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昭和97年のドブネズミ 第三話

 その日の午後、ドブネズミはJR線で新宿駅まで出た。そして小田急電鉄の窓口で小田原行きの指定席券を買い、いちばん早く出発する特急電車に乗りこんだ。途中の町田駅に到着すると、彼は荷物のリュックサックを肩にかけ、足早に電車の外へ出た。電車が出発しても、彼はホームの雑踏に身を隠すように無目的にあたりを歩き回った。階段を下りて反対側のホームに上がり、しばらく人の後ろに隠れたり、電車を待つ人の列に並ぶふりをした。再び元のホームに戻ると、柱の陰に隠れるように立ち、周囲を注意深く見回した。そして目の前に到着した小田原行きの各駅停車へ、ドアが閉まる直前にすばやく乗りこんだ。できるだけ空いている車両に移動して端の席に座った。数人の乗客はみんなドブネズミから離れたところに座ってスマホを操作したり、文庫本を読んだり、うたた寝をしたりしていた。誰も自分に注意を払っていないことを彼は確かめた。
 ドブネズミはスマホで小田原駅周辺のホテルを検索し、三件めにリストアップされたビジネスホテルを予約した。小田原駅から歩いて五分の場所に建つホテルだ。まだ新築で割引キャンペーンを実施していたが、そういうことは重要ではなかった。利用したことがなく、名前も知らないホテルを優先した。その方が撮影の者に追われる可能性が低いと彼は考えた。
 小田原に到着するまでの間、ドブネズミはスマホで様々なウェブサイトを検索した。元号が表記されているページはどれも令和四年ではなく、昭和九十七年と表記されている。少し迷ったが、彼はうどんにメッセージを送信することにした。
[仕事中なら申し訳ない。どうやら仕掛けは始まっているようだ。目にするすべての令和四年が昭和九十七年に変換されている]
 自分が入力した文章をドブネズミは読み返した。まるでまったくおもしろくない空っぽの冗談のように思えた。冗談のような事実だ。うどんは文章の意味を理解してくれるだろうか。おれの目にする元号をすべて昭和九十七年に書き換える、そんなことはできるわけないと思わないだろうか。そしてそもそも、このような仕掛けにどんな意図があるというのか。
 乗客が増えてくると、ドブネズミは一旦電車を降り、次の各駅停車が到着するのを駅で待った。日は暮れていた。小高い山が見える駅で、屋根のないホームには誰もいない。それでも彼は隠し撮りを警戒して、ホームの端でうつむき立っていた。本当にどこかから撮影されているのか、彼は確信を持てなかった。ただ、薄暗くなったホームで線路が続く先を見ていると、その遠い先の向こうから知らない何かが自分をじっと見ているような感覚を覚えた。
 しばらくして夕闇の中から電車がやってきた。車内に入り、乗客が少ない席に腰を下ろすと、うどんからのメッセージが届いた。
[お疲れさまです。どういうことですか? 昭和九十七年って]
 ドブネズミはため息をついき、すぐに返信した。
[これ以上説明のしようがない。新聞、雑誌、ネット、すべてが令和四年ではなく、昭和九十七年に変わっている。テレビは確認するタイミングがまだない。ちなみに君のところでは令和四年?]
 すぐにうどんから返信が届く。
[たぶん令和四年です。今は外ですか?]
