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あなたも魚だったから

 水をこぼしたことがないんです──眉のない男はそう微笑んでみせた。だが微笑ましいことなんて何もないことに気づいたのか、すぐに視線を下げて、グラスに結露した水滴をおしぼりで拭いた。え、なになに、どういうこと、騒がしい声をかきわけて、横に座る眼鏡の女が男を覗きこむ。たとえばこういう飲み会とかでコップを倒したことがないってこと? ちょっと待って、この世に生を受けてから一度もないっていう意味?
 顎をとなりに向けて、眉のない男は遠慮がちに頷いた。お店でもありませんし、家でもありません。こういった水滴がテーブルに滴るのも、先に拭き取っちゃいます。人より神経質だという自覚はないんですが、水、というか液体をこぼした経験がないんです。
 へえ、そうなんだ、すごいね、と女は眼鏡の奥を指でこすりながら体勢を戻した。そして自分の小皿に選り分けていた唐揚げを黙々と咀嚼した後、反対側に座るネクタイの男にあらためて向かい、新作アニメの話題を持ちかけた。生まれてから水をこぼしたことがない話はそんなふうに隙間なく並んだ食器のあいだに落ちていった。眉のない男もまるで気にしていないようにカマンベールチーズ入りのサラダに箸を伸ばした。
 ある一つの販促プロジェクトが立ち上がり、まずは決起集会のもとに販売会社、広告代理店、制作会社、それぞれの担当者が膝を突きあわせて親睦を深めようと三社合同の酒席がもたれた。知っている人もいれば、初めての人もいて、各席はざわめいていた。離れた席に座っていた眼鏡の女には会釈をしたことがあり、眉のない男には会ったことがなかった。みなとさんの会社には販売ノルマってあるんですか? と偶然となりに座った男から訊ねられた。このプロジェクトって実質は湊さんが引っぱっていくんでしょうし、僕は楽しみっすよ。もう片方からは、同じ女性として憧れます、もちろん責任のある立場で大変なのは大前提として。また少人数で飲みにいきましょうよ、もっと話聞かせてほしいし──そんな若い男女のラリーに挟まれながら、わたしは相槌のタイミングと返す言葉を間違えないようになんとか会話についていった。だんだんと壁にもたれ、大皿の端に残った料理をつまみ、ときどきハイボールを口にして、笑ったり頷いたりしていると、十時を過ぎた。最後にわたしの上司が参加者の士気を高めようと口上を述べているあいだに、こっそり靴を履いてレジで勘定を済ませにいった。領収書を財布に入れ、トイレを済ませてから席に戻ろうとすると、みんな荷物を持って店から出るところだった。湊さんは二軒目どうする? と上司が小声で訊ねた。すみません明日早いので、とわたしは自分のバッグを取りにいった。店を出ると、風が吹いていた。秋立ちにしては冷たい。駅に向かう者たちと二軒目に向かう者たちに別れ、わたしはどちらでもないところに一人で立っていた。会社に忘れ物をしたんでと大袈裟に手を振って立ち去ることにした。目を細めると、眉のない男は駅に向かう者たちの方に紛れているのが見えた。
 何杯かおかわりをしたハイボールのせいか、首の後ろが汗ばんでいた。いや、違う種類の汗かもしれないなと思い直すと、鳩尾みぞおちあたりが締めつけられる感じがして、コンビニでペットボトルのジャスミン茶を買うことにした。わたしは会社に忘れ物などしない。残るものなどきれいになくして毎日仕事を終える。水をこぼしたことなどないと頭の中で繰り返した。そう、何も残したくないし、何もこぼしたくない。そうやって毎晩ベッドの中でぐっすり眠りについている。だけど眉のない男の言葉を耳にして思い出した。憶えのない記録が残っていた。
