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フルード

 音が見えてくる──くっちゃくちゃ、くっちゃくちゃ、くっちゃくちゃ。重なったり離れたりしている上顎と下顎。テーブルの上に置かれた烏賊の刺身を咀嚼しているのは、夫のかおるだ。向かいに座って満足そうに微笑みかけてくる。右手に箸、左手に茶碗、そして休日用のカーディガンにネクタイを締めている。頬を持ち上げて、奥歯で烏賊の身をすり潰している。粘ついた唾液の糸を引き、烏賊の形が失われるまで分解しようとしている。だんだん薫の笑顔がくっちゃくちゃという音そのものに変化してくる。空気が弾力を持ち、輪郭線が波を打って、表面に光を反射させている。さっさと飲みこめ、そう私は苛つく。スーパーの値引きシールが貼られた安物を食べさせられている当てつけかよ。微笑むことをやめない薫から私は視線を外し、テーブルに並んだ料理を見回す。食べる気なんて少しも起きない。薫が視界に入るたび、腋の下の強い酸臭が鼻をつく。二の腕がぷつぷつと泡立ってくる。これがくっちゃくちゃの形なのか。首の後ろに油っぽい汗が滲む。いつのまにか部屋中のあらゆる鋭角が丸みを帯びている。テーブルの角はなめらかになり、箸の先端は押し潰され、薫の眼鏡のフレームはぐにゃりと曲がっている。壁と天井は息づくように歪み、立ち上がろうとすると床が柔らかく沈んだ。充分にされた巨大なチューイングガムに閉じこめられているみたいだ。逃げ出そうとしても床に力が伝わらず、うまく前に進むことができない。振り返ると、くっちゃくちゃの薫は席に着いたまま、馬鹿みたいにまだ笑っている。臭いし、湿っぽいし、手応えがないし、苛つく音。私はくっちゃくちゃになりたくなかった。そんなものになるぐらいなら、雨の中でいつまでも立ち尽くしている方がましだった。
 諦めの果てに目を開けると、雨の音がした。カーテンを閉め忘れた出窓から朝日が弱々しく射している。ガラスに付着し、流れ落ちる雨粒。それは窓を打ち、マンションのコンクリートを打ち、植栽された木々の葉を打っていた。くっちゃくちゃは私が目にしたものではなかった。それはただ五月の朝に降る雨の音だった。
 ベッドの上で首を捻り、まだ目覚まし時計が鳴り響く時間ではないことを確かめる。となりのベッドはすでにからだ。薫はリビングでニュースでも見ているのだろう。私はまだ起き上がらない。長く息を吸い、長く息を吐く。何度か繰り返しているうちに、首の汗は浅い夢のように引いていった。
 フルードは私の手の中で熱を持っていた。眠っている間ずっと握りしめていたに違いない。汗ばんだ手を開き、握っていた跡のへこみに触れてみると、ほんのりとした温もりが伝わってくる。ちょうど腎臓のような姿に変形している。深みのある赤色で、つるりとした何の抵抗もない手ざわりだが、少し力を加えればたやすく形を変える。粘土よりくにくにと柔らかい。私にはフルードがただの情報端末デバイスとは思えないときがあった。それは私の一部で、私と内部同士で繋がっているかもしれないと感じる瞬間があった。まだ温かいフルードを愛撫するように親指で二回軽くタップし、待ち受け画面を表面に浮かび上がらせる。時刻の数字は指の跡によって歪んでいるが、可読性は低くない。内部の極小チップが自動補正してくれているらしい。一通届いているメッセージはパート先の同僚からだった。仰向けになって、フルードを両手で掴む。そして文庫本を開くように両側へぐねりと引き伸ばす。〈今日は午後からの出勤になると思うから、ランチでは会えません。ごめんね〉。平たくなったフルードに表示された文章を目にしたとき、何かが匂った。細長く、ぎざぎざしたもの。コーヒー豆を煎ったような香ばしい匂いの形が見えた。台所からかもしれない。私はまた息を大きく吸いこんでから返信を押した。新規ウィンドウに〈了解です。タイミング合えば休憩室でね〉と入力し送信した。フルードを真ん中でぐねりとたたんで枕の横に置き、肩の力を抜いて目を閉じた。もう少し。せめて閉じたフルードの接着面が自動的に融合して、基本設定である卵型の形状に戻るまでの数分、その間ぐらいは眠っていたかった。
 でもそうだ、と腕を伸ばして、私はフルードを引き寄せる。接着面はまだ塞がれていない。二つ折りのまま待ち受け画面を表示させて、充電アイコンがほとんど減っていないことを確かめる。フルードの不便な点は、充電を頻繁に行なわなければいけないことだ。いかなる形状にも可変の化学素材をボディに使用しているぶん、CPUやメモリを搭載したコア部は非常に小さく設計されているので、内蔵小型バッテリーから電力を長時間供給することが難しいと説明を受けた。少なくとも一日に二回以上は専用プレートの上に置いてワイヤレス充電を行なわなければ、継続的に使用することができない。それなのに、と私は重たい瞼を精一杯開ける。私が最後にフルードを充電したのは一昨日の昼だ。その前だって丸一日は充電していなかった。バッテリーの持ちがよくなるアップデートが配信されたなんて聞いていないし、パート先の同僚たちは常に充電プレートの上に自分のフルードを置いている。
 私のフルードが不良品なのか、それとも知らないうちに電力がどこかで供給されているのか。フルードはいつだって私のそばにある。通勤電車の中でくにくにと握り、仕事中はデスクの上に置いたまま何かにつけてタップし、家事をしているときはポケットの中に入れたまま、眠っている間はずっと握りしめている。そうなのか。やっぱりこのくにくにの電子機器と自分は繋がっていると思えてくる。たとえばそうかもしれないとふうに音が動きだす。私とフルードを繋ぐ線上を、脚の長すぎる昆虫が迷いながら行ったり来たりしている。ためらいながらも慎重に脚を前に動かしている。そうかもしれない。むしろ私の方が不良品になってしまったかもしれない。だってフルードはすでに接着面を塞いで、卵型の形状に戻り、私の手の中で赤ん坊のように眠っているのだから。

 フルードを手にしたとき、つまり私がコールセンターの仕事を始めることになったのは二ヵ月前のことだ。
 会社命令によって薫の在宅勤務が日常となった生活に、それまでの私はなんとか対応しようとしていた。重度の肺炎を引き起こす新型ウイルスの流行で、友人や知り合いの家庭が生活スタイルを変えざるを得なくなったという話は聞いていた。それに薫の勤める会社が販売しているのは健康食品であり、もし集団感染でも起こったら会社の沽券に関わる事態だとも理解していた。月に一度の出社日以外に薫が自宅で仕事をするようになって一年が経っていた。ウイルス感染者の数が減少し、マスク着用の必要性は低下したという報道の後でも、すでに家賃や交通費などの固定費を抑えた収支計算でやりくりしていた企業は、以前の出社形態へ戻すことに二の足を踏んでいるとテレビのニュースは伝えていた。
 テーブルで朝食をとった後、薫はワイシャツを着てスラックスを穿き、熱いコーヒーを注いだマグカップを持って、洋室のドアを閉めた。そこは薫の個室ではなく、夫婦それぞれの机とベッドを置いた寝室兼用の部屋だった。春から中学校に入学する一人娘の理湖りこの部屋を仕事に使うわけにはいかなかった。かといってリビングと接する和室では集中できそうにないなと薫は口の端を曲げた。私は何も言わなかった。毎朝理湖が学校に行った後、二人きりの静まったマンションの一室で、ぴたりとドアが閉じられた洋室になるべく近づかないこと以外、それまでと変わらずに家事をこなすことにした。
 廊下に掃除機をかけているとき、ドアの向こうから声が聞こえてくることがあった。リモートで打ち合わせでもしているのだろうし、そうでなければたんなる独り言だろうと気にしないようにした。昼の十二時になると、薫はぴたりと部屋から出てきて、ダイニングテーブルで私が用意した昼食を食べた。基本的には前の晩の残り物だったが、薫は思いつめた表情で黙々と顎を動かした。仕事のことが頭から離れないのか、何も話しかけてこないので、私も話しかけずに向かい合わせで淡々と箸を動かした。トイレや飲み物のおかわりで部屋から出てきたときも、薫は苛々したり、眉間に皺を寄せていたりして、すぐに部屋の中に戻っていった。台所で洗い物を済ませ、近所のスーパーで買い物を済ませた頃に理湖が帰宅した。担任や同級生や卒業式のプログラムなんかの話を交わしながら、二人でお徳用サイズのお菓子を食べたり、洗濯物を取りこんでいたりすると、仕事を済ませた薫がふっとリビングに現れる。見上げると、壁の時計はいつも夕方の五時ちょうどに針を指していた。
 たとえ日中は部屋にこもりっぱなしだとしても、私はだんだんと薫の存在を意識せざるを得なくなった。ごみを大きな袋にまとめているとき、洗濯物を引き出しにしまっているとき、洗剤のボトルを詰め替えているとき、生活費の計算をしているとき、宅配便の再配達を依頼しているとき、一人でなんとなくテレビや音楽に向かっているとき、ビデの後で新しいナプキンに変えているとき──私の発する音や匂いや動作が、薫にも同時に感知されているんじゃないかと微かな緊張が胸を突いた。廊下を振り返り、ドアの向こうでノートパソコンの画面に集中している薫の姿を想像しようとする。だけどうまく思い浮かべることができない。そのかわり一つだけ閉じられたドアそのものが薫であるように見えてくる。
 どこか息苦しかった。落ち着かず、一人でごまかすように立ったり座ったりを繰り返した。血圧が高まるように体が熱くなったりもした。夫の存在をそんなふうに感じたのは初めてだった。十三年前、理湖を妊娠したことをきっかけに私は事務の仕事を辞めて、家事と子育てに専従した。薫との関係は少しずつ変化していったが、人が一人増えたぶん、小豆沢あずさわ家のバランスが変わるのは当たり前のことだろうと受け入れた。もちろん喧嘩をすることもあったが、互いを激しく損なうまでには冷静さを取り戻して、後戻りできないラインから踏み出してしまうことはなかった。薫とは一歳違いなので成長体験が共通していて、小説や映画や音楽なんかのインドアの趣味を好むのも似ていた。気づくと二人とも四十歳を超えていたが、これから成長していくのは理湖であり、私たちはそれぞれの場所で仕事と家事を変わらずにこなしていくのだろう、やはりそう当たり前に思い流していたのかもしれない。
 昼食を済ませた薫が仕事を再開した午後、私は何も告げずに外出したことが何度かあった。特に行き先はなく、近所の住宅街をただ一人で歩くだけだ。あるときは立冬を迎えたばかりの風が鋭く感じられることがあったが、私は深呼吸をするたびに清々しさを覚え、澄みきった空を見上げた。一時間ほどで家に戻ったので、部屋に変わった様子はもちろんなかった。薫が部屋から出てきた形跡もなかった。夜、理湖と三人で食事をしているときも、薫は外出のことを訊ねてこなかった。昔と変わらず味を楽しむより胃を満たすことを優先したスピードで食べ終えると、ソファに座ってテレビのチャンネルを変え、ときどき小さな溜め息をついた。私は後片付けをしながら薫の横顔を窺った。私が家からいなくなっていることに、おそらく薫は気づいていない──そう感じてしまうと、ただの散歩にすぎない行動を自分からわざわざ告げる気にならなかった。そしていつからか薫の顔をまっすぐ見ることにためらいを覚えるようになった。
「働きに出ようと思う」
 昼食のテーブルを二人で挟んでいるとき、私はそう言った。その日は買いためていた冷凍パスタを箸で挟んでいた。薫はカルボナーラで、私はミートソース。カルボナーラを先に温めたので、薫はすでに箸を置こうとしていた。
「もう見当はつけているの」私は薫の前のプラスチック容器に目をやった。「四月から理湖は中学生だし、いろんな面でお金が必要になってくるでしょう。理湖はもう一人で何でもできるし、私も手をかけずに済む。そのぶん経済的に動いた方がいいと思うから。ネットで調べたら、このあたりでも意外と求人が出てたし」
 薫は椅子にもたれ、腕を組んだ。顎を引き、私と同じく空になったプラスチック容器を見つめていた。「灯子とうこは働きたいの?」としばらくして訊ねた。
「そうね」私は曖昧に息を吐いた。「思い返すと、外で働くのは十三年ぶりかな。正直仕事をする感覚はあんまり残ってないけど、働けるうちは働いた方がいいとは思ってる。先のことを考えるとね」
「十三年前とオフィス環境はずいぶん変わったよ。使ってるソフトも違う」
「ネットで目に留まったのはコールセンター。ここから二駅先の場所にあって、詳しい内容を訊いてみたわ。春から新しいタイプのスマホかタブレットみたいなやつが発売されるらしくて、その新商品の問い合わせを受けるために、オペレーターを大量募集してるんだって。とにかく人を集めたそうだった」
「景気のいい話だね」薫は何度か軽く頷いた。「そうか。うん、わかった。理湖がいいって言うなら、もう理湖が手を離れるっていうなら、俺もいいと思うよ」
「そうね、うん、じゃあ」私は薫の顔をちらりと見上げた。「扶養控除内でっていう希望も聞いてくれるみたいだし、とりあえず週に三回か四回の出勤になると思う。お昼はごめん、これから自分で用意してもらうことになるけど」
 薫は何も言わず、微笑むだけだった。底だけになった麦茶を飲み干し、微笑みの余韻を目元に残したまま立ち上がった。廊下に出ると、仕事部屋のドアをかちゃりと閉める音を立てた。

 コールセンターでの採用にあたって、新商品であるフルードの使用契約を強く勧められた。強制ではないが、これまでのデバイスとはまったく違う、きわめて感覚的な使用方法になるので、オペレーター自身が日常的に使った方が客にもスムーズに説明できると担当者は説得しようとした。私のスマホは古い型で常に容量が不足していたので、仕事をきっかけに新しい機種に切り替えようと思っていたところだった。一方で長く働いていなかったブランクを埋めたい焦りもあった。採用者たちへの研修の後、私は席に残って申込書類を書き、高級なプレゼント品みたいな丈夫な箱を受け取った。なかには不織布に包まれた楕円状の球体が収められていた。箱から慎重に取り出し、不織布を外して、手のひらに乗せる。それは初めから私に馴染んでいた。あらかじめカタログで選んだとおりの深い赤ワイン色で、表面の手ざわりはきめ細かく、そっと握ると、幼い子どもと手を繋いでいるような感覚が伝わってきた。手を開けると、私の指の曲線を残している。まずは充電してくださいねと担当者は言った。電気がないと元の形に戻りませんし、何も表示されないですからね。そうなんだ。電気なんかなくても使えるものだと思った。このままですでに何かの役割を果たしているものだという感触だった。少し躊躇しながら、私はまた自分の指をフルードに沈ませた。
「それ、そんなに気持ちいいの」
 朝食を終え、カウンターキッチンの流しに食器を運びにきた理湖が、私の手元を見てそう言った。ついでに冷蔵庫から紙パック入りのレモンティーを取り出して、コップに半分ほど注ぐ。
「違う違う、着信を確認してただけ」私は出しっ放しにしていた蛇口の水を止めた。
「だっていっつも触ってんじゃん。無意識?」理湖はレモンティーを一気に飲み干した。「いいな、私もそっちの方がよかったな。そんなゼリーみたいやつなのに電話もできるってすごいじゃん」
「お母さんも機械的なことは詳しくわからないけど」私は手を拭き、雑巾を絞るような手つきでフルードを細長く伸ばした。「この柔らかい素材自体が電気信号も伝えてくれるし、音の振動も伝えてくれるんだって」
「ふうん。でもまあ電話はほとんど使わないんだけどね」理湖は自分のスマホで時間を確認した。「そんなすごい新商品なのに、広告はあんまり見ないね」
「宣伝費はかけずに、SNSとかのクチコミで徐々に浸透させるっていう戦略みたいよ。ねえ理湖、美術部はどうなの?」
「どうっていうか、別にこんなもんかなって感じ」理湖は興味のなさそうな表情で答えた。「とりあえず内申書のために所属してる子とか、ただのオタクできらきらした瞳のアニメチックなイラストを描いてる子がほとんど。本格的にデッサンから身に付けようとしてる子は少ないよ。みんな自由に好きなことやってそうだし、私もそうするつもり」
「へえ、そうなんだ。今そういう感じなんだ」私は上着の襟を整えた。「じゃあ、そろそろ行こっか」
 すると合図のように硬いものを打つ音が聞こえた。カウンターの向こうで、まだパジャマ姿の薫がマグカップをテーブルに置いたのだった。マグカップは空だった。
「おかわり入れようか」私は反射的に冷蔵庫のドアに手をかけた。
「悪いね。お願い」薫は手元に広げていた仕事の資料を一枚めくった。
 私はアイスコーヒーのパックを取り出し、薫の横に立って、マグカップの七分目ほどまで注いだ。ついでにパン屑だけの皿を流しに運んだ。
「じゃあね」
 そう声を合わせて一緒にリビングを出ていく私と理湖に、薫は資料を片手にしながら手を振った。玄関のドアを開け、ああ学校なんてめんどくさいなという娘の呟きに同意して笑い、マンションのエントランスホールを出た。理湖は中学校の方へ、私は駅の方へと別れた。
 コールセンターは都心行きと逆方向の駅にあるので、毎朝の車内はそれほど混雑していない。老人や学生らしき若者の姿が目につく。たった二駅なので、私は扉のそばに立ち、手すりを掴んで窓の外に目を向ける。五月の大型連休が終わった青空にはすべてが一新されたような固さが張りついていた。新築の建物が放つような化学的な匂いが漂う。目を細めると、空の片隅には黒い線のひびが走っていた。私は窓から目を逸らし、思わず上着のポケットに手を入れる。そこに潜むフルードを握りしめる。どこかばらばらに離散しそうな自分を繫ぎ止めようと力をこめる。何かをふと思い出したように、ポケットの中のくにくにが握り返してくれる気がする。
 三月の終わりを思い出していた。その日、薫はネクタイを締めて、月に一度の出社のために朝早く家を出た。コールセンターの仕事が入っていない日だったので、春休み中の理湖が遊びに出かけてから、私は洗濯をして、部屋中に掃除機をかけた。エアコンのフィルターを風呂場で洗い、タンスの中の衣替えを済ませた。午後からは買い物へと車を走らせた。コールセンターで働き始めてから、買い物は週に一度まとめて行なっていた。メモを手にしながら、一週間ぶんの食材や消耗品をかごに詰めていく。両手いっぱいのレジ袋を車の荷台に積んで、スーパーの駐車場を出たのは三時を過ぎていた。自宅マンションまでは五分ほどの距離だが、月末ということもあって道路は混雑していた。片側一車線に大型トラックや商用車が隙間なく並び、遠くの信号機は色を変えているのに車はほとんど前に進まなかった。私はハンドルの上に顎を乗せて、ラジオを聞き流していた。急いでいるわけではなかったが、ただ時間がじりじりと浪費されていくことに苛立ちを覚え、前の車のバンパーをじっと見つめていた。クラクションが一つ鳴らされた。どこの車が鳴らしたのかはわからない。だがその音をきっかけにしてバンパーは動き出し、前の列が遠ざかり始めた。私は溜め息をつき、ブレーキペダルから足を上げて、アクセルペダルをゆっくり踏んだ。やっと窓の外の景色が後方へと流れ去っていく。そこに薫の姿があった。強引な力で首を捻られたように私は左を向いた。だが助手席の向こうの歩道では、すれ違った瞬間に人影が消えた。反射的にサイドミラーに視線を移す。小さなフレームの中で黒いスーツ姿の男はすぐに角を曲がり、やはり姿を消してしまった。車の列が淀みなく流れ始めたので、停車するわけにもいかなかった。確かにあのネクタイは朝に薫が締めていた柄だ、私はそう思い出した。出社日にしかネクタイを締めないので、はっきりと憶えていた。もちろん見間違いの可能性もある。夫の会社は電車で一時間以上もかかる銀座にあるし、自宅の近所に取引先があるとは聞いたことがない。ふと、助手席の上に置いていたフルードに視線を向けた。車の振動に合わせて、抵抗もなくころころと揺れていた。前方に注意しながら、私は腕を伸ばしてフルードを手に取った。薫に連絡しようとしたのか、あるいは薫からメッセージが届いているかもしれないと思ったのか、自分でもわからずに結局何も操作しなかった。ただそこに何かがあるのを確かめるようとして、膝の上のフルードに指をぐにりと沈ませた。
 その日、薫は七時過ぎに帰宅した。私は烏賊の刺身を皿に盛りつけたところだった。
「ねえ、今日って、仕事でこのへんまで来てた?」
 リビングに入ってきた薫にそう訊ねた。薫はすでに灰色のスウェットに着替えていた。
「え」薫は不思議そうに目を見開いた。「いや、来てないよ。なんで」
「今日スーパーの近くですごく似た人を見かけたの。ネクタイの柄もおんなじ」
「へえ。あり得るかもね。量販店で買ったネクタイだし。そういえばウイルスの流行以来、外回りなんてめっきりなくなったな」
「ねえ、お母さん!」理湖が廊下の奥から大声を出した。「赤色のスカートってどこにしまったの!」
 私は手を洗って、理湖の赤いスカートを探しに台所を出た。午後の忙しない路上でいるはずもない夫を見かけたという話をそれ以上掘り下げることはしなかった。
 そのときからだった。コールセンターのシフトが入っていない平日、家で仕事をしている薫の存在に対して、私に反応が起こり始めた。薫はドアの向こうで低い声でぶつぶつと呟いている。あるいは高い声を上げて笑い出したかと思うと、急に怒気をはらんだ声で強い言葉を吐いた。ときどき金属のような硬い物体同士がこすり合っているような音もした。たんにリモートミーティングの回数が増えたり、自宅での仕事内容にいろんなパターンが加わったりしただけなのか。それとも私が仕事で家を空け始めてから、薫自身の何かが変わったのか。いずれにせよ薫の音を耳にするたび、それは次第に音以外の反応を私に引き起こすようになった。たとえば薫の呟きは私の背筋をすうっと撫でて身悶えを起こすような感触を引き起こした。薫の笑い声は鏡に向かって笑顔の練習をしている薫の後ろ姿を目の前に描き出した。薫の怒鳴り声は鍋底の焦げを噛みしめた苦味を舌に滲ませた。金属が擦れ合う音が聞こえると、牡蠣を洗うときの生臭さが鼻をつくこともあった。夕方五時に仕事を終えて部屋から出てきた薫の顔を目にすると、風が激しく吹きつける音が耳元で聞こえて、思わず窓の外を窺うことがあった。
 混線──と呼ぶべきか。私の内部のどこかで離れたり、くっついたり、乱れたりしている。だけどいつも一瞬のことだった。乗る電車を間違ったり、車の運転を誤ったり、電話先の客に失礼な態度をとってしまうほどではない。我を失ったり、動悸が激しくなることもない。ただ誰にも気づかれず、ときどき一人で静かに混線しているだけだ。ただそんなとき、私は手の中でフルードを握りしめた。汗がじんわりと滲み出るほどに。そしてくにくにとした波の中に自分自身を沈みこませるみたいに。
 いつもどおり駅の改札を出て、人波に流されながら、目立たないオフィスビルに入る。エレベーターで十階まで上がり、出入口に設置されたセキュリティロックにカードキーを通して、コールセンターのドアを開ける。ロッカー室で社内履きのサンダルに履き替え、IDカードを首から下げると、岸本海江子みえこが後ろから声をかけてきた。
「昨夜、大変だったらしいね」海江子は自販機の紙コップを手にしていた。ブラックコーヒーから湯気が立ち昇っている。
「あれ、今日は午後からじゃなかったっけ」私はその朝フルードに届いた文面を思い出した。
「そのつもりだったんだけど、やっぱり休む必要がなくなってね。シフトどおり来ることにしたの。リーダーにはまだ連絡してなかったし。何も聞いてない?」
「え、ああ」私は海江子を見つめた。まっすぐ通った鼻筋と切れ長の目はいつも別の何かを考えているようだ。「昨夜のことね。何かあったの?」
「昨夜、私たちが退社した後、クレームがまとめて相次いだらしいよ。フルードが起動しないとか、ちゃんと充電したのに充電切れが表示されて動かないとか。新商品ってこんなものなのかしら」
「そうなんだ。どうやって対応したんだろう」
「とにかく何度も再起動を促したり、充電プレートにしばらく置いといてくれってお願いしたり。上からの指示もころころ変わっちゃうから、現場はかなり混乱したみたいね。たぶん今日も九時になった途端、一気に電話が鳴るんじゃないかしら。結局は返品交換するしかないと思うんだけど」
 海江子はこちらをじっと見つめながら、紙コップに口をつけた。
「だから午前中は休もうとしてたんだ」私は冗談っぽく海江子を指さして、ロッカーの扉を閉めた。
「やだ、違うよ。それとは違う話」海江子は目を細め、上品に口角を持ちあげた。
 オペレータールームは八台の机を合わせた島を縦横に十二並べても余りある広さで、端から端まで大声を出さないと届かない。元々は保険会社や通販会社からの業務委託が多いコールセンター会社だが、フルードを発売する通信会社から人手を確保してほしいという依頼を受け、急遽席数を増やすことになったらしい。フロアの半分ほどはフルードの問い合わせに対応する席で埋められている。オペレーターの多くは二十代から五十代の女性だが、男性も三つの島に一人ぐらいは座っている。性別で採用を決めているわけではなく、ただ応募の時点で男性が圧倒的に少ないだけですと集団面接での質問に対して社員は答えていた。フルードの島ではすべて同じ端末環境であり、席は個別に決められていないので、その日私は壁際のいちばん端の席に座った。キーボードを打って顧客管理システムにログインし、ヘッドセットを装着する。そして上着のポケットからフルードを取り出して、お守りのようにモニターの真下に置く。二回タップして、現在時刻が表示されることを確かめる。
 九時になった瞬間、待ち受けていたように電話機のランプが赤く点滅した。着信した電話番号を元に端末機器がデータベースを検索し、該当の顧客情報をモニターに映し出す。大阪市内に住む二十一歳の女性だ。自宅の固定電話から発信されている。私はマウスを動かして、応答ボタンをクリックした。
「お電話ありがとうございます」
「あのすみません、私、ついこないだフルードっていう商品を買った者なんですけど」
「この度はご購入ありがとうございます」
「あ、いえ、それであの、今朝目が覚めてふっと触ってみたら、全然電源がつかんくて」
「さようでございますか。お手数をおかけして申し訳ございません」
「これってもう壊れたんですかね……前にもスマホが急にフリーズしたことがあって。私の使い方が悪かったんでしょうか」
「お客様、詳しい情報を調べますので、フルードにご登録のお電話番号を頂戴してよろしいでしょうか」
 すでに目の前に表示されている電話番号を女性は一桁ずつ口にした。形式的に住所と名前を確認すると、女性はそうだと認めた。
「一ヵ月前にご購入いただいておりますね」私は言った。「この一ヵ月間の操作においては特に支障はございませんでしたか」
「何もありません。ネットもSNSも普通にできてました。私、夜の仕事をしてるんですけど、もちろん業務中は触りませんし、誰かに触られることもありません」
「それでは今朝突然、電源が入らなくなったということですね」
「はい……」女性は声を詰まらせた。「なんか急に使えんくなって……自分では丁寧に使ってるつもりなんやけど……でもやっぱり知らんうちに乱暴な使い方をしてるのかもしれません。前にも同じようなことがあって、バイト帰りに朝のラッシュの電車に押しこまれてたんです。身動きも呼吸もできなくて、めっちゃ苦しくて。やっと駅に着いて、スマホを取り出したら、画面にひびが入ってて、いくらボタンを押しても真っ暗のままでした。そうですね……やっぱり私が悪いんですよね」
 女性は涙声になっていた。「お客様」私はできるだけ平穏なトーンで声をかけた。「お客様が通常の使い方をされていたなら、おそらく原因はフルード内部にあると考えられます。返品交換を承ることはもちろん可能ですが、今一度付属の充電プレートの上にフルードを置いた状態にして、しばらく様子を見ていただけないでしょうか」
「あの、充電はずっとしてたんです」女性は洟をすすった。「でも全然動かんくて。子どものときに飼ってたハムスターもいつのまにか動かんくなってたし。かちかちに固まってたんですよ。すごいびっくりして。なんでいつもこうなんやろか……ねえ! 自分でもわからないんですよ。ほんま誰かに教えてほしいんです、知らんうちに一体自分が何をしてんのか……」
 女性が落ち着くのを私は背筋を伸ばして待っていた。女性が話しかけてくるまでは何も口にしないでおこうと思い、長い通話になるかもしれないと静かに息を吸った。だが電話口の声は一転して高く響いた。
「あれ」女性は不思議そうに言った。「変やな、電源がついてる……今、私の手の中にあるんですけど、待ち受け画面が表示されてます。なんでやろう、話している間ずっと持ってただけやのに。もしかしてあれかな、止まった時計を握っていると針が動き出すっていう、昔の超能力者のやつ? まあええわ。朝からすみません。どうもありがとうございました。何かあったらまた電話させてもらいますね」
 こちらの言葉を聞き終わらないうちに女性は電話を切った。
 ロッカー室での海江子の真面目な表情を思い出し、私は席を立ってクレームの問い合わせがあったことを一応チームリーダーに報告した。太い黒縁の眼鏡をかけて、顎下の肉が垂れている男だ。コールセンター側の社員だが、クライアントの意向をスムーズに現場に落としこむ役割を担っている。私の報告を聞くと「話が滞りそうだったら、即座に返品交換の対応をしてもらってOKです」と言った。ちなみに、と私は訊ねた。「フルードが自然に充電されることはありますか? たとえばずっと握っていたりしたら」。リーダーは訝しげに首を捻った。「そういう機能があることは聞いていないな。というかないよね、普通に考えて。自然に充電されるなんて話」
 それから新規申し込みの注文や詳しい使い方についての問い合わせを何本か受けた。クレームをつけてくる顧客はそれほど多くなかった。次の着電を待っている間、フルードの画面を表示させて、もうすぐ昼休憩の時間であることを確かめた。充電アイコンがわずかな量まで減少していたので、足元のバッグからプレートを取り出そうとしたときに、着電のランプが光った。その愛知県に住む五十六歳の男性は第一声からアクセルをベタ踏みして怒りをあらわにした。
「おい、ふざけてんじゃねえぞ!」
 私は咄嗟にヘッドセットの位置を調整し、顎を引いた。「お客様、いかがされましたでしょうか」
「何すましてんだ、この野郎。堂々と不良品なんか売りつけやがって! こんなもの詐欺じゃねえか」
「私どもの商品に何か不都合がございましたでしょうか」
「不都合もくそもねえよ! うんともすんともいわねえんだよ、このゴムの塊みたいなやつ。こないだ買ったばかりの新品だぞ。思いっきり引き伸ばしても、全然ちぎれねえし。どうなってんだ!」
「フルードですね。詳しい情報を調べますので、お客様のお電話番号を頂戴できますでしょうか」
「うるせえ! なんでわざわざそんなもん言わなきゃいけないんだ。こっちは客だぞ。どうせ俺の個人情報はもうパソコンに出てるんだろうが。馬鹿にすんじゃねえぞ。そもそもさ、こんなコンドームの化け物みたいにやつでネットとか電話ができるわけねえんだよ。なにが新感覚のデバイスだよ。ただのガキの玩具おもちゃじゃねえか」
「ご迷惑をおかけしまして誠に申し訳ございません。もし不良品でありましたら、返品交換を承りますので、お客様のお名前とご住所をお教えいただけますでしょうか」
「もし? もしじゃねえよ。仮定じゃなくて、現在完了形の不良品なんだよ! 交換なんていらねえ。そのかわり解約して、先月払った金は返してもらうからな。あんたみたいな末端の女に言っても仕方ないけど、ひとこと言わないと気が済まねえ」
 私は唾を飲みこんで、研修を受けたときのマニュアルを思い出した。「不良品ということであれば端末代金の返金は対応いたします。ですが通信費につきましてはすでにご利用されたということで、申し訳ございませんが返金はできかねます」
「だからおまえは喋んじゃねえよ! 黙って客の言うことを聞いとけよ。どうせおまえはコールセンターのただのパートばばあで、通信会社の社員じゃねえんだろ。どうせよその会社のことだし、どうでもいいと思ってんだろ。時間が経ったらさっさと家に帰って、ガキに飯を作って、しがない旦那と薄汚いセックスでもするんだろ。いいか、どうでもいいのはおまえの方だよ。ずっと椅子に座って電話を受けるだけのおまえ自身が世の中にとってどうでもいい存在なんだよ。よく憶えとけ。金は絶対に返してもらうからな!」
 受話器を叩きつけたような固い音と共に電話は切られた。
 会社のPBXシステムによって通話内容はすべて録音されている。顧客から激しいクレームを受けたとチームリーダーに報告すべきなのかもしれない。でもそのとき、私は腰を上げることができなかった。鼓動が早くなり、手のひらに汗が滲んでいた。舌の奥が渇き、奥歯が小刻みに音を立てていた。私はひそかに震えていた。ショックを受けたわけでない。クレームには日常的に対応していたし、それまでただの捌け口として罵詈雑言を浴びせられるケースもないことはなかった。
 そのとき私の体を固まらせていたのは、暗闇の中で漏電したように白く明滅する光だった。今突きつけられた言葉は決して受け流してはいけないものだと警告するように、それは眩しい火花を散らせていた。男性の個人情報が表示されたモニターに私はじっと目を細める。まもなく昼休みの時間になって、まわりのオペレーターが席を立ち始めても、私は同じ姿勢のままだった。客であろうがパートであろうが関係なく、顔も知らない人間の顔を私は力の限りに殴っていた。