[なるほど。おれだけがまだ昭和の時代を過ごしてるってことだね。今は移動中。君の言ったとおり、自分の部屋にいるのが落ち着かなくなってきた]
[その方がいいです。スタッフが諦めるまで身を隠した方が]
[こんなことができるなんて驚きだよ。雑誌や新聞だけならまだしも、ネットまで]
[スマホをハッキングされてるかも]
[ハッキングしても令和を昭和に変えるなんてことはできないだろう。それにたかがドッキリ番組だ。大掛かりすぎる]
[他にも何かあったら教えてください]
 小田原駅に到着したのは八時近くだった。平日にも関わらず、構内には人々が行き交っていて、名産品を扱う売店もまだ営業していた。ドブネズミはトイレの個室に入って、腕時計を見ながら五分が経過するのを待った。五分が経つと駅を出て、スマホの地図アプリを頼りに予約したビジネスホテルへ向かった。店舗やオフィスビルが並ぶ道路沿いを進み、途中のコンビニで弁当とサンドイッチと缶ビールを買った。
 ホテルは繁華街の端にしがみつくように建っていた。町の景観を保つためかコンクリートを打ちっぱなしにしたシンプルな見栄えで、どちらかというと単身者向けのマンションのように見えた。ドブネズミはホテルに入って、フロントの若い男にチェックインの時間が遅れたことを詫びた。男は丁寧な挨拶をして、キーボードを叩いた。ロビーにはいるのは彼ら二人だけで、クラシック音楽が小さな音量で流されていた。宿泊者が多くないシーズンのはずだが、男はなかなかキーボードを打ち終わらなかった。ドブネズミは男の顔と手元を繰り返し見ていた。やっと部屋の鍵が渡されると、彼は大股でロビーを横切りエレベーターに乗りこんだ。
 部屋の窓からはライトアップされた小田原城が見えた。まるで脈絡を欠いたエピソードみたいに、繁華街の派手な光に囲まれた白い城壁がぼんやり浮かび上がっている。ドブネズミはカーテンを閉めて、コンビニで買った弁当を食べた。そしてシャワーを浴び、ホテルのナイトウェアに着替えると、ベッドの上で壁にもたれて座り、テレビをつけた。彼はチャンネルを何回も変えながら、画面に映し出される元号を探した。あるいはニュース番組のアナウンサーが元号を口にしないか注意深く耳を傾けた。しかしいくらテレビの画面と音声に集中しても、昭和六十五年以降または平成や令和といった単語が表されることはなかった。歴史のドキュメンタリー番組を見ても江戸や明治の時代が扱われているだけだ。ドブネズミは諦めてテレビを消した。
 何かが引っかかった。テレビを消す直前の音声だ。音楽番組でのナレーションが「尾崎豊さんの新作アルバム『五十七歳の地図』が発売……」と告げたように聞こえた。ドブネズミは急いでテレビをつけた。しかし場面はすでに変わり、知らない女の歌手がインタビューに応えている。シンガーソングライターの尾崎豊は二十六歳で死んだ。確か平成四年のことだ。つまり今は平成ではなく、まだ昭和だから尾崎豊も生きているということなのか。彼のデビューアルバム『十七歳の地図』の発売から四十年が経過した今『五十七歳の地図』が発表されたということなのだろうか。
 ドブネズミはテレビを消した。そしてベッドの上で仰向けに横たわり、天井を見つめてため息をついた。確かに「尾崎豊」「五十七歳の地図」という言葉が聞こえた。一体何が起ころうとしているのか、ドブネズミは少し不安な気持ちに襲われた。だがすぐに目を閉じて、首を横に振った。しょせんテレビ番組の企画だ、どんなに不可解なことが起こったとしても、テレビ制作者が作ったただの仕掛けにすぎない。すべてが嘘でやがて元に戻るはずだ。だから彼はもう「五十七歳の地図」をネットで検索しなかったし、たとえ今の状況を隠しカメラで撮影されていようが、大したことではないように思えた。
 同時にドブネズミは微かな胸騒ぎを認めずにはいられなかった。スマホを手に取り、うどんからのメッセージを読み返した。[他にも何かあったら教えてください]。彼は一ヵ月前の打ち合わせのことを思い出していた。彼はそれまでと同じ丁寧な態度で打ち合わせに臨んだはずだった。しかしなぜか先方の担当者の機嫌を損ねてしまった。そして、そのことがきっかけで仕事を辞めることになった。もしかしたらあのときからすでに番組の仕掛けは始まっていたのだろうか。
 明日もおそらく何かが起こる。それが本当にテレビ番組の仕掛けなのかどうか、おれに判別がつくのだろうか。現実に起こったことが誰かの手によって作られたものなのか、果たしておれにわかるのだろうか。むしろ、誰の手にも作られていない現実などあるのだろうか。そんなことをベッドの上で考えていると、確かにまだ昭和は終わっていないかもしれない、ふとそんな気がした。ここしばらく三十五年前のことを思い出していたせいもあるかもしれない。あるいは昭和九十七年という言葉が下水道で暮らしていた時代へ自分を導いているような、そんな境目のない気持ちになっていた。
 うどんからメッセージが届いた。
[まだ外にいますか?]
