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ケモノちゃんとウドン

 満たされているようで足りておらず、包みこむようで跳ねのけ、最後の曲線の切れ端が秋雲みたいにかすれている。ウドンが書いていたのは、そんな今にも動き出しそうな「あ」のふくらみだった。ウドンが送信してきた画像に自筆で書かれた句が写されていた。「濡れた床髪かきあげて竜巻に」。最近始めましたとテキストが添えられている。SNSなんかの短文メディアと俳句や短歌がうまくマッチングしていることはわたしも知っていた。二十六歳のウドンはきっとトレンドを把握しておきたい青年なんだろう。
 ウドンの句がどれほどの出来栄えなのか、素人のわたしにはわからない。ただ画像を目にした瞬間、句が描こうとする情景よりも、短冊の真ん中あたりに毛筆で書かれた「あ」の字にわたしの胸は吸い寄せられた。思わず二本の指で画像を拡大して顔を近づけた。先に中心を流れる縦線は控えめに漂い、あたりを上目づかいで窺う弱々しい態度のまま斜めの切り口で途切れている。そんな縦線を取り囲む曲線は柔らかく大きい。だからといって捉えどころがないということではなく、指先で押せば確かな弾力をもって反応してくる意志が秘められている。右に向かうほど曲線のラインは淀みのない豊かな円を描き、しかし決して閉じてしまうことなく、なにか気がかりな問いを残すように白に消える。「あ」と比べると「か」や「げ」や「に」なんかは凡庸な連中だった。まばたきをした瞬間、どんな形をしていたのか即時忘れてしまう単純な記号たち。句の中心で「あ」だけが鉱床にひそむ確固とした輝きだった。もしこの句が多くの人に認められる出来栄えならば、その秘密はこの「あ」にあるに違いない。これほど心を波打たせる「あ」をわたしは目にしたことがない。いっそのこと句から「あ」を取り出し、一緒にベッドにもぐりこんで、確かなふくらみに頬を寄せてみたい衝動に駆られた。自らを落ち着かせようと大きく息を吐き、スマホをテーブルの上に伏せたとき、わたしは完全なふくらみの「あ」を書くウドンに恋をしていた。
 マッチングアプリのプロフィール画像に写っているシルエット。青暗くライティングされた水族館の水槽を前にして、こちらに背を向けている。短髪で、ゆったりとしたシャツの裾を出し、おそらくスラックスを穿いている。「ウドン 二十六歳 地方在住の会社員」という簡単な自己紹介文。どちらかというとインドアの趣味を好むことが共通して、わたしたちはメッセージを送り合う仲になった。流行しているものより昔の映画や小説や音楽について意見を書き、互いの感想に共感したりした。あるときビートルズの『オブラディ、オブラダ』を毎朝必ず聴いているとわたしが書くと、じゃあ会いにいくよとウドンは送信してきた
 ──オブラディ オブラダを口ずさみながら、ケモノちゃんの住むところまで電車を乗り継いでいくから。そこで初めて顔を合わせよう。
 しばらくするとウドンからのメッセージは途切れがちになった。たぶんほんとにわたしのもとに向かうための準備を始めたのだろう。わたしが東鬼央ときおの屋敷に住んでいることはウドンにあらかじめ伝えていた。ウドンもかつては東鬼央の屋敷に住んでいたと書いていた。もちろんわたしやウドンだけじゃない。この国で生活する多くの人間は東鬼央が所有する広大な土地の一部に住んでいた。東鬼央の屋敷は街と呼んでいい。道路を作り、線路を敷いて、人々をできるだけ多く集めたぶんだけ東鬼央の屋敷は増築し続ける。ビルは階を重ね、古びた建物は崩され、敷地はアメーバのように広がり、地下の土は掘り起こされて何百本もの空間が迷路のごとく交差した。東鬼央の屋敷はいつからかいびつな進化を遂げた巨大な生物のような姿になった。五十年以上かけて変化してきた屋敷の全体像を、たぶん東鬼央自身も把握できてはいないのだろう。東鬼央はただ自らのもとに人を集めることを至上としているのだ。ライブハウスで新しい音楽を流させ、革新的な芝居を上演させ、まだ誰も知らない情報を発信させることで、自らの屋敷に人々を集めて住まわせようとした。いくつかの企業に資金と経済情報を与えることで利益を潤わせ、より多くの人々を雇用させるように仕向けた。人々は高層ビルのなかに割り当てられたオフィスに集まり、埃っぽい駅に集まり、ライブハウスに集まり、サッカー場に集まり、ラーメン屋の前に行列を作った。細菌みたいに微細な生活たちは東鬼央の屋敷のなかで営まれており、屋敷は自家発電を起こすみたいに未来に向かって巨大化し続けていく、そう誰もが疑うことはなかった。ほんとばかみたいに。
 きっと今ごろウドンは特急電車に乗っていることだろう。東鬼央の屋敷まで長くまっすぐ続いている線路の上で揺られているに違いない。六月の寒暖差に対応できるようにTシャツの上に長袖のシャツを重ねて、履き慣れたスニーカーの紐をきつく縛り、想定外の状況にも対応できるようにぎゅうぎゅうに詰めこんだリュックサックを膝の上に置いている。そして窓の外の曇り空に対して針の先のような視線を突き刺している。『オブラディ、オブラダ』のメロディーを思い浮かべながら、新しい句を考えている。
 特急電車は途中の駅で停車した。海の近くの温泉地で、遠くの高台にいくつものホテルが伸びている。観光客で賑わっていた時代もあったらしいが、今どきのアミューズメントパークや観光施設を建てられるような広い平地が少なく、新たな観光ブームを掴めないままいつしか温泉客も寄りつかなくなった。東鬼央の所有ではない土地では、激しい攻撃を受けて敗北を示すように亀裂の入った建物が並んでいることが多い。何人かの乗客が電車を降りた後、何人かの乗客が乗りこんできた。一体彼らはどこに行き、どこからやってきたのだろう。でも自分だってそういうふうに見られているんだからとウドンは頬杖を突く。となりの席に女が座った。背は低く、ゆったりとした薄手のカーディガンとパンツをまとっているが、年相応の脂肪を落としきれていない体つきは隠せていなかった。髪をほんのり赤く染め、エクレアぐらいの小さなバッグを手にして、身動きするたびにきつめの香水をあたりに撒き散らしている。
 電車が出発すると、女はエクレアサイズのバッグから取り出したスマホに向かい始めた。太い親指が画面の上を素早く動き回っている。なんでこんなに空いているのにわざわざ横並びの指定席に配置されたんだろうと、少し怒っているようにウドンの目には映った。少なくとも若く貧しいバックパッカーのような自分に対しては一点の興味も持ち合わせていないだろうと、ウドンは再び窓の外に視線を戻した。きっと自分は見捨てられた温泉地と同じ景色なのだ。
 しばらくして車内アナウンスが響いた。「お客様にお詫び申し上げます。本日は駅員ならびに乗務員の不足により、この列車は終点の東鬼央駅には向かわず、途中の**駅までの運行に変更されたことをお伝えします。東鬼央駅までご利用のお客様におかれましてはご迷惑とお手数をお掛けしますが、振替のバスまたは**電車をご利用いただくようお願い申し上げます。誠に勝手ではございますが、昨今の社会情勢をお踏まえの上、ご理解のほど宜しくお願い申し上げます……」
 珍しいことじゃない。鉄道だけでなくバスも飛行機もタクシーも運送トラックも、みんなインフラ会社としての運用方針を変えざるを得なくなった。東鬼央の屋敷に多くの人々が集まることを前提としたビジネスが成り立たなくなってから久しい。それでもとなりの女はあたりを小刻みに見回していた。腰が少し浮き、今にも車掌室に乗りこんでいきそうな戸惑いが眉間の皺に刻まれている。
「そんなこと知ってた?」女は身を寄せてウドンに訊ねてきた。椅子の上に腰を落ち着かせたが、伸びた背筋にはまだ動揺がうごめいている。
「今知りました」ウドンは相手を落ち着かせようとゆっくりと答えた。「ただこういうことは最近よくありますよ。なにせ人がどんどん散らばっていきましたから」
「そうなんだ」女は承服し難いように鼻から息を吐いた。「でもそんなの困るわ。東鬼央行きだからこの電車に乗ったのに、途中までしか行かないって突然言われてもね。私、不動産と銀行のことでどうしても人と会わなきゃいけないのよ。だからどうしても東鬼央さんとこの駅まで行かなきゃなんない」
「大丈夫です。他の交通機関を乗り継げば、ひとまずはたどり着けますよ。時間はかかるにしても」ウドンは頬を柔らかく上げた。「新型ウイルスが蔓延したせいで、東鬼央さんの屋敷に住む人も向かう人も以前と比べて減りましたからね。実は僕も屋敷を離れた一人です。たぶんこれからはわざわざ屋敷に集まらなくても済む世の中に変わっていくんじゃないかな」
 女を大きく目を見開いてウドンを睨んだ。世にひそむ反抗分子を発見したみたいに口をぎゅっと結び、顎下の脂肪をだぶつかせた。「何言ってんの、お兄さん。集まらなくても済む? そんなのまた元に戻るに決まってるじゃない。ウイルスなんて一時的なことよ。お祭りみたいなもの」
「お祭りですか」
「そうよ。ウイルスがいなくなって普段の生活に戻れば、みんな屋敷に戻ってきて、前みたいな生活が再開されるのよ。電車も飛行機もばんばん動く。飲食店もイベント会場も賑やかになる。そう簡単に変わりはしない。もし屋敷が失くなっちゃったら、困る人がわんさか出てくるだろうしね。失業者だらけになるわよ」
 女の声はやけに大きく響いた。まわりに乗客がいなかったせいかもしれない。乗務員も車内販売員も通路を行き交うことはなかった。レールの上を滑る振動が床を通じて、靴下の内側に染みこんでいくのをウドンは明確に感じた。
「ただ実際」ウドンは前の座席にたたまれた簡易テーブルの裏側を見つめながら言った。「屋敷から遠く離れても、以前と変わらない生活を送っている人たちは少なからずいます。むしろ時間に余裕ができて、毎日を有意義に過ごせるようになった人だって」
「そりゃそうだろうよ」女は時間がもったいないように短く笑った。香水の匂いがウドンの鼻腔にほんのりと流れこんだ。「でもそんなのはたまたま雨の日にできた水たまりと同じだから。晴れの日が続けば、土の底に染みこんで乾いていくだけ。東鬼央さんの屋敷にだって、ゆとりのある生活を送っている人はたくさんいるよ。週に三日ほど仕事して、あとはジムに行ったり映画に行ったり旅行したりね。みんな人それぞれだから。なんでもかんでも屋敷のせいにしないことよ」
 それから臨時の終着駅に到着するまで、ウドンも女もまっすぐ前を向いていた。互いに一言も言葉を発することはなかった。
 ──ケモノちゃんのところに着くのが少し遅れそう。特急電車が途中で止まってしまったんだ。また連絡するよ。
 ウドンから一日ぶりのメッセージが届いた。何日も雨雲に覆われていた空が一瞬にして晴れ渡った気分だった。わたしは一人でしばらくまぶたを閉じた。『オブラディ、オブラダ』のメロディを誰にも盗み聞かれないぐらい微かに口ずさみ、ウドンがこちらに一歩ずつ向かっている姿を再び追うことにした。