「遅かったね」
 一階のエントランスホールで待ち合わせていた海江子がそう言った。「やっぱり多かったでしょう、クレーム」
「そうね」私は何気なくあたりを見回した。「ちょっと長引いちゃって」
「こないだ和食のお店見つけたんだ。ちょっと歩くけど、いてそうだからそこにしようよ」
 私は頷いて、海江子のとなりを歩いた。海江子とは最初の集団面接を受けたときにとなりの席だった。そのときからシンプルでシックな色合いの洋服を着て、背中まで伸ばした黒髪を揺らせていた。以前はデパートの婦人服売り場で働いていたが「五十を超えてから、立ち仕事が辛くなってきたの」と研修のときに海江子は話しかけてきた。若い頃に購入したマンションに一人で暮らしているらしく、別にお金もそんなに必要じゃないし、好きな時間に寝起きして気楽なものよと気さくな笑顔で言った。
 和食屋は細長くこぢんまりとしたスペースで、夕方からは居酒屋として営業しているみたいだった。カウンター席の他にテーブル席が三つ並んでいて、私と海江子は向かい合って腰を下ろした。二人とも煮魚定食を注文した。
「今日ね、となりに座った人から、今度よかったら六本木の美術館に一緒に行こうよって誘われたの」海江子はスマホを手にしながら言った。「先輩の人なんだけど、歳は私と同じぐらいかな。ちょっと前に海外の画家の話で盛り上がったことがあってね。ちょうどその画家の回顧展が開催されてるんだって」
「美術館か」私は麦茶の入った湯呑みに口をつけた。「ずいぶんと行ってないな。たぶん二十代のとき以来」
「娘さん、もう中学生なんでしょう。これからはまた自由な時間が作れるじゃない」
「自由な時間ね」私は繰り返した。「岸本さん、美術に詳しいんだ」
「美大の油絵科だったの。就職先がなくてね。とりあえず入れたのがデパートの広報課だったわ」海江子は頬杖を突き、テーブルに置いたスマホを指先でスワイプした。「でもやっぱり、やめとこうかな。別にその人がどうとかじゃないんだけど、仕事は仕事、プライベートはプライベートで、一応は切り分けておきたいし。それに美術館って、自分のペースで観て回りたいの。他の人が一緒だと、どうしてもペースが乱されるから」
「確かに歩調は合わせちゃうね。じゃないと一緒に来た意味がないし」
「あれ、小豆沢さん、疲れてる?」海江子はふと顔を上げて、こちらを見つめた。
「そうかな」私は苦笑を浮かべて、視線から逃れた。「やっぱり、クレームのせい?」
「あるかもね」海江子は深々と頷いた。「いろんなお客さんがいるからね。いくら一定のスタンスを保とうとしても難しいときはあるよ」
「終話した瞬間、毎回気持ちをリセットしようとしてるんだけどね」
「小豆沢さんの年齢の頃、私も何年か体調が悪かったわ。ホルモンバランスが崩れるでしょう。急に体が火照ってきたり、寒気に襲われたりして。怨霊にでも取り憑かれてるんじゃないかって不安になるぐらい、ずっと体が重かった」
 海江子は髪をかきあげて、にこりと微笑んだ。その瞬間、水面を打つような音が聞こえた。透明なしずくが落ちて弾ける音。背筋に液体が侵入してくるような冷たさを覚えた。
「更年期なのかな」私は鞄の中に手を入れて、フルードを取り出そうとした。「でもどこか、そうでもないような感じがするんだけど」
「あ」海江子は私の手元を覗きこんだ。「使い勝手はどう? ちゃんと起動してる?」
「うん、大丈夫だよ」私はフルードをテーブルの上に置いた。「今のところフリーズしたりしないし、使いにくいところも別にないな」
「そっか。小豆沢さんはよっぽど気に入ったんだね。研修の後にすぐに申し込んでたし。私はちょっと苦手かな、その感触。なんか指にまとわりついてくる感じがしてね。子どものときにスライムって玩具があったでしょう。液体か固体かわからない、あんな感じ」
 煮魚定食が運ばれてきた。金目鯛の煮付けで、ほうれん草を和えた小鉢もついていた。私はフルードを丸めて、バッグの中に戻した。
「そうだ。小豆沢さんの娘さんって美術部なんでしょう。私の家に封も開けていない画材がけっこう残ってるんだ。昔の型ではあるんだけど、まだ未使用だし、使ってくれるとうれしいな」
「ほんとに。助かるわ。ありがとう」
 私は空返事をした。割り箸を割って、味噌汁の中に浸した。フルードに表示された画面が頭の中に残っていた。いつのまにか充電アイコンの量が半分まで増えていたのを私は見逃さなかった。金目鯛の小骨を一つずつ外しながら、首の後ろでは汗が滲んでいた。

 ジャコ・パストリアスによる複雑なベースラインをフルードは出力していた。誰もいない午前のソファに寝そべり、フルードを伝わるフュージョンの振動に耳を傾けていた。軟性の素材全体が音を増幅しているようだが、詳しい仕組みはわからない。親指でフルードをぎゅっと奥まで押しこむと、中心に埋められた小さな軟骨のような物質に触れられる。きっとこのフルードのコア部から音そのものは出力されているのだろう。ジャコ・パストリアスのエレキベースが刻む乱拍子のリズムはフルードからはみ出して、目の前を走る直線を心電図みたいに曲げていた。
 漏れている感覚だった。混線しているだけではなく、漏れている。そのことが私を疲弊させているのだろうか。何かが漏れてしまっている。私の中にとどまるべきものが漏れてしまっている。
 海江子に言われたように、最初は更年期についてネットで検索してみた。確かに発汗や気分が安定しないといった症状は当てはまったが、火照りやめまい、頭痛や動悸が頻繁に起こることはなかった。他の原因を探っているうちに、生体電気に関して書かれた記事が目に留まった。
 当たり前のことだけど、人間の体には電気現象が起こっている。常に微弱な電気が脳内細胞を巡り、神経細胞を伝わることで、心臓は動き、記憶は思い出され、食べた物は消化吸収される。目や耳や鼻や舌や肌で受けた刺激は電気信号に変換され、脳や筋肉や内臓での反応を引き起こす。人間を作り上げている六十兆個の細胞が電気を発生させ、信号を送り合っている。つまり各細胞膜の内と外で+と-の電位差が生じ、イオンが細胞膜を行き来することで電気が発生するのだが、この働きが滞ると、体に不調が起きたり病気に罹りやすくなったりするということだ。ただ、長方形に広げたフルードを操作する私の指を止めたのは、そんな文字面だけの抽象的なネット記事ではなかった。
 ある産学共同の研究団体では、生体電気を外部デバイスの電源として活用する実験が行なわれていた。フルードを操作できるのも、人体が微弱な電気を帯びているからだ。微かな静電気に覆われているフルードの表面に触れると、静電気が吸い取られた位置をセンサーが感知して、プログラムが動作する。そして、たとえば内耳。音波によって鼓膜が振動すると、耳の奥にある内耳が音波を電気信号に変えて脳に伝える。音を脳に伝えるために電気を生み出す内耳はまさに発電機であり、この生体電気の機能が応用されようとしていた。ある実験ではマウスの内耳を電源として、体内に埋めこんだ電子デバイスを持続的に動作させることに成功した。あるいは内耳以外にも、汗から電気を獲得できないかと皮膚に貼るだけのシール型生体電池も研究中なのだという。
 私はフルードの充電アイコンを確かめた。昨夜眠る前にプレートの上に置いていたので、電気はまだ充分に蓄えられている。仰向けのまま、フルードを掴んでいる自分の手に目を向ける。そして人肌のようなフルードの表面に触れている指先に意識を集中する。私の指先は微量に発汗していた。汗がフルードに付着している。汗がフルードの内部へと染みこんでいる気がする。知らないうちに私の細胞を巡る生体電気がフルードへと漏れ出している気がしてくる。
 信憑性の怪しいネット記事を読んだだけで、自らの変調と安直に結びつけるなんて根拠のない思いこみだと笑われるかもしれない。無名のITベンチャー企業が開発したデバイスに研究段階の機能がすでに備わっているとは考えられないし、もし備わっているとしたら大々的に宣伝されることだろう。確かにそうかもしれない。でもそれじゃあ、と私はジャコ・パストリアスの音楽を止め、体を起こして、ソファにもたれかかる。フルードを折りたたみ、両側から思いきり何度も力を押し加える。私に起こっている現象はどうやって説明されるのだろう。音が見えたり、匂いが聴こえたり、景色が肌に触れてきたり──脳神経科それとも心療内科でも受診した方がいいのだろうか。いつのまにか充電量が増えているフルードはどうやって説明されるのだろう。私が受け取ったフルードだけに充電容量の大きいバッテリーが偶然備え付けられていたというのか。フルードは膝の上で紙屑のように丸まっていた。太い縄を外されたように、乱れた指の跡が何本も重なっている。だが時間が経つにつれて、丸みを取り戻す。乱暴で突発的な力が加えられた歪みを次々と弾いて、滑らかな曲線を結びだそうとする。やがて再び産まれた卵のようにころりと微かな揺れを起こした。私は膝の上のフルードにそっと手を重ねる。きめ細かい表面からは抑制された温かみが確かに伝わってくる。やっぱりそうかもしれない。ここに私のものが流れこんでいるかもしれない。私のものによってこれは動いているのかもしれない。もしそうだとしたら、ここには私がいる。心配しなくても漏れ出したものはきちんとここに蓄えられている。そう気持ちを一つにまとめることで、だんだんと落ち着きを取り戻す。ちょうど楕円型になったフルードの揺れがおさまり、安定したバランスでぴたりと動きを止めるように。
 午後からは映画に行くことにした。特に観たい映画があるわけではなかったが、薫が出社日ということもあり、初夏を迎える穏やかな空気を吸いたい気分だった。近所のアウトレットモールまで車を走らせ、時間に合った映画のチケットを購入した。若い日本人の監督が撮った作品で、チラシにあらすじが書かれていた。かつてのビルマに進駐した一人の日本兵が時を経て老人ホームで寝たきりになり、介護士不足を補うため外国人労働者として老人ホームに雇われたミャンマーの青年と交流を重ねるという話。でも私はストーリーを追うことをせず、どの登場人物にも感情移入をしようとしなかった。ただスクリーンから発せられる映像や音や台詞の一つ一つに意識を集中した。老人の回想シーンでは激しい銃撃音が響いて原住民や動物の体から血が流れた。ストレッチャーで老人が医務室に運ばれると青年の叫び声が聞こえたし、青年の手を握りながら老人が涙を流す情景が映されるとストリングスによる重層的な音楽が流れた。スタッフロールが終了し、館内が徐々に明るくなるにつれて私は肩の力を抜いた。映画の発する光や音はそれぞれちゃんとした意味をもって結びついていた。光や音を受け取る私は映画の意味するとおりに結びつけることができていた。意識を強く集中しているとき──たとえば仕事をしているとき、車を運転しているとき、映画を観ているとき、そんなときにはいわゆる混線が起きることはなかった。乱れた束が規則正しく並べられるように私は私自身を制御できていた。ほっと息をつき、席を立って出口に向かう途中、まだ涙目のまま座っている観客が目についたが、私は足早に外へ出た。
 牛乳が少なくなっていたことを思い出し、食品売り場が入るエリアに立ち寄った。牛乳以外にツナ缶とソーセージを購入したエコバッグを手にして車に戻った。立体駐車場の坂道を下り、駐車券を精算機に挿入して道路に出た。自宅までの道のりは混んでいなかった。一度も赤信号で停まることなく、不思議とスムーズにアクセルを踏み続けることができた。太い国道への合流地点ではブレーキを軽く踏んだが、右後方を目視で確かめて、再びスピードを上げた。視線を前方に戻したとき、視界の左端に男が映った。中古車販売店と回転寿司店とのわずかな隙間、その長細い影の中に男は立っていた。ネクタイを締め、ベルトを通したままのスラックスを膝まで下げて、男は自分の勃起した性器を握っていた。回転を早めるエンジン音と共に通り過ぎようとした瞬間、隙間の中に光が射したのだ。そう、ほんの一コマを照らした光だったから、確かなことはわからない。背中を丸め、手を素早く往復させる動きに合わせて揺れていたネクタイ。その柄はやはり薫が締めていたネクタイかもしれなかった。その朝、薫は出社するために鏡に向かい、自分の首にネクタイを巻きつけていた。私はアクセルを踏みながら、そんな朝の一コマを何度も思い出そうとしていた。