 コンビニを出ると、スマホに届いている通知を無視して、地図アプリを開いた。自分の足跡が残るなんて知らなかった。ある朝に後輩の営業社員が、昨夜の飲みで記憶を失くしちゃって一応スマホで確かめたらまっすぐ家に帰ってたんでとりあえずほっとしました、と笑っていた。初期設定のままでは自分の行動履歴が残るらしく、わたしは後輩に教えてもらいながら地図アプリのメニューを一つずつタップした。過去半年間の自分の足跡が地図上の青いラインによって記録されている。日付を選択すれば、その日に訪れたルートが時刻と共に表示される。自宅、会社、コンビニ、スーパー、美容室、ときどき居酒屋……実は知らぬ間に自分の行動が保存されていたことに最初はぎょっとしたが、青い足跡が日々代わり映えのしない多角形を描いていることを認めると、少し落ちこんだことを憶えている。わたしの足跡なんてわざわざ記録に残すほどじゃない。むしろこのラインに従うためにいつも行動している気さえした。ただよく確かめると、会社を出た後にまっすぐ駅に向かっていない日があった。飲食店でもコンビニでも書店でもない、会社から徒歩で二十分ほどの場所をわたしは訪れていた。そこに何があるのか、自分でも思い出せなかった。たぶん思い出せないぐらいだから大したことじゃない。もしくはGPSの中継地点でバグでも起きたんだろうと息を吸ったところで、デスクの電話が鳴り、結局地図アプリの初期設定を変更しそびれた。
 雑居ビルがひしめく夜空に向かってジャスミン茶を一口飲み、プラスチックのキャップを強く閉めた。地図アプリの記録を確かめると、一週間前にもわたしはそこを訪れていた。まだ一週間前の記憶を失う年齢じゃないはずだと、ハイボールの勢いもあってペットボトルを強く握りしめた。わたしはそこに行っていない。そこがどこかも知らない。知らない場所をなぜ訪れているのか。わたしが訪れていないとしたら、訪れているのは誰なのか。何も残したくないし、何もこぼしたくない。わたしはスマホに視線を落としながら、自分の青い足跡を追うことにした。
 居酒屋やカラオケ店の並ぶ通りにはまだ人だかりができていた。大声で笑い、道端にしゃがみ、頭を下げたり、タクシーに乗りこもうとしていた。大きな男にぶつかられ、よろめいた。寸前まで顔をくしゃくしゃにしてふざけていた男は急に真顔になって、怪我なかったですかと声のトーンを低くした。わたしは体勢を立て直し、何も答えずに、頭を下げて離れた。それでも男は気がかりでもあるように遠くから視線をこちらに向けていた。
 駅前を通り過ぎ、信号を渡るたびに人の姿が少なくなった。高速道路の下をくぐると、店の明かりは目立たなくなった。路肩でハザードランプを点けている乗用車からは遠ざかることにした。自分の現在地を示す地図アプリ上の点滅は駅からどんどん離れていく。このまま青い足跡のとおりに郵便局を左に曲がり、細い道路をしばらく直進して、印刷所を右に曲がるとさらに細い道に入る。そんな郵便局にも印刷所にも見憶えがなかった。やっぱりここに来たことがない。
 印刷所から伸びる道の前で立ち止まり、ジャスミン茶を口につけた。ふと夢遊病という単語が思い浮かび、ついでに小学生のときに家族でキャンプに行ったことを連想した。コンロの扱いを間違い、危うく火を大きくしてしまったわたしを父は激しく叱った。その後は何を食べても飲んでもまるで味がせず、テントの中では火傷で痛む指先を握りながら、寝つくまでにずいぶんと時間がかかった。そして目を覚ますと、わたしは山の中に立っていた。パジャマ姿で、裸足のまま、真っ暗な木々のあいだで覚醒していた。眠りながらここまで歩いてきたのだと一瞬で理解できた。そういう夢を見ていたのかもしれない。足の裏が土まみれだったが、わたしはとても冷静な気持ちでテントまで戻ろうと思った。火傷の指先もなぜか気にならなかった。迷うことなく三分ほど山中を進み、当然のようにテントを見つけると、家族の寝静まっている姿を確かめて、何もなかったように再び眠ることにした。夢遊したのはその一度きりだ。三十年以上前のこと。それからマンションの廊下だとかアスファルトの路上で目を覚ましたことなんてない。目を覚ましたことがないのに、なぜそんなことを思い出しているのか。目を覚ましていないだけで、実は眠ったままここまで歩いてきたのか。スマホを見下ろすと、青い足跡はあと少しの先で途切れていた。街灯がまばらでよく見えないが、古いビルやアパートが並んでいるだけの道だった。
 手元のスマホとあたりの建物を見比べながら、わたしはゆっくり道を進んだ。足跡の終点と現在地の点滅が重なった。そこには道があった。片方に窓のない真四角の建物があり、もう片方には金網に囲まれた砂利敷きの駐車場が広がっている。その隙間に二メートル幅の道が伸びていた。わたしは地図アプリを拡大した。確かに真四角の建物らしきスペースが線で区切られ、駐車場らしきスペースも区切られている。ただしそのあいだに道はない。地図では建物と駐車場がぴたりとくっついている。すでにアルコールはわたしの体から抜け落ちている。それでも地図には存在しない道が真夜中の山中みたいな静けさで暗闇へと伸びていた。