 三年前、東鬼央の屋敷は確かに崩れかけたのだ。一〇〇〇万人以上の人口が密集する屋敷内は、どこからか飛来してきたウイルスが増殖するための致命的な温床となった。飛沫感染を防ぐため人々は声量を落とし、窓を開け、互いの距離を保つようにした。オフィスへの出勤時間をずらし、夜は酒場に繰り出すのをやめ、休日はおとなしく自宅で時間を過ごした。それでもウイルス感染者の数は減らなかった。血液中の酸素飽和度が下がって呼吸不全に陥った感染者数は右肩がりに増え、これからは普段の生活スタイルを根幹から変えざるを得ませんとテレビの報道番組で有識者が訴えていた。当然マスメディアも東鬼央の所有の一部であり、反勢力によって屋敷から人を追い出すための情報操作が行われているとは思えなかった。つまりそれは確実な統計であり、誰かのせいにしても仕方ない個人の生命を蝕む個人への危機だった。崩壊が近づいてくる不吉な軋みを耳にした者たちは次々と東鬼央の屋敷から去っていった。いざ遠くの地に離れてみると、わざわざ満員電車に押しこまれてオフィスで他者と対面しなくても、インターネット回線を通じて業務のやりとりを果たすことができた。映画や演劇やコンサートやスポーツについても、モニター越しに観賞できる環境が整えられた。わざわざ東鬼央の屋敷に集まらなくても、人々は仕事の目的を達することができ、娯楽や趣味においてのコミュニケーションを図れることに気づき始めた。やがて報道番組は東鬼央の屋敷から住民の数が右肩下がりに減少していることを伝えた。空き室が目立ち、夜になると店舗はシャッターを下ろし、電車やバスの運行本数は以前の半分ほどに減らされた。休日のスクランブル交差点で風と埃だけが待っている情景を詠んだ俳句が新聞に小さく掲載された。
 ウドンは東鬼央の屋敷を去ってから海辺の町に住むことにした。サプリメントの通信販売会社においてウドンの業務はパソコンの前で広告ビジュアルを制作することであり、出社しているときからまわりの社員と多くの言葉を交わすことは少ないようだった。役員たちは社員の交通費とオフィスの賃貸料を抑える計算を始め、在宅勤務を奨励し、いつしか義務の項目に当てはめた。労働者なんて靴下とおんなじ、結局コストの一つにすぎないんだよ、とウドンはメッセージに書いていた。
 ──だから僕はずいぶん遠く離れたこの町に住むことにしたんだ。おかげで新鮮な金目鯛を食べられる。
 だけど今、ウドンの頭上からは雨が降っていた。梅雨どきの曖昧な灰色の雲がどこまでも伸びている。電車を降りて改札口を出ると、ウドンは売店でビニール傘を買った。リュックサックの底に押しこめた折りたたみ傘をわざわざ取り出すのが面倒だった。唇を真一文字に結んだ無愛想な店員。ひょっとしたら口を利けないのかもしれない。駅舎を出てビニール地をぱりぱり広げると、一足早く外に出ていたエクレアの女がちょうどタクシーに乗りこもうとしているのがウドンの目に映った。こぢんまりとしたロータリーにはそのタクシーしか停まっておらず、後部座席のドアをどんと閉めて走り去ってしまうと、アスファルトを打つ雨音だけがあたりに残った。一応バス停の方まで近づいてみたが、発車時刻表に印字されている数字は数えるほどしかない。東鬼央方面のバスに乗るには一時間以上待たなければならなかった。前もってスマホで調べたとおりに他の電鉄会社の路線に乗り継ごうと、ウドンは案内板の矢印に従ってロータリーを進んだ。すぐに一つしかない改札機を見つけることはできた。しかし発車時刻を表示する電光掲示板には注意を促す文章が流されている。「……ただ今、人身事故ならびに大雨の影響でダイヤが大幅に乱れております。ご迷惑をおかけしますが……」。誰かに確かめようにも駅員の姿は事務室に見あたらず、この駅を利用して電車に乗ろうとしている者もいなさそうだった。
 それほど雨は強くない。歩き続けたとしても、靴下まで雨水が染みこむほどじゃないだろうとウドンは踏んだ。東鬼央の屋敷のいちばん隅に建っている駅までは一時間ほど。屋敷内の駅までたどり着ければ、さすがに電車は動いているだろう。まだ日は沈んでいないし、運動にもなる。
 ──今日中にケモノちゃんのところに着けるかどうかわからなくなった。ごめん。早くても夜遅くになりそう。でも必ず行くから待っていてほしい。
 駅前のロータリーを出て細い道を歩いていくと、片側二車線の国道がいきなり横切った。これを右に曲がって進んでいくと、やがて東鬼央の敷地内に足を踏み入れることができるのだとウドンは手にしたスマホで確かめた。交通量は多くない。目にするのは屋敷方面からやってくるトラックぐらいで、屋敷方面へ向かう車線の路面は雨粒を静かに跳ね返していた。トラックが前から走ってくる車線側の歩道を選んで、ウドンは屋敷へ向かうことにした。国道沿いにはファミリーレストランやパチンコ店が建ち並んだり、畳屋や葬儀屋の広告が印刷された大きな看板が立ちふさがったり、雑草に覆われた空き地なんかが広がっている。地図アプリ上では少し離れているが、それでも建物の向こうに海の水平線が見えるかもしれないとウドンは期待していた。
 両肩にはリュックの重みがのしかかり、ときどき強風でビニール傘が裏返りそうになるのを防ぎながら、ウドンは水たまりをける。そう、できるだけ水たまりを避けるように東鬼央の屋敷で暮らしていたことをウドンは思い出していた。荷の重さや流れる汗や吹きつける風からは逃れようがない。ただ足元がびしょ濡れにならないように身をかわすことはできる。他人に深入りせず、嫌われない程度に飲み会への不参加を表明し、それでも人との会話を繋げられる程度の話題を吸収し、会議では前もって自分の発言内容をシミュレーションして、デザイン業務では常に八割の力までしか出さないことを心がけた。新型ウイルスの感染予防として人との距離を保つことをアナウンスされたが、そもそも自分は誰にも接近していなかったことをあらためて自覚した。ただそういう生活を心がけていても、ウドンの靴下は濡れてしまうことがあった。自宅のワンルームのドアを開け、革靴を脱いで、廊下に足を一歩下ろしたとき、小さな臓器を踏んだような鈍い感触が足裏から伝わることがあった。ウドンは肩を落とし、深い溜め息をついて、もう片方の靴をゆっくりと脱ぐ。そして廊下に水が滴らないように慎重に靴下を引き抜いていく。今日は一日中晴れていたのに……外を出歩くこともなかったのに……と眉間に皺を寄せる。指につままれた二つの靴下は死んだ鯵のようにぐったりと薄汚れている。ウドンは一瞬迷うが、洗濯機ではなく台所のごみ箱に放り入れる。それは何ヵ月かに一度起こった。いくら水たまりを避けても、空が青く晴れていても、ウドンの靴下は定期的にずぶ濡れになって死んだ。ある朝ベッドのなかで目覚めると、眠っていた自分の足がいつのまにか靴下に覆われていたことがあった。やはり水にとっぷり浸したように濡れている。誰が履かせたのか、誰が濡らしたのか。ちょうど会社が在宅勤務を勧め始めた頃だ。ウドンはその朝オフィスに行くと、東鬼央の屋敷を離れてもうこれからは出社しないことを上司に告げた。
 今回、東鬼央の屋敷へ足を進めることに躊躇がないわけではなかった。引っ越した先の部屋でウドンは一日中裸足で過ごしていたし、近所に買い物へ行くのにもサンダルを履いた。海風に揺れる洗濯物のなかに靴下がぶら下がっていることは珍しかった。東鬼央が再び人を集めだしていることは知っていた。ウドンは東鬼央の顔を見たことがない。ほぼ全ての人は目にしたことがないし、わたしもそうだ。ウドンは主人の顔も知らない屋敷なんかにもう近づきたくないと思っていた。東鬼央がどんな性格をしているのか、どんな服を着ているのか、どんな家族構成なのか、もちろん想像もつかない。でもわたしが住んでいるのは東鬼央の屋敷だった。毎朝目を覚まして『オブラディ、オブラダ』を聴いているわたしについてウドンは想像することができた。音楽アプリを再生した後、小さなキッチンでマグカップにスープを注ぎ、まだ眠そうな目で窓の外の天気を確かめている。二人用のソファに身をうずめて、伸びてきた足の爪を気にしている。いくら想像しても想像し尽くすことはない。ウドンというハンドルネームも気に入ってくれた。肌が白く、なで肩で、子どもの頃のあだ名をそのまま付けたことを伝えると、ケモノちゃんというハンドルネームの由来を聞くことができた。あとはもう実際に互いの顔を合わせるしかない。ウドンは数日間の有給休暇を取り、東鬼央の屋敷に向かうことにした。ウドンもすでにわたしに恋をしていたのだ。
 建物の数は減っていた。上り坂が断続的に続き、道幅が一車線に減ったぶん、手入れのされていない木々や雑草が目に映りだした。日は傾き、緑の湿った匂いが漂ってくる茂みの奥では闇が広がり始めている。風はおさまったが、細かい糸のような雨は止まない。靴下はまだ濡れていなかった。地図アプリではあと十五分ほどで駅に着ける計算だ。汗ばんだ手でビニール傘の柄を握り、土まじりの道をじゃりじゃりと踏みしめながら、ウドンは薄暗い山中へ続く歩道を進んだ。
 道の先にあるバス停のベンチで腰を下ろしている老婆の姿がウドンの目に映った。ただの鉄の棒に薄っぺらな金属が打ち付けられただけの錆びた案内板の前で、老婆は分厚い上着を身にまとって背中を丸め、小さな折りたたみ傘を頼りなさげに揺らしていた。傘の骨の先端からしたたる雨粒が上着の生地を濡らしている。だけど老婆は何も気づかないように、足元に転がる土くれをじっと見下ろしていた。ウドンが近づき、土くれをまたごうとしたとき、老婆はやっとウドンに向かって顔を上げた。
 日光を受けた植物のように背筋を伸ばし、細かい皺が刻まれた口元をうっすらと開けながら、老婆が食い入るように凝視してきたので、ウドンは思わずその場に足を止めた。一言めを探している老婆の落ち窪んだ目と視線を合わせることになった。
「あんた、こんな時間にどこに」
 老婆はなんとか絞り出したような声で訊ねてきた。ほんの一瞬か、それとも十秒ほどか、どれくらい老婆の目に入りこんでいたのか、ウドンは時間の感覚を失った。垂れたまぶたの奥で細かく揺れる黒い瞳と粘着質の声に捕らえられると、見も知らぬはずの老婆に自分のことを昔から知られているような奇妙なずれが体の中心を走った。いやただ、いつまでも降り続けている仄暗い雨がそう思わせたのかもしれない。
「駅、です」ウドンはかすれた声で答えた。「駅に行くんです」
「なんで駅なんか」老婆は承服し難そうに眉をしかめた。
「東鬼央さんの屋敷に行くんですよ」
「あんなところ、何の用事があるの」
「人と会うことになってますから」ウドンは短く苦笑した。
「誰もいやしないよ」老婆は鼻を鳴らした。「いても病人ばっかりさ。さ、早く病院に連れていっておくれよ」
 老婆は固い表情を崩さずに、ウドンを見上げていた。ウドンはバスの時刻表に目をやった。やはり一日に数本しかバスは停まらず、最終の時間はすでに過ぎている。それでも老婆はここに座っている。自分を病院へ連れていってくれる誰かを待っているらしい。
「どなたか車で来られるんですか」ウドンは訊ねてみた。
「どなたか」老婆は大きな声で繰り返した。「病院に行かなきゃ。もうこんなに暗いわ。ご飯は食べたの?」
「すみません、僕は駅に行かなきゃならないんです」
「だって今晩、病院で俳句の集まりがあるじゃない。忘れたの? あんなに楽しみにしてたじゃないか」
 俳句? ウドンは老婆を不意に強く見返した。なんで俳句のことを言っているんだろうとウドンは思った。自分はただ独学で覚えようとしている句をSNSに載せているだけだ。仲間は一人もいない。たぶん自分の息子あたりと間違えているのだろう。老婆との年齢差を推し量ると、二十六歳の息子がいてもおかしくなさそうだ。あるいは自宅の近所を徘徊している認知症老人ということも考えられる。
