶だった。自分にカセットテープを渡したまきのことを、真湖は弾力の上で思い出していた。駅前にある書店の一角に併設されたカフェが待ち合わせ場所だった。まだ開店したばかりの時間で、フロアに他の客はおらず、店員はまだ商品棚の準備をしている。大きな窓から射しこむ光は磨かれた床を照らし、天井のスピーカーからはクラシックが微かな音量で流され、エアコンの風は涼しく保たれていた。牧はすでに一人掛けのソファで細い脚を組んでいた。テーブルの上にはカップがぽつんと一つ置いてある。真湖はカウンターで受け取ったアイスコーヒーとサンドイッチを手にして、牧の向かいのソファに座った。
 背の高い男だった。なだらかな肩のラインがさらにそう感じさせた。かつて同じ編集プロダクションに勤めていた頃、何度か牧と取材に同行したことがあった。バス停で肩を並べているとき、牧の横顔を見上げるかわりに、真湖はそっと振り返って、彼の影を確かめたことがあった。影の肩もなだらかだった。夕刻の光はすでに傾いており、となりに立つ自分の影よりさらに遠くへ伸びている。影の首あたりで、小鳥が地面の何かをついばんでいる。
 どうかしましたか、牧は微笑みを浮かべて真湖の顔を覗きこんだ。後輩の牧はいつも真湖に敬語を使った。バス、遅れてるみたいだね、真湖は目の前の道路に視線を戻した。彼女の後ろには何人かの老人たちが並んでいた。互いに知り合いのようで、小さな声で挨拶を交わしている。牧くん、今日の取材って牧くんに書いてもらえるかな。労働組合の記事って初めてだとは思うんだけど、真湖はそう訊ねた。書いたことはないですね、と牧は答えた。でも真湖さんの記事は読んできましたし、労働法についてもある程度の知識は持っているつもりです。大丈夫です、ぜひ書かせてもらいますよ。
 ありがとう、真湖は頷いた。実はね私、会社を辞めるんだ。母の体調が優れなくて、付きっきりで身の回りの世話をすることになったの。二人暮らしで、私しか看る人がいないからね。もう辞表は提出していて、デスクの整理も始めてる。あと三週間ほどしかいないから、と真湖は牧を見上げた。牧に驚いた様子はなかった。ただ気遣うように真湖の目を見つめている。真湖もそれ以上、何も言わなかった。
 編集プロダクションの社長は真湖の仕事ぶりを買っていた。少人数の会社ということもあり、十年近く勤めた真湖の実績を失うことを惜しんだ。いつも早めの入稿スケジュールを立て、読みやすく正確な記事を書き、取材先でも人あたりが良いと評判だった。家庭の事情で止むを得なかったが、それでも社長は退職後の真湖の生活を考慮し、自宅でもできる仕事を彼女に回すことにした。主に取材時にICレコーダーで録音した音声データをテキストに書き起こす作業だった。橋渡し役として選ばれた牧は、定期的に真湖のメールアドレスに音声データを送信することになり、真湖からのテキストデータを受け取ることになった。
 だが、その眩しい朝のカフェで牧から手渡されたのは、物質的な形を持たない音声データではなかった。紙袋にずっしりと詰めこまれたカセットテープだった。牧は床に置いた丈夫そうな紙袋からカセットテープを何本か取り出して、テーブルの上に積み上げた。
 ある小説家の自宅で見つかったものです、牧は肘を突き、顔の前で両手を組んでそう説明した。そのアーチ状の影が落ちているテーブルの上に真湖は一瞬目をやった。もう十年以上前に亡くなられた方です、と牧は続けた。有名ではなく、数えるほどしか出版されていない本は総じて売れませんでした。新聞社主催の新人賞を獲った小説はある程度話題になったみたいですが、それ以降はなかなか思うような作品は書けなかったようです。会社に勤めながらの兼業作家を続けられた男性でした。
 真湖はサンドイッチを齧りながら、牧の説明を聞いていた。めずらしいね、こんな話、どこから振られたの、と訊ねた。社長が奥さんと知り合いだったようです、と牧は答えた。御主人が亡くなって何年経っても、奥さんは御主人の部屋を片付けられませんでした。でも最近になって自身の老い先を考えるようになり、意を決して御主人の荷物を整理していたら、この大量のカセットテープが出てきたんです。二人とも音楽に熱心だったわけではなく、そういえば、と奥さんは思い出したようです。ドアを閉めた部屋の中から御主人の独り言が聞こえてくることがあったなって。でもあいにく再生する機械はすでに処分されていて、このテープに吹きこまれている内容を知りたいんだとうちの社長に相談されました。
 真湖は積み上げられたカセットテープを一つ手に取った。透明のプラスチックケースは白くくすんでいたが、本体やテープの表面は劣化を免れていて、まだ新品のような光沢が残っていた。おそらく一度録音に使用しただけで、すぐ引き出しの奥にでもしまったのだろうと真湖は想像した。ラベルには録音可能時間である120という数字が記載され、録音したときと思われる日付が太めのペンで書かれている。
 つまり、と真湖は訊ねた。この全部に小説が録音されているってことかな。牧は肩をすくめた。実は僕もこれを受け取ったのがつい数日前で、中身を聴けていないんです。御主人の遺作となる小説の可能性は大きいですが、もしかしたらただ日々思うことを記録に残しているだけかもしれません。真湖さん、カセットデッキは持っていませんよね? 紙袋の底に小さなカセットデッキも入れてありますから、ぜひ使ってください。なにしろこれだけの量です。三十本以上で六十時間以上になりますから、奥さんにはしばらく時間を頂くことを承知してもらっています。急ぎの案件ではありませんが、進捗状況は定期的にメールで確認させてもらいますね。
 積み上げたカセットテープを、牧は再び足元の紙袋におさめた。かなりの重量に見えた。牧は朝早く電車に乗って、私の最寄り駅までこの紙袋を運んできてくれたのだと思わずにいられなかった。真湖さん、ここまで車で来られたんですよね、そこまで運びますよ、牧はそう微笑んだ。いいよいいよ、自分で持てるからと真湖は首を横に振った。牧くん、これから出社するんでしょ、忙しそうだしね、真湖がそう言うと、こういう直行のときには他の訪問先も入れてますから、時間はありますよ、と牧はソファの上で体重を少し移動させた。
 それからしばらく言葉を交わしたはずだった。しかし具体的にどんな話をしたのか、真湖はほとんど思い出すことができなかった。おそらく会社の人員配置が変わったことや、それに伴って取引先への挨拶まわりが大変なこと、そして毎日母の世話をしている真湖の生活のこと。大きな窓から降りそそぐ日差しに包まれた牧の姿に、彼女はほとんど目を細めているだけだった。
 だが真湖は思い出した。そのときふと、牧は小説について話し始めたのだ。学生のときはよく読んでましたよ、と牧は懐かしそうに声を柔らかくした。自分でも書こうとしましたが、結局何も書けませんでした。カフカとかジョイスとかプルーストを読んでいると、不思議と自分でも書けるんじゃないかと思えてくるんです。真湖さんも編プロに入るぐらいだから、何か読んでいたでしょう。真湖は食器をテーブルの端に寄せながら、苦笑を浮かべた。特別な作家はいなかったな。強いていえばケイ・セナミ。カフカとかジョイスを読んだことはあるけど、ちょっとついていけなかった。
 ケイ・セナミ? 牧は目を開いて繰り返した。そして後に続く真湖の言葉を待っていた。しかし真湖が頷くだけでいると、それ以上訊ねはしなかった。一つだけいいですか、と牧は微笑みを取り戻した。カフカの『変身』について、ずっと考えていることがあるんです。今じゃ絵本になるぐらい世間に広く知れ渡った作品ですよね。あの主人公のグレゴール・ザムザ、彼は本当に虫に変身したのか、僕はずっと疑問に思ってきました。同居している父と母と妹、もちろん彼らはそこがグレゴールの部屋であり、グレゴールがそのベッドを毎晩寝床にしているのを知っていました。だからこそ、突然ベッドの上に現れた巨大な虫はグレゴールが変身した姿なのだと結びつけたんです。状況が彼らをそう思いこませました。でももしグレゴールのことを知らない人が見ると、ただ巨大な虫がベッドの上に現れたとしか見えないでしょう。そこで冷静に考えると、人が巨大な虫に変身することと、ただ巨大な虫が現れたこと、どちらに信憑性があるのかということになります。二メートルを超える虫の化石は現実に発見されていますし、古代に存在していたことは証明されています。でも人が巨大な虫に変身したなんて例は──カフカの小説を除いては──世界中で聞いたことがありません。つまりその朝、ベッドの上で横たわっていた巨大な虫はグレゴールが変身した姿ではないかもしれない、というのが僕の考えです。
 決して声量を上げることなく、口の端を緩ませながら、牧は奇妙な変身に対しての懐疑を語っていた。巨大な虫が現れた──という言葉の切れはしは、母と二人で暮らしている古ぼけた家を真湖の頭に浮かべた。私もはっきりとは憶えていないけど、と真湖は首を傾けた。あの話は主人公の視点で書かれていたよね。たぶん虫になった主人公の台詞がきちんと書かれていたはずだけれど。
 そうなんです、牧は真湖の反応を待っていたかのように深く頷いた。虫に変身したグレゴールの台詞は虫の視点で語られ、虫の動きはグレゴールを主語にして描写される。このことによって、虫の正体はグレゴールなんだと読者は思いこまされる。作者のカフカは明らかにそう読者に思いこませようとしていますし、話の筋もその設定のまま終わりを迎えます。でもそれはたんに主語がグレゴールというだけのことです。彼が着ていたはずの服や下着も虫の一部になったんでしょうか。もし巨大な虫がグレゴールじゃないとしたら、この話は別の様相を呈してきます。グレゴールは虫ではない──それでは一体彼は何に変身したんでしょうか。