 ドブネズミはぼんやりしたまま返事を送信した。
[ホテル]
[都内の?]
[小田原のホテル。窓から小田原城が見える]
[やっぱり。夕方頃から急にまわりのスタッフの人数が少なくなって]
[撮影は本当に行われているんだね。おれの居場所もちゃんと把握してるってことだ]
[たぶんそういうことだと思います]
[君の音楽活動は順調?]
[今日はスタジオでデビューライブのリハに明け暮れてました]
[疲れただろう。ゆっくり休んだ方がいい]
[ありがとう。というかなんで小田原なんですか?]
[昔の知り合いが住んでいる。会えるかどうかわからないけど]
[その人も撮られちゃうかも。くれぐれも気をつけてください]
 ドブネズミはそこで間を置き、再びメッセージを送信した。
[五十七歳の地図っていう曲は聞いたことある?]
[なんですかそれ、演歌?]
[尾崎豊の新譜]
[あ、尾崎豊知ってます。シェリー、I LOVE YOU、あとは卒業]
[今夜は懐かしんで眠ることにするよ]
 ドブネズミは、泊まっているホテルのホームページアドレスを貼りつけて送信した。
[ありがとうございます。教えてくれて]
 ドブネズミはスマホを枕元の棚に置いた。そして部屋の電気を消して目を閉じた。とりあえず尾崎豊は実在していたようだった。そういえばブルーハーツが解散したのは平成七年だ。平成以降は存在していないということなら、彼らもまだ解散していないことになるのか。平成元年に死んだ美空ひばりや『十九歳の地図』を書いた中上健次も生きているかもしれない。だがジャニス・ジョプリンは死に、ジョン・レノンは死に、石原裕次郎は死に、矢吹丈は微笑みを浮かべながら死に続けている。そんなあてのない生き死にを思い浮かべながら、ドブネズミは眠りに落ちた。

 翌朝、ドブネズミはリュックサックから古い手帳を取り出した。うどんには昔の知り合いだと伝えたが、実際は会ったことのない人物だった。三十代の頃、あることがきっかけでその人物の住所を知ることができた。ドブネズミは手帳に書かれた住所をスマホの地図アプリに入力した。ホテルから歩いて二十分ほどの場所だ。まだそこに住んでいるかわからないし、まだ住んでいるとしてもうどんの言葉のとおり顔を合わせるのは避けた方がいいだろう。カメラに撮影されるかもしれない。まずはこの小田原に住んでいるのかどうかを確かめるだけだ。
 昨夜買ったサンドイッチを食べて荷物をまとめると、ドブネズミはロビーに下りた。フロントにはチェックインしたときと同じ男が立っていた。ドブネズミは部屋の鍵を戻し、クレジットカードで料金を支払うことを伝えた。だがクレジットカードをカードリーダーに差しこんでも、確認中の文字がしばらく消えず、結局エラーの状態になった。カードを差し直しても、あるいはフロントの男が代わりにカードを差し込んでも結果は同じだった。男は困惑した表情を浮かべた。
「申し訳ございません。こちらのカードはご使用できないようでございます」
 確か一週間ほど前に、飲食店のレジでそのカードを使ったことをドブネズミは憶えていた。もちろんそのときは正常に機能していたし、カードの限度金額にもまだ達していないはずだ。カードがどこかで強い磁気を帯びて読み取れなくなってしまったのかもしれない。ドブネズミは財布から一万円札を取り出して、カウンターの上に置いた。
「お客様、申し訳ございません」男は緊張した様子で頭を下げた。
「現金は使えないんですか?」ドブネズミは訊ねた。
「いえ、お客様」男は言った。「現金はご使用できます。ただし、お客様の現金におかれましてはご使用ができないのです」
 ドブネズミはしばらく男の顔を見つめた。二十代ぐらいの風貌で、申し訳なさそうに一万円札に視線を落としている。
「どういうことだろう。私の現金が使えないって」
「そういうことになっておりまして」
「テレビ番組の企画だろう」
「テレビ?」男は目を見開き、不思議そうな表情を浮かべた。
「ディレクターから指示されて、どこかからカメラで撮影していることは大体わかってる」
 男は不安そうにドブネズミを見つめながら、会話の意味をなんとか理解しようと努めていた。
「申し訳ございません、お客様。何のことか私にはわかりかねます」