 短い雑草があちこちに生えたり、アスファルトが細かく欠けたりして、最近作られた道のようではなかった。私道かもしれなかった。何かの事情で所有者が掲載しないようにと地図会社と約束した可能性もある。どんな事情なのか知る由もない。どんな事情だろうと、わたしがここにくる理由と繋がっているとは思えなかった。ここで足跡が途切れているのは、地図アプリで存在しない道など記録できないからなのか。
 喉が渇いていた。ペットボトルの蓋を開けて、ジャスミン茶を底まで飲み干した。道に目を向け、自分がそこを進む姿を思い浮かべた。奥には植えこみの枝らしきものが伸びているようにも見え、石柱らしきものが反射しているようにも見えたが、濃い暗闇に覆われて判然としなかった。ひんやりとくゆる闇。酔いが醒めた今、そんな不可解な場所へ進み入るつもりはなかった。それはただのバグなのだ。叱責された小学生が間違って山中で目覚めてしまうのと同じこと。一体わたしは何をしているんだろう。スマホのアプリを切り替え、何事もなかったように電車の時間を調べることにした。
「湊さん、ですよね」
 その声にわたしは反射的に顔を向けた。駐車場から聞こえたのは男の声だった。数台停まっている車のうちの一台に男は手を触れていた。ちょうど運転席のドアを開けるか閉めるかしたところなのか、ボンネット越しにこちらを見つめている。
「やっぱりそうだ。奇遇ですね」男は砂利を踏みしめる音を立てながら、駐車場を横断してこちらに近づいてきた。男の顔には眉がなかった。水をこぼしたことのない男だ。名前を思い出さねばと、砂利の音ががりがりと記憶の側面を引っかいていた。飲み会の冒頭で一人ずつ自己紹介があったのだ。確か制作会社にデザイナーとして勤めていると言っていた。だけど名前は思い出せない。男の名前も皿のあいだに落ちてしまったか。
「先ほどはどうも」
 わたしは駐車場の柵から出てきた男に会釈をした。
「このあたりにお住まいなんですか。あ、柳本やなぎもとです」わたしの反応から察したのか、男は自ら名乗った。
 わたしは口角を上げて、首を小さく横に振った。「いえ、ちょっと酔い覚ましにコーヒーでも飲もうかなって。ぷらぷらと」
「夜の散歩にはちょうどいい季節ですね」
「柳本さんは」
「僕、車通勤なんです」柳本さんは眉あたりの皮膚を持ち上げ、親指を立てて背後の車を指した。「酒は飲んでいないですよ。さっきの店でもずっと烏龍茶でした。情けないけど下戸ですから。いつもは会社近くの駐車場に停めてるんですけど、こういう日は時間貸しを事前に探しておくんです。珍しいですよね、こんな都会に砂利敷きの時間貸しって」
「これからお帰りですか」わたしは空のペットボトルをバッグの中に押しこんだ。
「駅まではみなさんと一緒でしたが、ちょっと電話しなくちゃいけないんでって別れちゃいました。車で帰るって言うと、話が長くなるもので」
「乗せてってくれって頼まれることもあるし」わたしは冗談めかした。
「そういう経験もないことはありません」柳本さんも首を傾けて微笑んだ。「だから酒の飲めない僕でも誘われるんでしょう」
 しばらく沈黙した後、柳本さんは言った。「そうだ、湊さん。せっかくだからもう一軒寄っていきませんか。仕事の話もしたいし。狭いですが、ちょっと変わった店が近くにあるんです。お酒もソフトドリンクも置いてあります。僕自身は飲めませんが、仕事柄いろんな店の情報は集まってきまして」
 柳本さんは店のあるらしい方に向かって目を細めた。眉がないと、目の動きが目立つ。それがわかっていて、この男は二つの目を忙しく動かしているのかもしれないと思った。ひょろ長い手脚となで肩が自分より年下に思わせた。
「安心してください。わたしは車で送ってくれなんて言いませんから」
 会社に忘れ物をしたなどと口にした後ろめたさもあり、わたしは頷いた。
「わかってます」柳本さんは苦笑した。「歩いて行きましょう。ちなみに地図アプリの行動履歴はオンにした方がいいかもしれません。その店はホームページがありませんし、かなり入り組んだ場所にあるので、また来たくなったときにでも」
 わたしと柳本さんは細い夜道を歩きだした。何気なく振り返ると、柳本さんが触れていた車が白くきれいな反射を見せた。