 混み始めたので、店を出て駐車場に向かい、カセットテープが詰めこまれた紙袋を車の助手席に載せた。手を振って牧と別れた後、真湖はもう一度書店に戻った。書棚の間を通り、文庫本の『変身』を見つけると、最初のページをめくった。やはり冒頭の一行で、グレゴール・ザムザは自分が一匹の巨大な虫に変わっていることを発見している。そして読んでいる私はすでに彼の変身を受け入れている。だがもし牧の解釈のとおりにグレゴールじゃないとしたら、この虫は一体どこからやってきたのか。そしてグレゴール自身はこの部屋のどこに隠れているというのか。車を走らせている間、服のボタンが掛け違っているような感覚のまま真湖は自宅に帰ってきた。手狭な駐車場に軽のワンボックスを押しこみ、紙袋の持ち手を指にめりこませて、片手で玄関の鍵を開けた。戸を開けると、母が立っていた。
 朝食の準備はちゃんと済ませてから家を出たんだ、と真湖は弾力の上で思い出していた。瞼を閉じてみる。何も見えないことは変わらないのに、彼女は瞼の裏を凝視して、台所のテーブルの上にあったものを思い浮かべようとする。そこには半分ほど残された朝食が放ったらかしにされている。どうしたの、廊下に立つ母に真湖はそう訊ねた。白地に水色の文字が渦巻いたパジャマを母は何日か続けて着ていた。何かを探しているように胸元で両手を重ね、足先の向きを小刻みに変えている。お昼ごはんはどこかな、と母は真湖の目をまっすぐ見つめた。真湖は溜め息をつき、微笑みを浮かべた。朝ごはんがまだ残ってるから食べなよ、真湖は台所を指さした。ううん、違うの、と母は首を横に振った。朝ごはんはちゃんと食べていたのよ。でも真湖がいないことに気づいて、真湖、真湖、真湖、っていくら呼んでも誰も出てきやしない。だって私、真湖と一緒にお昼ごはんを食べなきゃいけないんだもの。それなのに真湖もいなけりゃ、お昼ごはんもないでしょ。弱っちゃった。母はふっと真湖に身を寄せた。わかった、わかったよ、と真湖は母の腕に触れた。でも一時間ほどで帰ってくるって言ったでしょ。これから準備するから待ってて。あ、薬は飲んだ? トイレは行った? ほら、もうすぐテレビでドラマが始まる時間だよ。
 結局今は何時なんだろう、と真湖は何の変化も及ぼさないまばたきを何度も繰り返していた。ずいぶんと眠った気もすれば、ほんの数分まどろんだだけの気もする。夕食は母と向かい合って食べた。それから朝を迎えたのか、あるいは未明をくぐり抜けている途中なのか。今が朝なのかどうかさえ、私自身だけでは認識することができない。弾力の上に置いている手を、真湖はそのまま前に伸ばした。何本もの糸を辿るようなざわめいた音が指先を伝わってくる。だが唐突に弾力の感触が失われた。同時に音も指先から途切れた。上半身を前傾させ、真湖は途切れた底へとさらに手を伸ばした。そこは平面になっていた。ひんやりとして、押しても殴っても変形しなさそうなほど硬質だった。真湖は体をずらして、両足の裏を平面の上に注意深く接地させた。もし自分の部屋であれば、それは自分の部屋の床のはずだった。だがいくら足の裏に力を入れたり動かしたりしても、他人行儀のような冷たさが伝わってくる。そもそも自分の部屋の床とはどんなものだったか。朝を認識できないのと同じように、真湖は自分の部屋の床すら認識することができなかった。
 夕食は簡単な具を載せたサラダうどんだった。母はレタスやトマトや茹で卵といった具を、まず不要物を取り除くように先に食べた。そして色味が失われた皿に箸を差しこみ、うどんだけをひたすらすすり続けた。私も当然サラダうどんを食べていたはずだと真湖は考えた。それなのにその味を思い出せない。試しに豆板醤をつゆに混ぜたんだ。母は何か感想を言っていたが、一体どんな味だったのか。トマトは酸っぱかっただろうか、卵は半熟だっただろうか。そもそも私の味覚は正しく機能していたのだろうか。あのとき、牧を前にして食べていたサンドイッチもそうだった。今思えば、ただ紙の束を噛んでいるようだった。
 母はきれいに平らげた。野菜のかけら一つ残っていない。昨日は何曜日だったかな、とどこを見るともなく訊ねた。木曜日と真湖が答えると、土曜日は明日かと眼差しを遠くに向けた。母がパジャマ姿で真夜中の町を徘徊していると警察から連絡があったことで、真湖は会社を辞めるしかないと心を固くした。二人で肩を並べて同じことを話していたはずなのに、ふと距離が離れて明後日の方を見ていることがそれまでもあった。だがいくら戸締まりをして会社に行っても、母には鍵を解錠したりガスの元栓を開ける理性は残っていた。母の年金と自分の給料を合算しても、介護施設に入居させることは経済的に難しい。なにより母が怒った。真湖が取り寄せてみた施設の資料を手にして、このパンフレットに載っている人たち、私嫌いだわ、と当てつけるように大声を出した。真湖は携帯電話の加入コースをいちばん安い月額料のものに切り替えた。動画の定額サービスを解約し、エアコンはできるだけ使わないようにして、風呂の回数を減らした。ただ数少ない伝手をたどって仕事を得るために、インターネット回線だけは手放すわけにいかなかった。
 ベッドの上で母が眠りについているのを確かめてから、真湖は二階の自室に入った。牧から受け取った紙袋からすべてのカセットテープを一旦取り出し、底に押しこまれていたカセットデッキを机の上に置いた。テープの挿入口が一つしかないコンパクトな赤いデッキだ。真湖は重い瞼を引き上げながら、ノートパソコンの電源を入れた。早朝から洗濯機を回して、母の朝食を作り、母を起こしてから、洗濯物をベランダに干した。牧との打合せから帰ると、母と昼食をとり、部屋中に掃除機をかけた。それから母を車に乗せ、ショッピングセンターと銀行と郵便局を回り、最後に高血糖である母のかかりつけの病院に寄った。家に戻った頃には日が暮れていて、洗濯物を取り入れ、ポストに入っていた宅配物の不在票を持って電話をかけてから、サラダうどんを作り始めた。母が風呂に入っている間に、食器の洗い物と洗濯物の片づけを済ませた。真湖がやっと仕事に取り組めるのは、母がNHKのドラマを見終わり、常夜灯を点けた和室に移って寝息を立て始めてからだった。そんな生活に変わってから半年ほどが経つ。単調に見える生活は確実に真湖の睡眠時間を削り取った。ほぼ朝から晩まで母と共に過ごす時間と空間は、二人の境目を溶かしていくようだった。母が吐く空気は真湖が吸う空気であり、母の視線の先と真湖の視線の先は重なり合い、母の呼びかける声に真湖の体は勝手に立ち上がった。トイレに入ったり歯を磨いているときに母の跡を見つけると、睡眠不足の乾いた眼球の奥がひりひりと痛み、首の後ろがきゅっと締めつけられた。眠りだけが互いを分かつはずだったが、ベッドの上で一人眠る母の姿は目を閉じても消えない影として瞼の裏に残った。
 最も古いカセットテープの日付は十五年前の七月一日から四日だった。角張った筆跡で、字の大きさは几帳面に揃えられている。真湖はデッキの挿入口にカセットテープを入れ、イヤホンを両方の耳に装着した。音声を録音した人物の経歴については、インターネットでもほとんど情報が見つからなかった。三十歳を越えて新人賞を獲得するまでに、最終選考で二度落選していた。やっと出版できた単行本は五千部刷られたが、重版はされなかった。半年後に文芸誌に掲載された二作目は評判が良くなかったが、自費出版を主体とした小さな出版社からなんとか次の単行本を出すことができた。その後の活動は判然としない。生活を保つために仕事に埋没していったのかもしれない。真湖の手元で携帯電話が光った。牧からのメッセージだ──真湖さん、こんばんは。今朝渡したテープですけど、先方から社長に連絡が来たようで、納品はいつでも大丈夫だからということです。奥さん、ちょっと躊躇しています。ずいぶん前に亡くなった旦那さんの肉声が一体何を語っているのか、今さら明るみにするのが急に怖くなったみたいなんですが、じゃあ気持ちが落ち着いたときに確かめましょうと社長が説得しました。しばらく他の仕事を優先してもらっても構いませんよ。何かあれば連絡します。あと最近、おいしいパン屋を見つけたんで今度持っていきますね。
 そういえば、ケイ・セナミ──なんで私はそんなことを牧に言ったんだろう。牧は首を傾けていたが、私だけが知っている架空の小説家だよなんて真湖は説明することができなかった。学生の頃から彼の生い立ちや友人関係や恋愛相手、小説家になった経緯や書き残した作品、そして人生の最期に消火器を体に巻きつけて橋の上から飛び降りたこと、彼にまつわるすべてのことを真湖はずっと思い浮かべてきた。彼は私の中で生まれて死に、そして生き続けている。ケイ・セナミについて誰にも話したことなんかない。それなのになぜ牧の前で彼の名前が口をついて出てしまったのか。実際カフカやジョイスよりも、ケイ・セナミが書いたものの方がスリリングな展開なのは確かだ。カフェの壁や床がやたらと眩しかったせいかもしれない。きっと牧は会社に向かう電車で吊り革を握りながら、ケイ・セナミを検索したことだろう。だけど彼は無数のサーバーを行き交う電気信号には潜んでいない。どこにも見つからない。彼は私の電気信号にしか存在していない。
 いつの間にか、マウスを握る手の上に長細い影が差していた。真湖はまわりを見回した。本棚の影でもないし、カーテンはぴたりと閉じられたままだ。おいしいパンを持っていきますと牧は書いていた。でも私の味覚は正常じゃないかもしれない。影がまとわりつく手で、真湖はカセットデッキの再生ボタンを押した。そして十本の指を静かにキーボードの上に置いた。そう、やっぱり思い浮かべていたのはグレゴール・ザムザではなかった、真湖は弾力の上に腰を掛けたまま、足の裏で冷たい平面を踏みしめた。私はすでにこの世にいない男の第一声を待ちながら、川底にゆっくりと沈んでいくケイ・セナミの最期を想像していたのだ。