「変質者が出没してるんだって」
 学校から帰ってきた理湖が大して興味がなさそうに話しかけてきた。映画館から帰り、エコバッグの中身を冷蔵庫に入れているときに理湖は帰宅した。理湖の言葉に私は息を止めた。まるで薫が逮捕されたと聞かされたみたいだった。
「最近暖かくなってきたし、毎年のことらしいよ」理湖は冷蔵庫の麦茶をコップになみなみと注いだ。
「毎年」私は理湖の言葉にしがみつくように繰り返した。「毎年いるんだ、そんな人」
「みたいだね。外を歩くときはなるべく人通りが多い道を選んで、もし遭遇したら大声を出して逃げるようにって」
「毎年いるってことは、昔から捕まらないの?」
「どうなんだろう。捕まえても、次の年からは新しい人が出てくるってことじゃないかな。後継あとつぎみたいにさ」
「どんな格好なんだろう」
「格好?」理湖はコップを持ったままソファに座り、テレビを点けた。「格好のことまでは言ってなかったな」
「まさか、ネクタイをしてるなんてことはないよね」私はエコバッグをたたみながら訊ねた。
「ネクタイって」理湖は間を空けた。「違うよ。女の人らしいよ。変質者って」
「女の人が裸を見せるの?」
「まさか。でもやっぱり変なものは見せるんでしょ」
 理湖はゲーム機の電源を入れた後、手元のスマホを操作した。どうやらテレビゲームのネットワーク対戦で遊ぶためにあらかじめ友だちと約束をしていたようで、スマホのスピーカーを通じて会話をしながら、ネットで合流するための設定を始めた。
「今日は部活ないの?」私は横から訊ねた。
「行ってもいいし、行かなくてもいいの」理湖は素っ気なく答えた。
「そんなんでいいの」
「今はいいの」
「職場の人がさ、使ってない画材があるんだけど、よかったらどうって。もらってきてあげようか」
「ああ、うん」
 理湖はゲーム機のコントローラーをテレビに向けながら頷いた。やがて三頭身にディフォルメされたキャラクターが鮮やかな配色の中で勢いよく銃を乱射し始めた。
 もし薫が別人だったら──夕食の準備をしているとき、頭の中をそうよぎった。顔と体が同じだけで、中身が丸ごとまったくの別人と入れ替わっていたとしたらと。理湖はゲームに熱中していて、部屋中の物を引っくり返したような音がずっと鳴り響いている。薫は在宅勤務に変わったが、私はコールセンターへ働きに出るようになった。シフトは曜日で固定されているわけではなく、土日に出勤することもたまにあった。私が休みの日でも、薫は仕事で部屋に閉じこもったり、出社日で家にいなかったりした。顔を合わせたり合わせなかったり、互いが家にいるのかどうかはっきりとしない。そんな不規則な生活パターンを過ごしていくうちに、薫が別人に入れ替わっていたとしても、私は気づかないかもしれない。会社に行くと言いながら、路上の暗がりでこっそりマスターベーションをしていても、私は見逃してしまうかもしれない。
 皿に盛りつけたサーモンの刺身を、薫は箸で一切れ掴み、わさび醤油をつけて口に入れた。夕方にスーパーへ出向いて、値引きシールが貼られたものを私は選んだ。仕事がない日でも、刺身や惣菜などの出来合いのもので夕飯のおかずを揃えることが多くなった。それでも薫は文句を言わなかった。ただ上顎と下顎を動かして、サーモンの身をくっちゃくちゃと咀嚼していた。私のとなりで理湖が嫌な顔をしているのがわかった。
「ねえ、音」私は薫に向かって言った。
「ああ」薫は動きを止め、口を閉じた。
 確かに以前の薫とは違う人に思えた。在宅勤務に切り替わる前、まだ毎日会社に通っていた一年ほど前の薫なら、もっと口数を多くして反応したはずだった。冗談を交えたり、大げさな音を余計に立てたりしておどけたはずだった。今は糸が切れたように静かに漂っている。薫はドアを閉じた部屋の中で一体何をしているんだろう。もしかしたらワイシャツでも脱ぐように、それまでの自分を一枚ずつ脱ぎ取っているのかもしれない。薫の体はがりがりに痩せていき、やがて顔の知らない何者かに変貌する。そんな光景を想像していると、私の冷たい手のひらはフルードを握りしめたくなっていた。
 夕食の片付けを終え、理湖が風呂に入っているとき、私は薫に言った。
「今夜から和室で寝るわ」
 薫はソファに座ったまま、顔だけをこちらに向けた。「どうしたの」
「歳のせいだとは思うんだけど、最近眠れないことが多くて。夜はいつまでもベッドの中でごそごそしてるし、朝は朦朧としたまま早くに起きちゃうし。でも、昼間に和室で一人で横になってると、ぐっすりと眠れるのよ」
「そうなんだ」薫は視線をテレビに戻した。リモコンでチャンネルを何度か変えた。「一人だと落ち着くのかな」
「そうかもしれない」
「しばらくそうしてみようか」
「そうだね。そうしてみる」
 テレビではバラエティ番組が映し出されていた。薫は笑い声を上げることなく、ときどき眼鏡のブリッジを上げて、うっすらとした微笑を浮かべた。別人になったような男のとなりで、眠れる気などまったくしなかった。

 午後に十五分の休憩をとることを許可されている。オペレーターのシフトは大まかに朝九時から出勤する早番と午後二時から出勤する遅番の二組に分かれ、遅番が出勤した直後に早番は休憩をとることになっている。遅番は学生やアルバイトを掛け持ちしている若者が多かった。私は早番のシフトに固定していたので、いつも昼食が済んだ後の少し気だるい雰囲気の休憩室で腰を下ろしていた。
 自動販売機と細長いテーブルが何列にも連なっているだけの無愛想な空間。大きな窓からはぼんやりとした光が注がれている。テーブルに突っ伏している者もいれば、持ちこんだスナック菓子を頬張っている者もいた。私は人の少ない窓際の席に座り、バッグからフルードを取り出した。まだ先だが、理湖への誕生日プレゼントを探そうとした。何が欲しいのかは最終的に理湖に決めさせるが、候補となる品は毎年私がいくつか提案していた。中学生になったし、大人っぽいものがいいかもしれない、そう思ってショッピングサイトを検察するつもりだったが、ふと写真のファイルを開いていた。フルードの表面に幼い頃の理湖の写真が広がっている。直感的そしてシンプルというコンセプトに基づいて、カメラ撮影機能はフルードに搭載されていない。でも他のデバイスで撮影した画像や動画はクラウドを通してもちろん表示することができる。理湖は小学校の正門の前で足をぴたりと揃えて立ち、背中を覆うランドセルの大きさにまだ馴染めないような表情を浮かべていた。入学式の看板を間に挟んで、スーツ姿の薫が並んでいる。ネクタイを締め、上着のボタンを留めて、体の前で両手を重ねている。低解像度のせいかピンボケのせいか、表情がよくわからない。二本の指を広げて写真を拡大する。笑っているのか怒っているのか、まだ判断できない。限界まで拡大すると、薫はただの画素になる。ぼやけた色の一つ一つに分解される。画素の一つは薫の一つなのか、もうわからなくなる。新しいインクの匂いが鼻をつく。切れるほどの新しい紙の手ざわりが指先に走る。それらはどこかにある記憶を刺激した。私は目を閉じて、瞼の裏に像を結ぼうとする。暗闇に浮かんでくるもの。それは紙幣だった。銀行で引き出したばかりの新札。薫との記憶に結びついている。
 よそよそしい匂いと鋭い切り口──それはいつだって生活のどこか見えない場所に潜んでいる。理湖が小学校に入学した年だと思う。その夜、会社から銀行口座に振り込まれた賞与を、薫はわざわざ全額引き出して帰宅した。日付が変わろうとする時間、リビングのドアを開けた薫の手には現金の入った封筒が握られていた。薫は酒を飲んでいた。よろけそうになりながらテーブルの席に座り、封筒を逆さにして、もどかしそうに手元を何度も揺らした。皺一つない、何十枚もの新しい紙幣がテーブルの上に乱雑に広がった。それまで預金通帳に振り込まれていた額よりも多いことがすぐにわかる枚数だった。「どうだ」そう薫は舌をもつれさせて、椅子の背もたれに体を預けた。私は夕飯の食器を洗い終えた後、テレビの前のフローリングに座って、洗濯物にアイロンを掛けているところだった。襖を閉めた和室で眠っている理湖の様子を窺った。「お疲れさま。でもちょっと飲み過ぎじゃない」私は声を小さくして、何気なく言ったつもりだった。でも薫は目を吊り上げて、私を直視した。「飲みたくもない酒を飲んでるから、これだけの金が手に入るんだよ。いらないって言うんなら、俺ももっと早く、毎日決まった時間に帰ってくるさ」薫は勢いよく椅子から立ち上がった。そして大きな足音を立てながらリビングから出て、着替えもせずに洋室のドアを閉めた。
 それから毎月の給料日と年二回の賞与日になると、薫は全額の現金が入った封筒をいちいち持ち帰るようになった。いつもすべてが新札だった。夫が家庭の中に何かを意識づけようとしているのはわかった。ただローンやカードの支払い、学校の給食費など支払いのほとんどは口座引き落としであり、駅前のATMに行って、同じ口座に再び預け入れなければならないのは面倒でしかなかった。現実的にも保安的にも現金を持って帰るのはもうやめてほしいと、私は何度も薫に頼んだ。それでも薫は拒んだ。「俺が引き出した現金を持って帰り、灯子が受け取る。支払いのためにATMに出向く。それは決して無駄なことじゃない。意味のある行動なんだよ。小豆沢家はこうやって毎月稼働してるんだってことを身に染みこませるために」。誰の身に? 言うまでもなく私だ。そして私を通じてたぶん理湖の身にも染みこませたいのだろう。薫の仕事ぶりは会社に認められているみたいだった。ちょうど他の社員が辞めて人員が少なくなったタイミングでもあったが、薫の企画した販売施策によって商品の売り上げが伸び、会社での役職は次々と上がった。その度に薫が持ち帰る現金の額も増えた。だけど角の尖った新札の束を掴むたび、私は毎月顔の知らない他人が勝手に家に上がりこんでいるような気がした。早くATMの奥底に押し戻したかった。
 そもそも薫が会社で認められていることは私にとって意外だった。少なくとも会社の売上高を大きく伸ばして出世するタイプからは程遠い人だと思っていた。大学進学のために私は仙台から、薫は郡山から上京し、二人ともそのまま東京の会社に就職した。私は中堅の文房具会社での経理事務職、薫はフリーペーパーを制作する編集プロダクションのライター。共通の知人を介して知り合い、まもなく直接連絡を交わして会うようになった。二人とも家族とは気が合わず、年末年始もろくに実家に帰らなかったし、同じ東北出身者ということも距離を縮めるきっかけになったと思う。出会って半年後にはどちらから誘うこともなく同棲を始めていた。
 編プロでは毎晩遅くまで仕事をしていたが、残業代が出ることはなく、基本給も低かった。でも薫は特に愚痴をこぼすことなく、黙々と働き続けた。子どもの頃から暇があると本を読み、文章を書くことも好きだったらしく、ページの企画で簡単な書評を書いたり、取材した内容を書き起こす自体は苦ではなさそうで、むしろ面白みを感じていたのだろう。休日には二人で映画館や美術館やコンサートに行き、近所の安く小さな酒場でグラスを傾けながら、その日の感想を述べ合った。人生に透き通った空が見えるとすれば、そんなふうに誰の世話にもならず、片意地を張らず、心の赴くままに日々を過ごすこと──つまり私たちはどこの世界にもいる若い恋人同士だった。ただ差し迫る現実に目を向けるとき、そこにはもちろん結婚という横顔が見えていた。数年後に迎える三十代を意識して、私たちは結婚について話すことが多くなった。二人とも子どもが欲しいという願望は共通しており、そのために薫は編プロを辞めて、市場が拡大している健康食品業界に転職することにした。そして結果的に年収を増加させることに成功した。籍を入れて中古マンションを購入すると、待ち構えていたように理湖が生まれた。薫が仕事に没入したのはそれからだった。毎日早朝から深夜まで会社で時間を費やし、休日には虚ろな目つきで短い返事しかしないほど神経を使い果たした。仕事を楽しんでいるような以前の軽やかさは薫の顔から消えていた。そのかわり後ろ盾のない自分が妻子を養うために、巨大な何かに必死にしがみついて世間の風に飛ばされまいとしている──昼夜関わらず理湖に乳首をくわえさせていた私の目にはそう映っていた。笑っているのか怒っているのか。そう、入学式の写真みたいに薫がそのときどんな顔をしていたのか、私にはうまく思い出すことができなかった。
「ねえ、明日っていてたよね」
 振り向くと海江子が立っていた。ペットボトルとスマホを手にしながら、私のとなりに腰を下ろした。
「明日」私は海江子の横顔を見つめた。「そうね、うん大丈夫」
「よかった」海江子はペットボトルの蓋を開けて、口にした。「私も予定どおりシフトは入ってないから」
「お邪魔することになって悪いね」
 海江子は首を横に振った。「こっちも何が必要かわからないし、選んでもらった方が助かるから。画材ってなかには大きいものもあるしね。車で来る?」
「うん。近くのコインパーキングにでも入れとくよ」
「うちのマンションに来客用のスペースがあるから、そこを使えばいいよ。お昼前には来てね。最近近くに洋菓子屋さんができて、そこのバウムクーヘンがなかなかいけるんだ」
「気遣わないでよ。こっちがもらう方なんだから。住所教えてくれる?」
 私はフルードを広げ、アドレス帳を開いて、海江子が口にする番地を入力した。
「そろそろ時間だから、お先ね」私は席を立とうとした。「明日よろしくお願いします」
「さっき見てた写真って、ご主人?」
「え」私は椅子を戻す手を止めた。
「おしゃれな居酒屋みたいなところで、グラスを片手に優しそうに微笑んでた人。暗くてはっきりとはわからなかったけど、ずいぶんと若そうだね」
 夫婦の仲を窺うように海江子は悪戯っぽく口元を緩ませた。私は曖昧な笑みを返した。
「そんな写真、見てたっけな。だってもう相手の写真をじっと見つめるような歳でもないよ」
 休憩室から出て、オペレータールームへと向かう途中、私は海江子が言った写真について思い巡らした。若い男が居酒屋でグラスを片手に微笑んでいる? それは私が頭の中で思い返していた場面だ。もしその場面だとしても、そんな古い写真がクラウドに残っているはずはない。結婚前、二人であの店に通っていたのは十五年以上も前のことだ。私は廊下の端で立ち止まり、バッグからフルードを取り出して、ぐねりと広げてみた。何も映っていない。深い赤が蛍光灯の光を滑らかに反射させているだけだ。生体電気の記事を思い出す。もしかしてここに私のものが知らないうちに映し出されたのか。私のものが電気信号として伝わり、グラフィックチップによって数千万もの画素に変換されたとでもいうのか。ネクタイを締めた社員が足早に横を通った。私はフルードを丸めて素早くバッグに入れると、何事もなかったようにオペレータールームへと入った。

 海江子のマンションは閑静な住宅街に建っていた。たぶん二十年以上は築年数が経過している低層タイプで、砂漠のような淡い色の外壁が落ち着いた味わいを漂わせていた。私は玄関近くにある指定された番号のスペースに車を停めた。周囲に植えられた樹々が地面に影を作り、濃緑の葉が軽やかな風の音を立てている。木製の扉を開けると、エントランスホールのひんやりとした空気に思わず左右を見回した。広々とした大理石作りで、天井からは日光が射しこみ、集合ポストは目立たないデザインで設置されていた。管理人室の小窓にはカーテンが閉められている。深い森の中で木を打つような音を立てながら、私はインターフォンまで足を進めた。
「お待ちしておりました。どうぞ」
 マイクのざらつきを通しても海江子の明るい声は伝わり、ガラス張りの自動ドアが開けられた。海江子の部屋は最上階である四階にあった。エレベーターを降りて、廊下のいちばん奥まで進むと、玄関ポーチが備えられたドアの前にKishimotoと書かれた表札が見えた。インターフォンを押そうとすると、海江子がドアを開けて顔を出した。「いらっしゃい。なんだか変な感じね」そう笑って手招きをした。
 玄関で思わず息を吸いこんだのは、濃い色の木目で統一されている平静さに対してだった。壁にも天井にも奥まで続く廊下にも歴史的建造物のような重厚感が漂っている。ただの表面的な塗装ではなく、実際にこの部屋で長く生活してきた跡や染みや空気が何層にも重なっている。天井から吊られたアンティークの電灯がシューズボックスにさえ暖かみを注いでいた。その上にはディフューザースティックが挿さったアロマオイルの瓶が置かれている。玄関に足を踏み入れた瞬間に目頭が火照ったのは、このレモングラスの香りのせいかもしれない。
「いつもはもっと散らかってるから」海江子はスリッパをこちらに差し向けた。
 廊下を進み、大きな窓が並んでいる部屋に案内された。ダイニングキッチンとリビングが中央の段差を挟んで繋がり、合わせて小学校の教室ほどの広さがあった。全体はやはり玄関と同じ色調の木目で統一されている。左側にはシステムキッチンや食器棚やテーブル、段差を挟んだ右側にはソファセットやテレビや丸いつまみが付いた音響機器が置かれていた。窓の向こうは奥行きのあるウッドデッキが敷かれており、梅雨前の空が控えめな陽だまりを作っていた。
「お昼は外にしようと思ってたんだけど、午後から天気が崩れるって予報が変わってたから。簡単なものでいいかしら」
 海江子に手土産を渡した後、勧められたソファに私は腰を下ろした。「申し訳ないね。ほんとにただ画材を受け取りにきただけだから」
「せっかくでしょ。いつもいろいろ話させてもらってるし。嫌いなものはあったっけ?」
「どんなものでも、もれなく食べられます」私は深々と頭を下げた。
 海江子はガスコンロの鍋に火をかけた。冷蔵庫を開けて、サラダを盛りつけたボウル型の皿をテーブルの上に置いた。食器をてきぱきと並べて、いろんな種類のパンを入れたバスケットを出した。
「もうすぐミネストローネが温まるけど、先に食べよう」
 私と海江子はダイニングテーブルで向かい合わせに座った。それぞれ取り分けたサラダにドレッシングをかけて、麦茶を一口飲んだときに、海江子は立ち上がってガスコンロの火を止めた。そして二つの皿にミネストローネをよそった。
「普段はつまらないものばっかり食べてるのよ」
 海江子はちぎったパンをミネストローネに浸した。「たまにこうやって誰かが来るときだけ、何か作ったりしてるの」
「それにしては手際がいいね。動きを見ればわかるよ」私はサラダの皿から大根の千切りを箸で挟んだ。
「小豆沢さん、専業主婦歴長いからね。きっとクローゼットに物を押しこんでるのもばれてるわね」
「私も同じよ」私は笑った。「ここはもう長いの?」
「三十のときに引っ越したから、もう二十年以上になるかな」
「すごくいい雰囲気。なんだかしっくりくる」
「ありがとう。部屋を褒められるのってうれしい」
 海江子はテーブルの端に置いていた小さなリモコンを操作した。リビングの壁際に置かれたスピーカーから微かな音が流れてくる。ピアノとベースとスネアドラム。遠くの音響機器が赤いランプを光らせている。
「最近、体調はどう」口元をティッシュで拭った後、海江子が訊ねた。
「なんとかやり過ごしてるよ」私は皿を傾けて、底に残ったスープを掬った。「やっぱり歳のせいかもしれないけど、まあ、ときどきのことだから。もしかしたらこれが原因かなと思い当たるふしもあるし、そう思うだけでも安心できるところはあるよ」
「私はそういうとき、石になる」海江子は右手にパンを持ったまま言った。
「石」私は繰り返した。
「まさに」海江子は頷いた。「体を固くして、ずっと動かない。何も食べないし、お風呂に入らないし、トイレにもほとんど行かない。雨が降っても風が吹いても、何の反応もしないでやる。何日間もね。すると、本当に石になるの。何も受けつけないで済むし、何でもやり過ごせる。そしていろんなものが通り過ぎた後、少しずつ体を柔らかくしていくの。そうすると自分のペースにまた戻っていけるから」
 海江子のまっすぐ通った鼻筋を私は見ていた。美しく正しい角度で隆起した鼻が灰色に石化してしまうところは想像することができた。だけど奥二重の向こうからこちらを見つめる黒い瞳は、石になった後でも輝き続けているような気がした。
「そうだ」海江子は腰を浮かせて、後ろを振り向いた。棚に置いてあったバッグの中からごそごそと取り出したのは青いフルードだった。「私も昨日変えたの。オペレーターとして持った方がいいっていうのもあるけど、いつのまにかこの手ざわりに惹かれてきてね。個人的に」
 それからは会社の上司や他の同僚たちの話を思いつくままに交わした。食事を終えた後は二人で食器を片づけた。
 私がソファに座って、切り分けられたバウムクーヘンを口にしている間、海江子は画材を運んでくると言って、しばらくリビングを離れた。スピーカーからはシンプルな音色による複雑なリズムが流れ続けていた。古いジャズだった。私は肩の力を抜き、ソファにもたれ、窓の外に目をやった。雲が広がり始めている。目を閉じて、深く息を吸いこんだ。午後の影がひっそりと落ちたリビングで一人座っていると、沈黙が水のように染み入ってきた。スピーカーから響く音波も私には何も呼び起こさない。目にも鼻にも舌にも肌にも、そして耳にも──不思議な感覚だった。音楽は私の波長に同調して、私自身の静けさと一体になったようだった。
 ふとフルードに触れたくなって、目を開けた。海江子が段差に腰を下ろしている。ダンボール箱を横に置いて、なかのものを取り出している。折りたたんだイーゼルや大きなキャンバスも近くに重ねられていた。
「筆やブラシはまだ使えると思うんだ。パレットも」海江子は一本ずつ点検しながら言った。「油絵具はどうだろうな。固まってなければ使えるはずだけど」
 私は筆を一本手に取ってみた。先端のビニールを取り外し、毛の感触を指先で確かめた。横を見ると、柔らかく波打つ毛先をじっと見つめてくる海江子の視線があった。
「昔、この筆や絵の具を使って、描きたい人がいたんだ」海江子はダンボールの中の手を止めた。「と言っても、すごくきれいな人というわけじゃなかった。どちらかという外見は平凡だったわ。背は低めで、まとまりにくい癖毛で、大量生産された洋服をいつも着ていた。たぶん初対面で挨拶をしても、次の瞬間どんな顔をしてたかすぐに忘れちゃうようなタイプね」
 私が握った筆に視線を固定したまま海江子は話しだした。まるで細やかな筆の先にその平凡な顔を思い描いているようだった。「そういう、どこにでもいるような人を描きたかったの?」私は確かめた。
「ううん、そういうわけじゃない」海江子膝を立て、両腕で抱えた。「私だって特別なものを描きたかった。私にとっての特別なもの。そういう意味では、彼女は特別だったわ。たとえ他の人からは振り返られもしない、ぱっとしない外見だったとしても、彼女の中には私にとっての特別なものがあったのよ」
 頭のすぐ上を鳥の影が移動した。反射的に天井を見上げた。濃い木目に電球色の光が反射しているだけだ。私が感じたのは鳥の気配ではなかった。エアコンの音だった。部屋のアンティークな雰囲気とはおよそ不釣り合いな真っ白なエアコンの送風口が開き、渇いた風を送り出している。リビングに戻ったときに海江子がスイッチを入れたのだろう。彼女、と海江子は言った。一呼吸のためらいもなく。彼女について語ることは自分にとって昔から自然なことであるかのように。
「寒い?」海江子はこちらを覗きこんだ。
「大丈夫。今日は湿度があるし」
 海江子は床に広げていた筆やブラシを手元に寄せ、両手でまとめて高さを揃えた。少しの惜しみも残っていないことを示すみたいにこんこんと床を打った。
「結局、別れることになったわ」海江子は言った。「理由は何個もあったんだけど、何個もありすぎて、今となってはどれも理由なんかじゃなかったなって思えるぐらい」
「ずいぶん前のことなのね」私は海江子の顔を見た。
「そう、まだこの家を買ったばかりのとき」海江子は部屋を見回した。「美大でも私は全然上手に描けなかったし、まわりには才能のある人が多かったから、絵で食べていきたいなんて初めから考えていなかった。デパートに勤めてからは筆を持つこともなくなったわ。でもあるとき彼女と出会って、彼女の中の特別なものに触れることができると、それを絵にしたいって思ったの。技術がないとか、才能がないとか、そういうのとは関係がない。彼女の姿を描くことで、ただ自分のためだけの特別なものを描きつけたかったの。でも結局、その前に別れることになってしまったけど」
 海江子は立ち上がった。ちょうど窓からの柔らかい光が海江子の顔の片側に当たった。仕事場で会うよりも、自宅の海江子は小さく見えた。同僚でもなく、年上でもなく、初めて自宅で会うよそよそしい距離感もなく、そして女性同士でもない。目の前に立つのは、ただの一人の海江子だった。彼女は足を踏み出して、こちらに近づこうとした。ソファの後ろから回りこみ、黒髪を揺らせながら、私のとなりに腰を下ろした。とても静かな座り方だった。まるで私のとなりに座るのが初めてのように。
 海江子の手は私の手の上にすんなりと重ねられた。互いの体温を確かめ合うように、二つの手はしばらく動かなかった。海江子の手は温かかった。海江子の温もりが移動して、私の体温を同じ温かさにしようとしていた。言葉が交わされないまま、海江子の体はソファの上で位置を移動した。二つの体は向かい合い、息づかいが聞こえるほど顔が寄せられた。そして、そうなることが予め決められていたように唇は重なり合った。私が戸惑ったのは口づけそのものより、冷たさだった。とても冷たい口づけだった。手が重なった温もりとは反し、互いの存在を鋭く際立たせるような冷たさ。別々の生き物として未来永劫生きていく。そのことを決定づける冷たさ。
 私は真夜中にいた。人も車もない国道の上。白い電灯が遠くまで並び、建物の明かりは数少ない。そこを移動しているのは風だけだ。強く冷たい風が吹きすさんでいる。耳元で何かがざわめく。風の音か、それとも誰かの囁きか。風の中に誰かがいてほしかった。きっと私にとって特別な誰かのはずだ。でも誰も姿を現さない。真夜中の国道に立ち尽くしているのは、やっぱり私一人だけだ。風は私を抱こうとしていた。私の中に侵入し、そのままどこかへ連れていこうとしていた。冷たさがすべてを断ち切り、どこでもない場所へと私を移動させている。決して瞼の裏側なんかではない、遥か遠い場所をめざして風は吹き抜けている。
 海江子の冷たい唇が離れた後も、私はソファの上で目を閉じていた。自分のいる景色を目にするのが怖かった。海江子の穏やかな声が耳元で囁かれるまで、私は真夜中の風に抱かれているままだった。