「お住まいはどちらですか」ウドンは老婆の方に体を向けて、その場にしゃがみこんだ。そしてビニール傘を後ろに傾け、自らの顔をまっすぐ差し出した。「もう暗いですから、ご自宅に戻った方がいいですよ。家族の方も心配しているかもしれません。もし良かったら、ご自宅まで付き添いましょうか」
「何言ってんの」老婆はまばたきのない平板な目で言った。「あんた、ちょっと呆けちゃったんじゃないの。私はあんたをずっと待ってたんだからね、こんな雨のなか。病院に行って、みんなで句を詠み合おうって言ってたじゃないか。そう、咳はもう止まったんだよ。ひどい咳だった。肺が裏返りそうだったよ。東鬼央の方から飛んできたウイルスに罹っちゃったんだ。でも今夜行くのはウイルスのことじゃないからね。さ、車はどこに停めてるの?」
 まわりは雨しか降っていない。だがそんな景色はまるで目に映っていないような表情で老婆は左右を見回した。
「人違いですよ」ウドンはしばらく老婆の目つきを見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、ズボンの皺を伸ばした。「待ち合わせの相手は僕じゃありません。別の人です。すみません、これで失礼します。今日はもう帰った方が安全ですよ」
「東鬼央の屋敷には病人しかいないって言ってるじゃないか」老婆は言い放った。
「僕を待ってる人がいるんです」
「どうせそれも病人なんだろ」老婆は乾いた咳払いをした。「可哀そうに。騙されたんだ。みんな長いあいだ騙されてきたんだ。山ほどの人間を集めて、狭い場所に押しこめる。そこに集まれば、みんな金儲けができる。うまい飯が食える。幸せな生活を送れる。そんな幻みたいな話にみんな騙されてきた。東鬼央がほんとに集めたかったのは、人間じゃなく人間が持つであろう金だったのにさ。でも病気が流行はやったせいで化けの皮が剥がれちまった。大勢の人間が集まらなくても、狭い場所に押しこめられなくても、金儲けはできるし、うまい飯は食えるし、幸せな生活を送ることができる。今じゃそれがバレちまった。もうあいつの屋敷には誰も集まらない。すかすかになった廃墟の部屋に肺病患者が寝転がっているだけだろうよ」
 老婆の口の端には笑みがこぼれていた。認知症かもと想像させた弱々しさはすっかり影をひそめていた。そのかわり東鬼央の屋敷を確実に憎み、これから東鬼央の屋敷に向かう人間を確実に憎もうとする強固な意志が老婆の声には満ちていた。
「確かにそうかもしれません」ウドンは電車で会った女の言葉を思い出した。「ただ現実はそう簡単に変わってくれるでしょうか。東鬼央さんはまた人を集めようとしています。あそこにはまだ人を集められるだけの力は残っていますから」
「知ってるさ」老婆は短く笑った。「この道を屋敷方面へ向かう人間が毎日少しずつ増えているからね」
「じゃあ僕も行ってきますよ」ウドンは駅の方を見渡し、足を進めた。
「だからあんたは私を病院に連れていくんだよ! のうのうと句をひねっていればいいんだよ!」
 ウドンはかまわず上り坂を進んだ。しばらく怒声が背後で続いた。途中で振り返ってみると、老婆はベンチに座ったまま、まだウドンをまっすぐ見上げている。雨脚が強くなってきたので、ウドンは駅へと急いだ。なぜ老婆はベンチから立ち上がらないんだろうとウドンは思った。脚を悪くしているのか。それなら誰かにバス停まで送ってもらったのか。そもそも本当に自分のことを息子と間違えているのか。もしかしたらやっぱり自分のことを子どものときから知っている女なのかもしれない。影に隠れて自分の人生をずっと見張ってきた女だったかもしれない。そんな老婆の粘ついた視線から抜け出すようにウドンは濡れた土の上を駆けていった。
 老婆があらわれたとき、わたしは不安になった。老婆が誘う俳句の集まりにウドンが連れていかれるんじゃないかと心臓が音を立て、首筋に汗が滲んだ。わたしを放ったらかしにして、もう東鬼央の屋敷に行く必要なんてないと心を変えてしまうんじゃないかと爪が二の腕に食いこんだ。
 そのときだった。ふと誰かの気配を感じた。夜が深まろうとする時間、この建物からは人の動き回る気配が失われる。だけど壁の向こうの廊下に誰かが立っているような濃密な空気の塊をわたしは察知した。息を殺し、ほんの少しの衣擦れも立てず、壁に耳を当てて、わたしの様子を窺っている。誰もいないはずの建物の部屋を一つずつ注意深く見回っている。わたしは目を閉じて、そこにいるはずの誰かが行き過ぎるのを静かに待つ。不思議な感覚だった。不在のなかで存在が際立つと同時に、存在のなかで不在が際立っていた。そこにいるのは、まるで東鬼央だった。東鬼央が壁の向こうに立ち、こちらに視線を集中させている。わたしは首の後ろで一粒の汗を流し、呼吸を整える。なんとかウドンの姿をまぶたの裏に描きだそうとする。
 結局ウドンは老婆を置き去りにして、駅へと向かうことにした。ウドンが俳句を作る目的は仲間を増やすことだったり、誰かより優位に立ったりすることじゃない。俳句を作ることそのものが目的だ。「濡れた床髪かきあげて竜巻に」──実際に竜巻を感じ取ることがウドンの目的なのだ。わたしは「あ」のふくらみに頬を寄せ、ゆっくりと沈ませる。「あ」はわたしを跳ねのけようとしながら、わたしを包みこもうとする。その狭間を漂いながら、やがてわたしはウドンを発見する。その場所にはわたしとウドンしかいない。他の誰もいない。そして東鬼央もいない。あと数時間後、ウドンがこのわたしの部屋を訪れた瞬間、きっとここは東鬼央の屋敷じゃなくなる。
 だけどウドンが駅に到着したとき、最終電車はすでに出発した後だった。小学校の体育倉庫ほどの小さな駅舎で、蠅が忙しそうに飛び回る蛍光灯に照らされながら、ウドンは電光掲示板を見上げていた。他の乗客は見あたらず、駅員の姿もない。時刻はまだ七時過ぎだ。スマホアプリでは十一時台まで電車の本数は残されている。だが「……雨による土砂崩れが発生し、線路が使用できなくなりました。本日の運行は……」とドット字が無機的に掲示板を流れ去っている。一体どんなメッセージをケモノちゃんに送ったらいいのだろう、ウドンはそう考えていた。自分は本当に東鬼央の屋敷にたどり着くことができるのだろうか。スニーカーのなかでは靴下が濡れ始めていた。柔らかいもの同士が境目なく溶け合ういつもの感触。だがスニーカーの紐をほどき、靴下を脱ぐわけにはいかなかった。電車が走っていないだけで、道が閉ざされたわけじゃない。土砂に塞がれていようとも、線路の上をひたすらたどっていけば、いずれ東鬼央の屋敷はこの目に映ってくる。
「あら、どうしたっていうの」
 背後の声にウドンは振り向いた。同じように電光掲示板を見上げていたのは、電車でとなりの席に座った女だった。そのときと変わらずエクレアサイズのバッグを手にしている。
「動いてないじゃない」女は電光掲示板を責め立てた。
「さっきはどうも」ウドンは女に向かって軽く頭を下げた。
「今日はもうだめなのね。ついてない」
 偶然の再会に女はつゆほどの興味も持ち合わせていないみたいだった。それより東鬼央の屋敷にたどり着けないことへの苛立ちに体を斜めに傾け、目を細めていた。
「タクシーはどうしたんですか」ウドンは訊ねてみた。
 女は溜め息をついた。まったくばかな質問をしてこないでくれというような表情にウドンの目には映った。
「道路が通行止めになっていたのよ」女は視線を上げたまま答えた。「かなり山の奥まで進んで、峠を越えようとしたんだけど、土砂崩れが相当ひどいみたいで、ぴたりと完全に行き止まり。仕方ないから引き返して、いちばん近くの駅まで走らせてもらったの」
「それほどの雨とは思えないですけど。地盤が相当緩いのかな」
「あなたはどうするの」
「僕は歩くつもりです」女の方に足先を向けると、靴下のなかがしゃりっと音を立てた。「線路づたいに進めば、明日の朝には着けますから」
「今日はもう無理かな。でもこのへんにホテルなんかないわよね」女は振り返って、駅舎の外を見渡した。「タクシーの窓からは田んぼと畑しか見えなかった」
 女はしばらく腕組みをして、地面に視線を落としていた。ウドンはひとまず背中からリュックを下ろし、木製のベンチに腰を下ろした。一時間ほど雨のなかを歩き続けた疲労を少しでも回復させようと思った。そばにある自動販売機の光は点灯している。ペットボトル入りの緑茶でも買おうか、それよりも目の前で途方に暮れている女に飲み物を勧めてやろうか。リュックのサイドポケットを開けて、財布を取り出そうと上半身をかがめたとき、壁に掛かっている時計の秒針の音がやけに耳にまとわりついた。他に誰もいないはずの駅舎。だが実は壁の隙間からこちらの行動を黙々と窺っているような陰湿な視線をウドンはふと感じた。
「お客さん、どうします」
 ウドンが顔を上げると、駅舎の戸から男が首を出していた。五十年以上は生きてきたと思われる頬のたるみをなんとか持ち上げながら、エクレアの女に向かって訊ねている。白髪混じりの眉毛は長く伸び、目に覆い被さりそうだ。白いワイシャツに白い手袋をはめ、駅舎の外に向かって親指を立てている。
「今、別のお客さんが乗せてくれってきてるんです。ここでいいなら精算しないといけないし」別にどちらでも構わないからと言いたげな眠気を含んだ声でタクシーの運転手は言った。
「ちょっと待ってよ」女はスマホを持っていた手を下げた。「こんなところに客なんて」
「いちおう駅前ですからね」運転手は抑揚なく応えた。
「ねえ」女は振り返って、ウドンの顔を覗きこんだ。「どうしたらいいんだろ」
「わかりません」ウドンはベンチに座ったまま微笑んだ。「ただ僕と一緒に歩く気がなければ、とりあえずタクシーに戻った方が賢明でしょう」
「戻るって言っても、道が塞がれてるじゃない」
「道がないわけじゃないんですよ」運転手が口を挟んだ。「いったん西へと大きく戻る必要がありますけど、途中で海沿いの道を選んで走っていけば、東鬼央さんの屋敷には着けるはずですから。土砂崩れも起こってないはずです」
「なにそれ、最初に言いなさいよ」
「そのぶん時間も料金もかかりますから。それに駅に向かってって言ったのはお客さんですよ」
「カードは使えるわよね」女はスマホをバッグのなかにしまうと、再びウドンに言った。「あなたも一緒に来なさい」
「僕は大丈夫ですよ」ウドンは頭を下げた。
「あなたも屋敷に行くんでしょ。歩くなんて何ばかなこと言ってんのよ。そんなのいつ着けるかわかりゃしない。楽で早い方がいいに決まってるじゃないの。料金半分持ってよ、なんてけち臭いことも言わないからさ。別に取って食おうっていうわけじゃないのよ。こんな状況で何があるかわからないし、あなたみたいな若い人が一緒だと心強いなって思ってるだけ」
 やはり秒針の音が大きく響いていた。こんなふうに聞こえているのは自分だけだろうかとウドンは女の表情を確かめ、運転手の表情を確かめた。さっきよりも靴下が濡れている。一ミリの隙間もない密室で徐々に水かさが増えているみたいに。こんなに靴下が濡れているのは本当に自分だけなんだろうか。屋敷に着く頃にはきっと足の裏がぶよぶよにふやけて、皮がめくれてしまうだろう。やはりその前にスニーカーの紐を緩め、靴下を脱いでしまいたい。
「早くしてくださいよ」運転手がウドンを見下ろしていた。
「わかりました」ウドンは頷いた。「お言葉に甘えることにします。ただ途中で降ろしたくなったらいつでも言ってください。あと、もし途中で行き先が違ってきたら、そこで降ろさせてもらうことにします」
「オーケー。じゃあ行きましょう」