 ではどうやって代金を支払えばいいのか、という言葉をドブネズミは口にしなかった。男にも答えようがない質問だろう。ドブネズミはカウンターの上の一万円札を指差した。
「これは私の金じゃない。他の誰かが私の料金を支払ってくれた、そう思ってくれればいい」
 ドブネズミはフロントに背を向けて歩き出した。後ろから男が大声で何度か呼び止めたが、彼は足を止めなかった。
 ホテルを出ると、スマホの地図アプリを立ち上げて目的の住所を確認した。海の方へ続く道路沿いをしばらく進み、いくつか角を曲がればいい。彼は歩きながら、ときどきあたりを見回した。車も人もちらほらと目にする程度だ。どこかに撮影スタッフが潜んでいるはずだが、それらしき人影は見当たらない。もしかしたらと空を見回した。ドローンによる空撮の可能性が頭をよぎった。だがよく晴れた空では、とんびが気持ちよさそうにゆったりと舞っているだけだった。
 お客様の現金はご使用できません──ホテルの男の言葉が引っ掛かっていた。途中に自動販売機があったので、ドブネズミはためしに財布から取り出した硬貨を投入した。彼の硬貨は機械に認識されず、返却口にすべて戻ってきた。もう一度繰り返しても同じだった。少し歩いた先にあった別の自動販売機でも、ドブネズミの金は一切受け付けられなかった。契約の切れた無価値の金属片に成り果てたように、乾いた音が返却口で響くだけだった。ドブネズミは自動販売機を背にしてその場に立ち尽くした。ときどき目の前を車が通り過ぎる。小田原に向かうことは誰にも言っていない。知っているのは、切符を購入したときの職員と昨夜メッセージを送信したうどんの二人だ。万が一、その二人から撮影スタッフに自分の居場所が伝わったとしても、自分を騙すために小田原の路上の自動販売機を入れ替えること、もしくは設置することなんて現実的に不可能だった。さらにおれが自動販売機を使わない可能性も考慮すれば、なおさら非現実的な作業だ。
 これは本当にテレビ番組の仕掛けなのだろうか──ドブネズミは再び歩き出した。ドッキリ番組に出演したことは一度もないが、うどんが言ったとおり一般的な騙しの度合いを明らかに越えている。むしろおれが自分の金を使えなくなったことを現実だと捉える方が無理はなさそうだ。あり得ないことなのに、そう思う方がしっくりくる。おれは金を使えない、ドブネズミは頭の中で言葉にしてみた。そしておれはまだ昭和の時代を生きている。
 ドブネズミはスマホを取り出して、うどんにメッセージを送った。
[次は自分の金を使えなくなった。カードも使えない]
 おそらくうどんは今日もライブのリハーサルだろう、ドブネズミは思った。今頃『リンダリンダ』を一生懸命歌っているはずだ。この企画がうまくいけば、彼女のバンドも注目を浴びることになるのだろう。
 あと十分ほどで目的の住所に着く。地図アプリの案内どおりに角を曲がると、道の先は住宅街だった。向こうから自転車に乗った女が近づいてくる。眼鏡をかけた細身の女で、買い物帰りなのか自転車のかごにはスーパーの袋が入っている。女は遠くからドブネズミをじっと見ていたが、近づくにつれて眉をひそめ、嫌なものでも見てしまったみたいに目を逸らした。そしてドブネズミとすれ違うときにスピードを上げ、彼を避けるため大きく湾曲するように自転車のハンドルを切った。ドブネズミは振り返ってしばらく女の背中を見た。
 今度は、二人の女が数人の子どもを前から引き連れてきた。保育園での散歩のようで、園児たちが左右にふらふら進むのを、保育士が手を引いて戻している。まず先頭の若い保育士がドブネズミに気づいた。彼女は小さな叫び声を上げ、足を止めた。そしてドブネズミと距離を取るように園児たちに声をかけた。ドブネズミを目にした園児たちは大声を出したり指を差したりして、近づこうとする子もいれば、急いで走り去ろうとする子もいた。後ろにつく保育士は年配で、ドブネズミとすれ違うときも落ち着いて園児たちの列を乱さないようにした。