 二時間は経過しているのか。カセットデッキはオートリバースに設定されていたはずだ。カセットテープがA面からB面に切り替わり、B面が終了しても自動的にまたA面が再生される。時間の経過は認識できないにせよ、カセットテープは今も回り続けているはずだ。どこかで同じ時間を延々と繰り返している。老齢の小説家はなぜテープに自分の声を吹きこむことにしたのだろう。もしかすると手に障碍を抱えるようになり、うまく文字を書いたり、打ちこんだりすることができなくなったのか。そしていざ録音ボタンを押すと、一体どの言葉から話し始めたらいいのか、混乱してしまったのか。
 早く言いなさいよ、母はそう眉を吊り上げた。
 本当は気が狂ったように大声を張り上げるべきなのだろうか。何も見えず、何も聞こえない空間で目を醒ましたのに、いつまでも悠長に腰を下ろして母の顔を思い浮かべている場合なのか。それでも母はこちらを見下ろし、唇をまっすぐ結んで返事を待っている。目の前のガラスケースの中では、色とりどりのケーキが並んでいる。チーズケーキ、ショートケーキ、モンブラン、カップケーキ──端にはホールケーキが鎮座しているようだが、母のスカートが邪魔してよく見えない。誕生日なんてこなくていいと幼い真湖は思っていた。毎年、肩身の狭い一日になる。ケーキを食べたいなんて一言も口にしていないのに、母は早足で近所の洋菓子屋に向かい、急かすように一つだけ選ばせる。散歩中に飼い犬の排便を待っているみたいに苛々していた。結局どのケーキも同じに見えて選べない。違うのは金額だけで、いちばん安い値札を指さした。母は店員に向かって早口で注文した。そして本当に小さなケーキが一つだけ入れられた箱を受け取った。夕食の後、母がテレビを見て大笑いしている横で、一つだけのケーキを食べた。
 まだ編集プロダクションに勤めていたとき、家に帰ると、母が台所のテーブルでチョコレートケーキを食べていた。今日ね、スーパーで安売りしてたんだ。売れ残りだけどね。昔は食べたくても我慢してたわ。でもこの歳になったんだから少しぐらい良いでしょ。ねえ、母は口元を汚しながら得意そうに笑ったが、真湖は何も言わずに自分の部屋へと階段を上がった。母が買ってきたのは、母が食べているチョコレートケーキだけなのだということをわかっていた。
 父の借金が原因で離婚してから、母は長い間コールセンターで働いていた。大手家電量販店のカスタマーサービスを請け負うコールセンターで、母の主な業務はクレームの対応だった。パソコンがインターネットに繋がらないとか、楽しみにしていた映画が録画されなかったとか、トースターの熱量を微調整できずにパンが焦げたといった内容がほとんどだった。電話の向こうの客はまるで詐欺にでも遭ったかのように怒り、叫び、しつこく罵倒の言葉を浴びせてくるということだった。ひたすら謝罪を続け、やっとのことで長時間の電話を切ると、まわりには同じ制服を着た女性たちの席がどこまでも並び、やはり同じように受話器に向かって謝り続けている。クレームの電話から解放される休憩時間は用意されていたが、大量の同僚女性たちとの交わりは母の神経を休ませてくれなかった。根も葉もない悪口や噂話や不倫話の棘が自分に向けられないように、空気のような反応を紡ぎ出さなければならない。毎晩自宅の玄関を開ける母の表情は虚ろだった。学校からの連絡事項を伝えると、かっと目を見開き、わかってるわよと大声を上げて、バッグを床に放り投げた。
 今頃母はどうしているのだろう。朝食が出てくるのを待っているのか。黴臭い和室でまだ眠っているのか。それとも退屈そうに林檎を手の中で弄んでいるのだろうか。十七歳の夜、日付が変わりそうな時間に家に帰ると、テレビの音が聞こえてきた。そのまま自分の部屋に入ってしまおうと足早に廊下を進みかけたところで、母から呼び止められた。頬杖をつき、台所の席で顔をテレビに向けたまま、目だけがこちらを見据えている。ちょっとおいで、こんな時間までどこに行ってたの、熱く柔らかいものを伸ばしたような声だった。先に手洗ってくるからと体をひるがえし、洗面所で時間をかけて手を洗ったが、テーブルに戻ると、母の体勢はさっきと変わらない傾きだった。ただ片手には林檎が握られている。いくらなんでも連絡もなしにこの時間は遅すぎるじゃない、母の強張った声がテレビの音に覆い被さる。まだあの子と付き合ってるんだ、こちらの返事を待たずに母は続ける。ごはんのことは悪かったよ、明日の朝食べるから、と母の前に座ってそう答えた。もう捨てたわよ、母はためらいなく言う。だってお刺身だったんだもの。あんなもの明日の朝は食べられないでしょ。捨てることないじゃないと言い返した。この時間だったらまだ食べられたのに。え、と母は林檎を掴む手を強くする。何の連絡もなく、何時に帰るのかもこっちは知らないのに、この時間だったらってどういうこと。だったら、この時間でもお刺身を食べたいなら食べたいってちゃんと連絡してきなさいよ。私だって嫌な目に遭いながら稼いだお金でせっかく買ったお刺身、捨てたくなんかないわよ。青魚は足が早いのよ、ちゃんと憶えときなさい、母は林檎を握りしめたまま、尖った視線をテレビに向けた。母の波が激しくなることは定期的にあった。そのときもただ黙ってやり過ごしておけば、やがて収まるものだろうとテーブルの上で組んだ両手をただ見つめていた。だが母は再び荒立った。そりゃあ若い頃は私だって遊んだわよ、と母はテレビの画面から目を離さずに呟いた。あんたのお父さんと出会う前は、何人かの人と付き合ってた。でもね、人に迷惑を掛けてまで遊び呆けることはなかったわ。ましてや汗水流して働いた親が用意してくれた食事を放ったらかしにして、夜遅くまでほっつき回るなんてことはしなかった。あの子、と母はじろりとこちらを見た。あの子にも問題あるんじゃない。あんたをこんな時間にまで連れ回して、常識があるとはとても思えないわ。一体何をしているのか知らないけど、きっと親の教育もろくなもんじゃないんだろうね。何をされるかわかんないよ。さっさと別れた方がいいんじゃない。
 わかった、と大声で遮っても、母は驚かなかった。じろりとした目つきのまま、ただこちらの様子を窺っていたので、もう用意しなくていい、と続けた。これから自分の食べるものは自分で用意する。食材も調味料も自分のバイト代で買う。それだったらいいんでしょ。何時に帰ってきても文句はないんでしょ。母はしばらく何も言わなかった。目の前にいる娘を細かく検分するように、視線をこちらに固定していた。明日の朝はこれでも食べときな、そう言い捨てて母は林檎を投げた。きっと力はこめられていなかったのだろう。それでも林檎は娘の目を強く打った。そして太ももの上に落ち、床の上を転がった。母に悪びれている様子はなかった。たった一人の娘にさえも頭を下げないといけない、そんなことは決して許さないと今にも崩れそうな表情を浮かべているだけだった。
 ケイ・セナミが現れたのは、その夜からだった。真湖はベッドの上で横たわり、濡らしたタオルで目の上を冷やしていた。ふと頭を上げた。ケイ・セナミはいつの間にかこちらに背を丸め、弱々しいブルーライトに照らされてキーボードを打っている。真湖は片目を見開いた。天井の明かりを落としていたにも関わらず、肩のラインは明確に浮きあがり、実際に呼吸をしているような存在感が立ちのぼっている。そして小鳥の足音ぐらいの静けさで指先を動かし続けている。知らないうちに誰かが部屋に侵入している、などとはよぎらなかった。それはすでに知っている後ろ姿であり、真湖にはすぐに理解できた。きっと私の思い浮かべてきた姿がただそこに見えているだけなんだと。
 その夜、ケイ・セナミが書いていた文章。確か火についてだった──火は固定されていない。釘で壁に打ちつけられるようなものではない。火とは流体である。光や匂いや音と同じで、流れたり起こったりしている途中のものである。それなのに私たちは火という名前の釘でそれを壁に打ちつける。その瞬間、火はすでに消えているのだが、あたかもそこに火がぶら下がっているかのように私たちは火について語り始めている──
 火が点けっ放しにされていたことがある。湯が沸いた後、ガスコンロの火力は弱められただけで、しばらく時間が経っていたようだった。仕事が休みの日、昼食を作ろうと冷蔵庫を開けようとしたとき、ほんのりと熱気が宙に揺らいでいるのを感じた。火が点けっ放しじゃない、と母に向かって叫んだ。まだパジャマ姿の母はテーブルの席からこちらを見上げている。私? と母は不思議そうに訊き返した。それは私がやったことなのかしら。もし点けっ放しにしたのが私だとしたら、ごめんなさいね。でも本当にそれは私がやったことなのかしら。まるで他人事のように無表情だった。
 ケイ・セナミが書く物語を真湖は読んできた。若い女が一人で高速バスを乗り継いでどこまでも旅をする話、旅先で友達とも姉ともよべるような女と気が合って一緒に暮らし始める話、だがいつも誰かの影が迫っている気がして結局女の部屋から去っていく話。そして新しいファイルには、老婦についての話が書かれ始めている。目を醒ますと、二人で暮らしていた娘の姿がどこにも見当たらないという話だ。ケイ・セナミが打ちこんでいる文字の連なりへ、真湖はいつものように沈みこんでいく──佐和子さわこはその朝もベッドの上でもぞもぞと蠢いていた。もう少しで娘がふすまを開けてくる。朝ごはんができたから早く起きてよ、と。娘の忙しない声で体を持ち上げても、佐和子はすぐ台所のテーブルに向かわないことにしている。まずトイレでゆっくり用を足してから、朝食の席に着くようにしている。会社を退職した後も、追い立てられて生活するのはまっぴらごめんだと佐和子は思っていた。ゆっくり起きて、ゆっくり用を足して、ゆっくりごはんを食べる。もう誰かに謝ったり、誰かに叱られたり、こそこそと話をしたりすることから無縁に暮らすのだと決めていた。
 その朝はいつもより静かだった。洗濯機が回る音が聞こえてこない。娘がばたばたと廊下を歩いたり、ドアを開け閉めする音が聞こえてこない。目を閉じて、耳を澄ましても同じことだった。暗くがらんとした家の様子が思い浮かんでくるだけだ。きっと寝過ごしているのだろう。昔だって学校を遅刻することがあったから。仕方なく佐和子は上半身を起こした。畳の上に両足を着き、ベッドの手すりに掴まりながら慎重に立ち上がった。悠々自適に暮らすのだといっても、放尿をいつまでも我慢することはできない。