 一度明るい道路に出てから、身を潜めるように再び薄暗い路地に入った。肩がぶつかりそうな裏道を右へ左へと揺れたりしながら、店の前に到着した。おそらくわたしが生まれる前からそこにある風情の建物で、蔦が壁に這っているこぢんまりとした三階建てだった。土台には石が積まれ、長年雨風に耐え忍んできたような色褪せた木のドアがぴたりと閉じられている。看板らしきものは見あたらず、小さなピンライトが一つ、ドアを照らしているだけだ。
「ここです」柳本さんはドアを開けた。
 後について足を踏み入れると、水槽がまず目についた。奥まで続く細長い壁面に水槽が同じ長さで組みこまれていた。たんに市販の水槽をいくつも並べたのではなく、継ぎ目のない長い水槽がオーダーメイドされたのはなんとなくわかった。天井から群青のライティングが水中を照らしているが、白砂の上に水草は一房もなく、ただ水がゆらめいている。どこかから深海の一部を切り取ってきて、そのまま壁にはめこんだふうでもあった。
「ささやかな水族館みたいなものです」
 柳本さんはそう言うと、カウンターの席をわたしに勧めた。「大きな水族館はいくらでもあるし、自分で作ることはとてもできない。でも小さく個人的な水族館だったら自分でもできるんじゃないかってマスターは考えたようです」
 手を向けられた人はカウンターの中に立っていた。額が広がっていて、白髪が耳の上に短く揃えられている。黒縁の眼鏡をかけ、白い髭の中で口元を柔らかく持ち上げると、短く挨拶をした。柳本さんはテーブルの上のメニューを差し向けた。わたしがアイスコーヒーを指すと、柳本さんはやはり烏龍茶を注文した。
「僕のとなりに座っていた女性がいたでしょう」柳本さんは言った。
「あ、ええ」わたしは唐揚げを頬張っていた姿を思い出した。
「あの人にこっそり誘われたんです。二軒目に行きませんかって」
「そうですか」
 柳本さんを誘った女の会社は広告代理店としては中堅で、今後ウェブの細かいところまでプロジェクトを展開するなら、もっと専門的な代理店を選択肢として持っておいた方がいいとか、入り口は販売価格を下げるキャンペーン期間を設けるのが王道だとか、まずは根本となる広告イメージを何パターンか提案しますねといったことを柳本さんは話した。烏龍茶には運ばれたときに少し口をつけただけだった。そのあいだわたしはストローでアイスコーヒーを吸いこみ、ときどき水槽を見渡した。水中に目を凝らす。視線を戻すと、柳本さんはおしぼりでグラスの水滴を拭いていた。
「つい聞こえてきたんです」わたしはをはかって言ってみた。「居酒屋でとなりの方に話されていましたよね」
「何か言ってましたっけ、僕」柳田さんはわたしのアイスコーヒーを見た。
「水をこぼしたことがないって」
「はは」柳田さんは眉のない目を細めた。「ええ、ないですよ」
「生まれたから一度も」
「えっと、さすがに赤ん坊のときはあったでしょうね。よだれ掛けにカップを落としたぐらいは。でも幼稚園から小学生に上がる物心がつく頃ぐらいからは記憶がないんです。手を滑らせたり、肘を当てたりしたことが不思議とないんですよ」
「それはすごい……のかな。たとえばボタンを掛け間違えたことがないとか、曲がる道を間違えたことがないとか、そういうのと同じことなんでしょうか」
「別にすごくはありません。もちろんわざとこぼすことはできますけど、それじゃあ本当にこぼしたことにはならないし」
「バグのない人」わたしは言ってみた。
「でも道は間違えますし、ボタンも掛け間違えますよ。そして眉はない」柳田さんは微笑んだ。「水の話をすると、よく疑われます。ただ憶えがないだけで、実は気づかずに誰かの水をこぼしているんじゃないかって。そう言われると何とも返しようがないですが、ただ無意識でも水をこぼすと、誰でも気づきますよね。だけど水をこぼしたことがないなんて私を馬鹿にしてるのって怒られたこともあります。付き合って間もない相手でした。さすがにそのときは自分を恨みましたね。ただ水をこぼしたことがないだけの人生なのに。バクがないんじゃなくて、これもある種のバグかもしれません」
 音楽のない店だった。マスターはカウンターの奥でただ機械工のようにグラスを磨いており、柳田さんの声だけがわたしの耳に届いていた。水族館みたいなものと柳田さんは言った。ささやかなという条件がついても、そんなふうには見えない。もしかして憶えのない足跡はこの店に続いていたのではと一瞬錯覚した。柳田さんはまるで力を入れていないような手つきでグラスをつかみ、音もなくするりと烏龍茶を飲む。