 女の声に、ウドンは反射的に腰を上げた。足元のリュックを持ち上げ、地面を一歩踏みしめた。膝が一瞬ふらついたが、二人に気づかれないように体勢を立て直した。
 ──ケモノちゃん、いちおう車でそっちに向かえることになった。でもスムーズに事(こと)が運ぶかはわからないんだ。なにしろ同乗者がいるものだから。
 駅舎の外に人の姿は見あたらなかった。植えこみの葉や土、タクシーの車体を雨の連弾が打ちつけているだけだ。運転手が言っていた別の客は立ち去ってしまったのだろうかとウドンがビニール傘を広げると、運転手はタクシーの助手席の方へ小走りに近づいていった。
「すみません! まだ前のお客さんが乗車中なもんで」
 運転手は窓ガラスをノックしたが、窓の開け方がわからないらしい助手席の客に対し、身ぶり手ぶりで車の外に出るように説明していた。ウドンと女は顔を見合わせていたが、いつまでも雨に打たれるわけにいかず、後部座席に乗りこむことにした。それぞれ傘をたたみ、女が先に席の奥に詰め、ウドンが助手席の後ろ側で手早くドアを閉めた。運転手もつられたのか、貧しい髪が濡れるのを手で防ぎ、面倒くさそうな表情を浮かべながら運転席に戻ってきた。
「あんた、電車に乗るんじゃないのかい」
 助手席に座っていた客が背後のウドンを振り向いて、そう言った。バス停のベンチに座っていた老婆だった。車内灯のせいか、先ほどより落ち窪んだ目が輝いている。「さっきは偉そうに屋敷で待ってる人がいるんだって言ってたけど、まだこんなところでぐずぐずしてたんだ」
「おばあちゃん、申し訳ないけど」運転手が言った。「こちらのお客さんが先に乗ってたんだ。まだ実車中で、先にお送りしないといけないから」
「嘘つき」老婆は声を尖らせた。「この兄ちゃんは歩いて私の前を通り過ぎていったんだ。雨に濡れる私を置き去りにして、電車に乗ろうとしたんだ。タクシーなんかに乗ってないわよ」
「違うよ。先に乗ってたのはとなりの女性」運転手は溜め息をついた。
「どちらまで行かれるんですか」女は助手席の方へ前のめりになり、声を高くして訊ねた。
「なにさ」老婆は眉をひそめた。「私は俳句の集まりがあるんだよ」
「それはどちらで」
「**病院ですよ」運転手が間に入った。「さっき聞きました。東鬼央さんの屋敷とはまるで違う方向です」
「あんたも屋敷に行くのかい!」老婆は女に向かって声を荒げた。「どいつこいつも、まだ東鬼央のところに集まりたがる」
「ねえ運転手さん」女は優しげな声をわざとらしく出した。「そのなんとか病院ってところへ先に行っても構わないわよ」
「ずいぶん遠回りですよ」運転手は答えた。
「だってこんな雨降りにおばあさん一人を置いてけぼりにできないでしょう。料金は私が持つから。ここまできたら何でもこいよ。毒を食らわば皿までだっけ……あ、失礼。あなたもそれでいいでしょ」
 女は口の両端を上げて、ウドンの方を振り向いた。ウドンは目の前の手すりをじっと握っていた。だけど助手席の背を見つめていたわけではない。足元がどんどん濡れだしているのだ。靴下からはすでに繊維としての機能は失われ、池に足を浸しているような感触に陥っている。スニーカーの紐を少しでも解けば、水が溢れ出るに違いない。濡れた床髪かきあげて竜巻に、とウドンは心の中で詠んだ。そう、いっそのこと竜巻が起こって、このタクシーごと吹き飛ばしてくれたらいいのに。ウドンは手すりから指をじっとりと離し、髪をかきあげた。
「僕は何も言える立場じゃないですから」ウドンは冷静な声で言った。「だけど行き先が違ってくれば、僕は降りなきゃいけません。申し訳ないですけれど」
「行き先は違わないわよ」女は間髪入れずに返した。「ちょっと最初に寄り道するだけじゃない。運転手さん、時間としてはどれくらいのロス?」
「四十分以上は余分にかかりますね」運転手は前を向き、ハンドルを握った。
「私は東鬼央の屋敷なんかに行かないから」老婆が独り言のように言い放った。
「あの、じゃあ」運転手がルームミラーに向かって言った。「こんなところでいつまでも停車していても仕方ないんで、とりあえず**病院へ出発しますね。お兄さん、もし降りたくなったら言ってください。どんなに山奥でも雷が鳴っていても、後ろのドアはいつでも開けますんで」
 運転手は誰の返事も待たずに何回か乱暴にハンドルを切り返した後、アクセルを踏みこんで土砂の上でがりがりと車を走らせた。
 ウドンは背中を曲げて、手元のスマホに表示された地図アプリに視線を落としていた。現在地のポイントは東鬼央の屋敷からどんどん遠ざかっている。ウドンが一時間も歩いた道をあっという間に戻り、途中で仕方なく電車から降ろされた駅を通り過ぎて、車は閑散とした住宅街の通りを走っていた。街灯はまばらだ。そして何も見えない夜空と同じく、車内は静かだった。車体を細かく響かせる雨音、小動物を連続的にひねり殺していくようなワイパーの音、そして路上の水たまりを大きく跳ねていく音に四人は何も反応を示さなかった。狭く薄暗い密室に閉じこめられ、あとは選ぶことのできない場所まで運ばれるのを黙して待つしかないように、四人の他人はひたすら沈黙に同化していた。
 唐突に咳きこんだのは老婆だった。崖の寸前にある岩につい触れてしまい、勢いよく斜面を転がり落ちていくみたいに、老婆は助手席の上で硬く乾いた音を続けざまに絞り出した。
「大丈夫ですか。そんなに体を折り曲げちゃって」女は後部座席の背もたれから体を離さずに訊ねた。「でもちょうど良かったかもしれない。病院で診てもらえますよ」
 女の言葉など一切聞こえていないみたいに、老婆は乾いた咳を繰り返した。底のない崖を転がり続ける岩に対して、誰にも止めようがなかった。運転手はハンドルを手離すわけにいかず、シートベルトを着けた女の手は老婆の背中に届かず、真後ろに座るウドンからは老婆の姿さえ隠れて見えなかった。次第に発酵したようなえた口臭が車内に漂うのを、三人はそれぞれの沈黙によって処理するだけだった。
「肺病だよ」
 しばらくして呼吸を落ち着かせた老婆が掠れた声で言った。「私は嘘はついちゃいない。肺病が治ったとは言ってないし、咳は確かにしばらく止まっていたんだ。でもウイルスはまだ私のなかに残ってた。それどころが増殖して、肺を腐らせようとしている。東鬼央の屋敷から流れ伝わってきたウイルスだよ。私はあの停留所で車を待ってたんだ。誰かの車に乗って、閉じこめられた場所でウイルスを吐き出してやろうとずっと考えてたんだよ。自分が死んじまう前に」
 老婆がどんな表情を浮かべているのか、ウドンには窺い知ることができなかった。だが固く尖った声には比重の大きい憎しみが色濃く染まっているように感じられた。
「ほら、まだ間に合うかもしれないよ」老婆は声のトーンを上げた。「三人とも今すぐ車の外に出たらいい。この雨で体を洗い流して、夜空に向かって口を開けて、うがいをすれば助かるかもしれない。じゃなければ病院に着く前に取り返しがつかなくなるよ」
 それでも運転手はブレーキを踏む素振りを見せなかった。道路のカーブに従ってハンドルを切っている。後部座席の女も背筋を伸ばしたまま、窓の外の闇から視線を外そうとしない。老婆への疑いが車内に淀んでいた。あるいはやはり老婆は正気を失くした認知症なのだと思いたがっているのかもしれない。ウドンは一人、呼吸を浅くしていた。靴のなかに溜まっていた水がいつのまにか鼻の下まで迫っていた。ウイルスが飛び交っているかもしれない空気を少しでも肺に取り入れようとしている。手すりを強く握り、肩を苦しそうに上下させながら、手のなかにあるものに集中している。
 ──ケモノちゃん。まだ時間はかかる。やっぱりそう簡単には会えそうにない。車は屋敷と逆の方向へ走っている。でも待っていてほしい。時間は残されている。時間が真っ白に途切れてしまうまでには、ケモノちゃんのところへたどり着く。どんなに距離が遠く離れていようが問題ない。僕たちは何億光年だって一瞬にして飛び越えていける。
 陰気なタクシーのなかでウドンは死のうとしていた。見も知らぬ三人の他人に取り囲まれながら、ウドンの肺は蝕まれようとしていた。わけがわからなかった。ただマッチングアプリで知り合った者同士が二人で会おうとしただけなのに、なぜこんなにも行く手を阻まれ、死へと追いつめられないといけないのか。そして、なぜわたしはそんな絶望的なウドンの姿をまぶたの裏に思い描かなければいけないのか。
 でも、まだ時間は残されているとウドンは書いた。わたしにはどれくらいの時間が残されているのだろう。わたしはウドンに伝えなければいけない。ウドンが命を落としてしまう前に、わたしについての本当のことを明かさなければならない。わたしがウドンよりも遥かに歳を取っていることを知ったら、ウドンはどんな反応を示すだろうか。頭皮が目立つほどに髪は薄くなり、鼻の頭は油ぎって、垂れ下がった頬には太いほうれい線が走っている。ウエストにはもう落とすことのできない脂肪がまとわりついて、三つめの乳房のようなふくらみを主張している。陰毛には白いものさえ混じっている。子どもの頃にラジオでよく流れていた『オブラディ、オブラダ』を今でも口ずさみながら、還暦直前のえた口臭を部屋に充満させている。同じ二十六歳だと信じていた相手が本当はそんな老いた姿なのだと知ったら、東鬼央の屋敷に向かうとする気持ちなんてウドンはどぶに捨ててしまうかもしれない。
 それにわたしはエクレアの女や肺病の老婆みたいに、外を活発に動き回ることができない。簡易ベッドの上、腕に繋がれている点滴のチューブはペットを縛るリードと同じだ。わたしの体の場合、新型ウイルスは神経障害をもたらした。強烈な頭痛に襲われ、手足が痺れて、まっすぐ立つことができない。消化器官にも多少の機能障害がみられるということで、半年ほど前に入院をして毎日点滴を受けることになった。「今回のウイルスが神経障害をもたらす症例は他に聞いたことがないね」と若い医師は言った。「もしかしたらあなた自身の方に原因があるのかもしれない」。一体医師は何が言いたかったんだろう。この歳まで独り身であることで目に見えない社会的抑圧を受けて、神経を病んでいるとでも診断したかったのか。
 いずれにしても神経障害は着実に進行していた。痺れの頻度と強さは増し、スマホを操作することもままならない。指先は小刻みに震え、視界がぼやけて、ディスプレイの像は歪み始めた。このままだと心臓を拍動させている自律神経さえも犯されるのだろうか。そうなってしまう前にウドンに本当のことを伝えるべきだとわたしは思った。たとえ東鬼央の屋敷にたどり着くことはなく、わたしの病室を訪れることがないとしても、最初から嘘をついていたことをウドンに謝るべきだった。歪んだスマホの画面のなかで完全な「あ」のふくらみを見せてくれたウドンに、わたしはケモノちゃんの姿を伝えるのだ。
 ベッドの上で体をゆっくりずらして、そばにあるテーブルになんとか手を伸ばし、危うい手つきでスマホを掴み取る。昆虫の羽のように震える指先に集中しながら、アプリのアイコンをタップし、メッセージの送信画面を表示させる。ウドンは今この瞬間、しつこく細かい雨に打たれている。そんな姿を再び浮かべながら、わたしは最初の一文字めを入力しようとする。

 ケモノちゃんが建物の外へ出るまで一時間ほどかかった。