 廊下の明かりは点けられていなかった。日の光が家の中に射しこんでいる明るさもない。台所も居間もカーテンはまだ閉まったままなのだろう。佐和子は壁に手をやりながら薄暗い廊下を進み、トイレに入って用を足した。どこか様子が違った。水の流れる音がこもっているように聞こえるし、巻き取るトイレットペーパーは手にまとわりついてくる。ドアを閉めるときの軋みがやけに大きく響いた。佐和子は不安な気持ちで廊下の途中で立ち止まり、階段を見上げた。急かせるように呼びかける。
 真湖、真湖、真湖、
 二階でも光は漏れてなさそうだ。返事はない。佐和子は吸いこまれるようにしばらく二階を見上げる。真湖は二階の部屋で眠っている。毎晩その部屋で眠っている。二階には真湖の部屋しかない。それなのになぜ真湖の声が聞こえてこない。
 佐和子は台所に入った。蛍光灯を点けたが、どこか仄暗ほのぐらい。窓際に近づいてカーテンを開けると、空は雲に覆われていた。冷蔵庫を開けて、取り出した麦茶をコップに注いで飲む。テーブルの上に朝食の用意はされていない。昨夜のサラダうどんの食器は洗いかごに上げられたままだ。テレビを点けて、いつもの自分の席にゆっくりと腰を下ろす。ワイドショーでは、最近横行している強引な訪問販売の実態を特集していた。ネクタイを締めたセールスマンが言葉巧みに家の中に上がりこみ、通信回線の不備をでたらめに指摘して工事まで取り付け、高額な請求をしてくるというものだった。
 もしかしたら、と佐和子は頬杖をついて思った。もしかしたら真湖はこの半年間で、私の正気に勘づいたのかもしれない。本当は私のために食事を作る必要などないし、車に乗せて買い物に回る必要もないし、なにより会社を辞める必要なんてなかったじゃないかと腹を立てているのかもしれない。テーブルの下の踵が小刻みに揺れてくる。白状した方がいいのだろうか。真夜中に町を歩き回ったのも、ガスコンロの火を点けっ放しにしたのも、ごはんを食べた記憶が曖昧だったことも、すべて正気の内の行ないだったと詫びるべきなのか。詫びて、丸く収まるものなのか。いや、そんなふうにはならない。きっと真湖は私を放ったらかしにし、また毎晩仕事から遅く帰るようになって、男と遊び回るようにもなる。そのうちにこの家を出ていくと言い出すだろう。そんなことをさせてはいけない。真湖は私一人が懸命に育ててきた娘なんだ。やはり正気を失い続けなければいけない。いくら真湖が疑いの目を向けてこようが、白を切り通す。正気を失っている自分を真湖の両腕に抱きとめさせてやるんだ。
 だが肝心の真湖が姿を見せない。真夜中のうちに家を出ている可能性は低い。玄関での物音に私が気づかないことはない。自分の部屋の窓から? まさかと思うが、ないことはない。いずれにしても真湖の部屋のドアを開ける。そしてそこに眠っているであろう真湖を目醒めさせる。佐和子は大きく息を吐いてから立ち上がり、廊下に出て、階段の手すりをしっかりと握りしめた。狭い土地に建てられた狭い家であり、急な傾斜の階段を佐和子はずいぶんと使用していなかった。娘の部屋が今どんな様子なのかも知らない。その空白を埋めるように、佐和子は踏板を軋ませながら、一歩ずつ確実に足を上げていった。自分の足音は真湖の目を醒ますだろうと想像する。だからできるだけゆっくりと進まなければいけない。年老いた母の歩みの遅さを感じさせなければならない。だがやっと階段を上り終えたとき、佐和子はひとまず立ち止まって、呼吸を整えた。正気を失う前に、実際に体力がかなり低下していたことに自分でも驚いた。顔を上げ、二階はこれほどまで暗い場所だったのかとも戸惑う。足元は不明瞭で、天井の隅は黒く塗り潰されている。娘は毎日こんな場所で寝起きを繰り返しているのか。真湖、と思わずドアの向こうに呼びかけそうになる。だが佐和子は抑えた。そこに眠っているはずの者は本当に真湖であるのか、佐和子は音を立てずにドアのノブへ手を伸ばした。
 ──ときおり見せる子どものような母の振る舞いを狂言だと疑っていたわけではなかった。ただ、自らの正気が崩れるときを母自身がどう捉えているのかと思うことはあった。苦しんでいるのか、受け入れようとしているのか。あるいは正気と狂気は地続きで、境目を失った母はただ往来を繰り返しているだけなのか。家事と仕事に時間を奪われていた私にそれ以上突きつめる余裕はなかった。だがケイ・セナミの書く物語によって、私はそのように認識する。母の振る舞いは狂言だと書かれている。母は私を騙している。そしてこれからも騙し続けようと決心している。きりきりと何かが痛み始めた。母について考えている場所のずっと下あたりで、硬い塊が重みを持ち始めている。塊はまわりを巻きこみながら回転し、ゆっくりと下降しようとしている。どうせ結局はすべて道連れなのだとでもいうように、いろんなものを一緒に引きずり下ろそうとしている。そのかわり熱い流れのようなものが噴き出ようとした。どうしていいのか、わからなかった。このままでもいい気がしたし、何とかしなければいけない気もした。母は私の部屋のドアを開けようとしている。私の部屋に入りこみ、私がちゃんとベッドの上にいることを確かめようとしている。それでいいのか。母が見通しているように、果たしてその部屋にいるのは真湖・・であっていいのか。
 いつから流れていたのだろう。私の聴覚が反応したのがその瞬間からというだけで、老齢の小説家の声は過ぎ去った時間からすでに流れていたようだった。気づかぬうちに足元まで迫っていた満ち潮、そんなふうに小説家の声にいつからか取り囲まれている。耳元に手をやっても、ぶら下がっているものはない。何かの弾みでイヤホンジャックはデッキから抜け落ちてしまったのだろう。カセットテープはやはり回り続けていた。語られているのは自分の部屋の物が盗まれているという話の途中だった。
「……だがやはり小説を書き終えると、ときどき何かが消えていることがあった。三十年以上も書斎として使用している自分の部屋。この六畳ばかりでいつも小説を書いている。妻も普段入ってくることはない。もしいつもと変わったところがあればすぐに気づく。何かが消えていることに気づくのは、その日の文を書き終え、煙草を吸いながら一息ついているときであった。椅子にもたれていると、あれ、と首をかしげる。ペン立てからボールペンが一本消えている。ある日には机の上からティッシュペーパーの箱が消えている。ある日には読みかけの本に挟んでいた栞が消え、違う日には窓際に置いている鉢植えの葉が一枚消えている。毎日消えるわけではないが、消えるとき、あるいは消えていることに気づくときは、いつも小説を書き終えた後のひとときであった。初めは自分の勘違いだろうと思い流していた。だが何回も同じようなことが続くにつれて不可解に思えてきた。物が消え過ぎている。消えるのは何でもないような物ばかりであったが、一度テレビのリモコンが消えたときは不便さを覚えた。メーカーに問い合わせると、部屋のテレビは古い型で、それに合うリモコンはすでに製造終了になったとのことだった。リモコンが消えてからは、チャンネルや音量を変えるのにわざわざテレビ本体まで立ち上がっていたが、果たしてそこまでして見るものなのかと面倒になり、結局今ではテレビを点けないようになった。いずれにせよ、私はなぜ消えるなどという言葉を使っているのか。ただ眼前の現象に対して消えるという言葉がしっくりくるだけで、消えるということなど起こり得ないはずだ。火や匂いや音や光は消えるが、ボールペンやティッシュペーパーが消えることはない。しかしながら目の前にあったものが実際になくなっている。であるならば、盗まれたのだと私は仮定する。当然のことながら部屋に荒らされた形跡はない。ドアと窓はぴたりと閉じられているし、誰かの足跡などない。しかし誰かが盗まなければ、ボールペンがなくなることはないことも確かだ。小説を書くとき、私はいつも机に向かっている。小説を書いていると、自分が一体どこにいるのかわからなくなるときがある。椅子に座り、キーボードを叩き、誰かを主語にして、しんしんと話を書き進めていると、いつの間にか雪がうず高く降り積もっていたようにあたりが真っ白になり、自分の今いる場所が見当たらなくなる。私は机の前に座っているわけではなく、どこか他の場所に移動している。きっとその間なのである。誰もいなくなった私の部屋にこっそり侵入して、誰かが物を盗んでいる瞬間は。そう思い始めるようになってから、私は次第に……」
 聞き憶えのない声に、佐和子はドアの外からじっと耳を澄ましていた。娘が眠っているはずの部屋から、年老いたような男の話し声が聞こえてくる。誰かと会話をしている様子ではなく、独り言を延々と続けているのだ。真湖の部屋であるはずなのに、知らない誰かがこの中にいる。佐和子は両足を床から離さず、上半身だけをそっとドアに近づけた。できるだけ空気の流れを乱さないように耳をドアの表面にくっつける。男は話し続けている。低く落ち着いた声。そして決して間違えてはいけない原稿を読み上げるような注意深い話し方だ。
 久しぶりに佐和子は首の後ろに嫌な汗をかいた。鼓動が早くなり、両肩は捕らえられたように固まっていた。この中にいるのは誰なのか。真湖と関係がある人物なのか。関係があるとしても、なぜこんな朝から一人で話し続けているのか。関係がないとしたら、きっと強盗だ。二階の窓から侵入し、真湖を襲った後、部屋に残ってひたすら独り言を続けている強盗。いずれにしても、男と一緒に真湖も部屋の中にいると考えられる。男のそばで、真湖は一体どんな目に遭っているのか。