 園児たちが行ってしまうと、ドブネズミは目立たないように道の端を歩くことにした。歩きながら、自分の身なりを確認した。変わったところはどこにもない。ないのであれば思いあたることは一つだ、それしかない──おれはドブネズミそのものに戻ろうとしている。あるいは戻されようとしている。ドブネズミはそう確信した。ドブネズミそのものに金やクレジットカードは使えないし、ドブネズミそのものを目にした人は後ずさりをして逃げていく。彼はすれ違ったときの相手の顔を思い浮かべた。自転車に乗った女も保育士の二人も、泥水でも飲まされたかのような嫌悪の表情でドブネズミから目を逸らした。それは彼自身が昔からよく知っている、まさにドブネズミそのものを目にした人々の反応だった。
 それだけではない。彼女たちはマスクをつけていなかった。確かにそうだ、不安そうに歪んだ口元を彼ははっきり憶えていた。それは昭和が続いていることを示しているのか。今は令和ではない。つまり新型コロナウイルスは発生していないことを示しているのだろうか。そうであれば、おれはたんにドブネズミそのものに戻ろうとしているのではない。下水道を棲み家にしていた昭和の時代、そのときの自分におれは戻ろうとしている。
 どこからどこまでがテレビ番組の仕掛けなのか、やはりドブネズミには判別ができなかった。ただ、判別ができないとしても、何かが彼に影響を及ぼしていることは明らかだった。起こっているすべてのことが、彼のまわりを現実という深い溝で取り囲もうとしていた。すべてが嘘でいずれ元に戻る、そんなふうには次第に思えなくなった。うどんは言った。「それはドブネズミさんの存在を根底から激しく傷つけるものです」。ドブネズミの首のまわりにはねっとりとした嫌な汗が滲んでいた。もしドブネズミそのものに戻るのであればいずれ言葉も使えなくなる、それがドブネズミそのものなのだ。彼は首の汗をゆっくりと拭った。
 地図アプリの案内は、左側にある細い路地に入るように指示していた。路地はひと一人分ほどの幅しかない砂利道で、両側から長く手入れがされていない植えこみが枝を伸ばしている。ドブネズミは路地を進んだ。その先に彼の自宅があるはずだった。かつて千葉県浦安市のテーマパークでマスコットキャラクターを演じていたネズミ。昭和五十八年に開園されるとき、茨城の下水道でスカウトされたネズミの家だ。
 ドブネズミが彼の住所を知ったのは、当時彼のスカウトに関わった広告代理店の担当者と偶然話をしたときだった。担当者の話によると、彼は初代マスコットキャラクターとしての役を十年近く務めた後、誰にも気づかれないように次のネズミと交代し、自分はひっそりと引退して小田原の古い民家に移り住んだということだった。その話にドブネズミは興味を惹かれ、詳しい住所まで聞くことになった。だからといって、会いたいという気がそのとき起きたわけではなかった。ただ、同じネズミの彼が小田原にいることをなんとなく留めておきたいだけだった。
 家は木造の平家だった。玄関は引き戸で、磨りガラスにひびが入り、木の桟には固まった埃がこびりついていた。窓ガラスの向こう側に明かりが点いている様子はない。ドブネズミは戸をノックすることをためらった。彼がまだここに住んでいるかを確かめるだけのつもりだった。彼は誰にも会いたくないかもしれないし、彼の迷惑になる可能性の方が大きい。しかしドブネズミは戸をノックしていた。彼の首まわりに汗をかかせたものが彼に戸を叩かせていた。ノックの音が路地に大きく響く。しばらく待っても反応はなかった。磨りガラスの向こう側で影がうごめく気配もない。
 そのとき、背後の植えこみで何かが動いた。ドブネズミが振り返った瞬間、黒いシャツを着た何者かが植えこみの奥に姿を隠した。ドブネズミは反射的に路地から抜け出した。そして住宅街の広い道に出て、その場から離れようと一気に走り出した。かつて新宿の街を駆け回っていたときのような疾走だった。彼は走りながら、人影が手にしていたものを頭の中で確かめていた。それはカメラだった。黒い小型ビデオカメラのレンズが鋭く反射したのを彼は見逃さなかった。

第4話:https://note.com/osamushinohara/n/n5a47d3f26410

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