 まず左腕から慎重に点滴の針を抜き、脱脂綿で何度か血を拭き取った。数日間刺しっぱなしだった青黒い痕に微かな解放感を覚えると、テーブルの引き出しに入れていたバンドエイドを貼った。看護師が病室に姿を現すのは一日三度の食事どきだけだ。まともに消化吸収できないケモノちゃんの体にはどろどろに溶けた流動食が用意される。自衛隊員のように髪を刈り揃えた看護師の男はいつも乱暴にお椀をテーブルの上に放り置く。スープの飛沫がシーツに飛び散ったとしても、何も言わずにそのまま病室を出ていく。少し前に夜のぶんを運びにきたときは、廊下へ出ていった途端に太い笑い声が聞こえてきた。今日はご機嫌みたいだなとケモノちゃんはベッドの上で上半身をゆっくりと起こした。いや、別にどっちだっていいのだけれど。
 着替えはロッカーのなかに吊られているはずだった。むくんだ両足を床に投げ出し、室内用のゴムサンダルを引っかける。そしてベッドの鉄枠と点滴スタンドを両側に強く握りしめると、呼吸を止めて立ち上がった。目の前が一瞬ぼやけて足元がふらついたが、ケモノちゃんは両手に力を入れ、腰を落として踏ん張った。こんなところで転ぶわけにはいかなかった。わたしはこれから何キロも何十キロも歩いて、ウドンに会いにいかなくちゃいけない。ケモノちゃんは深い呼吸を繰り返して、物音が廊下まで響かないようにり足で病室を横切った。細長いスチールロッカーを開けると、パーカーと厚手のコート、カーゴパンツがハンガーにぶら下がり、足元にはスニーカーが並べられている。近所の川沿いを散歩していたときに着ていた服だ。自宅に帰ると急に体調を崩して、救急車を呼んでそのまま入院してしまったのだ。こんな量販店のワゴンセールで買った服でウドンに会いたくないな……などとためらっている時間はなかった。それよりもケモノちゃんが気にすべきことは服のサイズだった。半年間にわたる入院生活はケモノちゃんの顎やウエストや二の腕を丸々と柔らかく変えていた。体重計に乗る機会はあまりないが、ベッドの上で体を移動させるときの重たさや指先でつまむ脂肪の厚みで、ケモノちゃんは自らの変貌を自覚していた。たぶんあの看護師がわたしの流動食に高カロリーな成分を注入しているに違いない。じゃなければ入院患者が太ることなんてあり得ない。消灯時間が過ぎた薄暗い病室のなかで、ケモノちゃんは薄っぺらな入院着を脱いだ。そしてそばにあったパイプ椅子に腰を下ろし、細かく震える手でカーゴパンツになんとか足を通した。背中を曲げてパーカーに頭を入れるとき、左肩に強い痛みが走ったが、しばらく目を強く閉じてやり過ごした。懐かしいスニーカーに足を収め、ロッカーの扉を掴みながら、ケモノちゃんは立ち上がった。確かに腕まわりはやや窮屈で、カーゴパンツのウエストには脂肪が垂れている。だが苦しくはない。神経障害を抱えて歩き続けることを考えると、ワンサイズ小さい服ぐらい何ということはなかった。ただ湿度の高い外気を想像するとコートはそのままにして、ケモノちゃんはロッカーの扉を閉めた。
 パーカーのポケットにスマホを入れ、小さなバッグを肩に下げると、ケモノちゃんは音を立てないように病室の戸を引いて廊下に出た。滑り止め加工を施された床が非常灯の弱々しい光を点々と反射させている。人の姿はないが、雨の音が聞こえる。どこかの窓が開けっぱなしなのだろうかとケモノちゃんは左右を見回した。そもそも病院として建てられていないので、医療機関としての基本的な機能や動線は備わっていない。ウイルス感染者数が爆発的に増加したことで屋敷内の病床はあっという間に埋まってしまい、空いていたビルに感染者たちは押しこめられた。かつてはこのビルにもいくつかの会社が入居していたようだった。看護師たちの詰所は鉄製の扉の向こうにあるので、夜中に廊下を歩き回っても咎められることはない。ケモノちゃんは詰所と反対側を進んだ。壁に手をやって体を支えながら、足を一歩ずつ前に出した。スニーカーのゴム底が擦れる音は、車のフロントガラスを往復し続けるワイパー音を想起させた。ウドンは雨に打たれているのだろうか、とケモノちゃんは遠くに光る非常灯を見上げた。あれからタクシーを飛び出して、喉の奥を雨で洗い流したのだろうか。水浸しの靴下からは解放されたのだろうか。ウドンからのメッセージはあれから届いていない。どんなに距離が遠く離れていようが問題ない、ウドンはそう書いていた。僕たちは何億光年だって一瞬にして飛び越えていける、と。確かにそうかもしれない。そうでありたい。ただ今のわたしは残念ながら、何億光年ものの距離を一瞬にして飛び越える能力を発揮することができない。言うことを聞かない他人みたいな足に鞭を打ってなんとか前に進みながら、ウドンに会いに行くことしかできない。
 階段の電灯は切れていて、足元がはっきりと見えなかった。ケモノちゃんは一瞬ひるんだが、床と同じ滑り止めのコーティングがされた手すりを握った。親指に力を入れ、段差を覆う明暗の微妙な差に目をこらして、足先を恐々と下ろしていった。まだ二階でよかったとケモノちゃんは息を吐いた。もし最上階の部屋だったなら夜が明けてしまっていただろう。
 やっと階段を降りきって廊下を進むと、こぢんまりとしたエントランスホールに出た。あとは目の前の自動ドアが開いて、東鬼央の屋敷から離れていく。とりあえずその場で立ち止まって一息ついていると、唐突に自動ドアが開き、外から小走りの者が入ってきた。
「あ、どうも」
 若い女は髪の水滴を払いながら、小声で頭を下げた。何度か見かけたことがある患者だった。ケモノちゃんとは違って、軽症のフロアに入院している女だ。コンビニのレジ袋を提げている。
「窓から物を落としてしまって」ケモノちゃんは苦笑いを浮かべた。
「大変。一緒に探しましょうか」
「落ちた場所はわかっていますから。植えこみのあたりでね。この時間ですから、お腹がいてることでしょう。上で食べてください。すみませんが、その傘をお借りできると助かります。すぐに返しにいきますから。何階ですか」
「五階です」女はケモノちゃんの言葉が至極当然であるかのようにビニール袋をまっすぐ差し出してきた。ばかみたいな笑い顔と一緒に。
 ケモノちゃんから届いたメッセージには画像が添付されていた。それは決して間抜けな作り笑いなんかではなかった。こちらに向かって深々とした瞳を一途に輝かせ、意志の強さを示すように薄い唇をきゅっと結んでいる。同時にどんな罪人さえも許そうとする寛容さが頬にふくらみを与えていた。きっと暗い部屋にいるのだろうと僕は思った。スマホの貧弱なライトがケモノちゃんの鼻先や額に眩しいハイライトを与えている。
 ──大変なときにごめんなさい。わたし、本当はウドンとずいぶん年齢が離れている。もうすぐ六十歳。親子といってもおかしくない年齢差だね。ずっと嘘をついていて申し訳ないです。ほんとは言いたくなかった。でもこのまま嘘をつき続けるのは、やっぱりいけないことだと思い直したから。ウドンとわたしのそれぞれの時間が、この先いつ途切れてしまうかわからないから。
 ケモノちゃんはそう書いていた。一読したとき、僕の方こそケモノちゃんに対して済まない気持ちで胸がくしゃくしゃに潰れそうになった。文章を何度も読み返し、画像のケモノちゃんとしばらく見つめ合った。僕もケモノちゃんと同じだった。僕だって還暦を超えて、仕事を失い、東鬼央の屋敷から逃げるように遠い海辺にたどり着いたのだ。「二十六歳 地方在住の会社員」なんてまるっきりの嘘だ。だけど僕からのメッセージを種にして、ケモノちゃんは僕についていろいろと細かく想像の花を咲かせてくれた。二十六歳としての僕の生活、僕の経歴、重いリュックを背負って電車に乗る姿、雨のなかを駅まで歩き続ける姿、タクシーに乗せられて東鬼央の屋敷からどんどん離れていく姿。ケモノちゃんは自らのまぶたの裏側に、僕が東鬼央の屋敷へ向かおうとする光景を克明に描き出した。どこまでが本当に起こったことで、どこまでがケモノちゃんの想像なのか。最後にはケモノちゃんと実際に顔を合わせ、どこか小さな公園のべンチで肩を並べて、二人で答え合わせをするつもりだったのだ。
 僕たちは始めから本当のことを伝えあうべきだったのだろうか。プロフィールにはっきりとした顔写真を載せ、本当の年齢と経歴を載せるべきだったのだろうか。もし本当のことを伝えあっていたら、僕たちは恋に落ちただろうか。むしろ相手を二十六歳だと思いこみ、自らも二十六歳だと演じたからこそ、互いに惹かれあうことになったのではないだろうか。
 それに似た感覚を僕は以前から持ち続けてきた。東鬼央の屋敷で暮らしていたとき、他人の頭のなかで生活しているような鈍い感じに襲われることがあった。その感覚は目の前の景色から色を失わせた。僕は東鬼央に用意されたオフィスに通い、東鬼央に紹介された映画や音楽に触れ、東鬼央について書いた本を読んでいた。そして東鬼央の屋敷に住む女たちと付き合った。女たちとは映画やコンサートに行ったり、読んだ本の話をしたり、将来の生活について意見を述べ合った。だがどんな話をしていたにせよ、僕らが話していたのは結局東鬼央のことだった。東鬼央はいつだってすぐそばにいた。まつ毛の上だったり、耳の後ろだったり、首筋にもたれたりしていた。あるいはインターネットで検索するたび、ネットワークの裏側で東鬼央はこくりと頷いていた。誰も東鬼央を目にしたことがないのと同時に、東鬼央は誰もが共有している空気のように身の回りに満ち溢れていた。
 東鬼央の屋敷から物理的な距離を取った後でも、いつも東鬼央に見られている感覚から逃れることは難しかった。東鬼央の視線が僕の指を動かし、水族館での薄暗いシルエットの画像をアップさせ、嘘をつかせたのかもしれない。そしてケモノちゃんにも同じように嘘をつかせたのかもしれない。
 ──本当はケモノちゃんが何歳なのか。本当はどんな姿をしているのか。本当っていうやつが一体何をあらわしているのか、今はまだよくわからない。ケモノちゃんが自分の年齢を六十歳と書いてきて、自撮り画像も添付してきてくれたのに、それがケモノちゃん自身とどういう関係があるのか、今はよくつかめない。そしてそういったことを確かめるために、僕は今ケモノちゃんに会いにいこうとしているんだと思う。実際に顔を合わせて、僕のことも確かめてほしい。ただ東鬼央の屋敷まではまだ遠い。僕が今いる場所はここだよ。
 自分の現在地を示す地図アプリの画像を僕はメッセージに添付した。ケモノちゃんからの返信は早かった。
 ──今からわたしもあなたに会いにいく。
 入院していたビルを後にすると、ケモノちゃんは商店街を進んだ。風に舞い散る雨をビニール傘で防ぎながら、閉ざされたシャッターの通りを駅の方へ向かった。洋服屋、金物屋、電気屋、自転車屋……薄汚れた看板だけが電灯に照らされている。昔からすでに廃業していたのか、それとも数年間のウイルスの影響で客足が遠のいてしまったのか。いずれにしても東鬼央の屋敷から人々が去っていった跡のざらつきだけが風に紛れていた。ケモノちゃんはスマホに視線を落として、これからの行き先を確かめた。運行情報では停止している電車はなかったが、本来の終着駅まではたどり着かない電車も何線かあった。とにかくケモノちゃんは電車で行けるところまで西へ向かい、降りた駅からさらに西へ向かうつもりだった。そこが山なのか町角なのか建物なのか、送られてきた地図だけでは目に浮かばない。でもウドンはそこで待っていると書いていた。まだ生きているウドンがわたしを待っている。東鬼央の手の届かない場所で互いの姿を確かめ合うために。
 ──たんに「ケのモノ」が好きだから。ふさふさと毛が生えているのがいいの。わたしのバッグには毛がふさふさに生えているし、ペンだってふさふさ。ふさふさのなかに入ったり触れていたりすると、心が落ち着いてくるんだ。子どものときからね。だからケモノちゃん。