 佐和子は唾を飲みこみ、大きく息を吸った。そしてドアをノックした。自分が出した音とは思えなかった。あらかじめ準備されていたような不自然な響き方だった。返事はない。ノックの音が空気中を伝わることなどなかったかのように、部屋の中の男は変わらず話し続けている。もう一度ノックをしたが、やはり話し声が止まることはない。佐和子はドアのノブを掴んだ。びくとも動かない。内側から鍵が掛かっている。佐和子は音を立てないように深呼吸を繰り返して、平静さを取り戻そうとした。
 真湖、真湖、真湖、
 佐和子はそう呼びかけた。そしてドアの表面をじっと見つめた。男は構わず話し続けているが、真湖の声は聞こえてこない。やがて佐和子は踵を返し、階段を下り始めた。手すりをしっかり握り、上りよりも慎重に足を踏み出していく。ドアの前で立っていたことを部屋の中の男に悟られたくなかった。背後でいきなりドアが開かれることに怯えながら、佐和子は息を殺して一階へと戻っていった。
 ──私の部屋の中に小説家がいるはずではなかった。あるいは小説家が録音したカセットテープが再生されているはずではなかった。母がドアを開けると、そこには誰もいないはずだった。不審がる母が私の部屋に入った後、そのまま閉じこめてしまうつもりだった。そして何日間か放置するつもりだった。虫のように暮らすのは母のはずだった。それがケイ・セナミが書くはずの物語だったが、カセットテープの声が変えてしまった。部屋にいるのは真湖ではなかった。そこではすでに死んでしまっている小説家が語り続けていた。だが、それでもケイ・セナミは物語の続きを書き進める──
 台所のテーブルの席に腰を下ろすと、佐和子は点けっ放しだったテレビを消した。そしていつもそうするように頬杖をついた。なんとか状況を理解しようとする。ふと立ち上がり、テーブルのまわりを点検するように一周して、再び椅子に座る。しばらく考えこみ、深刻そうな表情のまま腰を上げ、冷蔵庫のドアを開ける。解決に役立ちそうなヒントは冷蔵されていないことを確かめて、ドアを閉める。それからガスコンロの前に立ち、火を点ける。青い円状の火を無表情に見下ろす。微かに揺めきながら、熱気を立ち昇らせる火は何かを思い起こさせようとする。佐和子は火を消し、すぐにまた火を点けた。落ち着かない点滅をかちかちと何度も繰り返す。
 別れた夫と真湖がひそかに会っているのではないかと佐和子が疑ったのは、数年前のことだった。夫はヘビースモーカーだった。少食で、酒も日常的には飲まなかったが、煙草だけは朝起きてから夜眠るまで息をするように吸い続けた。薄毛で、眉毛は濃く、牛蒡ごぼうのように痩せていた。借金の目的は女とギャンブルだったが、家庭にも最低限は食べていけるほどの生活費を納めていた。やがて借金取りが自宅のインターフォンを頻繁に鳴らすようになった。そんなとき夫はいつも不在で、何日も家に帰ってこなかった。近所付き合いを失い、家に閉じこもりっぱなしで憔悴していた佐和子は心を決めた。まだ今ならと離婚届に捺印をし、幼かった真湖の手を取って家を出ることにした。地道に貯めていた金で、なんとか今の家を借りることができた。コールセンターでの仕事も見つけ、娘との暮らしを新しく始めようとした。それでも日用雑貨や衣装ダンスや着ている服から煙草の匂いが漂うと、佐和子はまだ夫の存在にまとわりつかれている気分になることがあった。
 編集プロダクションに就職した真湖の帰りが遅くなることは多かった。編集の仕事なんてどこもこんなものだから、と真湖はため息をついた。だがその冬の夜、台所で真湖がカーディガンを脱いだとき、煙草の匂いが鼻をついた。よく憶えている匂いだと佐和子は直感した。別れた夫は安い国産の煙草しか吸わなかった。少し酸味掛かった、貧しくうすら寒い匂い。ちょっと匂うわね、と佐和子が強めの口調で言うと、真湖は視線を外して冷蔵庫を開けた。今の会社はまだ昔の気質が残っていて、デスクでも煙草を吸っていいことになってるのよ。社長がいつも吸ってるから誰も文句は言えないの、真湖はそう微笑み、ソフトパックの野菜ジュースを手にすると、二階へ上がっていった。佐和子はもう一度、鼻から息を吸った。確かに夫が吸っていた安い煙草の匂いだった。そして同時に夫自身の匂いでもあった。長く夫と暮らしていた佐和子には判別することができた。なぜ真湖は今さらあの男と会っているのか。私の知らないところで何を話しているのか。もしかしたらあの男に金でも渡しているのだろうか。
 青い火の点滅を見下ろしながら、佐和子はそんなことを思い出していた。そして次第に佐和子自身も揺めき、点滅し始めた。私は今、正気を保っているのだろうか、と佐和子は目を大きく見開いていた。真湖の前で正気を失うふりをし続けてきて、いつの間にか表と裏がねじれようとしているのではないか。私は今、こう思い始めている──部屋の中で眠っていた真湖は、別れた夫に変身してしまったのではないかと。一旦そう思い始めると、ドア越しに聞こえてきた低い声は、夫のものに似ているようにも思えてきた。夫に変身した真湖はベッドに腰を下ろし、両足を広げ、臭い煙草をくわえながら、回転し続けるカセットテープのように延々と話し続けている。そんな姿が頭から離れない。これは正気のことなのか。こう思い始めているのは果たして私自身であるのか。
 何かが背中に当たった。佐和子は思わず振り向く。ガスコンロのスイッチから手を離し、床に視線を落とす。林檎が一つ転がっていた。蛍光灯の光を白く反射させている綺麗な林檎だった。佐和子は腰を曲げ、林檎を手に取る。この季節に林檎? 佐和子は手の中をまじまじと見つめた。やはり私は正気を失おうとしている。もう一度、二階へ上がらなければいけない。部屋の中にいる者が誰なのかを確かめる。たぶんそこに私の正気があるはずだ。佐和子は出所不明の林檎を握りしめながら、ガスコンロの火が消えていることをしっかりと確認した。
 ──ケイ・セナミはどうして父のことを持ち出してきたんだろう。私は父と密会などしていなかった。職場では本当にニコチンの煙がもうもうと漂っていたのだ。当時付き合っていた男は喫煙者ではなかった。彼と二人で会っていて帰りが遅くなる夜はあったが、締め切りが迫っているからと嘘をついたことはある。母の干渉が煩わしかったからだ。父のことなど忘れていた。顔もろくに憶えていない。今ごろどうしているのだろうと頭をかすめることはあったが、会ってみたいなどとは考えたこともない。でも母の中には残っていた。自分に内緒で娘と密会しているんじゃないかと邪推するほど、母の底にこびりついていた。コールセンターでの愚痴は毎日こぼしていたが、父の話題が出ることなど一度もなかったのに。
 ねえ、ケイ・セナミ、と私は訊ねた。なぜお父さんのことが出てくるの? 私の部屋の中にいるのがどうしてお父さんなの? キーボードの上を走らせていた指をぴたりと止め、青白く光るディスプレイから少し顔を離し、ケイ・セナミはこちらを向く。そして重そうな口を開く。それはね、真湖、とても簡単なことだよ、とケイ・セナミは穏やかに答える。真湖がお父さんを求めているからだよ。求めていないものは現れないし、求めているものは現れる。本当に求めていれば、どんな形をとるにせよ、どんなに時間を必要とするにせよ、それはいつか必ず現れるものなんだ。でも、と私は言う。私はお父さんの顔なんて憶えていない。薄毛で、眉毛が濃くて、痩せているなんて知らなかった。その男が本当に私のお父さんかどうかはわからないでしょう。確かに真湖がお父さんの顔を知らないのは揺るぎのない事実だ、とケイ・セナミは深く頷いた。だからこそ薄毛で、濃い眉で、痩せた体で現れるしかなかった。顔の知らないお父さんを求めようとする真湖が、その男の姿を作り上げたんだ。そしてその姿をお母さんにぶつけてやりたいと真湖は思っている。お母さんをびくびく怯えさせたいと望んでいる。実は真湖、これまでの書いてきたいくつかの物語にも、真湖のお父さんは現れていたんだ。真子自身は気づいていないけどね。そういうものなんだよ。私の役目は真湖自身を書いていくことだから。
 ケイ・セナミは再び青白いディスプレイに顔を近づけ、静謐な曲を弾こうとするピアニストのように両手の指をゆっくりと動かし始めた。母が再び階段を上がり、私の部屋のドアを叩く場面を書こうとしている。やはり聞こえてきた。闇の中でひっそりと押し迫る波のように聞こえてきた。カセットテープの回転に組みこまれた老齢の小説家はいつまでも語り続けている。
「……泥棒を捕まえるために、やらないといけないことは一つしかなかった。小説を書くことである。私が小説を書こうと別の場所へと移動している隙に、泥棒は部屋の物を盗んでいくからだ。私はいつものように早朝に起きる。一階へ降りると、電気は点いておらず、妻はまだ眠っている。私はトイレに行き、洗面所で顔を洗って歯を磨き、台所で熱い日本茶を飲む。テレビは点けないし、新聞も読まない。バナナを一本黙々と食べてから、二階の自分の部屋に戻っていく。型落ちしたパソコンの電源ボタンを押し、ちょうど煙草を一本吸い終える頃に、デスクトップの画面が立ち上がる。まだ半分ほどまでしか書き進めていない作品のファイルを開く。文字の羅列が画面に広がる。私はキーボードの上に十本の指を準備する。私はディスプレイの前に座っている。いちばん最後の文章から崖のように途切れた空白に集中する。そこに浮かび上がってくるものをじっと待ち、十本の指で掬い上げようとする。同時に、私はディスプレイの前に座っている。私はキーボードの上に十本の指を準備している。私は私の部屋にいて小説を書こうとしている。泥棒の姿を目にしてやる、そのためにはこの部屋を離れることはできない。何分経ったのか、何時間経ったのか、泥棒はいつまでも現れない。物音一つ聞こえない。やはり私がこの部屋にいる限りは現れないのか。やはり私が空白の中に身を投じないと現れないのだろうか。試しに部屋を離れてやろうか。そして泥棒が姿を現した瞬間、すぐさま飛び出して、ひっ捕えてやろうか。いや、それは難しい。そんなにタイミングよく部屋に戻ってこられないかもしれないし、一度チャンスを逃したら、泥棒はもう二度とこの部屋を訪れないことだって考えられる。やはりこの部屋で待ち続けなければいけない、私はその日、そう思った。それから何日経っても、空白は依然空白のままで、書きかけの物語は同じ場所でずっと途切れている。仕方ない。私の部屋には泥棒の影がすでに住み着いている。その後もやはり物が盗まれていたことがあった。ふとした瞬間に私は別の場所に移動していることがあったのだ。このテープに録音する音声は、いつか泥棒の正体が私の目の前に現れるまでの記録である。もう小説を書くことはできない。空白に身を投じることはできない。そのかわりこのようにカセットテープに録音していくことにする。私が盗まれた物を記録し、私の部屋に住み着く泥棒の影を記録し、私が今持っている物を記録し、いずれは対峙するであろう泥棒の正体について記録することにする……」