 エントランスホールを出ると、雨が降りかけていた。荷台を開けて、画材が詰まったショッピングバッグを載せた。運転席に乗り、エンジンをかける前に、バッグからフルードを取り出した。そして顎を上に向けて、深呼吸をした。
 海江子とは笑顔で別れた。また明日──ただ休日を他愛もない話を交わして過ごしたように手を振り合った。口づけの後、海江子は体を離そうとせずに、腕を回して私の背中に優しく手を置いた。「急にこんなことをして、ごめんなさい」そう小さな声で謝った。「驚いたよね。私も自分でこんなふうになるなんて思っていなかった。でも灯子さんと話してたら」と海江子は途中で言葉を止めた。そして私の背中から手を離し、距離を開けた。
 私はソファの上で体を支えている手を強く握りしめていた。手にしていた筆はいつのまにか床に落ちている。海江子がそういうタイプだとは考えたこともなかった。ただ結婚する男性と出会うタイミングがなかっただけだと思いこんでいた。あるいは昔に離婚をして、結婚する意志を失くしてしまったのかもしれないと勝手に思いこんでいた。なんでだろう。なぜ海江子が女性を好むタイプかもしれないと想像さえしなかったんだろう。わざわざ自宅に呼ばれて、食事までごちそうしてもらったのに。私は固くなっていた手をゆっくり開いて、床の筆を拾った。
「そろそろどの画材をもらうか、選ばせてもらうね」
 私はできるだけ高い声を出して、立ち上がった。海江子は私を見上げて頷いた。
「好きなものを好きなだけ持っていってね。遠慮なんかしちゃだめよ」
 玄関先で海江子が言った言葉が残っていた。「灯子さんと一緒にいたら、つい昔のことを思い出してしまったの。今日は来てくれてありがとう。また明日」
 海江子は画材をまとめたバッグを私に渡すと、いつもの上品な微笑みを取り戻した。
 運転席で、私は視線を下げた。微かな電流が一瞬手元に走ったのだ。無意識に強い力が加えられ、フルードが部分的に指の間から盛り上がっている。手を広げると、異形の魂のようにごつごつとした隆起が残っていた。しばらく時間が経てば、元の卵型に戻るようにプログラムされている。でも、色は戻るのだろうか。フルードはいつもの深い赤ではなかった。傷口から流れたばかりの鮮血のような赤に変わっていた。まるで新しい血液を得て、生命活動を始めたような赤だ。フルードは元の形に戻ろうと、ボディを波打たせ始めた。隆起を抑え、陥没を持ち上げようとしている。私には納得できなかった。やはりただの情報デバイスとは思えなかった。決して形状記憶プログラムによって動いているのではない。それは生きている。それの内部を血のように巡っているものがある。私のものがフルードを巡っている。私に混線が続いているのも、フルードが私のものを受け取ろうとしているからだろう。私のあらゆる信号を巡らせながら、フルードはボディの形を変え、情景を映し出している。

 激しい雨の中、私は自宅に戻った。台所の洗いかごに立てられた食器はすでに乾いていた。薫が使った茶碗と薄い皿とプラスチックのコップ。たぶん冷凍していた白米とおかずを温めたのだろう。湯を沸かし、インスタントの味噌汁でも飲んだのだろう。廊下を覗くと、やはりドアはぴたりと閉じられている。何も聞こえてこない。薫は私が帰ってきたことに気づいているのか。そもそも私が出かけると言ったことを憶えているのか。
 理湖が帰ってくるまで、食卓テーブルで肘をつき、フルードに触っていた。ネットニュースに目を通し、SNSをチェックした。海江子にお礼のメッセージを送信するのはやっぱりやめることにした。海江子に口づけされた感触が思い出されると、家庭の繋がりからあっけなく除外されてしまのではないかという不安が指の動きを止めた。テーブルの上で呑気に頬杖を突いていることすら許されない気がした。あの隠れ家のような静かなマンションで起こったことは忘れてしまおうと、フルードのくにくにとした感触をひたすら手に馴染ませた。色は元に戻らなかった。私から送られてくるものを充分に活かすように、フルードはありふれた蛍光灯の光を生き生きとした赤に反射させていた。充電量も半分以上は保たれている。しばらく真っ赤な軟体を手の中で弄んでいると、夕食の準備はどうしようかなんて頭に浮かんでこなかった。立方体に成形したり、星形に尖らせたり、ランチョンマットぐらいに引き伸ばしたりしているうちに、冷たい感触が唇の上に戻ってくるのを私はそれでも受け入れていた。
「また、粘土遊び」
 いつのまにかリビングに入ってきた理湖がこちらを見ていた。学校での活動が疲れたのか、それとも生理が始まろうとしているのか、薄暗い目を向けている。
「えらく静かだね」一人で過ごしていた雰囲気をごまかそうと私は立ち上がった。
「静かじゃないよ。ちゃんとただいまって言ったよ。ドアも普通に開けたつもりなんだけど」理湖は鞄を床の上へ放ち、制服のままソファの上に倒れこんだ。
「画材もらってきたよ」私は笑顔を作った。
「え」理湖はソファに顔を埋めたまま反応した。
「どれがいいのかわからなくて。けっこう持って帰ってきたから、とりあえず見てみて」
 私は和室に置いていたショッピングバッグを両手で掴んで、ソファの前に置いた。理湖は面倒くさそうに上半身を起こし、怖々と指先でバッグの口を開けた。
「何これ。誰の」理湖は怪訝そうに眉をひそめた。
「前に言ったでしょ。お母さんの仕事先の人が美大出身だから、もしよかったらもらってって」
「そんなの聞いてない」
「言ったわよ。あなたが聞いてなかっただけでしょ」
 思わず早口になった私の言葉など意に介さず、理湖はバッグの中を覗きこみ、筆やブラシやパレットを一つ一つずつ見回しながら、カーペットの上に出した。
「使えそう?」私は腰を下ろし、画材を丁寧に並べた。
「さあ」
「何よ」
「やっぱ、使わない」理湖は手の動きを止めた。
「どうして」私は理湖の顔を覗きこんだ。
「どれもいらない」
「いらないってどういうこと」
「だからいらないって。なんか気持ち悪いから。私は使わない」
 理湖は興味をすべて失ったようにバッグから手を離し、再びうつ伏せになってソファに顔を埋めた。
「ちょっと理湖、どういうことよ。私は使わないって、その言い方」理湖の後頭部に向かって、私は声を荒げた。「あなたが使わなきゃ、誰も使う人なんていないじゃない。美術部で必要なものなんでしょ。またいずれ買わなきゃいけないものなんでしょ」
「使う人がいなきゃ捨てようよ」理湖はくぐもった声で言った。「もらってきてほしいなんて頼んだ憶えはないし。私は今持ってるものを使うから」
「捨てるなんてもったいないじゃない。あなたが使うだろうと思って、せっかく取りに行ってあげたのに。どうしてそんなこと言うのよ」
「ほしいって言ってもないものを、使いたくないの」
 私の声量に反して、理湖の声は小さくなっていた。ぴくりとも動こうとしない理湖の尖った背中には雨の跡がところどころに染みていた。それ以上言う気が起きず、私は画材をバッグに戻すことにした。確かに筆の柄に塗られたニスは光沢を失くし、絵の具のパッケージは印刷が色褪せている。十三歳という年齢の女の子においては潔癖さが増すものだろうし、何かにつけて親に反発するのはわかる。ただ、理湖は気持ち悪いと言った。この画材が気持ち悪いという意味か。誰が使っていたかわからないことが気持ち悪いのか。それともそんな画材を持って帰ってきた私のことが、同じ一人の女として気持ち悪いのか。しばらくして洗濯物を取りこもうとベランダの窓を開けたとき、理湖は唐突にソファから起き上がった。唇をきつく閉じたまま学校の鞄を手にし、リビングを出て、自分の部屋のドアをばたりと閉めた。
 野菜炒めの具材をすべて切り終えた時間になっても、理湖は部屋から出てこなかった。そのかわり薫が帰ってきた。玄関のドアを開け、ただいまと響かせた低い声に私は驚き、蛇口の水を止めた。リビングに現れた薫に、私は反射的に振り向いた。
「出かけてたの」
「あれ、気づかなかったんだ」薫はちらりとこちらに視線を向けた。ポロシャツを着て、髪の先は濡れている。「今日は半休を取ったんだよ。前から申請してた」
 薫はソファに腰を落とした。「すごい雨だよ。折りたたみを持って行って助かった」
「こんな雨なのに、どこに」
「昼ご飯を食べてからボウリング」
「何」カウンターキッチンの中から私は声を大きくした。
「ボウリング。昔から好きなんだよ」薫はリモコンを握ってテレビを点けた。「編プロに勤めてた頃も、ときどき懇親会と称してみんなでボウリングに行ってたんだ。けっこういいスコアも出してた」
「そんな話、初めて聞いた。ずっと部屋で仕事してると思ってた」
「久しぶりだったけど、おもしろかったよ。硬くて重い玉を掴んでさ、思いっきり転がしてピンが弾け飛ぶ衝撃はなかなか気持ちがいいもんだ」
「一人で」
「そうだよ」薫はテレビに顔を向けたまま、平然と答えた。「そうだ、これ下ろしてきた」と鞄の中から銀行名が印刷された封筒を取り出した。
 在宅勤務に切り替わってから、給料明細はPDF化されて、薫のメールアドレスに送信されていた。薫は給料を全額引き出すことをやめて、生活費として必要な現金だけを私に手渡すようになった。酒に酔って帰宅することもなくなった。私としては手間が減り、わざわざ訳を訊ねることもしなかった。ただ、毎日会社へ出社する必要がなくなった、そのことで家庭と薫の関係を支えているものも変化している、そういう骨が軋むような音が聞こえてくることはあった。
「半休って言ってなかったっけ」薫は訊ねた。
「さあ、憶えてない」私は答えた。
「今日は何」
「野菜炒め」
 大皿をテーブルの真ん中に置き、箸を並べ、麦茶を注いで、白米を茶碗によそっているときにようやく理湖が部屋から出てきた。ルームウェアに着替えて、スマホを手にしながら、何事もなかったようにおいしそうと呟いて食卓についた。薫も向かいの席に座った。
 薫はボウリング場で見かけた人について話した。平日の昼間では友人同士などの複数で来ている団体はむしろ少なく、レーンを埋めているのはほとんどが一人で黙々と玉を投げている人たちということだった。すでに退職していそうな白髪の男性が腕の角度を熱心に確かめたり、太った中年女性が額の汗を拭いながら玉を持ち上げたりして、薫と同年代ぐらいの男性もワイシャツの袖をまくって投球していたと、高揚気味に話した。
「俺もこれから定期的にやってみようかな」薫は大皿から野菜炒めを自分の皿に取り分けた。
「意外なんだけど」私は麦茶を飲んだ。「そういうタイプじゃなかったでしょう」
「そんなことないよ。変かな」
「変かどうかは知らないけど」
「マイボールって、実はそんなに高価じゃないみたいだよ。大体は既製品の玉に自分の指にぴったりと合う穴を開けて、ついでに名前を刻印するかどうかぐらいだから」
「部屋にマイボールを飾る気なの?」
「そうじゃないよ」薫は短く笑った。「となりのレーンのワイシャツの人から話しかけられたんだ。もう長いんですかって。いや今日ふと思い立って、十年以上ぶりにボウリング場に来たんですって答えたら、私は生まれて初めてですってその人は言ったんだ。実は先週に妻と別れたばかりで、しかも今朝出社したら会社は本日で廃業しますって告げられたらしい。行く場所がどこにもなくなって、何も考えられなくなってしまって、ひたすらボウリングの玉を投げ続けているんです、そう笑ってたよ。いろんなものがあまりにもあっけなく目の前から消えたから、今日の記念にマイボールを注文してから帰りますって言ってた。また来るかもしれない」
 薫はそう微笑んで、空っぽの茶碗を私に突き出した。行為の意味がわからなかった。メモリ不足でCPUの処理作業がフリーズするみたいに、私はまだ米粒が残っている茶碗を見つめた。でも一瞬のことだ。やはり私は反応した。自分の箸を置いて、薫の茶碗を受け取り、台所に入って電子ジャーの蓋を開け、立ち昇る湯気を顔に受けた。そういえば薫が白米のおかわりをするなんて珍しいと思った。
「マイボールの人とまた会うかもしれないね」理湖の声が後ろから聞こえた。
「そうだな」薫は答えた。「この近所に住んでいるかもしれないし」
 私は食卓に戻って、白米を盛った茶碗を薫に渡した。
「理湖、画材はどうするの」私は訊ねた。
 理湖は何も答えず、ピーマンを口に入れた。
「本当に捨ててもいいのね」私は確かめた。「相手の人に返すなんてできないから」
「しばらくは自分のを使うよ」理湖は呟いた。「でも先のことはわかんない」
「使うかもしれないの?」
「そうかもしれない」
「じゃあ置いといていいのね」
「うん」
「どうしたの?」薫が口を挟んだ。
 薫は何も知らない顔をこちらに向けていた。ふとコールセンターで顔の見えない客に応対するときの感覚がよみがえった。
「私の仕事先で美大に行ってた人がいて、全然使ってない画材が残ってるから娘さんにどうぞって言ってくれたの。だから今日車で取りに行ったのに、理湖はほしいなんて言った憶えはない、私は使わないって言うのよ。だったらもったいないけど、もう捨てるしかないと思って」
「ほしいとは言ってないの?」薫は理湖に訊ねた。
「わからない」理湖は答えた。「ちゃんとは憶えてない。でも、もしかしたら言ったような気もする」
「憶えはないけど、とりあえず使うかもしれないんだな」
「うん。でも実際使ってみないと、使い心地はわからないから」
「確かにそうだ」薫は白い歯を見せて賛同した。「今のものは買ったばかりだし、しばらくは使うことになる。もし美術部を辞めなければ、この先使うタイミングはあるだろうけど、そのときになってみないとわからないな。お父さんもマイボールを作るとするなら、投げ心地がいちばん大事だからね」
 そう薫が笑うと、理湖も笑った。二人は顔を合わせて笑った。笑いながら、やはり薫は口元でくっちゃくちゃと音を立てていた。それでも理湖は笑っていた。
 そういえば変質者はどうなったの? そう理湖に訊ねるつもりだった。でも二人がしつこく笑っているものだから、私は食べ終えた食器を黙って流しに運ぶことにした。

 その夜はうまく寝付くことができなかった。頭の中でいろんなものがちらつき、体が痒くなったり熱くなったりして、何度も布団から手足を出し入れしたりした。それでも眉間に神経を集中させて、意識を落ち着かせていると、今度は胃のあたりがざわめき始めた。熱の粒が集まりだして、高まる腹の熱さに耐えきれなくなり、息を強く吸いこんだ瞬間、熱の粒は全身へと拡散した。手の先から足の先まで一気に覚醒する。そしてまた意識を落ち着かせる。そんな浮き沈みが何度か繰り返された後、私はたまらなくなって布団から起き上がった。枕元に転がっていたフルードに触れると、時間は午前二時を過ぎていた。暗闇の中、畳の目一つ一つが立ち上がって群生しているような気がした。私は襖を開けて、リビングの電気を点けた。
 角に置いている細長いコーナーラック。頼りなさげに壁に傾いている引き出しの中に預金通帳をしまっている。定期的にATMに行く必要がなくなって、薫名義の通帳は手にすることもなくなっていた。記帳は薫が毎月行なっているはずだった。それなのに真夜中に引き出しを開けて、なぜ唐突に通帳の中身を調べようとしているのか。部屋にいると思っていた薫がいなくて、実は仕事を休んでボウリングなんかに行っていて、ついでみたいに生活費を下ろしてきたからなのか。でも、そこに通帳はなかった。印鑑やカードや他の通帳はまとめて入っていたが、薫の給料を管理している通帳とキャッシュカードはどこにも見あたらなかった。まだ薫が持っているのか。昼間にATMで現金を下ろしてから、まだ引き出しに戻していない可能性は高い。
 私はソファにもたれた。フルードを両側へ引き伸ばし、ブラウザを立ち上げて、銀行のウェブサイトにアクセスした。だが薫の口座にログインするためのパスワードをすっかり忘れていることに気づいた。舌打ちをして、もう一度コーナーラックまで足早に進み、パスワード類を記したメモを乱雑に探し出す。おそらくそうだったはずだと思ったが、やはり理湖の誕生日に設定されていた。ソファに戻り、フルードにキーボードを表示させて、パスワードを打ちこんだ。小豆沢薫という口座名を確認して、入出金明細欄をタップする。最後の行は私が昼間に受け取った生活費の金額と同じ数字だ。その下に会社から振り込まれた給料額が記されている。見慣れない数字だった。かつて薫が封筒に入れて持ち帰った現金の額からはかなり下回っていた。スワイプして日付をさかのぼっていくと、少なくとも在宅勤務に切り替わった直後の一年前からは、減額された給料が毎月振り込まれていた。それより先は通帳がないと確かめることができない。
 ソファの背もたれからゆっくり体を離すと、不祥事という言葉が浮かんだ。社則に反すること、あるいは常識倫理に反することを起こしてしまい、薫は減給処分を受けることになったのだろうか。たとえば、と想像しても具体的にはわからない。建物と建物との暗い隙間で自分の性器を握りしめている男の姿しか思い浮かばない。経費を不正に精算したり、会社に多大な経済的損害を与えたり、高価な備品を壊したり──そんなことが薫という夫にできるものだろうか。考えられるのは営業不振による降格だった。会社にタイミングよく認められて昇格を果たしたのと同じように、新型ウイルスの流行で景気の風向きが変わり、薫の仕事が以前のように結果を出せなくなったのかもしれない。基本給を下げられ、役職手当も失ったことを計算すると、振り込まれた数字は妥当な減給額のように思われた。なにより在宅勤務に切り替わってから、薫は部屋に閉じこもりっぱなしだった。精気のない目で空中を見つめながら、苛々として呟き、突然笑い出していた薫の振る舞いは、家庭のために精魂をこめ労を尽くしてきた会社からそっぽを向かれてしまった反応としてあり得るものだと思った。
 そして夫は雨の中を帰ってきた。ボウリングをしてきたと快活な表情で話していた。たんにストレスを発散して、気分をすっきりさせてきた感じではなかった。肩の力が抜け、あらゆる関係から解放されて、リラックスしたように落ち着いていた。健康食品会社の社員でもなく、自我が肥大し始めた十三歳の女の子の父親でもなく、一日中柔らかいものを握りしめている中年女の夫でもなく、小豆沢薫というただの一人としてボールを放り投げてきた、そう言わんばかりの満足した表情だった。そういえば薫の反応はいつもと少し違っていた。私が話すと、興味深そうに目を輝かせて私を見返した。理湖が話すと、同じような仕草で理湖を見返した。口元には軽い笑みが浮かんでいた。気分の良さそうな薫を見るのは久しぶりだった。やはり別人のようだった。部屋の中で何人かの男が入れ替わりに薫の皮を被っている。降格させられたのはそのうちの一人かもしれない。給料のことを訊いてみようか。それとも会社での様子を確かめてみようか。でも薫はきっと「あれ、降格したって言わなかったっけ」と何事もなくすんなり訊き返してくることだろう。
 いつのまにかフルードは私の膝の上で、蛇のようにとぐろを巻いていた。無意識に私の手は動いて、フルードをそんな奇妙な形に変えていた。眠気はすっかり消え失せている。半休を取ってボウリング場に行ってきたという薫に対して、私はどう対応していいのかわからなかった。いい歳をした男が昼間から何してんのよと怒ればよかったのか、または落胆すればよかったのか、それとも久しぶりに息抜きができてよかったじゃないと受容すればよかったのか。私が薫の行動に一体どのように反応しているのか、自分でも感知することができずにいた。ボウリングという言葉そのものに、取って付けたようなわざとらしさもつきまとっていた。夫としてでもなく、父親としてでもなく、会社員としてでもない薫の行動に対して、私は電源が落ちたように無反応だった。何の映像も匂いも音も味も触感も引き起こされることはなかった。
 興味が失われてしまったわけではない。これまで私は薫に反応してきたのだ。ただ私が反応してきた薫は誰であったのか。薫が出社する朝には私はコーヒーを淹れた。脱いだシャツを薫に洗濯機へ入れるよう私は促し、娘の入学式には薫を横に並ばせて私は写真を撮った。今日は何と薫に訊かれただけで私は晩ご飯のメニューを口にし、薫が突き出した茶碗に私は白米をよそい、薫の持ち帰った現金に私はありがとうと礼を言った。私が反応していた相手は薫でありながら、薫ではない者だった。夫という者に反応し、娘の父という者に反応し、会社員という者に当たり前に反応していたのだ。そうすることでこちらは妻であり、母であり、専業主婦であろうとした。だけど休暇を取り、雨に降られながら一人でボウリングに行ってきた薫という者に対して、私は自分をどう位置付けていいのかわからなかった。偶然となりのレーンに居合わせた他人と話を交わしている薫がどんな顔をしたのかなんて想像できない。そもそもドアを閉じた部屋で仕事をするようになった薫とどう距離を置けばいいのか、ずっと戸惑ってきたのだ。それは何者でもない薫だった。いつのまにかふらっと出かけて、ボウリング場に行ったり、物陰に隠れてマスターベーションをしているかもしれない薫だった。
 理湖もまた、これまでとは別の理湖だった。幼児のときみたいに私に寄り添って甘えてくることは少なくなった。そのかわり誰かが自分の近くに侵入することに敏感な苛立ちを見せ、自分自身の変化にじっと耳を澄まして塞ぎこむようになった。そんな理湖の姿を遠くから見ていると、私はすでに自分がかつての母ではないのだとあらためて自覚せざるを得なかった。むしろ母になろうとしているのは理湖の方だった。新しい自我を内に孕んで、周囲を神経質そうに警戒する少女。その姿に、十三年前理湖を妊娠しているときの自分が重なって見える一瞬があった。
 ふと顔を上げて、廊下の方を振り向く。リビングのドアは開けっ放しだった。暗闇の向こうに、ぴたりと閉じられたドアがうっすら浮かんでいる。首を傾けると、理湖の部屋のドアも視界に入った。その二枚のドアの開け方を私は知らなかった。どのようにノックをし、どのように声をかけ、どのようにノブを回して、どれくらいの力でドアを押したらいいのか。私はドアの前で赤ん坊みたいに座りこんでいる。私の方が別の人間になってしまった気もした。
 そのうち風が吹き始めた。轟音を立てながら通り過ぎ、体温を奪っていく風。溶ける氷のような肌の冷たさは、海江子の唇の冷たさだった。海江子との口づけは私を切り離した。妻という者から切り離し、母という者から切り離し、コールセンターのオペレーターという者から私を切り離した。海江子との口づけは、何者からも切り離された、ただの私の反応を呼び起こそうとした。それはまだ明確な形を与えられていない。でも反応こそが私だった。何者かなんて関係なく、きっと反応そのものが私なのだ。フルードに指を沈ませていると、弾力にこそ自分がいるのだと実感することがある。電車が近づいてくる音が目の前で巨大で黒い塊を形作ろうが、スーツ姿の男から漂ってくる腋臭が肌を強くつねってこようが、それらの反応はすべて私だ。それまでの私から私自身が漏れ出そうとしているのだ。
 切り離されたソファの上から、私は再び廊下の奥を眺めた。そこには夫でも娘でもない者が眠っていた。何者でもない二人に対して、何者でもない私はどのように反応するのだろうか。そのとき、手元に感触が走った。弱々しい力で手を握り返された。手の中でフルードが元の形に戻ろうとしていた。波打つ動きが私の手に微かな刺激を与えたのだ。フルードの赤みは昼間よりも鮮やかさを増しているように見えた。私はフルードをタップした。操作が行なわれた反応としてフルードの動きは停止する。メモアプリを立ち上げて、私は自分の名前を入力した。小豆沢灯子──画数の少ない文字がフルードの真っ赤な表面に映し出される。
 私は確かめたかった。しばらく放っておくと、小豆沢灯子というテキストは分解される。それぞれの線は離れ、歪み、くっつき、混ざり合い、再びばらばらになっていく。小豆沢灯子がやがて違うものに分解される──それがフルードの回帰動作によるものなのか、それとも私の漏れ出した反応によるものか。結局わからないまま、小豆沢灯子は柔らかい肉の内部へと離散していった。