 乗客は数えるほどしかいなかった。長い座席の真ん中でスーツ姿の男が身を横たえ、死んだように動こうとしない。頭上では等間隔の吊り革たちが振動に合わせて同じように波を打っている。男と距離を置いた優先席にケモノちゃんはぽつんと腰を下ろした。どうして優先席というのは数少なく、車両にいちばん端に設定されているのだろうと思う。広く自由な場所での座席の奪い合いとは一線を画し、わずかに確保されたセーフティゾーン。わたしはもうそこに座ることを許された年齢に達したのだろうか。いつのまにかセーフティゾーンに追いやられるような年齢になったのだろうか。ケモノちゃんは折りたたんだビニール傘の柄を両手で持ち、その上に顎をのせた。依然として疲れは感じやすかったが、手のしびれや体のふらつきは不思議とおさまっていた。むしろ無理にでも体を動かした方が、神経ネットワークは必死になって機能するのかもしれない。これまでの入院生活をケモノちゃんは思い浮かべてみた。そして入院に至るまでの生活を思い浮かべた。電車が次の駅に着いても誰も降りないし、誰も乗ってこない。ドアが閉まり、ふと目を上げると、反対側の窓ガラスに自分の顔が反射しているのに気づいた。煌々とした夜景は流れ去っているのに、窓枠に切り取られた顔は河原に置きっぱなしにされた生首みたいにケモノちゃんの目には映った。
 物心がついた頃、ケモノちゃんはよく草むらに身を潜めていた。小さな川のそばに住んでいて、河川敷を遊び場にする日々を過ごしていた。土手で膝を抱えて座り、まわりを背の高い草に囲まれていると、ケモノちゃんの心は不思議と落ち着いた。顔を上げると、青空を背景にして草の葉先が鋭く尖っているのが目に映る。侵入しようとする者を跳ねのけながら、その内に潜んでいるケモノちゃんに柔らかな風を送りこんでくれる。日が暮れるまで何時間も草むらのなかに座っていると、ときどき野良猫が足元に身をすり寄せてくることがあった。ケモノちゃんは野良猫の頭を撫で、野良猫の体毛に自分の小さな指を沈ませた。野良猫は気持ちよさそうに尻尾を丸め、深々と目を閉じた。自分は毛に惹かれているのだとケモノちゃんは次第に自覚し始めた。テレビで自然を扱ったドキュメンタリーが映ると、キツネやシロクマやオラウータンの毛なみに惹きつけられた。ふさふさとした毛なみに頬を寄せ、身を沈みこませたいと望み、カブトムシの腹に生える短い毛にさえも撫でてみたいという願望を抱いた。ケモノちゃんは自分の髪の毛をよく触った。食事をしているときも勉強をしているときも学校へ向かう通学路でも、自分の髪に指を入れて何かを造形するみたいにかき回した。両親から何度も注意されたが、ふと気づくと独立した一つの生き物のように手が髪の毛をまさぐっている。ケモノちゃんは自分のまわりの物に毛を付けたいと両親に頼んだ。筆箱や鞄や腕時計に毛を生やしたいんだと言い出した。両親は仕方なく手芸店でフェイクファーの生地やアクセサリーを買ってやり、筆箱や鞄や腕時計などに取り付けることを許した。それからケモノちゃんは自分の髪を触るかわりに、身のまわりの物に生えた毛にいつも指を沈みこませている少女になった。
 ケモノちゃんが大学を卒業する頃、東鬼央の屋敷はまだ景気の底から脱せずにいた。会社員の昇給は見送られ、夜の酒場からは人の姿が消えて、物価が下がることでさらに経済の流れが停滞した。正社員を雇用する会社が減り、ケモノちゃんは派遣社員としてあらゆる職場を転々と移らざるを得なかった。それでも若い頃は、一つの会社に束縛されない生活スタイルに気軽さを感じていた。限定された期間で、限定された業務を果たす。業務以外の人間関係に引きずられることはなく、たとえいづらくなってもデスクを去る日はすでに決まっている。同じオフィスで付き合った男とも、派遣期間が終了すれば自然消滅することが多かった。だが三十歳を超え、両親が交通事故で突然この世を去ってから、ケモノちゃんは自らの不安定な生活に揺れ動かされた。次第にベッドのなかでうまく眠ることができなくなった。自分には心から好きな相手も、心から好きになってくれる相手もいない。共に生活を過ごす相手がいないなら、せめて長く続けられる職場で働きたいと思うようになった。だけど派遣社員だけを続けてきた四十歳の女を正社員で雇う会社はどこにもない。新たに契約する派遣先の会社とは業務期間がどんどん短くなっている。なんであの人の物には全部毛が付いているのかしら、そうオフィスの給湯室から小声で聞こえてきたことがあった。ケモノちゃんはうつむいて、自分の髪に指を通した。かつてほどの毛量はすでに失われた年齢に達していた。
 ケモノちゃんがロングコート姿の者を見かけたのは病院の待合室だった。周囲を薄い闇に囲まれたように視界が狭くなり、近所の眼科医に診てもらうと、緑内障を発症しているが他の原因も考えられるから一度精密検査を受けなさいと勧められ、屋敷の中心に建つ大学病院を紹介してもらった。八月始めの酷暑の日だった。ケモノちゃんは広い待合室で横長のソファに座り、エアコンの冷風に吹かれながら、ハンドタオルで首筋の汗をしつこく拭っていた。中高年の失明原因の多くが緑内障であることは調べていた。そして自らをコントロールできない更年期の辛さも感じていた。もしかして自分はこのまま視力を失い、誰とも心を通わせることなく、闇のなかでわずかな年金と共に死んでいくだけなのか。頭のなかで真っ暗な液体が渦を巻き、ケモノちゃんの汗は止まることがなかった。
 名前を呼ばれたような気がして、ふと顔を上げると、黒いロングコートを着た者が少し離れた場所に立っていた。もはや誰にも使用されない緑の公衆電話の前で、受話器を手にすることなくこちらに背を向けている。コートと同じ黒の中折れ帽を被り、少し猫背で杖をついて、首元にちらつく頭髪には白が混じっている紳士風だ。なんでこんな暑い日にコートなんか着ているんだろう、狭まった視界のなかでケモノちゃんはロングコートの背中をじっと見つめた。しばらく公衆電話の前で身動きをしなかったが、ロングコートの者はやがて杖を動かし始めた。思ったよりも力強い歩調だった。淀みなく足を前に差し出し、定間隔で杖を床につき、体幹はぶれていない。そのまま違う病棟へ続く廊下へと姿を消していった。ケモノちゃんは無意識に立ち上がっていた。そしてロングコートの者に引き寄せられるようにスニーカーの底を待合室の底に這わせていった。なぜそんな奇妙な行動を取ったのか、あとから思い返してもよくわからなかった。視力を失うかもしれない瀬戸際なのに、なぜ見も知らぬ他人を追いかけなければいけないのか。ただ、もし視力を失うとしても、そのロングコート姿の者は自分の目に映しておかなければならないという焦燥感になぜか突き動かされていた。奇妙なのは自分ではなく、ロングコートの者が漂わせている黒い空気の方なんだとケモノちゃんは直感的な嫌悪を覚えていた。
 ロングコートの者はまっすぐ廊下を進んだ。両脇を看護師や車椅子の患者が通り過ぎ、消毒用アルコールの匂いがひどく鼻をついた。誰もロングコートの者に注意を払っていなかった。いつもそこにいるのが当たり前のように黒いロングコートは景色に馴染んでいた。できるだけ距離を保ち、ケモノちゃんが自然にゆっくり足を進めていると、ロングコートの杖が止まった。気づかれたのかとケモノちゃんも立ち止まり、持っていたバッグを開けるふりをした。しばらく手元をごそごそと動かし、何気なく視線を上げてみると、ロングコートの者はすでにそこにいなかった。引きずっていた黒い空気の跡はどこにも残っていない。ロングコートの者が立ち止まったあたりまで、ケモノちゃんは進んでみた。そこは病理室の札が掛かった部屋の前だった。ロングコートの者はここのドアを開けて、病理室に入ったのだ。ケモノちゃんはためらった。自分も同じようにドアを開けるべきなのだろうか。病理室に入って、ロングコート姿の者を目にするべきなのだろうか。自分でさえもコントロールできない自分の人生。それなのに今、自分の人生をこのドアの前までコントロールしてきた他人の姿を本当に目にするべきなのだろうか。そんなふうにケモノちゃんはドアを寸前にして目を大きく見開いていた。汗のしずくが乳房の間を流れ落ちた。ドアの取っ手から数センチのところで手は震えたままだ。滑り止めの効いたいくつもの足音が背後を通り過ぎていく。だが戸惑いと恐怖と怒りによって大きく波打つ手は、いつまでもドアを引き開くことができなかった。
 あのロングコートは東鬼央だったのかもしれない、終着駅のホームに足を着いたときにケモノちゃんはそう思い出した。電車から降りた乗客は他に誰もいない。乗務員は乗客が残っていないかを確かめながら車内を足早に行き過ぎる。やがてドアが閉まり、操車場へと電車はゆっくりと速度を上げていった。雨は止み、黒々とそびえる山並みを遠くにして、寂れた木造の駅舎からは弱々しい電球色が漏れていた。閉じたビニール傘を手にして、ホームに立ち尽くしたまま果てのない夜空を見上げていると、東鬼央の屋敷の空よりも多くの星々が瞬いていることにケモノちゃんは気づいた。ここはもう東鬼央の敷地じゃないんだと思った。きっと東鬼央はこの星と同じようにわたしの頭上をいつもまとわりついていたのだ。あの病院の公衆電話で杖をついていた者。あのときはたまたま中折れ帽を被り、ロングコートの形をしていた東鬼央だった。わたしは後をついていったが、結局病理室のドアを開けることができなかった。でもたとえドアを開けていたとしても、そこにロングコートを目にすることはできなかっただろう。すでに東鬼央は別にものに形を変えている。すでにわたしにまとわりついている。同時にわたし以外の他人にもまとわりついている。わたしは本当に東鬼央の屋敷から脱することができているのだろうか。ケモノちゃんは肩に下げたバッグから点眼薬を取り出した。精密検査では深刻な異常は見つからなかったが、緑内障による視野の欠損を抑えるために定期的に点眼薬を差すようにと指示を受けた。星空を見上げ、頬を伝う点眼薬を震える指先で拭き取った後、ケモノちゃんは駅舎へと歩き出した。
 ケモノちゃんは到着した駅の名前をウドンに送信した。そして駅員のいない改札を出て、駅舎の戸を開けたときだった。シャッターが下ろされた古びた店舗のあいだを白い光が揺らめきながら、こちらに近づこうとしていた。エンジン音を伴ったヘッドライトは、駅前の砂利のスペースに粗野な音を立てて停止した。タクシーからはしばらく誰も降りてこなかった。室内灯は点けられず、どんな人物が乗っているのか判然としない。だが申し分のないタイミングだった。十時を過ぎている時間帯にタクシー会社に電話を掛けても、こんな田舎町では断られる可能性が高いとケモノちゃんは心配していた。すでに運行を終えた駅にどんな用事があるのかは知らないが、自分としてはウドンがいる場所を運転手に伝えるだけで、あとは後部座席で身を任せておけばいい。ケモノちゃんは砂利まで進み、タクシーの屋根のランプが消えるのを待つことにした。
 後部座席のドアが開き、タクシーから降りてきたのはカーディガンをまとった女だった。ケモノちゃんと同じぐらいの年齢で、同じぐらい脂肪のついたウエストを隠しており、エクレアぐらいの小さなバッグを手にしている。女は慎重に砂利の上を進み、駅舎の前まで行くと、戸を開けたまま室内の様子をしばらく窺っていた。
「もう終わってるじゃない」