 一体何のことを話しているのか、佐和子にはわからなかった。泥棒? この部屋には泥棒がいるというのか。別れた夫以外にもう一人、他の誰かがいるというのか。あるいは夫が泥棒だというのか。それ以上想像力を働かせることはできなかった。佐和子は拳を握りしめて、真湖の部屋のドアを思いきり叩いた。そして開かないドアのノブをがちゃがちゃと回した。
 真湖、真湖、真湖、
 佐和子は叫んだ。あんた、そこにいるんでしょ。一体そこで何をしているの。誰と一緒にいるっていうの。早く出てきなさい。ねえ、真湖。私がどれだけ心配してるか知ってるの。なんで鍵なんか閉めてるのよ。あんた、閉じこめられてるんでしょ。この中にいる男に監禁されているんでしょ。それは誰なのよ。もしあの男だったら、許さないわよ。絶対に許さない。わかった、警察に通報してあげる。娘が別れた夫に監禁されているからって。わけのわからない言葉を浴びせられてるって。それでこのドアを開けてもらうから。ちょっと待ってなよ。
 ──このカセットテープに音声を録音する以前から、きっと小説家は小説を書けなくなっていたのだ。泥棒が次々と部屋の物を盗んでいることに気づき、小説家は自分の部屋を離れることができなくなってしまった。空白に飛びこむことができなくなり、いつしか空白そのものが消えてしまった。空白すら存在しない部屋に向かって、母は叫び続けていた。ねえ、お母さんはまだ気づいていないの。私は今その部屋にはいないんだよ。
「……妻は私の変化に気づいていない。その週に外出する予定を私と確かめ合い、庭の雑草が伸びていることを懸念し、衣替えのタイミングを窺っている。私は返事をして、草刈りをする日を決め、衣装ダンスを開けてどの服を整理するのかを確かめる。だが洋服を一つ一つ取り出しながら、私はすでに失われている。いちばん大事なものが盗まれている。泥棒の本当の狙いはこれだったのだ。あらゆる物を盗んでいたのは、最後にこれを盗むためだったのだ……」
 まどろっこしい自分の足の動きに苛立ちながら、佐和子はやっと階段を下りきった。台所に入ると、テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯電話を掴んだ。一一〇番を押して相手の声が聞こえるまでのわずかな間、状況を説明する言葉を頭の中で簡潔に並べ替える。だが電話の向こうから聞こえてきたのは、やはり低い男の声だった。
「……私は今でも毎朝決まった時間に目を醒ますことにしている。そして古いパソコンを立ち上げ、白い画面と向かい合い、書けるはずのない小説の続きを書こうとしている。たとえ一字すら書けなくても、いずれ泥棒が姿を現すまで小説を書こうとしなければならない。そしていつか泥棒を捕らえたなら、私の部屋から盗み取った物をすべて返してもらうのだ。そうすることで私は再び……」
 佐和子は電話を切った。けがれたものをはらうように携帯電話をテーブルの上に放り投げた。私の正気はどこに向かおうとしているのかと佐和子は廊下に飛び出した。今朝だって真湖が起きていないことに気づいたし、ちゃんと二階まで上がって真湖の部屋を開けようとしたし、ガスコンロの火も消したし、朝ごはんを食べていないことも憶えているし、警察に電話することもできた。すべてを憶えているし、どこにも狂っているところなんてないはずだ。それなのに私はどこへ行こうとしているのか。佐和子はぶつぶつと苛立ちながら、玄関で靴を履いた。どこからか電話機の鳴り響く音が聞こえていた。果てしないフロアに同じ制服の女性たちが座り、無数の電話機が鳴り続けている。そして女性たちの口が忙しなく動き続けている。佐和子は戸の鍵を開けると、パジャマ姿のまま家の外へと逃げ出した。
 ──母が玄関を開けると、そこには牧が立っているものだと私は予測していた。牧は今ごろ会社に行っているだろうね、とケイ・セナミは微笑んだ。そうね、確かに。でも、なんとなく、牧くんならおいしいパンを持ってきてくれそうかなって、そう私も微笑んだが、ケイ・セナミは何も言わなかった。カフカの『変身』のことはどう思う? と訊ねても、他の小説家についてはよくわからないなと首を横に振るだけだった。牧が話していた、グレゴール・ザムザの変身についての考察。グレゴールは虫に変身したのではないと牧は言っていた。そう、虫そのものではない。きっとグレゴールは突然現れた巨大な虫をずっと見ている者に変身したのだ。巨大な虫はグレゴールが変身した姿なのだと父や母や妹に思いこませ、読者に思いこませる者に変身した。そして彼らの手によって虫を部屋に閉じこめさせ、世間の目から隠させ、迫害させて、憎悪をもっていくつもの林檎を投げつけさせた。彼らの手によって虫を殺させたかった。彼らがそれを望んでいたことをグレゴールは知っていたからだ。虫の姿を通してならば、彼らに自分を殺させることができる。それは結局グレゴールにとっての婉曲的復讐だったのだ。
 その解釈は、とケイ・セナミはこちらを振り返った。真湖の個人的な感情に基いて、それがかなり色濃く反映されているものじゃないかな、と注意を促した。虫は真湖のお母さんではないんだよ。ケイ・セナミの言葉は夜の水のように私に染みこむ。しばらく間を置いて、そうよ、と私は頷いた。確かに私の今の感情に基づいた解釈だと思う。でも、もしそうじゃないとしたら、この瞬間、一体それ以外に何があるというの。私に基いていない私なんてどこにも存在しないと思うんだけど、ねえ、ケイ・セナミ。私に基いていない私の復讐も存在しないのよ。私の母だって、もう変身しようとしている。でもあの小説と違って、私は母を殺しはしないし、母に私を殺させもしない。ケイ・セナミ、あなたならわかるはずよ。ケイ・セナミは何も答えなかった。何秒か私の顔をじっと見つめた後、ディスプレイに視線を戻し、静かにキーボードを打ち始める──
 空は蓋をされたように灰色の雲に閉ざされ、蒸し暑い朝の街並みには弱々しい光が射していた。行き交う人は憂鬱そうだった。ワイシャツの袖を捲った中年の男は足早に駅の方へ進み、大型犬のリードを掴む女はスポーツキャップを深く被り、ランドセルを背負った子どもは小石を蹴りながら歩いていた。佐和子はゆっくりと足を進めた。とにかく家から離れなければならないと思っていた。手には財布も携帯電話も持っていない。だがそんなことは構わないように佐和子は玄関を振り向こうとせず、よろよろと一歩ずつ前進していた。朝の住宅地を行き交う人や車は少ない。佐和子の目は一人の女を捉えた。薄手の白いシャツにジーンズを履き、長い髪と革のリュックを揺らしながら、佐和子の少し前を歩いている。佐和子は女の後ろをついていくことにした。その女が向かっている場所へ向かおうと思った。角を曲がり、傾斜のある道を進んでいくうちに、女と佐和子の距離が遠のくことがあった。だがそのたびに佐和子は女の後ろ姿を見失わないように、両足に力を入れ、よろめきそうになりながらも必死に前進し続けた。佐和子の首のまわりには汗の粒が噴き出ていた。だが佐和子の手がそれを拭き取ることはなかった。まるで強い潮流に押し流されていくように、佐和子は脇目も振らずに女の後を追い続けた。
 やがて大きな通りに出た。片側一車線の道路だが、赤信号の交差点では何台もの車が停車していた。コンビニやクリーニング店や弁当屋が並ぶ歩道を女は進んだ。ときどき女の背中が隠れてしまうほど、人の流れが増えている。前から来る人をけようとしたとき、佐和子はアスファルトの出っ張りにつまずいたが、革のリュックだけは視界から外れないようにとなんとか体勢を保った。それを見失うことは、佐和子にとってすべてを見失うことと同じだった。すれ違う人々は佐和子のパジャマ姿を見て、不思議そうに振り返ったり、笑みを浮かべて指を差したりした。そんな視線に佐和子が気づくことはなかった。佐和子はただ革のリュックを追うことで、なんとか不安をかき消そうとしていた。
 かつて夫のもとを離れ、幼い真湖と始めた二人の暮らしは一体何だったのかと佐和子は揺らぐことがあった。早朝に鳴り響く目覚まし時計を止めると、家事を手早く片付けて、真湖を学校に向かわせる。それから満員電車に乗りこみ、会社の席に座って客からのクレームに声を細くする。閉店間際のスーパーで買った惣菜を手に帰宅して、真湖と夕食をとり、後片付けをして、洗濯物をタンスにしまった後は、風呂に入らずに眠ってしまうこともあった。とにかく日々の波を乗り越えていくことで、なんとか真湖を大学まで卒業させることができた。だが佐和子から不安が払拭されることは決してなかった。結局自分の人生はどこに向かおうとしているのか──佐和子には見えているものが何もなかった。果たして自分の家事は何になるのか、自分の謝罪は何になるのか、自分の生活は何になるのか。それらは結局何にもならないのだと理解したのは、五十歳を過ぎたある真夜中だった。佐和子は布団の中で気が狂いそうになった。胸の中が掻きむしられ、渇いた池のように眠気が消え失せた。いっそのことテロでも戦争でも天変地異でも、わけのわからない不条理な事態が起きて、金持ちも貧乏人も同じように引っくり返ってしまえと本気で願った。そして、その頃から佐和子は真湖に干渉するようになった。どんな友達と付き合っているのかを詮索し、どんなことに興味を持っているかを知りたがった。給与明細を勝手に開け、通帳を開いて預金残高を記憶し、遅い帰宅時間に厳しい態度を見せるようになった。これまでの自分の人生は一人娘である真湖のために耐えてきたんだと思うことで、佐和子の不安はいくぶんか拭われることになった。