 海江子が作った食事を食べ終えた午後、私たちは寝室に入る。決して広くはないが、余分なスペースがないぶん、古い家具は然るべき位置にぴたりと鎮まっている。電気は点けられず、北側の部屋であるためか、レースのカーテンから漏れる陽光だけでは部屋の薄闇を取り払うのに不充分だった。ダブルサイズのベッドが中央に置かれ、壁に何枚かの絵画が飾られているほどしかわからない。
 事前にシャワーを浴びるときもあれば、梅雨時の湿っぽい汗が乾かないまま体を寄せ合うこともある。でも最初の口づけに時間をたっぷりかけることは毎回変わらなかった。特にまだ私が慣れないうちは、海江子は自分の唇を私の肌にゆっくりと馴染ませた。唇を軽く重ねた後、私の頬から顎のラインに沿って注意深く舌先を這わせた。息で耳を湿らせ、耳たぶや耳の穴の入り口をゆっくりと舐めた。目を閉じたままでいると、しるしを付けるように二つの瞼を冷たくした。再び私の唇に戻り、今度は奥まで舌を伸ばした。互いの口内を探り合い、唇を甘く噛み合いながら、自分たちの行為を遠くから確かめるように手を握り合った。海江子のもう一つの手は私の首筋を辿り、髪の中に入りこんで、背中を優しく抱き寄せた。海江子の行為が馴染んでくると、次は私から海江子の体を唇で濡らしていった。
 二人とも洋服を脱いだ後はそのときの流れにまかせるだけで、決まった順序があるわけではなかった。音を立てて鎖骨を吸ったり、乳房や乳首に指と舌を這わせたりすることにもやはり時間を費やした。脇腹を刺激すると、海江子は声を上げた。針で突かれた痛みを抑えるような短く小さな声だった。互いにマスタベーションを見せ合うときもあった。脚を開き、相手の視線に晒されることへの解放感を覚えると同時に、自らの触り方や性感帯を相手に伝えた。海江子の言葉や指先の動きを頭に描きながら、私は海江子の性器に指を入れ、舌先を尖らせて小刻みに動かしたりした。だんだん自分の性器も触ってほしくなり、やがてシックスナインの体勢に移行する。互いに呼吸が乱れ、手指の動きが早くなってくる。海江子は我慢しきれないように私から離れて四つん這いになり、性器をこちらに向かって突き出した。五十歳を超えた女性の性器を間近に見るのは初めてだったが、そもそも他の女性器を愛撫した経験が一度もなかった。分泌された膣液と私の唾液によって鈍く反射している性器に唇をつけ、指先で押したり広げたりしていると、海江子は泣き崩れるような大きな声をシーツに向かって吐き出した。ときどき互いの性器を擦り合わせることもした。向かい合い、脚を大きく広げて、性器同士を近づけた。人体の構造上、ぴたりと女性器を重ね合わせることは容易にできず、腰をねじったり、腕や太ももに力を入れて体を支えたり、体重を少しずつ移動させたりしながら、なんとか相手の性器を正面から感じられる位置を探しだした。快感そのものは、舌や指による直接的な愛撫より劣るかもしれない。だが全身の汗を潤滑油とし、二つの肉体を絡ませながら腰を動かして、下半身の中心で互いの膣液を混ざり合わせる行為は、海江子の存在をより強く感じさせるものだった。海江子が私の内部に侵入している──そういう感覚を肉体の奥底から引き起こした。
 海江子は道具を使わなかった。男性器の形をしたものを持ちだしたりしなかったし、ローションも私が慣れないときに数回使っただけで、あとは互いの汗と唾液で二人の体を馴染ませた。とにかく急ぐことはせず、長い時間が費やされた。昼前にベッドに入り、近所の小学校から下校のチャイムが聞こえてきても、まだ抱き合っているときがあった。男性器の射精という終了合図がないぶん、海江子との行為は永遠に続くようだった。オーガズムがないわけではない。むしろ丁寧にゆっくりと膨らんでいく緊張から解き放たれる快感が、数時間の間に何度も訪れた。そのうちにある一定の基礎的快感が私の内に浮遊した。オーガズムを終えた後でも、浮遊している快感は失われない。私は肉体の自立性に足を一歩踏み入れた気になった。たとえばいくら形を変化させられても、必ず元の形状に戻ることをプログラムされた化学素材になったみたいに。
 だけどもちろん時間は永遠ではなかった。私は家に帰らなければいけなかった。スーパーに寄って買い物をしてから、台所で夕食を作らなければいけなかった。職場の友人とランチを食べにいってくると薫には告げているし、私より先に理湖が学校から帰宅したとしても問題はない。それでも私は太陽が傾くまでには家に帰ると決めていた。夫と娘が待っているからではないと思う。私はまだ反応しきれていないのだ。夫と娘の変化にどう反応したらいいのかわからなかったし、私を求める海江子にもこの先どう反応したらいいのかはっきりとはわからず、家事という習慣的作業にとりあえず自分を繋ぎ止めようとしていた。
「献立ってどうやって考えてるの?」
 海江子は音楽のボリュームを少し上げて、リビングのソファに座った。「だって毎日でしょ。どれくらいのローテーションで回してるの?」
「あんまり考えたことないな」私は置きっぱなしにしていたグラスに口をつけた。水滴がテーブルの上に溜まりを作り、アイスティーはぬるくなっていた。
「灯子の料理、食べてみたいな」
「いつもその場しのぎのものばっかりだよ。出来合いのものも多いし」
 髪を整え、シャツの皺を伸ばし、バッグを持って部屋を出る準備をしたとき、海江子は立ち上がった。自分の青いフルードを手にしていた。
「ねえ、これって知ってる?」
 広げられたフルードには見知らぬウェブサイトが表示されていた。青空の下の草原で十人ほどの老若男女が肩を寄せて、微笑み合っている画像が掲載されている。おそらくプロのモデルを使ったクオリティの高い写真だろうが、次のページをクリックすればすぐに忘れてしまいそうなほど印象の薄いものだ。写真の横には団体名らしきロゴがある。
「この前、ここのイベントに行ったの」海江子は言った。「環境問題に力を入れているところなんだけど、別に大げさなことは言わない。北極の氷河が溶けてるとか二酸化炭素が増えてるとか脱原発とか、何の根拠かよくわからないことは言わないの。プラスチックをやめて紙に変えようなんてのも、余計に二酸化炭素が増えるだけだということも指摘してた。そういう表面的な方向転換だけじゃ、環境はそれほど良くはならないんだって」
 窓の外から小学校のチャイムが聞こえた。「環境が悪くなってるのは間違いないんだね」視界の一部で何かが形作られそうな気配を感じながら私は訊ねた。
「どうだろうね」海江子は適当な手つきでページをスクロールした。「環境が悪くなってるんじゃなくて、私たちが悪くなってるのかもしれない。環境問題を二酸化炭素のせいにして押しつけてるけど、実は私たち自身に問題があるのかもしれない。私もまだ行き始めたばかりだから、いい加減なことは言えないけど。良かったら今度、二人で行ってみようよ。灯子なら興味を持つかもしれないから」
 エレベーターから降り、エントランスホールを出た。車の運転席に乗りこみ、エンジンが回転する音を耳にするまでに、私はいつもの形に戻ろうとする。夫という者に反応する妻として、あるいは娘という者に反応する母として、自分がきちんと元の形に戻っているのを確かめてからアクセルペダルを踏むことにしている。そして車が速度を上げるにつれて、海江子がどんどん離れていくのを背中に感じる。海江子と抱き合っているとき、私は何者でもない者になることができた。妻でもないし、母でもなし、同僚でもないし、小豆沢灯子でもなかった。ただ一人の者として海江子の舌と指先に反応し、自らの舌と指先で海江子を濡らしていた。そんな無条件な時間が終わってしまったことが惜しかった。何者でもない私が背の方へ遠ざかるのを感じると、思わずハンドルを回転させて海江子のマンションに戻りたくなることがあった。
 助手席の上でフルードが小さな光を点滅させている。信号待ちのときに手に取ると、海江子からメッセージが届いていた。〈来月のシフトが決まったら教えてね。今日の話、調整するから〉。青信号に変わったので、私はフルードをそのまま助手席に戻し、車を発進させた。環境問題? 一体何のことだろう。たぶんNPOみたいな団体がボランティアで環境保護活動でも行なっているのだろう。ごみを拾ったり、花を植えたり、川掃除をしたり。それは何反応なんだろうか。単純に生息環境が壊れつつある地球人としての反応なのか、それとも利害が絡んだ経済的関係によって生まれた反応なのか。簡単にでも海江子に返信しておこうと、次の赤信号でブレーキを踏み、私はフルードに手を伸ばそうとした。
 そこにあるのは知らない形だった。まだ卵型に戻るほどの時間は経過していない。かといって先ほど海江子のメッセージを開いたままの形でもない。いつのまにかそれは半円型の物体になっていた。ちょうど穴の空いたドーナツを半分に切り、二つの断面を接地させたような形。それともどこかに隠れている小人たちのために作った橋。いずれにせよそれは十分ほど前に海江子の部屋で目前に現れようとした形だった。私が運転で目を離している隙に、フルードは自ら変形していた。事前にプログラムされた形ではない、もっと別の形に。
 私のせいだろうか、フルードには触れずに私はアクセルを踏んだ。私が握りしめすぎて、私の信号が巡りすぎたせいだろうか。そういえば、と私は思う。生理がきていない。昔から周期が乱れるタイプではなく、理湖を出産した後も一ヵ月ほどで元の周期に何事もなく戻った。十日以上も生理が遅れるなんて初めてだった。経血が下着を赤黒く汚しそうな予感もない。やはり更年期に差し掛かっているのか。それとも──と海江子との行為が思い浮かび、ふっとアクセルから足を浮かした。

 薫はボウリング場に通っていた。大抵は土日いずれかの午前中に出かけたが、わざわざ有給休暇を取ってボウリング場へ出向いたこともあった。妻と仕事をいっぺんに失くしたという男と再び顔を合わせ、それからは事前に日時を約束して、二人でスコアを競い合っているみたいだった。
「これ、作ってきた」
 小ぶりなリュックサックのような鞄を肩に提げて、薫がリビングに入ってきた。チャックを開け、テーブルの上に重々しく置いたのはボウリングの玉だった。「けっこう安い値段で済んだよ」と薫は小動物を愛しく守るような手つきで両側から支えた。それは赤い色をしていた。フルードと同じく、鮮血のような艶やかさを放っている。
「俺の相棒。これからこのマイボールで上達していくんだ」薫は手の中にあるものに向かって言った。
「ほんとに続けるつもりなの」私はボールの赤から目を離さないでいた。「そんな大げさなもの作って、途中でやめるかもしれないじゃない」
「マイボールを作ったからには続けるしかないだろ。教則本を読んで、フォームとか投げ方も勉強してるし」
「あのマイボールの人と一緒にやってるのね」
「そうだよ。お互いにマイボール。今のところ大体いい勝負だよ。やっぱりこのあたりに住んでいて、今度一杯飲みましょうかって話してる。最近は全然ツキがないけど、なんとか自分を維持できてるのはボウリングのおかげだって」
「仕事はどうしてるの」
「まだ失業中だろう」
「あなたのことよ」
「今日は有休を取るって言ってたよね」
「明日は仕事をするのね」
「するさ」
 薫はボールを大事そうに鞄にしまった。「今日の晩ご飯、俺のぶん作らなくていいよ。今から映画を観に行ってくる。観たい映画があるんだ。日本兵だった老人とミャンマーの青年が交流する話。ついでにどっかで食事を済ませてくるから」
 あえて薫の方に顔を上げなかった。薫は同じ映画を観ようとしている。偶然なのか。それとも私が観た映画だと知っているのか。私が映画館に入るのを物陰から見ていたのか。もしかして海江子のマンションに出入りしているのもちゃんと見ているからなと暗に示しているのか。
「会社の経営って大丈夫なの」私は台所に戻りながら訊ねた。「この前、お給料が下がっているのを通帳で見たんだけど」
「仕方ないことなんだよ」薫は狼狽うろたえることなく答えた。「健康食品を取り巻く法規制が厳しくなって、以前ほど簡単に売れなくなった。伝えなかったことは悪かったよ。でも家計を圧迫するほどの額じゃないし、必要以上に心配させるのもどうかと思って」
「降格したの?」
「そういうわけじゃない」
「このあたりに変質者がいるって理湖が言ってたわ、この前」
「嫌な話だな。理湖に気をつけろって言っとかなきゃ。でも」
 続きを話そうとしながら、薫はそのまま言葉を止めていた。私は食卓の方へ顔を覗かせた。薫はテーブルの上に視線を落としている。置きっぱなしにしていたフルードに自分の指先をめりこませていた。
「触るな!」私は台所から飛び出して、フルードを掴み取った。
「なんだよ」薫は目を見開いた。「ロックかかってるんだろ。見られないように設定してるんだろ。ただ感触を確かめてみたかっただけだよ」
 薫は鞄の紐を肩に食いこませて、リビングから出ていった。夫の後ろ姿を乾いた眼球で睨みながら、私はフルードを胸元で守っていた。

 コールセンターで顔を合わせても、私と海江子はそれまでと変わらない態度で接した。ロッカーで挨拶を交わし、廊下ですれ違うと微笑み合い、ときどき和食屋でランチを食べた。相手の視界に映りながら他の同僚女性と盛り上がって話すこともあったし、オペレータールームではむしろ互いから離れた席を選ぶことも少なくなかった。
 海江子の部屋に行く日はフルードでやりとりをして決めた。メッセージアプリを通じて候補日を送信することもあったし、席が近いときはBluetoothで直接送信することもあった。Bluetooth信号を受信すると、フルードは身震いするように一瞬波打つ。半円型の橋が崩れるかのように、休憩室のテーブルの上で微かな振動を起こした。私は振り返った。やはり海江子が立っていた。
「どうしたの、その形」海江子は私の手元を見ていた。「そんなふうに設定変更できるの」
「ううん、勝手にこう変わっちゃったんだ」
「卵に戻らないんだ。不良品かしら」
「機能は普通に使えるよ」
「色もなんだか前より明るいし」
「これも、もう戻らない」
「ふうん。可愛い」
 海江子は手の中の青い卵型のフルードと見比べながら、となりの席に座った。後ろで髪を束ねて、蘭の花びらのような小さな耳をあらわにしている。
「急だけど明後日の水曜日は大丈夫?」海江子は訊ねた。
「大丈夫」私はフルードを広げて日にちを確認した。
「午前中に行ってみようか。例のセミナー」
「うん。何するの」
「大したことはしないよ。まず自然環境にまつわる話が三十分ほどあって、その後はみんなで意見を言い合うみたいなこと。怪しい自己啓発系じゃないから安心して」
「私にわかるかな。環境のことなんて」
「大丈夫よ、小豆沢さんなら」
 休憩時間の終了が近づき、私は立ち上がった。「またね」と海江子は手を振った。手の中にはフルードが握られていた。左右の小刻みな動きと共に、指と指の間からフルードが蔓のようにひょろりと伸びた。まるで植物の生長を早送りの映像で見せるように、天井まで届きそうな勢いだった。海江子はこちらを見つめたままだ。私のフルードは呼応するように脈を打った。ゆっくりと、確かな鼓動を数回。それは反応だった。だけど私の反応が漏れているのか、それともフルード自身が実際に反応しているのか、見分けることができないまま休憩室を後にした。
 そのときオペレータールームはひどく寒かった。梅雨が明けて気温が一気に上昇し、エアコンの設定は基本的に低温に設定されていた。やがて寒がる者が立ち上がり、壁のパネルを操作して、室温が何度か上げられる。しばらくすると暑がる者が出てきて、室温は再び下げられる。数十分後には誰かがまたパネルを操作している。明確な陣営ラインのない攻防に巻きこまれながら、オペレーターたちは薄手のカーディガンを着たり脱いだりしていた。私は二人しか作業していない島に入った。室温は低かったが、他人の体温に挟まれて仕事をすると嫌な汗が滲むような気がして、それよりも冷たい手をさすりながら電話を受けることを選んだ。
 クライアントはSNSを使った口コミ戦略を控えていて、新規の申し込みよりも既存顧客からの問い合わせが多かった。卵型の形を自分の好きな形に変更することはできないのかとか、やっぱり不便だからカメラ付きのタイプを早く発売してくれなどの機能に関する要望だった。フルードはおおむね好意的に受け入れられているみたいだった。フリーズするとか電源がつかないといった不具合は、定期的なシステムアップデートが重ねられたことでほぼ解消されていた。
 その電話を受けたとき、私はひどい寒さを覚えていた。両腕を抱え、脚を強く閉じ、それでも我慢できずにエアコンのパネルまで立ち上がろうとしたときだった。電話機のランプが赤く点滅した。モニターに「番号非通知により顧客情報検索不可」と表示された。新規の客かもしれないし、既存顧客だとしても特定はできない。私は応答のボタンをクリックした。
「お電話ありがとうございます」
「あの、先日そちらに電話した者です」
 男の声だった。低くはなく、年配者のような言い淀みもなかったが、通信状態が悪いせいか音声に途切れがあり、遠くかすれた声に聞こえた。
「憶えていますか」男は訊ねた。
「申し訳ございません。おそらくそのときは違うオペレーターが応対させていただいたと思います。前回のお話を確認するため、お客様のお名前とお電話番号を頂戴できますでしょうか」
「そんなもの、必要ですか」
「お手数をお掛けします。お電話を頂いたことがございましたら、記録が残っているかもしれませんので」
「そんなものをいちいち残しているんだ」男の声は硬くなった。
「まず記録が残っているかどうかを確認いたしますので」
 男の声はしばらく聞こえなくなった。意図的に言葉を発しないのか、それともたんに不安定な通信状態が引き起こしている現象なのか。灰色の絵の具を塗りたくったようなのっぺりとした沈黙だった。
「お客様」私は呼びかけた。
「あのさ」男は咳払いをした。「俺はお客様じゃないよ」
 私は返答に窮した。他社からの営業勧誘とは考えにくかった。エンドユーザー向けのフリーダイヤルに他業者が電話を掛けてくることは道理的にあり得ない。単純に間違い電話かもしれない。「失礼ですが、どちらにお掛けでしょうか」
「あなたこそ誰なんですか」男は即座に返した。
「こちらはフルードの問い合わせセンターでございます」
「フルード。ああ、俺の妻も使ってるよ。くにくにとした柔らかいやつだろう。でも、おかしいよね。俺は健康食品の会社に電話したんだけど」
「そうでございましたか。ではもう一度番号をお確かめくださいませ。失礼いたします」
「違うよ」男は私の肩を強引に掴むように言った。「最初に言ったでしょう。先日そちらに電話したって。先日と言っても二三日前のこと。まだ発信履歴は残っているから、そのままボタンを押しただけなんだよ。だからそこが健康食品会社じゃないというのはおかしな話でしょう」
「そうだったんですか」私はよく理解できないまま答えた。でもどんな奇妙な経緯があろうが、結果的に間違い電話であることは違いない。一旦保留にして、チームリーダーに応対策を相談してみようか。そう頭をよぎったとき、男は声量を上げた。
「ちょっと、誰かと変わろうなんてしないでよ。俺は今、あんたと話しているんだから」
「でも間違った先に電話されているのは明らかなので」
「そういうわけでもないだろう。実は俺だって今、フルードを使ってこの電話を掛けているんだよ。だからあなたたちの客には変わらないはずだ。もしかしたらこのフルードって、自分の会社に勝手に電話が掛かるように設定されているんじゃないだろうな」
 男が咄嗟に嘘をついたのかどうかはわからない。ただ、もう一度名前と電話番号を聞いて登録があるのか調べる意味もなかったし、私と男の間で話すべきことは何もなかった。何の関係もないはずだった。
「すみません」私は肩の力を抜いた。「ご用件がなければ、電話を切らせていただきます」
「採用の件だよ」男は言った。
「採用?」
「前回も同じ話をしたから面倒臭いんだけど、仕方ないね。俺が勤めてた会社が潰れたんだよ。廃業だから、経営者自らが潰したってことになるかな。退職金みたいな金はわずかばかり振り込まれたけど、そんなものじゃ生活は続かない。そこは健康食品の会社で、長年勤めてたから、経験を活かしてまた同じ業界で働きたいっていうのが希望さ」
 目の前のモニターには変わらず「番号非通知により顧客情報検索不可」という文言が表示されていた。だけど男が言葉を発するたび、それらの文字は約束事を失ったようにぱらぱらとほどけていった。番から田が外れ、知は矢と口に分かれ、不からノが離れ、やがて意味を成さない虫みたいな線だけがモニターに浮遊した。線たちはモニターからたやすく飛び出して、私の肌に突き刺さった。私の頬に、瞼に、耳に、首筋に──金属同士が激しくぶつかり合うときの焦げた匂いが漂った。硬質なボウリングが勢いよくレーンを転がり、風と音を巻き起こしている。男は何かを噛んでいた。電話口の向こうでいつまでも噛みきれない柔らかい何かを、男はくっちゃくちゃと噛み続けていた。
「それが何なのさ」
「はい?」男は噛むのをやめなかった。
「おまえが仕事を失うと、私は心配するのか」
「仕事がなくなると、まわりが変わるよ」男は私の態度など気にならないように平然と話した。「野良犬に出くわしたときみたいにいつでも逃げ出せる距離を置いて、憐れむような目で無職の奴を見てくる。最近、共働きの妻がどうも怪しいんだ。職場の同僚とランチに行ってくるって出かけるんだけど、違うと思う。帰りが遅いときもあるし、晩飯も手を抜いたものばっかりだ。きっと浮気をしている。昼間からどっか人目のつかない場所でたぶんセックスしてるんだよ」
 私は目を閉じて、深く息を吸った。「おまえは誰なんだよ」
「だから言ってるじゃないか」男は短く笑った。「この前電話した者だって」
「おまえの妻が不倫してると、私は怒るのか。おまえはそういう者なのか。私はそういう者なのか」
「俺はあんたが何者か知ってるよ。あんたは健康食品会社の人なんだろ。そこはどうせ健康食品の会社なんだろ。わかってるぜ」
「違う。私はそんなんじゃない」
「なあ、早く俺を採用してくれよ」
「知るかよ」
「じゃないと、妻が家から出ていっちまうよ」
「おまえが出ていけ!」
 私は終話ボタンをクリックした。ヘッドセットの奥は息の根が止まっていた。呼吸を整えながら、いつのまにか通信状態が回復していたことに気づいた。男の声が明晰に響いていたことを思い出したからだ。薫の声であるはずがなかった。喋り方も選ぶ言葉も話していた内容も合致しない。だけどなぜ薫かもしれないと私は思っているのだろう。
 まわりに目を向けることができなかった。それでも何人かの視線が注意深くこちらに向けられているのを察した。私はヘッドセットを外して、トイレへ立とうと腰を上げた。
「小豆沢さん、ちょっと」
 声を掛けてきたのはチームリーダーだった。少し離れたデスクから黒縁の眼鏡と小太りな顔をこちらに向け、手招きをしている。私はチームリーダーの席に向かった。
「すみませんでした」私は小声で頭を下げた。
「え、何」チームリーダーは椅子にもたれ、私を見上げながら無表情に言った。「どれが、すみませんでしたなの?」
「大声を出してしまい、しかも乱暴な言葉を使ってしまって」
 チームリーダーは瞬き一つせず、じっくり検分するように私の顔を見回した。「小豆沢さんはさ、今誰と話していたの?」
「わかりません」私は答えた。「最初はお客様かと思いましたが、途中で間違い電話だとわかって、結局どちらの方かはわかりませんでした」
「え。誰かわからなかったから、あんな応対になったの? お客様じゃないとわかったから、あんな無礼な応対に意図的に切り替えたの?」
「違います」私は答えた。「決してそういうわけじゃありません。ただ先方の話を聞いていると、だんだん混乱してしまったんです」
「実はね」チームリーダーは眼鏡のブリッジに手をやった。「最初から私は通話内容を聞いてましたよ。着電があったとき、小豆沢さんの反応がちょっとおかしいなと思った。ここからはあなたの背中しか見えなかったけど、それでも変だなと感じた。私もプロだから、そういうことにはまあまあ敏感ですよ」
 チームリーダーは口の端を上げ、得意そうな表情を浮かべた。そういえばエアコンの寒さは感じなくなっていた。誰かが室温を上げたのか、もしくは私の体温が汗をかくほどに上昇しているからなのか。
「どういうふうに聞かれましたか」私は訊ねた。
 チームリーダーの表情は一瞬止まった。だがすぐに話を続けた。「で、この席でモニタリングさせてもらったんだけど、最初に失礼な言い方をしたのは小豆沢さんだったよね。確かに先方が何を言おうとしているのか、私にも理解できなかった。筋が通らないし、支離滅裂だったのは間違いない。でもね、だからといってこちらからは絶対怒っちゃいけない。礼を失したらいけない。たとえ向こうが先に乱暴で失礼な言葉を吐いてきても同じこと。どうしてかわかる?」
「どうしてでしょう」私はチームリーダーをまっすぐ見つめた。
「なぜなら絶対怒っちゃいけない関係にあなたが身を置いているからだよ。小豆沢さんはこれまで家庭で過ごす時間が多かったから、そういった意識は希薄だったかもしれない。あなたはコールセンターに雇われている。そしてクライアントの窓口に立つ者として仕事を任されている。その関係に身を置く以上、電話先がお客様であろうがなかろうが、無礼であろうが不条理であろうが悪戯であろうが、絶対に礼を失したらいけない。もし礼を失したら、あなたはクライアントに不利益を与え、コールセンターに不利益を与えることになる。それは周囲との関係を破綻させることになり、結果的にあなた自身が不利益を被ることになる」
 チームリーダーは子どもを諭すようなゆっくりとした口調で私に話した。一体この男は私の何を知っているというのだろう。関係を通してしか見ていない私のことをどれだけ知っているのだろう。私が見たり聞いたり匂ったり味わったり、肌に感じているものをどれだけ知っているというのだろう。上司と部下という関係だけがこの男に反応を起こしている。この男はどこからどこまで私の上司であるのか。これからいつまでもどこに行っても、私は部下としてこの男に反応し続けなければならないのか。
「そんな当たり前のことを聞かされるために、私は席に呼ばれたんでしょうか」私は言った。「もしそうであれば、この無駄な数分間は会社に不利益を与えていると思います」
 近くのオペレーターたちがふっと顔を上げた。でもマイクに向かって顧客と話し続けているため声の調子は崩さない。チームリーダーもプロとしての平静さを保つように私を見上げ続けていた。
「だって、小豆沢さんは当たり前のものが見えてなさそうだから」
 粘ついた舌先で転がされたチームリーダーの言葉に、私は何も答えず頭を下げた。そして大きな歩幅でオペレータールームを横切った。途中で遠くに座っている海江子と目が合った。海江子は神妙な表情をこちらに向けていた。私は気まずさから目を逸らし、ドアを開けて出ていった。
 トイレに入り、下着を確かめた。出血していた。赤黒い跡が少しだけ。ビデのボタンを押し、私は半円型のフルードを握りしめた。フルードも私の手を両側からしっかりと挟んでいる。互いの反応を確かめ合い、交換しているのだと思った。そう、逆にフルードから私の全身へと流れるものがある。ぴりぴりと明滅し、ぷつぷつと泡立つ。痛みのような痒みのような細やかな刺激が肌の上を走っていた。