 女は一人で大きめの声を出した。戸を勢いよく閉め、ケモノちゃんのそばを通り過ぎると、後部座席からタクシーのなかを覗きこんだ。「もう終電は行っちゃったわよ。せっかくここまで遠回りしてきたっていうのに」
 声を荒げる女の横顔を目に映しながら、ケモノちゃんは女にまとわりつく香水の匂いに呼吸を止めていた。よく見ると女の髪はほんのりと赤く染められ、頬にはファンデーションが厚く塗られている。ケモノちゃんはうまく呼吸を再開することができなかった。ウドンが遭遇した女の風貌とよく似ていたからだ。電車でウドンのとなりに座り、タクシーに同乗することになった女のことはウドンからのメッセージで知っていた。しかし着ている服や体型などの細部については、ケモノちゃんが一人でまぶたの裏に思い描いただけのものだった。ケモノちゃんはわけがわからなかった。手にしたビニール傘の先端が砂利の奥にめりこんでいた。
「どうすればいいのよ」女は車内に向かってしつこく声を上げた。
 運転席のドアを開け、駅舎の様子を確かめようとした男にも見憶えがあった。老犬みたいに頬がたるみ、白髪混じりの眉毛が長く伸びて、白いワイシャツに白い手袋をはめている。そして「やっぱり雨のせいでしょうな。ダイヤ乱れで終電が早まったんだ」と眠そうな声を出した。
「雨なんてとっくに止んでるじゃない」女は微かに笑った。
「機械の影響か人の影響か、原因はわかりません。いずれにせよ今日はもう無理ですな」運転手は首をかしげた。
「無理じゃないわよ。こんなところで降ろされる方が無理な話よ。もう覚悟を決めた方がいいわね。このまま海沿いの道を走ってもらうしかないわ」
「結構な料金ですよ」
「リミッターはもう外れてるわよ」
 もしかしたらウドンが後部座席に座っているかもしれないとケモノちゃんの頭をよぎった。そして助手席には肺病の老婆が座っているかもしれない。いや、老婆は俳句の集会に参加するために反対方向の病院で車を降りたはずだ。車内に残っているとすればウドンだけだ。そしてわたしの想像どおりであれば、ウドンも女も運転手も新型ウイルスに犯されている。わたしと同じように。
「あの、屋敷の方へ行かれるんですか」ケモノちゃんは遠慮がちに訊ねた。
「あら、そちらさんも」女はケモノちゃんに向かって顔を傾けた。「こんなに早く電車が止まっちゃうなんて、わかりませんものね。お互いせっかく駅まで来たのに」
「お一人ですか」
「ん?」女は目を大きく開けた。
「お一人でここまで来られたんでしょうか」
「まあ、結果的にはそうですね」女は不思議がるように口を尖らせた。
「途中、肺病のお婆さんを乗せませんでしたか」
「あらなんで」女は手で口をふさいだ。「お知り合い? あのお婆さんなら、病院に行くからっていうことで先に降りましたけど。でも肺病って……それで病院に行ったのかしらね。確かにときどき咳きこんではいたけれど、そんなことは何も言ってなかったような」
「もう一人」ケモノちゃんの足は一歩前に動いた。「男の人も一緒じゃなかったですか。リュックを背負った、二十代半ばぐらいの」
 女はしばらくケモノちゃんから視線を外さなかった。まばたきもせず、身を固くしている。目の前に立つパーカーの女──化粧もせず、やけに軽装で、自分と同じぐらいの年齢と体型──を目にして、不審を抱いているのだろうとケモノちゃんは推測した。あるいは自分の行動を物陰からじっと見張られていたような気味悪さを感じているのかもしれない。だけどそんなことで物怖じしてはいられなかった。わたしはウドンに会うためにここまできたのだ、そうケモノちゃんは大きく息を吸った。
「わたしも乗せてもらっていいですか」ケモノちゃんは杖代わりしていたビニール傘を一歩前に突きなおした。
「そんなに若くありませんでしたよ」女は平板な目で冷静に言った。「確かに大きな荷物を背負ってましたけど、二十代にはとても。どう好意的に見ても私たちと同じぐらいだったかしら」
 ケモノちゃんはドアが開けっぱなしの後部座席に目をやった。耳を澄ませると、車内のラジオから音楽が流れていた。ビートルズの『オブラディ、オブラダ』だった。ケモノちゃんの鼓動は音を立てて早まった。どこまでが本当のことで、どこまでが想像によるものなのか、ケモノちゃんにはよくわからなかった。ウドンは本当に靴下を濡らして窒息しそうな毎日を過ごしていたのか。それともわたしと同じように年齢を隠しながら、マッチングアプリで恋人を探そうとしていたなのか。ただ、ウドンがその黒いシートに座っていたのは確かだ。この同じ夜にウドンは目の前のタクシーに腰を下ろしていたのだ。
「その男性はどこに」ケモノちゃんは女に訊ねた。
「さあ。今はもう」女は答えた。「車を降りてからずいぶん経ちますから」
「どこで降りましたか」
「ええ、どこだったっけ?」女は運転手の方を振り向いた。
「ええと……なんせ暗かったからな」運転手は腕組みをして夜空を見上げた。「でも確かそばに商店街があった気がするな。アーケードがあって、上の方に看板が見えましたから。商店街なのか、それとも市場いちばなのか、はっきりとはわかりませんけど」
 ケモノちゃんはポケットからスマホを取り出して、ウドンから送られてきた地図の画像を表示させた。そしてビニール傘を地面に突きながら注意深く砂利の上を進み、運転手に近づいた。
「このあたりですか」ケモノちゃんは運転手にスマホの画面を見せた。
 運転手は細めた目をケモノちゃんの手元に近づけた。「うん、このへんだったと思いますよ。住所もここだったかな」
「乗せていってください」ケモノちゃんは運転手の目を見た。「わたしこの場所に行かなくちゃいけないんです」
「そう言われてもな」運転手の視線は女の方へ泳いだ。
「今はまだ実車中なんです」女がケモノちゃんに向かってはっきりと言った。「このランプ、まだ消えていませんよね。なぜなら私がまだ乗っているからなんです。私はまだこれからこの車に乗るんです」
「変わってください」ケモノちゃんは言った。「あなたにはここで降りてもらって、この車はわたしに譲ってください」
「何言ってんの」女は眉根を寄せた。「こんな何もない真っ暗な場所で降りるわけじゃない。同じ方向ならまだしも、あなたは逆方向でしょ。あなたこそ違う車を探すか、私が東鬼央さんの屋敷で降りてからこの車が戻ってくるのを待ちなさいよ」
「そんな時間はないんです」
「違う車を探しなさい」
「この車じゃなきゃだめなんです。わたしの会うべき人が乗っていた車なんです」
「会うべき人」女は声を唸らせた。「あの初老の男のこと? 木みたいに痩せて、目の下が黒くて、ぜえぜえ息をしてた人。まるで世の中の不運を全部背負わされたような感じの男だったわ。確かに今ごろどこかの陰気くさい農道で倒れているかもしれないわね。でもね、そんなこと私の知ったことじゃないですから。さあ、早く車を出して」
 女の声を合図にして、運転手は車のなかに戻ってドアを閉めた。女はじゃりじゃりと足音を鳴らして、開いたままのドアから後部座席に乗りこもうとした。ケモノちゃんは女の首筋を見ていた。白く粉が塗りたくられた頬とは違い、黄色く汚れた皮膚がたるんでいた。細く短い毛が不揃いに生えている。垂れた皮の間には粘ついた汗が溜まり、何千もの細菌が臭い糞を撒きながら、うようよとひしめいている。完全な曲線とは程遠いものだった。誰かを包みこんだり、温かくさせたり、なにか大切なものを示唆することは決してない。人を集団的に操り、腐らせ、食いものにすることしか頭にない。この女に「あ」は書けない。ウドンが書く完全なふくらみの「あ」を、この女は決して書くことができないだろう。ケモノちゃんは汗ばんだ手でビニール傘の柄を強く握り直した。そして一歩ずつ女に近づいた。
「わたし、神経障害なんです」ケモノちゃんは足を前に出しながら言った。「ここまで来るのも大変でした。素早く歩くことができません。だからここに置いていかれるのはとても困るんです」
「だから?」女はドアの縁に片手をかけて、ケモノちゃんを振り向いた。「私の知ったことではありませんから。ていうかその毛だらけのバッグは一体何なの」
 女のそばまでケモノちゃんは迫った。あとは脂肪がだぶついた太い首筋にビニール傘の先端を突き刺すだけだった。きっと女は吹き出る血を手で抑え、叫び声を上げながら、無様な体勢で地面に倒れこむだろう。その隙にわたしは後部座席に乗りこみ、ドアを閉めて、ウドンが待っている場所まで急ぐのだ。なんならハンドルを切り返すときに女の体を轢いてしまうかもしれない。かまわない。そうすることでわたしはやっと東鬼央の屋敷から逃れることができるのだから。
 だがケモノちゃんがゆっくりとビニール傘を振り上げたとき、女はすでに腰を曲げて、後部座席に身をぴたりと収めていた。自分に向かって振り下ろされようとしている鋭い金属の光にまったく気づいていないようだった。そして運転手も同様だった。女が腰を下ろした音を聞いただけで、ドアのそばにケモノちゃんが立っていることに気づかずに、後部座席のドアをためらいなく閉めた。突然目の前が絶たれた勢いで、ケモノちゃんは砂利の上に倒れこんだ。ビニール傘は手から離れ、バッグは肩からずり落ち、尖った石で手のひらをすりむいた。だがそれでも車が止まることはなかった。エンジン音を立て、マフラーから白い煙を出しながら発進した。すぐに数メートル先で停止したが、倒れたケモノちゃんに気づいたわけではなかった。ギアチェンジの音がして、車は曲線を描きながらバックへ移動した。そのとき片方の後輪がケモノちゃんの足首を轢いた。ケモノちゃんの掠れた声よりも、がりがりと上下に揺れる車の振動音の方が夜の町に響いた。そのまま何事もなかったようにハンドルは切られ、再びギアが変えられると、車はあっという間に闇のなかへ走り去っていった。
 静まった夜の空気と同じように、ケモノちゃんはしばらく砂利の上で横たわっていた。まだだ、とケモノちゃんは舌打ちをした。本格的な痛みが走るのはこれからだった。潰された組織と血管に対して様々な細胞による修復作業が始まる。連続的な痛みが伝えられるのはそれからだ。伝える? わたしの神経は今、正常な痛みを伝えてくれるのだろうか。タイヤに轢かれた瞬間もそれほどの痛みを覚えなかった。もしかしたら骨折しているかもしれないのに、激烈な痛みを感じない。痛みは本当に伝えられるのだろうか。あるいはわたしはもうどこにも行くことができないかもしれない。とげとげとした砂利の上で、心臓はこのまま拍動を止めてしまうかもしれない。ケモノちゃんは片方の手で地面を思いきり押し、反動を利用して体を大の字に広げた。
 市場、と運転手が言っていたことをケモノちゃんは星空を見上げながら思い出した。きっとウドンはその市場にいる。野菜、肉、魚……そこで明日の料理の食材を買っているのだ。そして買い物袋を提げて、宝石店へ立ち寄る。やっと会うことができるわたしのために指輪を選んでいる。わたしは温かな気持ちで、ウドンから指輪を受け取る。指輪をはめて、二人で手を繋ぎながら、ウドンが暮らす海辺の家と帰るのだ。
 全身が小刻みに震えてきた。ケモノちゃんは『オブラディ、オブラダ』を微かに口ずさんだ。

     @@@@@

 ──すぐ近くまで来たよ。あともう少し。
 ケモノちゃんからのメッセージがスマホの画面を点灯させた。すでに消灯した病室では目を細めなければいけないほど強いブルーライトだ。僕は腕に刺さった針に気をつけて、ベッドの上でゆっくりと上半身を起こした。そしてシンプルな返信文を作成した。
 ──今はどこにいるの?