 革のリュックが視界から消えた瞬間、佐和子の胸はざわついた。駅前の交差点。女は赤信号に変わりかけている横断歩道を足早に渡り切った。佐和子も続いて渡ろうと身を乗り出したが、となりの若い男が佐和子の前に伸ばした腕で制した。佐和子は男の顔など見上げなかった。ただ男の体が邪魔で、顔を上下左右に動かして、横断歩道の向こう側を探した。革のリュックは見当たらない。すでに女は改札口に集まる人々の流れに紛れてしまっている。青信号に変わり、佐和子は横断歩道を懸命に歩き出した。背後で若い男が心配そうに見つめていることは気にも留めない。ただあたりを見回し、行き交う人と人の間を縫うように視線を漂わせている。そしてだんだんと不安が満ちてくる。ここは一体どこなのか、自分はなぜこんな場所に立っているのか、どこに向かおうとしているのか、現在とその前後が不明瞭になってくる。ふと交番が目に入った。その前でパネルのように立っている警官がこちらの様子を窺っている気がする。不審者を発見したような目つきで、こちらに接近してくるような気がしてくる。佐和子はゆっくりと後ずさった。そして身を翻し、改札口と反対のショッピングビルの方へ足を向けた。
 ──ねえ、ケイ・セナミ。一つ、お願いがあるの。キーボードを打っていた指を止め、ケイ・セナミは私の顔を覗きこむ。そして私の言葉の続きを待つ。もうじき私はここを出ていくことになると思うの、と私は言った。でも、その前に母と会っておきたい。この場所で母と会っておかなくちゃいけない気がしているの。ケイ・セナミは身動きをせず、私の言葉を見定めている。もちろん、真湖が求めれば自然にそうなる、とケイ・セナミは口を開いた。わざわざ私に許可を取るようなことじゃない。すでに言ったように、私の役目は真湖を書いていくことだから。ただ、とケイ・セナミは咳払いをした。念のための確認になるけれど、それは真湖による婉曲的復讐ということになるのかな、とケイ・セナミは訊ねた。わからない、と私は答えた。だけど、そう、わからないから会わなくちゃいけないの──
 縦横無尽に交差する人波の中で、佐和子のまわりにだけは誰も足を踏み入れようとしなかった。パジャマ姿の老婦がショッピングビルの壁に手をやりながら、とぼとぼと歩いている光景は、現代芸術のシュールな絵画のようにも見えた。目を醒ましたばかりのような老婦がなぜこんな眩しくせわしない場所にいるのか、通行人の誰にもわからない。ただ一瞥をして通り過ぎたり、間違ってぶつかりそうになって舌打ちをしたり、携帯電話でこっそり撮影している人ばかりだった。衆人環視に晒されながら、行き場を失くし、ただ蠢きながら死んでいく虫のような老婦。だがその手が大きな窓ガラスに触れたとき、佐和子の動きは止まった。窓ガラスの向こう側、カフェの店内で一人で席に着き、飲み物が入ったコップをテーブルの上に置いている。女の横顔は真湖だった。かつて会社に通っていたときに着ていたジャケットを羽織っていた。スリムなパンツを履いて、手元の本にじっと集中している。佐和子はそっと後ずさりをした。窓ガラスを思いきり叩いて、真湖を振り向かせることなど思いつきもしなかった。二つの目を大きく開いて、カフェの入口まで足をもたつかせながら向かった。
 機械的な挨拶を繰り返している店員の声は、佐和子の耳に届かなかった。店内の奥にある二人掛けのテーブル。外光が最も射しこんでいる場所に真湖の背中が見えた。他の席はすべて埋められている。佐和子はランダムに配置されているテーブルを避けながら、真湖に近づいた。肩を上下に揺らしながら、後ろ姿を確かめる。真湖は脚を組み、開いたページに視線を落としたままだ。背後に立つ者に気づいている様子はない。もし佐和子がこのまま立ち去っても、真湖は気づかないままページをめくり続けるだろう。
 真湖、真湖、真湖、
 佐和子は声に出して繰り返した。かつて電話先の客に頭を下げていたときのような細い声だった。だがそれはページをめくろうとした真湖の手を止め、顎の先をほんの少し上げた。佐和子が深呼吸を一つすると、真湖はゆっくりとこちらを振り返った。驚いている表情ではなかった。毎朝襖を開けて、佐和子を起こしにくるときと同じ顔だ。おはよう、と眩しい光を受けながら真湖は言った。そして本を閉じてテーブルの上に置き、向かいの椅子に座るよう佐和子を促した。その瞬間、佐和子は突然自分の格好を恥ずかしく感じた。真湖と目が合ったことで、我に引き戻された。佐和子は自分の両腕を抱えて身を隠しながら、真湖の向かいに座った。真湖は母のパジャマ姿に不審のかけらも持っていないようだった。あらかじめすべてを把握しているような落ち着いた目で佐和子を見据えていた。
 私を探しにきたの? と真湖は訊ねてきた。佐和子は娘の質問をどう受け止めたらいいのかわからなかった。声を出すこともできず、首を動かすこともできず、ただテーブルの上の栞が挟まった本に視線を落としていた。自分は真湖を探すためにここまで来たのか。そんなつもりではなかったのに、真湖は実際に自分の目の前に現れている。黙っていると、真湖は小さく溜め息をついた。今日は朝から出かけるって言ったはずよ、と真湖は低いトーンで言った。昨夜晩ごはんを食べているときに、明日は朝早くから仕事の打合せで出かけるけど、一時間ほどで帰ってくるから、それまで朝ごはんは待っていてねって。佐和子は顔を上げた。昨夜の晩ごはんのときに真湖が言っていたことを思い出そうとしてみた。そのためにはまず昨夜の真湖がどこにいるのか、探さなければいけない。ねえ、お母さん、昨夜は何を食べたか憶えてる? と真湖は訊ねた。その質問にも佐和子は黙った。答えるためには、とにかく昨夜の真湖を見つけ出さないといけない。じゃあ、と真湖は続けた。今朝家を出るとき、台所の火が消えていることをちゃんと確認した? そう訊かれて、佐和子は記憶に自信が持てなかった。携帯電話を投げ捨て、玄関で靴を履いたことは憶えている。そう、警察に電話を掛けたはずなのに男の声が聞こえてきた。真湖の部屋に勝手に居座っていた男と同じ声だった。
 男がいたのよ、と佐和子は声を絞り出した。あんたを起こそうと階段を上がって、ドアの前に立ったら、部屋の中から声が聞こえてきたのよ。そこで一旦口を閉ざし、佐和子は真湖の表情を窺った。娘の目は遥か地平の空を確かめているように遠かった。年を取った男の声だったのよ、と佐和子はテーブルの上に視線を落とした。低い声で、ゆっくりとした話し方で、独り言みたいにぶつぶつと呟いていた。泥棒のこととか、わけのわかんないことを話してた。あの人の声に似てた。あんたのお父さんの声だよ。この部屋ではあんたが眠っているはずなのに、なんであの人が勝手に上がりこんでいるんだろうって。きっとあんたが眠っているうちにあの人に変身して、あの人は今泥棒をしていて、それで今あんたの部屋の中で煙草を吸って、独り言を呟いているんだって。
 そこまで言うと、佐和子はもう真湖の顔を見ることはできなかった。それが本当に自ら感知したことだとしても、わずかに残る正気によって目を伏せた。自分の額あたりをじっと見つめている真湖の視線に佐和子は耐えるしかなかった。
 ねえ、お母さん、と真湖の声が頭上に降りかかってきた。もうこれ以上は難しいと思うの。二十四時間、私がずっとお母さんに張りついているわけにはいかない。そんなことしたら、私は仕事ができなくなって、結局二人とも生活していけなくなるわ。前に取り寄せたパンフレットがあったでしょう。やっぱりあの施設に入ろうか。身の回りのことは全部やってくれるし、家族が一緒であれば外出もできるの。私も仕事に復帰して、なんとか入居費用を稼ぐことにする。なるべく休みを取るようにするから、会いに行くことだってできる。私の言っていることはわかる? もうこのままじゃ、いずれどちらかがどちらかを傷つけることになるってこと。
 佐和子は膝の上で二つの手を固く握りしめていた。もうその場から一歩も動かないことを表明するみたいに全身を強張らせていた。佐和子は首を横に降った。嫌だ、とはっきり佐和子は口にした。どこにも行きたくない。私の人生は結局、あんな施設に行くために続いてきたっていうの? そんなの嫌。絶対に嫌だ。私は家に帰りたい。ねえ、こんなところにいつまでも座ってないで、早く帰ろうよ。私は真湖と二人でずっと暮らしたい。他の誰にも私の家に上がりこんでほしくないのよ。
 嫌だと言っても仕方ないよ、と真湖は返した。もし施設が嫌なら、お母さんにはずっと自分の部屋に閉じこもっていてもらうしかないの。外から鍵を掛けて、自由に出入りができない部屋で、毎日を過ごしてもらうしかない。勝手に火をつけたり、勝手に真夜中に出かけたりしないように。そして私がちゃんと仕事をすることができて、ちゃんと買い物ができるように。でも、そんなの無理でしょう。お母さんはきっと狂ってしまうわ。今よりもずっと。
 私はしっかりしてるよ、と佐和子は顔をまっすぐ真湖に向けた。口角を無理やり吊り上げて、握りしめていた指を伸ばし、手品師が何も持っていないことを示すように二つのてのひらを真湖に見せた。もうこれからは火を消し忘れたりしないし、真夜中に外に出たりしないし、ごはんを食べたことも憶えてるから。昨夜は確かサラダうどんを食べたわ、ねえ、ほら、と佐和子は両手を開けたり閉じたりした。
 じゃあなんで今パジャマ姿なの、と真湖は訊ねた。
 だから、あんたの部屋に男が上がりこんでたから、怖くて着のみ着のまま逃げ出してきちゃったのよ。
 もう正気なの?