 事情を確かめるため、海江子はメッセージを送信してきた。大丈夫? トラブルでも起こった? リーダーに何を言われたの? 仕事辞めるの? 詳しいことは説明しようがなかった。電話の男が言ってきた内容や男の声が薫に似ていたこと、そんなことを伝えてもますます海江子を混乱させてしまうだけだと思った。心配かけてごめんなさいと私は返信した。ただの悪戯電話だったのに私がつい興奮してしまっただけ、その勢いでリーダーにも反論してしまった、と。
 翌日、私は何事もなかったように出社した。まわりの同僚ともいつもと変わらない調子で挨拶を交わした。オペレータールームに入ると、まずチームリーダーの席に近づいて「昨日は申し訳ありませんでした」と頭を下げた。チームリーダーは書類から顔を上げ「ああ、これからは気をつけてください」と眉一つ動かさずに答え、すぐに視線を書類に戻した。昼休みになって外へ出ると、海江子はランチのテーブルを挟んで私の様子を窺った。「安心した。顔色は悪くないわね。むしろ前より良くなってる」主治医のように海江子は微笑んだ。「ならよかった」と私は麦茶を飲んだ。「自分でもよくわからないんだけど、たぶん昨日はただ虫の居所が悪かっただけだと思う」。実際に前日の晩、私は布団の中でぐっすりと眠れていた。チームリーダーの言葉や自分の反応を気に病むなんてことはなかった。むしろまた同じようなことが起これば、今度はどのように反応するのか、チームリーダーや電話先の男に私という反応をどう突きつけてやればいいか、そんなことを考えながら眠りに入った。
 水曜日、海江子と待ち合わせているセミナー会場に向かうため、最寄りとなるターミナル駅で電車を降りた。送られてきた住所をフルードの地図アプリにペーストし、表示された経路の通りに構内の階段を上がって地上に出た。空には雲一つなく、夏の日差しがアスファルトの地面に深い影を刻んでいた。人々はシャツの袖をまくり、日傘を差して、白い歯を覗かせている。私はあまり気が乗らなかった。もちろんごみの分別ぐらいは日常的に意識していたが、牛乳パックを洗って乾かすなんてことはしなかったし、面倒臭いときは全部まとめて燃やせるごみの袋につめこんでいた。環境保護を家事の一つだとして主婦に任せるのは負担が大きい。さらに夏の路上を五分以上歩くのも中年女の肌には負担が大きい。いつものように海江子の涼しく静かな部屋で過ごしたかった。すべてを脱ぎ捨てて、肌と体液を混ぜ合わせていたかった。でも海江子は一度でいいからと誘ってきた。職場でもない、二人きりの部屋でもない、それらとは別の関係がある場所へ私を連れていくことを海江子は望んだ。
 信号をいくつか渡り、人通りが少なくなったあたりにその建物はあった。フルードの画面で目的地として設定されているのは、コンクリートを打ちっぱなしにした五階建てのビルだった。となりを花屋と洋菓子屋に挟まれている。ビルの一階は画廊が入居しており、その前で海江子は待っていた。
「今日は格別暑いわね。道はわかった?」近づいた私に海江子は言った。
「うん。これ見ながらだから」私はフルードをバッグにしまった。
「ごめんね、駅で待ち合わせればよかったんだけど。時間前に先方と打ち合わせしたいことがあって」
 海江子の手には荷物が持たれていなかった。その手は画廊の脇にある通路に向けられた。一人ぶんほどの道幅で、進んだ先にはガラス扉があり、中には新品のエレベーターが設置されていた。海江子の息づかいが聞こえるぐらい狭いエレベーターで、新しい化学物質の匂いに包まれながら、私たちは五階まで上がった。
 開始時間まで五分と迫っており、会場の席はほとんど埋められていた。縦横に並べられた二十席ほどのパイプ椅子に男女が腰を下ろしている。全員ホワイトボードと講演台に体を向けているため、後ろからはなんとなくしか見分けがつかなかったが、私と同年代かそれ以上の年齢の人たちが集まっている雰囲気だった。私と海江子はいちばん後ろの端の席に座った。側面の窓から日差しが強く差しこんでいたため、係の人がブラインドカーテンでわずかに遮光した。
「最初はこれを読んでおけばいいよ」予め椅子の上に置かれていた数枚のチラシを海江子は指した。
 ノーネクタイで薄い水色のジャケットを着た若い男が講演台の前に立った。ハンドマイクを持ち、来場への礼と、その日の気温の高さに関連させて地球温暖化の一般的な話題を話し始めた。チラシには海江子がフルードで見せてくれた団体の経歴が紹介されていた。十年ほど前に設立されたNPO法人で、理事長の写真が大きく掲載されている。白いTシャツに髪を短く刈りこみ、どこかの広葉樹林をバックに笑顔を浮かべている男はまだ三十代のように見えた。東京大学の工学部修士課程を卒業した後に一流商社に勤めたが、自然環境の犠牲をコストにした経済発展にはむしろ経済破綻という結果しか待ち受けていないという結論に達し、有志を集めて現在のNPO法人を立ち上げた。目的を要約すると、個人と自然環境の関係を直結させること。たとえば自治体でごみの分別方法を細かく決められているからとか、レジ袋は有料だからエコバッグを使っているとか、SDGsのバッジを付けると意識の高い人と思われるからなどという他律的な要因ではなく、個人として自律的に自然環境と関わることが重要であると書いていた。そのことによって自然環境と個人の内側が実はとても深い場所で繋がっていることを認識できるのだと。文字量は少なく、チラシの余ったスペースに全国の渓流や海岸や森林などの解像度が高い写真がシンプルに配置されている。具体的な活動はどこにも書かれていなかった。このNPO法人がどのように収益を生み出しているのか、あるいはこの場をたんなる入り口として他の営利企業に参加者をいざなおうとしているのか、他のチラシに目を通しても私には判断することができなかった。
 水色のジャケットの男は話を終えると、マイクを置いて一礼をした。まばらな拍手が起こった。次に講演台に立った男はチラシに載っている理事長だった。白いTシャツに濃紺のジャケットを羽織り、マイクを持って自己紹介をしてから深々と頭を下げた。
「みなさん、スマホはお持ちですか」理事長は輪郭のはっきりした声で話し始めた。「ああ、当然そうですよね。今七十代の方々の七割以上にまでスマホが行き渡っているという統計が出ています。スマホの普及率はこの先限りなく一〇〇パーセントに近づいていくでしょう。地球上の誰もがスマホを持っている世界がまもなく訪れます。簡単にコミュニケーションがとれて、様々な作業が手軽に行えるとても便利な道具だということは間違いないようですね。ただ、みなさんのスマホは決して自立的に動いているわけではありません。スマホを作動させるためには電気に依存しなければいけません。世界中の人数ぶんの電気が常に必要になります。それだけ大量の電気を、電力会社がまとめて作るためには巨大なエネルギーが必要になります。現在は火力や核分裂反応を利用して発電することが主流ですが、気温上昇や放射線漏れという高いリスクを同時に背負っています。風力や地熱や太陽光といったエネルギーも最近注目されていますが、みなさんのスマホをすべて動かすぶんの電気を常時作れるかといったら、実際はまだ不足しているのが実情です。もちろん僕たちは福島のような事故を二度と起こしたくありません。日本人の誰もが抱く心からの想いでしょう。ではそのために僕たちはスマホを手放すことができるのか。水の中に沈めたり、ハンマーで砕いたりすることができるのか。みなさん、いかがでしょう。答えはノーですよね。決して愉快な話ではありませんが、素直に現実を認めましょう。僕たちはすでにスマホを中心とした複雑な関係に絡め取られて生きています。あるいは取り返しのつかないリスクを支払いながら、不便な世界から便利な世界へ、非効率的な世界から効率的な世界へと不可逆的に移行し続けているのです」
 理事長は講演台に置かれたコップの水を飲んだ。それまで何百回もいろんな場所で繰り返してきたようなスムーズな話し方だった。といっても機械的に言葉を繰り出しているというわけではない。ところどころで間を取って聴衆の反応を窺い、重要な部分では注意を引きつけるために大きな声で言葉を短く切った。海江子は背筋を伸ばし、両手を重ねてまっすぐ前を見つめている。理事長が話している間、天井のエアコンは冷風を送り出していた。窓からの日差しも弱くなっている。それでも私の体温は静まらなかった。毛布でも被せられたように両肩が熱く、乳房の間を汗の筋が落ちていくのがわかった。私はバッグからフルードを取り出し、膝の上で両手に包みこんだ。
「僕たちは毎日、様々な関係の中で生活しています」理事長は視線を斜め上に向け、爽やかな微笑みを浮かべた。「会社、学校、地域、家庭、親兄弟、親戚、友人、近所付き合い、サークルの集まり、そしてSNS。もちろん人だけではありません。お金や物やマスコミやインターネットとの関係にも僕たちは身を置いています。このような関係を保っているからこそ生きることができていると思っています。日常的な悩みや不安のほとんどはこれらの関係に由来しているにもかかわらず、その関係にどう共生または依存していこうかと解決策を捻り出そうとしています。ごみを分別しろとか、エコバッグを使えとか、SDGsを推進しろとか、電気自動車に乗れと言われたら、その通りにやるしかないんだろうと従っています。スマホを手放せないのと同じように、すでに不可逆の世界に胸までどっぷり浸かっていて、最後は口と鼻を塞がれてぶくぶくと沈んでいくだけかもしれないのに、です。だからといって僕はみなさんに世間から孤立してくださいと言っているわけではありません。それよりもまず、想像することをお勧めします。関係から自由になる方法は簡単ですよね。会社や学校を辞めればいい。離婚すればいい。親兄弟や友人や共同体と絶縁すればいい。仕事を失ってお金を稼げなくなるなら、畑を耕して自給自足をすればいい。関係なんてものは、本当は自分の意志一つで消えてしまうものです。結局それは自分自身が作り出している幻だといえるかもしれません。ただしいくらすべての関係が消え去ったとしても、一つだけ残る関係があります。それが環境なのです。みなさんが吸う空気、みなさんが飲む水、みなさんが口にする食べ物、みなさんが本当に生きるために必要な環境というものからは、絶対に自由になることができません。みなさん一人一人の肉体精神と同じように環境は切っても切り離せないものであり、人間個人と深く結びついている存在なのです。企業や自治体や国家が介入して何かを推し進めてくるかもしれませんが、そもそも個人と環境は一心同体ともいうべき関係なのです」
 私は理事長から目を離さないでいた。理事長の言葉を熱心に聞いていたというより、彼が変化していく様子にじっと見入っていた。感じの良い微笑をたたえながら、顎と舌を滑らかに動かしている理事長の顔はだんだんと平らになった。眉毛はぽろぽろと抜け落ち、眼球はまわりの肉に覆われて消えた。鼻の隆起は顔の皮を両側から引っ張られていくうちに主張を失った。膨らんだ風船のようにつるつるした皮膚になり、大きく開いた口だけが喋り続けていた。変わったのは顔だけではなかった。理事長の肩は板を差しこまれたように持ち上がり、その両端から胴のラインが垂直にすとんと形作られた。腕と脚は関節ごとに縮み、胴体と同じような直方体がくっついているだけになった。マイクを掴んでいた五本の指も失われている。まるで大小のダンボールをいくつか積み上げて、白いTシャツと濃紺のジャケットを強引に着せた人形みたいに変化した。もはや理事長そのものでもない。ある一つの記号が実体化しただけのようにも思えた。
 もちろんとなりに座る海江子に耳打ちなどしなかった。私に見えているものは私から漏れ出したものだとわかっていた。理事長の話を聞いている自分の反応をそこに見ているのだ。意味不明な電話をコールセンターに掛けてきた男に対応したときと同じだった。マイクを操りながら、上顎と下顎の間で唾液の糸を引いている理事長の姿に私は苛立っていた。首の後ろが熱を持ち始め、のっぺりとした顔の中心を殴りたくなっていた。フルードを包む私の手は震えていた。指先がひどく冷たいが、寒いわけではない。切り離されていたからだ。環境は絶対に切り離せない? 私はそっと手を開き、フルードをタップした。確かに充電アイコンは一〇〇パーセントまで満たされている。そう、私とフルードだけは切り離されないのかもしれない。
「自分が生きるぶんの環境だけでも、自分自身で作ることはできないものかと僕は考えました」理事長は直方体になった短い腕を上げ、口だけの顔を前に突き出した。「僕は大学で生体電気の研究をしてきました。とても難しい研究でしたが、簡単に言うと人体に流れている微弱電気を外に引っぱり出して利用できないかというものです。人間の五感が反応したり、筋肉が動いたり、心臓が動いたりするのは、すべて人体の神経ネットワークを流れる電気に引き起こされているためです。人体は一つの大きな電池だと喩えられるでしょう。ただし、その中に蓄えられている電気はとても弱いものです。スマホ一台ぶんも充分に動かせないほどです。いかにこの弱い電気を効率よく取り出して、身の回りの物に利用できるのか。何度も失敗を重ねながら、僕たちは研究と実験を長年繰り返してきました。たとえば水や塩分や野菜を多くした食事内容に変えれば、人間の細胞膜を行き来する電位差を大きくさせることができるのか。あるいは怒りや哀しみといった感情の変化が多くの電気を発生させるのか。大きなヒントになったのは人体そのものです。こんなに微弱な電気だけで動いている人体というのは、つまり非常にエコで効率的な構造で作られていることを意味しています。これはデバイス側の設計に非常に役立ちました。ええ、すみません、能書きはこれくらいにしておきます。論より証拠。一つ実例を示しましょう」
 理事長は角張った体を揺らして、壁際に立っていたスタッフに合図を送った。スタッフは脇のテーブルに置いていた小さな箱から何かを慎重に取り出そうとした。
「あの」私は声を上げた。
 理事長は座席の聴衆を見回した。「どうされました」と声の発信源をちらちらと探した。「質問の時間は後ほど設けていますので」
「質問じゃありません」
「あ、はい」理事長は私に顔の向きを固定した。
「帰っていいですか」
 理事長は口を横に広げたまま一時停止した。前に座る聴衆の何人かは訝しげにこちらを振り向いた。箱の中に突っ込まれたスタッフの手も止まっている。そして海江子は私の横顔に視線を向けている。
「何か失礼がありましたでしょうか」理事長の口が動いた。
「いえ、そういうことじゃありません」私は立ち上がった。「ただこの話は私には関係ないと思いまして」
「関係ない?」理事長の笑顔が崩れた。
「いちいち帰る許可を取る必要なんてないんでしょうけど、突然帰ったらみなさん驚かれるかなと思いまして、一応声を掛けました」
「お気遣いありがとうございます。でもその甲斐虚しく、すでに会場のみなさんは驚かれています。私も含めてですが。あの、あなたが仰った関係ないとはどういう意味でしょうか」
 理事長はますます角張っていた。上腕と前腕に分かれていた直方体の腕は一本にまっすぐ融合していた。ぶつかると血が出そうなぐらいに胴体の角は尖り、関節のない脚は不器用に足踏みをしていた。ぽんと軽く押すと、受け身もとらずにそのままどすんと倒れてしまうに違いない。そんな理事長の体を私は押したくなった。
「ダンボール男」私は呟き、バッグを手にして立ち上がった。「私と環境とは決して切り離せない関係、そこまでの話はわかりました。でも、そこまでです。あなたは今から私に何を見せようというの? 何かを見せて、私との関係を作ろうとしているの? 何かを信じさせて、何かに入会させて、何かを買わせようとしているの? 何かは知らないけど、はじめから私には関係のないことなのよ」
「ちょっと待ってください」下手な操り人形のように理事長はぎこちなく手を振った。「なにか誤解されているみたいですね。僕はずっと環境の話をしてきました。環境の話しかしていません。途中でこれを信じろとか、これにサインしろとか、これを買えとか、そういったたぐいの話をした記憶は一切ありませんよ。これからお見せするものも、ただ僕たちが研究してきた成果をご覧いただければと思っているだけです。曲がりなりにも僕は東大院卒ですよ。そんな下手な詐欺まがいの商法をやるわけないじゃないですか」
 私は海江子を見た。バッグを強く掴み、すぐに腰を上げそうな姿勢を取りながら、目を細めて私を見つめ続けている。それが海江子の反応だ。戸惑いながらも、立ち上がって私と一緒に帰ろうとしている。
「おい、ダンボール」私は理事長に向かって言った。「ダンボールがどこの大学を出ていようが、どこの商社に就職しようが、どれだけ研究に苦労してこようが、それが私とどう関係があるのよ。東大とか一流商社とか生体電気の研究とか偉そうな関係を持ち出してきて、私を従わせようとしているだけなんだろ。結局やってることは同じじゃないか。どうせバックに隠れている金持ちに出資してもらって、回収ノルマを与えられてるんだろ。そんな奴が私と関係しようとするんじゃねえよ。ダンボールがやろうとしてることなんて、私はもうすでにできてるんだよ」
 やはり理事長はダンボールのように立ち尽くしていた。おののいているのか、失笑しているのか、何も伝わってこない。ただ平板な塊が積み上げられている。やがて口元が薄く開いた。
「どうぞお帰りください」理事長は静かに言った。「ここにはあなただけじゃない、他の方々もいらっしゃる。他の方々の気分を害さないようにするのは僕たちの役目です。誰の許可も必要ないですし、引き止めることはしません。さあ、お引き取りください。できるだけ早急に」
 私の全身は汗まみれだった。シャツと下着は体に貼りつき、皮膚が柔らかくなって溶けそうになっていた。体の中心にある硬い核のようなものが内側から熱を放っていた。足を一歩引き、出口に向かって体を回転させたとき、海江子が私に素早く近づいた。腕を伸ばし、私の肩を強く引き寄せた。倒れそうな私の体を必死に支えようとしているみたいだった。海江子の手も冷たかった。その冷たさで私は自分の放熱を認識する。私と海江子は体を寄せ合いながら静まった会場を後にした。