「魚はどこに」わたしは水槽を振り返って訊ねた。
「水槽を泳いでいますよ」柳田さんはグラスを置いた。
「見えないんです。いないようにしか」
「ここからじゃ反射で見えにくいのかもしれない。魚はいますよね、マスター」
 マスターは顔を上げ、くいと頷いた。
「魚のいない水族館と水をこぼしたことがない男、不具合さのレベルはどちらが高いんでしょうかね」柳田さんは自嘲気味に首をひねった。「そういえば湊さんはどうなんですか。さっき、あんな誰も通らない道で、本当は何をされていたんですか」
「だから、ぷらぷら」
「ぷらぷらしているだけで、あんな暗い道には入らないですよ」
「どうでしょう。わからないな」
「湊さんの知らない理由があそこにあったのかな。僕、びっくりしたんですよ。湊さんが立っているのを見つけて」
「そんなふうには見えませんでしたよ」
「じゃあどんなふうに見えました?」柳田さんは眉のない目でわたしを覗きこんだ。「本当に僕が自分の車に乗ろうとしているように見えましたか。本当はあの車を盗もうとしているように見えませんでしたか。それが湊さんに見つかりそうになって、冷静さを装っているようには見えませんでしたか」
 柳田さんの目は黒く平板なものに変わっていた。そんな目のまま壁の水槽に体を向けた。そして「ここの椅子にじっと座っていると、ときどき不思議な気持ちになるんです」と泳いでいるはずのない魚に言った。「本当に見られているのは自分の方なんじゃないかって。たとえば今僕は湊さんを見ていますが、本当は僕の見ている湊さんに見られている自分に見られているんじゃないか。つまりこれだけ長く大きい水槽に囲まれていると、自分の方が魚のような気がしてくるんです。実は地図のない海を泳いでいるのを、ときどきこうやって確かめにきてるんだろうって。湊さんも本当はそんな感じであの場所に立っていたんじゃないかな。本当はなにか不具合なバグが自分自身に起きてほしいって」
 また首の後ろに汗が滲んでいた。うまく声を出せないほど喉が渇いていたが、アイスコーヒーはすでに空だった。やはり魚は見あたらない。魚は柳田さんであり、わたしであり、誰かに見られながら水槽を泳いでいるのか。水なんてこぼれ落ちて、窒息してしまえばいい。販促プロジェクトなんて粉々に崩れる方がいいのかもしれない。
「あまり真剣に取らないでくださいね」柳田さんは烏龍茶のグラスに指先をつけた。「車を盗もうとしてたなんて冗談ですよ。キーだってちゃんと持ってますから。来月あたまのミーティングには具体的な提案をさせてもらいます。そのときは真剣にやり合いましょう」
 わたしは立ち上がり、店を出た。波一つ立っていないほど静かな空気だった。後ろから柳田さんが声をかけてくる。見まわすと、アップライトに照らされたホテルがぽつぽつ建っている。わたしと柳田さんはその中の一つに身を隠す。わたしがシャワーを浴びていると、柳田さんも裸になって入ってくる。先に出ると、バスタオルでしっかり体を拭いた柳田さんが近寄ってくる。肩にも背中にも膝の裏にも水滴はついていない。絡みつく舌も乾いたスポンジのようだ。わたしはこんなに水滴にまみれているのに、柳田さんは少しも濡れていない。わたしから流れ落ちる液体を一滴もこぼさないよう柳田さんの体が吸収しているみたいだ。わたしは柳田さんとセックスしていたのかもしれない。青い足跡は柳田さんとセックスしにいくたびに記録されていたものかもしれない。そこは地図にない道から先にある場所だ。
 目を凝らすと、足跡が途切れた道の奥に、植えこみの枝らしきものがはっきりと見えた。石柱も何本か神社のような風情で立っている。そこでわたしはやっと地図アプリの記録機能をオフにした。踵を返す。駅までの道のりははっきりとわかっている。柳田さんは駐車場から車を動かして、夜の中へと消えていった。やっぱりあの男は車を盗んでいったのかもしれない。
 駅に着くまでに決めてしまいたいことがあった。だけど突然降りだした雨に、わたしはひとまず駆け出すことにした。
                                  〈了〉2023年作

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