 正気よ。
 もう盗まないって言い切れる?
 盗む?
 だったら私がいなくてもいいよね、と真湖は長い息を吐いた。
 正気だったら、もう私がずっとそばにいる必要はないよね。それに、そもそも私は会社を辞める必要はなかったんじゃないかしら。だってお母さんはずっと正気を失っている演技をしてきた、そうなんでしょう。私を騙してきたんだ。そうやって小さい頃から私のものをずっと盗んできた。私が求めているものを、私が必要としているものを、私がそこにいない間に盗んできたんだ。そして最後には私自身を盗もうとしている。でも、そうはさせない。私はお母さんを施設に入れる。あるいは部屋に閉じこめる。そうしないと、お母さんはこれからも私のものをどんどん盗んでいくだろうから。私はお母さんから奪われるために生きているんじゃない。お母さんが失ったものの代わりに、私は生きているんじゃないのよ。
 佐和子は真湖から視線を外さなかった。瞬きすらせず、セメントで塗り固められたような表情を浮かべていた。しばらく沈黙があたりを支配した。二人のまわりだけではなかった。いつのまにか店内からすべての客がいなくなっていた。天井のスピーカーからクラシックの音色が穏やかに聞こえてくる。店員たちはテーブルの片付けを終え、カウンターの中で黙々と作業している。
 一瞬のことだった。全身の水分を一気に蒸発させるような憎悪が真湖の中に広がった。舌の根元は渇き、眼球は干からびて、鼓動は大きな音を立てた。それは真湖の手を動かし、テーブルの上の本を掴ませ、母の脳天へと力をこめて振り下ろさせようとした。そうするために体重を前方へ移動しようと椅子の脚が微かな音を立てたとき、しかしそれはすでに消え去っていた。真湖の体は水分を取り戻し、何事もなかったように穏やかな湖面をたたえていた。
 私、もう行くから、と真湖は諦めたように小さく言った。そして立ち上がろうと椅子をずらしたとき、佐和子の体が振動していることに気づいた。最初はただ小刻みに揺れているだけだった。よく見ると、テーブルの下で片膝を細かく上下に動かしている。落ち着きを失くしているだけなのだと真湖は思った。だが次第に全身の揺れは、前後の大幅な振りへと変化し始めた。同じ動作を繰り返してエネルギーを溜めこむように、顔がテーブルの表面に当たりそうになると、一気に体を後ろに退け反らせ、天井を見上げるぐらいの角度に背中を曲げた。その揺り戻しで、再びテーブルに向かって上半身を大きく前傾させる。佐和子の奇妙な動きの繰り返しは、土着信仰で行なわれているような忘我の祈祷を思わせた。
 真湖は本を手に取り、椅子から立ち上がった。これも狂言の内なのか、あるいは狂言と狂気の境目をついに見失ってしまったのか、母の姿を見下ろしながら、真湖には判断がつかなかった。まだ私を自分のもとに繋ぎ止めようとしているのか、そのために本当に正気を手放してしまったのか。いずれにせよ私はもう行かなければいけない。突然母が駅前のカフェで祈りを捧げ始めたものなんて、私には想像もつかない。真湖は一歩後ずさった。それと同時に、佐和子の動きもぴたりと止まった。スイッチが切られたように体勢をまっすぐ戻した。両手をテーブルの上で組み、背筋を伸ばし、口元を固く結んで、真湖を淀みなく見上げている。その顔には先ほどまでの怯えた表情はもう浮かんでいなかった。すべてを許容することもできるし、すべてを拒絶することもできる、そんな確固とした意志に満ちた顔つきに変化していた。
 あの部屋に戻るのか、と佐和子は低い声で口を開いた。ああそうかい、一人で戻りたければ戻るがいいよ。たださ、真湖、あんたは本当に知ってんのかい。あんたは真夜中の誰もいない町を、裸足のまま一人きりで歩き続けたことがあんのかい。パジャマ姿のまま朝の忙しい街並みを、一人きりで彷徨さまよったことがあんのかい。名前も知らない誰かから何時間も汚い言葉で罵倒された──借金取りに四六時中家のまわりを見張られた──血が流れ落ちるまで林檎をぶつけられた──あんたは本当にわかってんのかい。そういったことが人間をどれだけ荒く削ぎ落としていくかってことを。あの虫も同じだよ。あの朝、突然現れた巨大な虫は部屋のドアを自ら開けてしまった。だからきっとあんな目に遭ってしまったんだ。あんな惨めな最期を自ら招くことになってしまったんだ。そうだろう、真湖。真湖もそう考えているんだろう。なあ、真湖、真湖、真湖、
「……パソコンの前に座り、小説を書くふりをしながら、窓の外を見上げている。雲一つない夜空に、丸い月が白く輝いている。目を細めると、巨大な闇にぽっかりと開いたわずかな穴のように見えてくる。そして、まわりを取り囲む夜空はただの平板な板のように見えてくる。不思議なものである。若い時分に書いていた小説みたいだ。実際にあったことを本当は起こっていないこととして書き、実際になかったことを本当は起こったこととして書いていた。きっといつからか、私は自分自身がどちらに属しているのか不明瞭になってきたのだろう。果たして白い月を書こうとしているのか、それとも延々に続く夜空を書こうとしているのか。二つを行き来しているうちに、その隙間に落ちてしまった。確かなこと、それは書かずにいることで私は私という流体であり続ける。こうやってテープに声を吹きこみながら、やはり窓の外を見上げてみる。すると夜空の白い穴から泥棒がこちらを覗いているような気がしてくる……」
 カセットテープの声が聞こえてくる方向に真湖は顔を向けた。そう、年齢を重ねた、低い男の声だ。はっきりと真湖の聴覚に伝わってくる。
 声はやけにうるさく感じられた。耳元を飛び回る蠅を払うように真湖は頭を振った。だがもちろんカセットテープの声はどこかに飛んでいったりしなかった。牧から頼まれた仕事だ。私は声を文字に書き起こさないといけない。そのために私はカセットデッキの再生ボタンを押したのだ。
 真湖は足の裏に意識を向けた。冷たく硬質な平面。何度か足踏みをして確かめてみる。私の部屋の床だ、と真湖は思った。きっとこの床のどこかにイヤホンが転がっている。そして今、腰を掛けている弾力は私のベッドだ。毎晩体を横たわらせ、毎朝起き上がっている自分のベッド。自分の部屋に戻ってきた、と真湖はゆっくりと呼吸を繰り返した。カーテンは閉じられ、電気は完全に消されて、何も見ることはできないが、そこが自分の部屋であることを真湖は理解できた。もうここは駅前のカフェではない。母は一人で家に帰ってきたのだろうか。それともまだパジャマ姿でテーブルの席に着いているのだろうか。母の並べたてた固い言葉たちが胸の中でまだこすり合わされている。そして小さな火を真湖に灯している。
 ねえ、ケイ・セナミ、と真湖は声に出して問いかけてみた。
 返事はない。もうそこにケイ・セナミはいない。ケイ・セナミが書き連ねた物語から、真湖はすでに途切れている。彼女はただ一人でベッドに腰を掛け、床に足をつけて、静かに息をしているだけだ。
 ふと、どこかがずれている感覚を受けた。体のどこか一部がずれているのか、それとも体全体がずれているのか。サイズが一つ違う洋服を着ているような微妙なずれが体のあちこちで蠢いている。そこは確かに自分の部屋だった。だがそこにいる自分は自分自身でないかもしれないという感覚が走った。真湖は自分の胸を掴んだ。乳房の形が自分のものと違った。指の間で膨らむ肉には張りがなく、垂れ落ちそうなほど絡みついた。両腕を抱えると、二の腕の感触が自分のものと違った。鳥肌が立っているようにざらざらと引っかかる。腹を触り、足の指先をなぞり、股の間に手を入れる。それらすべては自分のものと違っている。自分のものではないと感じている自分がいる。カセットテープの男は相変わらず正体不明の泥棒の話を繰り返していた。盗まれた? ケイ・セナミの物語を読んでいるうちに、私自身が盗まれたのか。私が私じゃないとしたら、今の私は一体誰だというのか。だが光が閉ざされた部屋では何も確かめることができない。
 そして母は近づいてくる。踏板が軋む音を最小限に押し留めようとしながら、ゆっくりと一歩ずつ階段を上がってくる。気配を隠そうとしながらも、真夜中の風のように自分の存在を真湖の感覚に忍びこませてくる。母の音一つ一つに真湖は耳を澄ませる。やがて踏板の軋みはおさまった。どうやら階段を上がりきり、息を殺して部屋の中の様子を窺っているようだ。カセットテープの声に気づき、不審が募ったのだろう。ノックの音は鋭かった。硬い木槌で打つような垂直的な音だった。
 真湖、真湖、真湖、
 ドアの向こうから母は何度も呼びかける。そして鍵の掛かったノブをがちゃがちゃと回し、強引にドアを押し開けようとしている。真湖は音を見つめる。そこにはドアがあるはずで、ドアに鍵が掛かっているはずで、ドアの向こうに母が立っているはずだ。やはり狂ったふりをしているのか、それとも正気のふりをしているのか。真湖は床を踏みしめて、立ち上がった。そしてドアを叩く音の方へ擦り足で歩き出した。誰かが言っていた──ドアを開けなければ、巨大な虫は認識されることがなかったのにと。真湖はドアを開け放とうと思った。ドアを開けて、自分自身が何者なのかを確かめてやるつもりだった。どんなに醜い姿に変わっていようとも、母の目に晒してやるつもりだった。真湖の手は闇を探り、ドアノブにそっと触れ、音を立てずに鍵を解錠しようとする。真湖が目醒め、佐和子が目醒め、たとえ射しこむ光は弱くても、二人は互いの姿を確かめ合わなければならなかった。

〈了〉2022年作

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