 タクシーに乗っている間、私は泣いていた。ビルを出てすぐにタクシーが通りかかったので、海江子は手を挙げて私を先に乗せた。告げた行き先は自宅マンションだった。運転手がカーナビに住所を設定している機械音を聞いていると、涙が一つこぼれた。あれ、なんだろと不思議がっていると、次々と両目から涙がこぼれだした。止めようのない涙だった。私は咄嗟に下を向き、顔を両手で塞いだ。でも声は溢れた。呼吸を止められないのと同じように、こらえきれない音が私の内から絞り出された。私とは違う人間の声みたいだった。私の細胞一つ一つが離散していき、その間を浸していた液体が漏れ出ていた。それは涙と嗚咽になり、外に向かって私自身の崩壊を告げていた。やはり真夜中の国道には誰もいない。強く冷たい風が吹き荒んでいるだけだ。私はそこでただ一人、自分が崩れ落ちていくのを待っている。やがて運転手はゆっくりと車を発進させた。海江子は私の体に腕を回した。そして何も言わず、私をなんとかそこに繋ぎ止めようとするみたいに私の腕を抱え続けていた。
 マンションに到着してエレベーターを上がり、部屋のドアを開けて、私をソファに座らせるまで、海江子は私のそばを離れなかった。廊下を歩いているときも、体を寄せて私の手を握った。住人とすれ違っても、会釈をするだけで取り繕うことはしなかった。ソファの上で私は次第に落ち着きを取り戻した。息を吸うと空気はまっすぐ気道を通っていき、肺の中で湿り気を含ませてから気道を出ていった。多くの涙が出たせいか、眼球がひりひりと痛んだ。台風が過ぎ去った後の砂浜みたいに、私はしんとした気持ちで波打ち際を見渡していた。
「あんなところに連れて行った私が悪かったわ」
 海江子は二人ぶんのアイスティーを手にして、ソファに戻ってきた。私のとなりに腰を下ろし、グラスを一つ私の前に寄せた。私はアイスティーに口をつけた。いつもその部屋で飲んでいるアイスティーと同じ香りだったことに安心した。
「ひどい顔してるでしょう」私はアイスティーに向かって言った。
「そんなことないよ」海江子は短く笑った。「ごめんなさいね。灯子がそこまで嫌悪感を持つなんて思わなかった」
「そうだよね。自分でも予想できなかった」
「セミナーの後にもっと詳しく話を聞かせてほしいって事前に頼んでたんだけど、余計なことしちゃったわね」
「ごめんなさい。せっかく誘ってもらったのに、迷惑かけてしまって」
「ううん、おかげで私も深入りせずにすんだ」海江子は頬を緩ませて、グラスに口をつけた。「私自身は環境問題に本当に興味があるのよ。そういったイベントやセミナーを見かけると参加することがあった。ほら私、独り身でしょう。せめてそういったコミュニティに参加することで、自分が何かに属している感覚を持ちたかったんだ。大げさにいうと、自然の中に生きる人間としての感覚かな。でも今日の団体は確かに他の目的がありそうだよね。前はあんな難しい研究の話はしなかったんだけど」
 海江子はそう言って、髪をかきあげた。肩を落として溜め息をつき、リモコンを手にしてエアコンの温度を下げた。シャツのボタンを一つ外し、胸元に風を送りながら、またグラスに口をつけた。一連の動作を見ていると、海江子はもっと私に話してもらいたがっているように思えた。
「本当はね、あの理事長が言ってたことなんてあまり聞いていなかったの」私は海江子の目を見つめながら言った。「関係がどうだとかエネルギーがどうだとか、私にはどうでもよかった。とにかく最初から帰りたかった。早くこの部屋に帰ってきたかったの。この部屋で二人きりになりたかった。ずっとそう思ってたら、あの理事長がだんだんダンボールに見えてきたの。ダンボールが私の邪魔をしていると思えてきて、つい乱暴な態度をとってしまった」
「ダンボール」海江子は目を見開いて微笑んだ。「ずいぶんと独創的なものの見方ね。灯子のそういうところ、やっぱり好きだ」
 私と海江子は唇を重ねた。そしてそのまま互いの服を脱がせた。なぜ最初からそうしなかったのか、失った一秒でも取り戻そうとするぐらい性急な求め方だった。いつもなら寝室に移動するところだったが、その日はソファの上で求め合った。私はとても激しく海江子を求めていた。私を激しく求めてくる海江子を求めていた。海江子の唇を強く噛むと、呼応したように海江子は私の舌を絞り上げるように吸った。唾液の音を立てて私の耳を濡らし、背後に回って首筋に吐息をかけながら、私の乳房を揉み、乳首を強くつねった。ソファの上で私を仰向けにし、脚を大きく広げて性器に自分の顔を埋めた。海江子の指で思いきり開けられた性器の内部にエアコンの風が当たった。ひやりとして腰を引いたが、すぐに海江子の舌が温かく塞いでくれた。私の教えた性感帯を刺激しながら、その長く柔らかいものは性器の中に入ってきた。いつもより深い場所を目指していた。私をかき混ぜ、波打たせながら、いつもよりもさらに奥まで侵入しようとした。探しているのだと私は思った。長く柔らかいものが深く暗い場所まで伸びていき、私の奥の硬いものに触れようとしている。誰にも触れられたことがないもの。それがどこにあるのか、先端はくにくにと身を捩らせながら、あともう少しで触れられそうなじれったい動きを繰り返している。私は肩を揺らし、唇を強く噛んで、息を荒くしながら触れられるのを待っている。
 遠くから誰かの視線を感じた。建物と建物の間の長細い影からじっとこちらを覗いている。ズボンを下ろして、マスターベーションを続けている。きっと薫だろう。いや、マイボールの男か、それとも悪戯電話の男か。誰でもいい。見たければ見ればいい。男たちの視線は私をどこでもない場所へと切り離してくれる。たとえ下校のチャイムが鳴っても、夕日がリビングに差しこんできても、私の反応はもう止められなかった。

 四時半を過ぎていたが、玄関に理湖の靴はなかった。まだ美術部から帰っていないのだろう。廊下を進み、閉じられた洋室のドアにそっと耳を近づけた。キーボードを打つ乾いた音が聞こえてくる。リズミカルに指先は動き回り、最後にアクセントをつけるようにエンターキーを叩いている。薫は確かに部屋にいる。私はバッグを廊下に置きっぱなしにして、浴室に入った。服を脱ぎ、下着を洗濯機に放りこんで、シャワーを浴びた。水温を上げたときのパネルの操作音が薫の耳に届いたかもしれなかった。なんで今頃シャワーに、と薫は首を捻ったかもしれないが、別に構わなかった。今日はとても暑かったのだ。大量に噴き出た汗が爪の間にまで染みこんでいた。そういうまとわりつくものを早く洗い落としたかったのだ。同時に誰かからの訝しむ視線も洗い落とすように、私は首のまわりや腋の下や股の間なんかに熱いシャワーを当てた。
 浴室から出ると、ちょうど理湖が帰ってきた。
「あ、私も入りたいな。暑すぎる」玄関で靴を脱ぎながら理湖は言った。
「遅かったわね。部活?」私は濡れた髪を後ろにかきあげた。
「そう。最近は真面目にやってるから。夏休み前だし」
「前に渡した画材は使ってるの?」
「まだ使ってない」
「使わないなら返してね」
「え、ああ、うん」理湖は私の顔色を窺った。「だから使うつもりだって」
 薫が部屋から出てきた。疲れている様子はなかった。トイレから出てきたような何でもない顔をしていた。
「今日は」私を見るまでもなく薫は訊ねた。
「水曜日でしょう」私はリビングに入ろうとした。
「じゃなくて晩ご飯」
 私は立ち止まった。「今日は冷蔵庫に何も入ってないの。だから外に食べに行きましょうよ」そう言って、私はエアコンの冷風を強くした。熱いシャワーの余韻で再び汗が噴き出てきそうだった。
 ファミレスのソファはやけに硬かった。勢いよく座ると、きっと尾骶骨を痛めてしまうだろう。柔らかすぎるソファは食事時には向かないという統計があるのかもしれない。ソファの硬さが関係しているのかはわからないが、客はあまり入っていなかった。店員たちは隅の方で身を寄せ、くすくすと笑い合っている。自宅と同じように私のとなりに理湖が座り、向かい側に薫が座った。メニューを開き、何かを選ばないといけない面倒さを漂わせながら、結局三人とも別々のものを注文した。
「ねえ、お母さん」前もって準備していたような微笑みを理湖は浮かべた。「今度新しいのが発売されるんでしょう。カメラ付きのやつ。お母さんの持ってるやつには付いてないけど」
 いつも欲しいものをねだるときの粘ついた口調だった。私は視線を逸らした。「さあ、そんな話は聞いてないけど」
「でもネットニュースに載ってたよ。昨日かな。これまで撮影できないなら持ってても意味ないなって正直思ってたんだけど、カメラが付くなら使ってみたいし、欲しいなって思うんだ。誕生日プレゼントに」
「そんな」私は眉間に力を入れた。「中学に入って、スマホを持ったばかりじゃない。まだ新しいでしょう」
「うん、そうなんだけど、お母さんが使ってるのを見てたら、なんだか触り心地がよさそうだなって。あと学校の友だちにも使ってる子がいるんだ」
「他にあるでしょう。洋服とか身に付けるアクセサリーだとか」
「別にいいんじゃないかな」薫が言った。「確かスマホの本体代金は最初に一括して払っただろう。買い替えることは契約上可能なはずだよ。ちょうど俺のスマホが古くなってたんだ。理湖のスマホを俺が使うことにしたら、無駄のない買い物になると思うけどな」
「データは空っぽにして渡すからね」理湖は思いどおりになりそうな得意さを隠すように口先を尖らせた。
「もちろん」薫は優しく笑った。「誕生日プレゼントなんだから、好きなものを買ってもらえばいいさ」
「ありがとう。お父さん、お母さん」
 理湖は甘えた声を出した。
 私はそれ以上何も言わなかった。料理が運ばれてきても、かちゃかちゃと食器の音を鳴らすだけで、二人から話しかけられても簡単な返事しかしなかった。口に入れるものはまるで味がしない。思いがけなくフルードを求めてきた娘と、それをそのまま受け入れた締まりのない態度の夫。ときおり視線がぶつかるとなりの席の客程度にしか、私は二人に注意を払わなかった。
 その夜はいつものように一人で眠った。風呂に入り、薫と理湖がそれぞれの部屋に入った後、ソファで一時間ほどテレビを見てから、和室に布団を敷き、フルードを握りしめながら、おそらく三十分も経たないうちに眠りに入ったはずだった。翌朝に私が目を覚ましたとき、薫はすでに家を出ていた。洋室のドアが少し開いているのと台所の流しに置かれたコップを見て、今日は出社日だったのかとかちりとドアを閉め直した。しばらくして理湖が起きてきた。私が朝食の準備をしている間に、理湖は顔を洗って歯を磨き、制服に着替えて、食卓テーブルに着いた。
「お母さん、今日休み?」
「そう」私は理湖の前に皿を置いた。「昨日の話、聞いておくよ。本当にカメラ付きが発売されるのか」
「確かまだ先だと思うよ。でもどういう形になるんだろうね、カメラ付きって」
 私は理湖の向かいに腰を下ろし、フルードを引き伸ばした。フルードのホームページに新しい情報が載っているか調べようとして、起動中のアプリリストからウェブブラウザを開こうとしたとき、間違って地図アプリをタップしてしまった。前日、駅からセミナー会場へ行くときに開いたままだった。
 でも表示されていたのはセミナー会場の周辺ではなかった。地図を拡大したり縮小したりして、よく見ると自宅の近所の地図であることがわかった。地図上を交差している何本かの青いラインは自宅のマンションを起点として伸びている。ラインをタップしてみると、日付と時刻が現れた。その日の未明、つまり前夜に私が眠った後の時間帯が表示されていた。
「何だろ、これ」私はフルードに顔を近づけて呟いた。「地図アプリに移動ルートが残ってる」
「それ、履歴だよ」理湖はレモンティーを飲み干した。「自分が移動した跡をアプリが勝手に記録してくれるんだよ。初期設定がオンのままだったんでしょ」
「なにそれ」私はもう一度ルートの時刻を確認した。「こんなの全然記憶にない」
 私がふざけていると思っているのか、理湖はわざとらしく目を大きく見開いた。「行った憶えがないルートが残ってるって、やばいねそれ」理子は食べ残した朝食の皿を流しに運んだ。「もしかして変質者ってお母さんじゃないの。ははっ、冗談よ」
 言い返そうとして、絡み合った言葉が嘔吐みたいに口から出た。「知らない日本兵があの隙間に潜んでたんだよ。ずっと前から」
 それでも理湖は無邪気に笑いながら、リビングを出ていった。

 地図アプリの履歴は一週間ごとに自動的に削除されるよう設定されていた。残っていた移動ルートは、以前に薫らしき男を見かけたあたりだった。スーパーから自宅に戻るまでの道路、そして中古車販売店と回転寿司店が並ぶ国道。それ以外はコールセンターへの通勤経路や買い物や海江子のマンションに行った移動履歴が残っているだけ。身に覚えのないルートは他にない。もしかして保存期限が過ぎて削除されただけかもしれない。眠るときはいつだってフルードを握りしめていた。目を覚ますと手から離れていたこともあったが、枕元に転がるフルードに触れると、ほんのりとした温もりが残っていた。それでも私は夢遊病者のように真夜中の町を歩き回っているのだろうか。それともフルードが一人でに二つの接地面をくにくにと動かして、この部屋を抜け出しているのかもしれない。なぜそんなありもしない可能性を私は考えようとしているのか。私のフルードが初期に販売された型で、システムを改善するアップデートもろくに行なっておらず、ただプログラムの不具合が引き起こしている現象にすぎないかもしれないのに。とりあえずアップデートは行なうことにしたが、原因を知るために地図アプリの履歴保存機能をオンのまま放っておくことにした。
 コールセンターで電話を受けていても、地図アプリが勝手に動いているという顧客からの問い合わせは聞かなかった。社内で共有している対応マニュアルを開いても、他のオペレーターが同じような問い合わせを受けた形跡はどこにも載っていない。日本兵? なんで私はあのとき日本兵なんて言葉を出したのか。まるで娘に向かって言い訳をするみたいに。やっぱり私のことなのか。身に覚えのないルートが残っているのは私だけの現象なのか。
「小豆沢さん、ちょっといいですか」
 顧客への応対を終え、終話ボタンをクリックしたときに声を掛けられた。振り向くと、チームリーダーが立っていた。「十分ほど。ちょっとあっちで」
 チームリーダーと私はフロアの隅にあるミーティングテーブルに移動した。パーティションで区切られ、周囲の視線を遮断できるように設置されている。
「フルードの問い合わせなんですけど」チームリーダーは私の正面に座って手を組んだ。「実はこの数週間、コール数が減っています。多少ではなく、ピーク時の三割以上が減少している。もちろんクライアントがフルードの露出や宣伝を控えているというのもあるけど、数字的には新規契約者数が頭打ちの状況になっているのが実情です。クライアントも今後の戦略を練ってはいるだろうけど、どんな内容なのかはまだ伝わってきていない。ただうちとしては電話が一本鳴っての商売です。オペレーターを遊ばせているわけにはいかない。小豆沢さんも実際感じているんじゃないのかな。最近は電話機が光らずに、モニターの前でぼんやりしていることが多いなって」
 私をじっと見つめるチームリーダーの顔はダンボールに変化しなかった。ただ嫌味な言い方にしか自己を見出すことができない小太りな男だった。電話機が光らない実感なんてなかったけど、私は何も言わず膝の上で両手を重ねていた。
「費用対効果を計算して、フルード班の数人を異動させなきゃいけません」チームリーダーは抑揚なく言った。「小豆沢さんもその一人に入っています。異動先は下のフロアの健康食品会社。席の移動は来週から。もちろんオリエンテーションを受けてもらった後に電話を受けてもらいます。ただしもちろん小豆沢さん本人の意志も尊重します。どうしても今回の異動に納得がいかないなら、その意志を表明してもらって構いません。ちょうど契約更新のタイミングでもありますから、いろいろ考え直してもいいかもしれませんね」
 そこまで言うと、チームリーダーは椅子を引いて席を立とうとした。
「今後の戦略として、新商品の発売はあるんでしょうか」私は訊ねた。「カメラ付きのフルードを発売するという話は」
「なんすか、それ」チームリーダーは中腰のまま笑みを浮かべた。「どうせネットの情報でしょ。そんな話はありませんよ、今のところ。確かにそういう要望はあるけど、カメラを搭載した時点でオリジナリティは失われるも同然ですよね」
 フルード班を離れる人員に海江子は含まれていなかった。というか私以外に異動させられる者の名前を耳にすることはなかった。健康食品会社のフロアに移ったのは私一人だけだった。そこはパーティションで迷路のようにいくつも細かく区切られたフロアで、その一角に健康食品会社の班はあった。四つのデスクだけが寄せられた狭いスペースで、常に席に着いているのは私を含めて二人だけだった。私の対面に誰かが座るルールにはなっているが、固定された者ではない。シフトによって人の顔は変わり、私も同じくそのうちの一人だった。ただメンバーの顔が変わっても、注文を受ける商品の効果に懐疑的なのはみんな共通していた。
「こんなお茶で血糖値が下がるのかね、ほんとに」
「水分を多く摂ったら、まあ普通には下がるわよ。うちの旦那も糖尿だから」
「疑わしいものを売るのは正直きついわ。詐欺の片棒を担いでるみたい」
 そう彼女たちは声をひそめて、私に話しかけてきた。みんな同じ顔だった。同じ色の口紅をつけ、同じ箇所の皺を波打たせ、同じ首の角度で自分のスマホを操作していた。電話は一時間に十本も鳴らず、互いの手が空いているときは必ず私が先に電話を受けることになっていた。彼女たちの退屈な世間話を聞き流しながら、私はフルード班のチームリーダーを思い浮かべた。私は追い込まれたのだった。会社を辞めても辞めなくても大して変わらない場所に。次々と入れ替わる彼女たちの顔を毎日見ていると、そのことがはっきりと浮かび上がった。