 ケモノちゃんはすぐに反応した。
 ──わからない。自分がどこにいるのかわからない。でもウドンが送ってきてくれた地図の近くにいるのは確か。
 地図の場所が一体どこなのか、僕にもわからなかった。僕はただ消毒液の匂いが漂うベッドの上でずっと思い描いていただけだった。ケモノちゃんとメッセージを送り合いながら、ケモノちゃんについてずっと想像していた。ケモノちゃんの過去や行動や感じていること、そしてケモノちゃんが想像しているであろう僕自身について想像していた。ケモノちゃんに会いに行くと伝えながら、僕は最初から一歩も病院の外に出ていなかった。ケモノちゃんの方が僕に会いにこようとしてくれたのに、僕はでたらめの地図を送信した。確かに想像のなかの僕は地図の場所でタクシーを降りた。賑やかな市場を見つけ、食材を揃えて、ケモノちゃんのために料理を作ろうとした。ついでに指輪を買って、ケモノちゃんにプレゼントするつもりだった。でもメッセージをやりとりしていた僕はそこにいなかった。人里離れた海辺の病院で点滴の管に繋がれていることはケモノちゃんに隠していた。
 なぜあんな嘘の地図を送ってしまったのだろう、僕はスマホの画面をタップした。送信履歴では間違いなく僕がケモノちゃんに地図を送っていた。会いに行くからと伝えてしまった嘘がばれるのが怖かった。あるいは糖尿病という基礎疾患を抱えた状態で新型ウイルスに感染し、長期入院していることを知られたくなかったことも否定できない。神経障害を起こし、足の指先で壊死が進行していることも知られたくなかった。
 でも僕には嘘の地図を送信した記憶がなかった。さらには僕が出会ったエクレアバッグの女やタクシーの運転手と、ケモノちゃんがタイミングよく遭遇するなど僕は思ってもみなかった。ケモノちゃんが女の首筋を傘の先端で突き刺そうとし、逆に足首をタクシーに轢かれてしまうなんて考えたくもないことだった。それなのに僕は想像していた。あるいは送信していた。いつのまにか他人が用意したものによって強引に操られたみたいに。
「ぶつぶつうるさいよ」
 となりのベッドに横たわる老婆が落ち窪んだ目をこちらに向けていた。肺病に長く罹っていたが、最近になって咳が止み、体力を取り戻している。「まさか今日のことをまだ気にしてんのかい」
「違うよ」僕は苦笑して、スマホをシーツの上に伏せた。
「でも正直に言って」老婆は枕に頬をつけたまま言った。「『濡れた床髪かきあげて竜巻に』なんて、私もちょっとどうかと思うよ。集まったみんなも言ってたけど、情景が浮かんでこないし、いまいち意味がわかんないよ」
「うまく伝えられないだけなんだ」
「いや、短冊に書かれた字には魅力があったよ。でもなんで床が濡れてるのさ」
「床は濡れてない」僕は首を横に振った。「ずっと靴下が濡れてたんだ」
「じゃあそう書きなよ」
「字余りだから」
「リミッターはもう外れてるわよ」
 老婆はそう答えた。リミッター、と老婆は口にした。確かエクレアバッグの女が言った台詞だった。僕が想像のなかで言わせた台詞のはずだった。伏せたスマホがシーツの上に長方形の光を漏らしている。ケモノちゃんからのメッセージだ。
 ──遠くに市場が見えたよ。明かりは消えている。魚の生臭いが流れてくる。足の痛みはあるけど、なんとかたどり着けそう。ウドンは今、あそこにいるんだよね。
 僕は急かされるようにまぶたを閉じる。夜の市場でケモノちゃんが歩いている姿を思い浮かべようとする。ケモノちゃんはまわりを見渡しながら、暗闇のなかに僕の姿を必死で認めようとしている。だけど僕はそこにはいない。いくら神経を総動員させても、僕はケモノちゃんの前に僕自身を立ち上がらせることができない。
 自分は一体どこにいるのだろう、僕はまぶたを開けた。本当に僕は今、病院のベッドの上で点滴に繋がれているのだろうか。もし本当にそうだとしたら、今向こうに見える廊下の端に立っている者は誰なのか。黒いロングコートを羽織り、黒い中折れ帽を被っているのは何者なのか。杖を突き、こちらに背を向けて、身をじっと固くしている。
 いうまでもない。東鬼央だ。東鬼央はいつだってそこにいた。まぶたを開けようが閉じようが、ベッドの上で寝たきりになろうが、街を広い歩幅で歩き回ろうが、東鬼央はいつもそこにいる。いつもそこにいて、どこまでも増殖する自らの屋敷で全てを絡めとろうとする。
 老婆は目を閉じていた。僕の方に顔を向けたまま、肩をゆっくりと上下に揺らしている。眠ってしまったのだろうか。いつも憎まれ口を叩いている性悪な表情はなく、穏やかな死を迎えたような静謐さを漂わせていた。死ぬことでしか、そして眠ることでしか東鬼央から逃れることができない。東鬼央の触手から解放された束の間、老婆はどんな夢を見ているのだろう。
 ケモノちゃんのことを想像しているとき、僕はきっと東鬼央から自由になることができていた。ケモノちゃんの息づかいや指先の震えを追いかけ、ケモノちゃんの心に沈みこみ、そのなかに僕自身を見つけることができた。ケモノちゃんの指が柔らかな毛なみを撫でるとき、僕もケモノちゃんと一緒に包みこまれている感覚を受けた。そこに東鬼央はいなかった。ただ同じ一つの視点を持った僕とケモノちゃんだけがいるだけだった。たとえベッドの上で点滴のチューブに繋がれ、腐りかけの足先を垂らして、もはや身動きができない状態だとしても、僕はまぶたの裏の暗闇で自由になることができた。
 やはり時間はなかった。僕は脚の上のシーツをはねのけた。左腕に刺さった点滴の針を、細胞が潰れる音さえ立てないほど注意深く引き抜いた。そして何日も動かしていなかった二本の脚を両腕で引き寄せ、ベッドの上で膝を立てた。壊死が始まっているのはまだ左足の親指だけだ。ライターの火で焦がされたみたいに爪先あたりが黒く変色している。痛みは断続して走るだろうが、まだ歩くことはできるはずだ。僕はできるだけ衣擦れを起こさないように太腿に力を集中させながら、慎重に足を床に下ろした。ひとまず長い息を吐くと、そばにある引き出しからバンドエイドを取り出し、想像のなかのケモノちゃんと同じように左腕の針の痕に貼った。だが少し離れたロッカーから外出用の服を取り出して着替える余裕はさすがになかった。薄っぺらな入院着と院内用のゴムスリッパで移動するしかない。僕はベッドから立ち上がる前にスマホに文字を入力した。
 ──今から会いにいくよ。
 東鬼央はまだ廊下に立ち尽くして、こちらに背を向けている。僕が病院から出ていこうとしていることに前もって気づき、警戒しているのかもしれない。いや、気づくとか気づかないとかよりも最初から東鬼央はそこに立っていた。僕は東鬼央の前からいなくならなければならない。まぶたの裏だけではなく、僕は本当に東鬼央の前から姿を消し、ケモノちゃんに会いに行かなければならない。たとえでたらめの地図であり、待ち合わせ場所がでたらめの閉鎖した市場であっても、そこには確かにケモノちゃんが待っている。何歳であろうが、体重が何キロであろうが、どんな病気を抱えていようが、そこには本当のケモノちゃんがいる。そして木みたいに痩せて、目の下が黒く、髪に白いものが混じり、足を引きずっている僕があらわれる。僕たちは食糧を買い、歌を歌い、指輪を送り合って、海辺での生活をいつまでも続けていくのだ。
 時間は重要じゃない。ただし今は急がなければならない。呼吸を最小限に抑えて、僕は滑り止め加工が施された床を一歩ずつ進んだ。病室の入り口の壁際に身をぴたりと隠して、薄暗い廊下を窺う。東鬼央は何も変わらず、電信柱のように日常に紛れて立ち尽くしていた。病院から抜け出すためには東鬼央の目を盗むか、それとも東鬼央を殺すしかない。
 僕の手元にはケモノちゃんみたいにビニール傘はなかった。金属の鋭い先端で東鬼央の首を突き刺すことはできない。ならば東鬼央の顔面に向かって思いきり咳きこみ、飛沫をかけてやろうか。あるいは腕のバンドエイドを剥がして、僕の血を東鬼央の口のなかにすり込んでやろうか。東鬼央は新型ウイルスに感染するだろう。だが死に至るまでには時間が掛かりすぎる。僕は目を閉じて、体の隅々に酸素を行き渡らせるように深呼吸をした。手のなかにあるものは何もない。僕ができるのは背後から東鬼央を羽交い締めにして、そのまま床に押し倒し、馬乗りになって東鬼央を殴り殺すことだけだった。『オブラディ、オブラダ』を口ずさみながら、僕は東鬼央の顔面を殴り続ける。眼球をめりこませ、鼻を曲げて、頬骨を砕く。やがて僕は立ち上がる。手を血まみれにしたまま、非常階段を下りていく。壊死した左足をかばいながら階段を一歩ずつ踏みしめていく。後ろからは足音が聞こえてくる。僕と同じ歩幅の足音だ。痛みをこらえながら速度を上げると、足音も同じく速度を上げる。手すりを握る手が東鬼央の生温かい血で滑りそうだ。時間は重要じゃないが、今は急がなければならない。ようやく一階のロビーにたどり着く。誰の姿もない。冷たく静まったフローリングフロアを横切っていくと、背後の足音も高い反響音に変わる。僕は一つのことに気づく。その音が僕に追いつくことは決してない。だからこそ僕のことを永遠に追い続けることができる。
 玄関の自動ドアが開いたとき、僕は再び雨の音を聞いた。地面を細かく切断していくような雨音がまぶたの裏から聞こえてきているものなのか、それとも耳の鼓膜を震わせているものなのか。僕はしばらく夜空を見上げていた。

〈了〉

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