 天気は崩れようとしていた。水分量を含みすぎた水彩絵具のように滲んだ雲が空からこぼれ落ちようとしていた。日曜日の午後で、薫も理湖も家にいた。私は仕事を休んで、二人に行き先を告げずに出かけた。いつまでも雨が降りそうにない湿度をかき分けながら、車を走らせた先は海江子のマンションだった。
 玄関のドアを開けると、海江子は咳をしていた。薄い色のショールを羽織り、化粧をしていない顔で、肺の中のものを絞り出すように咳こんでいた。「大丈夫。熱はないのよ」と海江子は微笑んだ。「この時期、室内との気温差が激しいでしょう。決まって体調を崩すのよ」
 私はキッチンで温かいほうじ茶を二人ぶん淹れて、海江子とソファに腰を下ろした。エアコンを弱い除湿に設定し、音楽のボリュームを小さく絞った。白いレースのカーテンの向こうで雨が降り始めたかは判断できなかった。
「新しいフロアはどう?」海江子はほうじ茶をすすった後、そう訊ねた。体の前でショールを深く合わせ直して、その日急に会いたいと言い出してきた私の様子を窺っていた。目の前のテーブルには青いフルードがころんと横たわっている。
「仕事そのものは特に問題ないよ」私は膝の上で自分の赤いフルードを握りながら、言葉を選んだ。「フルードと健康食品で応対方法が大きく変わることはないし、むしろ健康食品の方がシニアのお客さんが多いから応対はしやすいかな。班の人たちとは人数が少ないぶん密な関係になりそうだけど、まあそれなりに話を合わせてやり過ごしてるよ」
 海江子は後ろを向いて乾いた咳をした。また湯呑みに口をつけて喉の調子を整えた後、あらためて私の目を見つめた。
「仕事は続けるの?」海江子は訊ねた。
「辞めようと思う」私は答えた。「もうあそこの中にはいられないから」
「リーダーとの一件で?」
「確かにそう」私は認めた。「あれがきっかけになったのは間違いない。そもそも私が反抗的な態度を取ったのがいけなかったんだけど、根に持ったリーダーは私を辞めさせようとしてきた。確かにそう。ただでもね、仮にあのことがなかったとしても。結局私はこの仕事を辞めていたんだろうと思う」
「それはどうして」
「海江子と出会ったから」
「私」海江子は少し首を傾げた。
「そう。海江子と出会って、私は何者でもない私と出会うことができた」
 私はテーブルの上の湯呑みをじっと見つめていた。何も飲みたくなかった。何かを口にすると、言うべき言葉が体の奥に流されてしまう気がした。
「今までそんなふうに感じたことはなかった」私は乾いた舌で続けた。「会社での役割を果たす自分でもなく、家庭での役割を果たす自分でもなく、何の役割も持たない自分。お金とか環境からも切り離された自分。それは新しい私だった。何かが生まれそうな私だった。押したり握ったりすれば、ちゃんとへこんだり弾けたりするような私。そんな自分と出会った以上、この先も会社で自動的に仕事を続けるということがもう考えられなくなったの」
 やけに静かだった。微かな音量だとしてもスピーカーから音楽が流れているはずだった。だけど私の耳に届いているのは水滴が落ちる音だけだった。雨音にも聞こえる。ピアノの高いキー音にも聞こえる。そのささやかで細かな波によって私の鼓膜は震え、私の内耳は電気を発生させ、私の信号が体内を駆け巡っていた。フルードに触れている指先がぴりぴりと反応を起こした。
「離婚しようと思うの」私は口にした。
 海江子は表情を少しも変えずに、膝の上の湯呑みを両手で包んでいた。
「いろいろ計算して言っているわけじゃないのよ」私は視線を下げた。「夫と別れて、とにかく今住んでいる家を出ていこう、そう思っているだけなの。私はもうあの家にもいられない。何も反応しない自分がそこにいるだけだから」
「離婚するのも私と出会ったから?」海江子は訊ねた。
「そう」私は頷いた。「でも海江子のせいっていうわけじゃない。これまでの夫との関係を自分で見つめ直してきたのよ」
「いずれにせよ」海江子は湯呑みをテーブルに置き、ソファの上で姿勢を正した。「仕事を辞めて、離婚もする。それから灯子はどこに行こうっていうの?」
 最後の疑問形は私の体を固くさせた。私の行き先なんて一つしかなかった。海江子もわかっているはずだった。海江子はわかっていて、確かめようとしている。ちゃんと言葉という形をとった私の意志を目にしようとしている。
「この部屋で海江子と二人で住むのよ」そう私は答えた。
 海江子は反応しなかった。瞬きもせず、呼吸すら止まったように私の目をじっと見つめていた。やがて見つめるということから内包された意味が蒸発し、形骸化された行為だけが残ってしまったように海江子は二つの目をしばらく開き続けていた。
「ありがとう」海江子は顔を伏せて、息を深く吐いた。「灯子がそんなふうに思ってくれているのはとてもうれしい。私も灯子と出会えて、本当に良かったと思う。ただ同時にね、私は灯子に離婚してほしくないんだ」
 そう言うと、海江子はまた咳こんだ。顔を上げて何かを言うとすると、しつこく咳に襲われた。私は海江子に近づいて、背中をさすった。次第に落ち着いてくると、海江子は手を上げて微笑みかけた。目尻には皺が刻まれていた。鋭く切りつけられるような痛みを胸に覚えながら、私は元の位置に戻った。
「絵に描きたい人がいたって話したでしょう、前に」海江子は一つずつ思い出すように呼吸を整えた。「私たちはオープンな関係だったの。元々彼女には付き合っていた男性がいたんだけど、私と関係を持つようになって、その男性とは別れてしまったわ。でも彼女は前向きに私と付き合い始めた。手を繋ぎながら外を歩いて、深夜のバーでキスをして、同棲していた部屋から毎朝一緒に出勤していた。そう、同じデパートで働いていたのよ。職場ではもちろん仕事に集中していたけれど、付き合ってることを隠そうとはしなかった。いつも一緒に出社して、いつも一緒にランチを食べて、帰りは相手が仕事を終えるまで待ってたわ。職場の人たちも、相変わらず仲が良いねなんて囃し立てるぐらいだった。みんな何の問題もなく私たちに話しかけてきてくれた。こういった関係もやっと普通に認められてきたんだなって感じることができたわ。おかげで私と彼女は肩の力を抜いて、伸びやかに息を吸って、毎日を自由に過ごすことができてた」
 海江子は脚を組み、両手で抱えた。そしてふと気になったように窓の方を振り返ったが、すぐにこちらに視線を戻した。「でも、結局うまくいかなかった。職場にいる全員が私たちのことを受け入れているわけじゃなかった。誰かはわからない。どこの部署に属しているのかもわからない。ただ、いつも何かの影に隠れている人たち。綿々と繋がれてきたものの内側に何の疑いもなく自らを安住させようとする人たち。ある日、ふと感じたの。私たちは避けられているって。廊下ですれ違う人は誰も声を掛けてこなくなったし、社員食堂でトレーを持って席に着くと、スイッチを押したみたいに近くに座っていた人がさっと離れていった。仕事中は業務に必要なこと以外まったく言葉を交わさなくなった。ううん、業務に必要なことさえも話してくれなくなって、大きな発注ミスを起こしてしまったこともあったわ。そんな状態が一ヵ月ほど続いた。私と彼女は戸惑ったし、腹も立てていた。だけどお互いに信じ求め合ってさえいれば他の人にどう見られても関係ないって、それまでと変わらずに二人で行動していたの。そんな私たちの強気な態度が鼻についたのかもしれない。ある日の仕事の帰り、彼女が手紙を見せてきたわ。自分のロッカーに入れられていたみたい。そこには──私が彼女と付き合いながら、男とも肉体関係を結んでいる。しかも複数の男と同時に関係している。金も受け取っているから売春婦と同じだ。その男たちから金だけじゃなく性病ももらっているから、彼女にも感染していることは間違いない。いくら病院で治したって、また新たに私が性病を運んでくるからきりがないぞ。早く別れてしまえ──そんな内容が書かれていたわ。筆跡がばれないように定規で引いたようなわざとらしい角張った字だった。私より彼女の方が若かったし、メンタルが弱い部分もあったから、きっと彼女の方を攻撃した方が効果的だと考えたのね。もちろんそんなのはでたらめだって私は説明したし、彼女もまったく信じようとしなかった。ただね、毎日同じ部屋で暮らしていると、彼女が少しずつ変わってくるのを感じた。一緒にキッチンで料理をしているときのわずかな距離感とか、ソファに座っているときの脚の角度とか、会話をしているときの沈黙の固さとか、そういう微妙な変化が私たちの暮らしをだんだん息苦しいものにして、私たちをそれぞれ孤立させていった。結局、彼女は部屋を出ていってしまった。いつのまにか辞表も提出していて、会社も辞めてしまったの。私は何日も一人で泣いた。彼女がいなくなった部屋でわんわんと泣き続けた。腫れた目で出勤して、誰にも話しかけられなくても構いやしなかった。自分も会社を辞めようなんてエネルギーもなかった。ただ、彼女を失ってしまった哀しみに長い間打ちひしがれていただけだったわ」
 そこまで話すと、海江子は湯呑みに手を伸ばして、そっと口につけた。すでに湯気は立ち昇っておらず、滑らかに喉を伝うほどぬるくなっていたはずだった。
「長くなってごめんね」海江子は言った。
「二人で住んでいたのは、この部屋のこと?」私は訊ねた。
「そうよ」
 海江子は私の目を見て、深く頷いた。「ねえ灯子、先に声を掛けたのは私からだった。灯子をこの部屋に誘って、私から迫った。きっと灯子は女性との関係も結べるタイプだろうと以前から感じていたの。でもそれだけじゃない。私自身、灯子に惹かれていたのよ。灯子の近くにいればいるほど、どんどん好きになっていった。だからさっきの灯子の言葉は、本当にとてもうれしかったの。ただね、灯子のことは好きだけど、一緒に暮らすことは私にはできない。この歳になって、私はもう失いたくないのよ」
「前の彼女と同じことになるってこと?」
「自由になることは絶対にできないのよ」海江子は微笑んだ。「いつもそこにいる人たちから自由になることは結局できないの。いつも何かの影に隠れている顔のない人たちに勝つことは絶対にできない。自由を得ようと彼らの目に晒される場に立ったとき、私たちは代償として必ず何を失うことになる。ただ、たとえ勝てなくても生き続けることはできる。私たちの関係を私たちだけのものにしておくの。灯子は離婚せず、これまでと同じように私と二人だけでひっそりと会う。そこにいる人たちの視界から外れた場所で、二人だけの関係を存在させて、守っていくの。それじゃだめかしら。少しでも私たちの関係が長く続いていくやり方だと思うのよ」
 海江子はそう言うと、テーブルの上のフルードを手に取った。まるで生まれたての雛を扱うように重ねた両手の上のフルードを眺めていた。力は加えられてなさそうだった。だけどフルードの青い表面は海江子の指を覆っていた。水たまりが徐々に大きくなっていくみたいに、フルード自身が海江子の手を飲みこもうとしているように見えた。海江子の老いた横顔。肌は跳ね返す力を失くし、唇は曖昧な色を残して、瞳は過去を振り返っているだけの静かな白さを湛えていた。まだ雨は降っていないのだろうか。私は立ち上がって、何も言わずに海江子のとなりに腰を下ろした。そして海江子の老いた肉体をいつくしむように唇を重ねた。海江子は少し戸惑ったみたいに腕を硬くした。だけど誰も私の反応を制御することなんてできなかった。私はすでに自由であるはずだった。

 雨の跡が残っていた。濡れたアスファルトの地面、ボンネットの雨粒、まとわりつく湿った空気。空にはまだ薄い雨雲が引っかかっていたが、日の漏れは充分に信号や歩道橋やビルの窓ガラスを明るく照らしていた。
 私は家に帰ろうとしなかった。五時を過ぎていたが、フルードには薫や理湖から何の連絡も届いていない。直進すべき交差点を左折し、右折すべき交差点をまた左折して、とにかく車を運転し続けた。日曜日の夕方は道が混む。旅行や外出先から帰ってきたり、家族で外食に向かったりしている車の列に挟まれ、私はアクセルペダルとブレーキペダルの短い往復を繰り返していた。窓をぴったりと閉めてラジオも音楽も流さずに、フロンドガラスの先だけを見つめていた。そして環境を汚していた。目的もなくガソリン車のエンジンをふかすことで排気ガスを撒き散らして、地球温暖化の一助を果たしていた。あの理事長は怒るかもしれない。自己との結びつきが足りないと口を横に引き伸ばすかもしれない。そうやって私を汚しにくるかもしれない。海江子と彼女は汚したのか。二人の関係が世間の常識倫理を汚してしまったから、確かめようのない嘘によって放逐されたのか。それでも自動車メーカーの広告看板はビルの上に大きく掲げられていた。不倫報道をされている男性俳優が蝶ネクタイを締めてハンドルを握っている。ある一つの意味を合成するため印刷されたアルミ合板によって、俳優の預金口座には出演料が振り込まれ、ビルのオーナーには広告掲載料が振り込まれる。そして私たちは環境を汚す自動車を新たに買い替えるかもしれなかった。
 子どもが組み立てたブロック玩具のようにただ飾られている街路樹。それらをすべて抜いて回るのだ。そのかわり自動車事故で亡くなった者たちの墓を建てる。一秒ごとに溶け落ちていく氷の柱を立てる。決して戻ることができない不可逆の道路を走る。遠くまで伸びる灰色の雲は厚みを増していく。走っていくうちに車の数は減り、やがて人の姿も見えなくなる。その場所ではやはり風だけが吹き荒んでいる。二酸化炭素濃度の高い、生ぬるい風。真夜中の白い電灯が定間隔に並び、建物の明かりが数少ない国道。海江子の言っていた場所もこういうところなんだろう。汚した者はみんないなくなり、汚れそのものだけが蓄積されている。こういう場所でしか生きのびていくことができない。何もから切り離され、手を冷たくしながら、それでも特別なものを探しあてようとする。それはかつて私たちが軍事支配した国からやってきた青年かもしれないし、妻も仕事も失った男が投げ続けるボウリングの玉かもしれない。
 私の目には虹が映っていた。車の中で小さな虹があちこちに架かっている。バックミラーの端に、円状に並ぶタコメーターの数字の上に、エアコンの吹き出し口に、視界を飾りつけるようにフロントガラスの上にはいくつもきらきらと。ハンドルを握る私の手の上にも虹が架かっていた。大きさも形もフロードと同じだ。七色に彩られた半円型の光が私のまわりで小さな反射をいくつも起こしている。祝福されている雰囲気ではなかった。ただ異なるもの同士が混在しているというだけの輝きだった。そして助手席には誰かが座っている。誰かはわからない。横顔があり、すらりと伸びた二本の腕があり、初めからそこに座っていたかのように組まれた脚がある。身体的特徴はなく、鮮血が溜められた壺から這い上がってきたように全身がむらなく赤いだけだ。身動き一つせず、フロントガラスの先をまっすぐ見つめている。私は運転しながら、横目で注意を払った。誰かはわからないが、きっと何者かであるはずだった。体つきも誰かに似ている。なにより多くの虹を発しているのは赤い者かもしれなかった。アクセルを調整しながら虹の中をよく見ると、画像が映っていたからだ。海江子の部屋のリビング、玄関のアロマディフューザー、レースカーテン越しの曇り空……どれも私が見た景色だ。私のものが赤い者の内部を巡り、その信号が虹として出力されているのだと思った。いつのまにか前を走る車との距離が空いていたので、私はアクセルを踏みこんだ。スピードの上昇と共に、赤い者は空気を抜かれたようにみるみるとしぼんでいった。表面の素材の縮小に引っ張られるように、頭と四肢は胴の内部に吸いこまれていった。車内の虹も薄くなって消えた。そのかわり助手席の上には、虹の形をしたフルードがぽつんとあるだけだった。信号の前でブレーキペダルを踏んだ後、私は手を伸ばして、ようやくフルードを握りしめた。灰色の雲はすっかり流され、日曜日の夕焼けが車内をささやかに照らしていた。

 翌日、私は始業前に健康食品班のリーダーに辞表を差し出した。引き止められることはなく「契約では一ヵ月前までに辞意を伝えることになっているけど、八月に入っちゃったしね」とリーダーは苦笑いを浮かべた。「それじゃあ今月いっぱいまででお願いします」と言うと「じゃあそうしましょう」とリーダーはすぐに自分の仕事に戻った。
「小豆沢さん、辞めちゃうの」
 ランチから戻ってくると、前の席の女性が話しかけてきた。芝生ぐらいにショートの髪を明るい茶色に染めている。「昼間にさ、リーダーが来月のシフトのことで話しにきたの」
「うん、そうなの。急な話で迷惑かけてごめんね」私はヘッドセットを装着した。
「何かあったの?」
「大したことじゃないよ」私は笑った。「私も会社もわかり合えなかったんだね」
「上であったことは聞いてるよ」ショートは言った。「私だったら辞めないな。はっきりとクビだって言われるまでは」
 モニター越しに私が視線を向けると、ショートは一瞬目を合わせたが、すぐに自分のモニターに向かって言った。
「正確に言うと、辞められないな。子ども二人ぶんの学費を払わないといけないからね。旦那がもし生きていてくれれば、私ももうちょっと仕事を選べたんだろうけど。でも今は自分がどんな目に遭おうが、とにかく稼がないといけない。考え方によっちゃあ、余計なことを考えずに済むぶん、シンプルな生き方だとも言えるけどね。ロボットみたいにさ。でもやっぱりときどきは考えるよ、余計なことについてね」
 そう言うと、ショートはモニターに向かって自嘲気味に短く笑った。「岸本さんと同じ班だったんでしょ?」
 私はマウスを操作する手を止めた。ショートは察したように言葉を続けた。
「いろんな人が噂してたよ。休みの日に二人きりで歩いているところを見たことがあるとか。こういう職場にいると、嫌でも耳に入ってくるのよね。でも、もしそのことが小豆沢さんの辞める原因なら、そんなの気にしなくていいよ。少なくとも私は気にしてない。だから何って感じで。好きにすればいいと思う」
「余計な話をするのはもうやめましょう」私は言った。
「そうだね」ショートは声を低くした。「ろくなことはないからね。ほんと」
 それから私とショートはその日一切言葉を交わさなかった。
 辞表を提出したことは、海江子に伝えていた。わかったと簡単な返信が送られてきたが、離婚の件については触れてこなかった。最終的に決めるのは私自身だからとでもいうような沈黙だった。海江子は知っていたのだろうか。私との仲が社内で噂されていたことを知っていたから、私が会社を辞めることを黙って受け入れたのだろうか。海江子に確かめて、どうとなることでもなかった。私はあくまで私自身の問題で会社を辞める。ただまわりの者は、海江子との仲が明るみになったことに耐えきれずに会社を辞めると推測している。私は敗れたことになるのか。海江子の警告どおり、結局顔のない者たちに敗れてしまったのだろうか。
 帰宅の電車を降りて、駅の改札を出た。わりと涼しい夕方で、駅前の広場を歩いている人もまばらだった。そこに薫がいた。Tシャツとジーンズ姿で、マイボールのバッグを肩に掛け、私が気づくよりも先に近づいてきた。
「初めてだな。こんなところで会うのは」薫は驚いたように早口で言った。
「また例の人とボウリング?」
「今日は一人だったよ」
「一人でよくやるね」
「最近はずっと一人なんだ」
 私と薫は肩を並べて、住宅街の方へと歩いた。途中のコンビニで牛乳を買うつもりだったが、別に明日でも構わないと思い直した。坂道を下り、放水路の上の橋を渡ったときに薫に話すことにした。
「今月で仕事を辞めることになったから」私は前を見ながら言った。
「どうして」薫もこちらを振り向かなかった。
「仕事を辞める理由って大体決まってるでしょう。人間関係」
「理由としては大雑把だな」
「細かい部分はあるけど、とにかく今月いっぱいまで。その先をどうするかは今考えてるから」
「新しい仕事を探すかどうかも含めて考えなきゃな」
 児童公園を通り過ぎ、交通量の少ない交差点で信号が変わるのを待っていた。
「俺も仕事のことは考えてる」
 私は薫の横顔を見た。薫は涼しそうな目つきで信号機を見上げていた。久しぶりに薫の顔を見たような気がする。「辞めるの?」そう訊ねた。
「ううん」薫は答えた。「しばらくは辞めないつもり。プロボウラーになろうと思っているんだ」
 信号が青に変わり、薫は歩きだした。私は薫の背中を見つめた後、数歩遅れて横断歩道へ足を踏みだした。「何よそれ」薫の斜め後ろから私は言った。
「わりとセンスがあるんじゃないかと思ってる。ボウリング場の支配人からも筋がいいって褒められたんだ」
「そういうことじゃない。そんなので生活していけないじゃない」
「だから今の仕事は続けるって。続けながらプロになるための練習をしていくんだ」
「プロになるためって……」私の歩みは少し遅くなった。薫は構わず前を歩いている。「本当にプロになれるの? プロになれたとしても本当に生活していけるの?」そう私は声を荒げた。
「プロボウラーだって家庭を持ってる人もいるだろうよ」薫は振り向いた。
「そんなの一握りでしょう」
「なんだよ。応援してくれないのか」
「だってわけわかんないじゃない。突然プロボウラーになりたいだなんて」
「ずっと考えてたんだよ」薫は私に歩調を合わせようとしたが、私は一定の距離を保って薫を避けた。「仕事が在宅勤務になって、一日中部屋に閉じこもりながらずっと考えてた。これまで家庭のために仕事をしてきた。朝から晩までくたくたになるまで働いてきた。それによってマンションのローンも滞りなく払えることができたし、灯子と理湖に飯を食わせることもできた。贅沢な暮らしとまではいかないけど、人並みに旅行に行ったり、車を買い替えることもできた。こういうことがたぶん幸せなんだろうと思うよ。でもね、幸せって何もかもを解決できるほど万能じゃない。あるいは安定的な収入が必ずしも自分の問題を解決してくれるわけじゃない。確かに灯子や理湖との生活は安定しているだろうし、あえて壊すべきものじゃない。でも自分のための生活を送るには、俺自身が自分で動かなきゃいけないんだ」
「だからどうしてそれがプロボウラーなのよ」
「好きだからだよ! 決まってるじゃないか」
「あなたがそんなにボウリングを好きだなんて知らなかった。わざとらしい感じがするのよ。くっちゃくちゃと音を立てながら食べてるときみたいに」
「音? それが今の話とどう関係あるんだ」
「私はあの音を聞くと苛々するの」
「俺は自分の好きなことをやる。ただそれだけの話さ」
「子どもみたいな言い分じゃない」
「おまえも子どもだよ」
 気づくとマンションに到着していた。薫は鍵を差しこんでエントランスホールのガラスドアを開けた。黙ったまま二人でエレベーターに乗り、ドアが開くと部屋までの廊下を進んだ。
「一つ言っておくよ」薫は口を開いた。「出社勤務が再開されるんだ」
「じゃあまた毎日会社に行くのね」
「まだわからない。出社勤務か在宅勤務、いずれかを社員に選ばせるから」
「これからもずっと家にいるかもしれないってこと?」
「まだ決めてない。でもその可能性はある」
「もうやめてよ!」
「なんだよ! 家にいちゃいけないのかよ」
「プロボウラーになるために在宅勤務を選ぶのね」
「だからまだわからないって!」
 薫は手に持ったままの鍵で部屋のドアを開けた。私は一瞬身を翻して、そのまま走り去りたくなった。薫と同じ部屋に入っていくことに、全身の肌がぱりぱりと硬くなるような嫌悪を覚えた。
「理湖、帰ってるのか」
 玄関から聞こえた薫の声に、私の足は踏みとどまった。一人で待っていた理湖の顔が気になった。私が玄関に入ると、薫はすでに靴を脱いで、仕事で使っている洋室のドアを閉めたところだった。理湖はリビングにいた。前みたいに制服を着たまま、ソファの上でうつ伏せになって顔を隠している。
「喧嘩してたの?」理湖は顔を少しだけ上げた。「聞こえてたよ。外の廊下で大声出してたね」
「ごめん」私は理湖のそばの床に腰を下ろした。「みっともなかったね」
「私、ずっと前から気づいてるよ」理湖はゆっくりと上半身を起こして、スカートの位置を整えた。「お父さんとお母さんの仲が、昔より良くなくなってること。そもそもあんまり二人で話さなくなったでしょう。お互いから逃げているからだって思ってた。確かに表面上は無難に毎日を過ごしているように見えるけど、心の中ではお互いを嫌い始めてる、そんなわざとらしい空気がいつも流れていたんだよ。だからお母さんは仕事を始めたんだね。他に何か大切なものができたんでしょう。だからあんなにたくさんの画材を持って帰ってきたんだね」
 理湖の表情は怒ってもいなければ、哀しんでもいなかった。両手をだらりと太腿の上に乗せ、深い地下室のような静かな瞳でソファの上から私を見下ろしていた。
「私のせいだよ」理湖は言った。
「何のこと」
「私が生まれたから、お父さんとお母さんの仲が悪くなった。私を育てなくちゃいけないから、お父さんとお母さんの仲が悪くなったんだ」
「やめて理湖」私は理湖の手を握った。「そんなふうに考えたことは一度もないから」
「お母さんこそやめて」理湖を私の手を振り払った。「私、美術部辞めたい。学校も行きたくない。くだらない学校なんて辞めてしまいたい」
 理湖は再び両手で顔を隠して泣きだした。私はもう理湖に触らなかった。
「行きたくないなら、もう行かなくていいから」
 ぱりぱりと剥がれ落ちていく理湖の手を私は見ていた。

 コールセンタ―の座席の上。背筋を伸ばし、ヘッドセットを被っている。目前のモニターはいつでも受電可能なスタンバイ状態だ。左右を見渡すと、座席が一列に遥か遠くまで続き、オペレーターたちは私と同じように電話が鳴り始めるのを黙って準備している。だけど電話機は赤く光らなかった。そのかわり私に微弱な電流が走った。脚の長すぎる昆虫が枝の上を素早く伝っていくように、かりかりとした刺激が私の脊髄を登っていく。私の左手が震え、白く明滅している。甲の血管が浮き出ているあたりに着信を知らせる合図が光っている。私は慣れた手つきで左手の甲をタップした。お電話ありがとうございます、ヘッドセットのマイクに向かってそう挨拶を述べたが、相手は電話線の先にいるわけではなかった。声は私の耳の内側から聞こえてきた。決して騒ぎ立てちゃいけないよと声は言った。まわりの人たちに気づかれちゃいけない。もしまわりにあなたの異変を気づかれたら、今のあなたは違うあなたになってしまう。ゆっくりと、注意深く動かなくちゃいけない──男でも女でもない声だった。昔のカセットテープみたいに不鮮明な音質だ。お客様、と私は声を掛けてみた。だけど声はまさに自動的に再生されているみたいに言葉を続けた。右の膝の裏を二回タップしてごらん。そうすれば右手にあなたの好きなものが現れるから──私の好きなもの? そんなもの自分でもわからない。私は背筋を伸ばしたまま、右手を机の下にそっと伸ばした。机にぶつけないように右脚を伸ばし、汗ばんでいる膝の裏を指先で二回タップした。そして右手を机の上のマウスに戻した。変わったところはない。半袖のシャツから伸びている右腕が青い蛍光灯に照らされているだけだ。だけど私はマウスから右手を離す。引っくり返し、指を少しずつ開けていく。手のひらに映し出されていたのは肉だった。手のひら自身の肉と皺が重なって、最初は見分けがつきにくかったが、だんだん私の手のひらとは別の局所的な肉の一部が映し出されていることに気づいた。それは海江子の性器だった。数本の指で強引に開かれ、膣の奥まで光が届いている。私は海江子の性器を憶えていた。湿り具合や柔らかさや膣液の味まで感覚に残っていた。それらを身に甦らせながら手のひらを見つめていると、軟体動物のように動く舌先がフレームインしてきて、映っているものが動画ということにやっと気づいた。舌先は海江子のクリトリスや膣口のまわりを舐め、膣の奥まで身をくねらせた。それは言うまでもなく私の舌先だった。私の舐め方だった。やがて映像は海江子の顔を映した。化粧をすべて落とした五十歳の女。海江子と視点のこちら側で体勢を変えながら、次は海江子の顔が二本の太腿に挟まれることになった。海江子はこちらをしばらく見つめた後、舌先を硬くして、目の前の肉を一瞬突いた。私は思わず短い声を上げてしまった。しかし遅かった。すぐに右手を閉じて机の下に隠しても、私の席はすでに大量のオペレーターたちに取り囲まれていた。彼女たちの顔を見回しても、誰が誰だかわからなかった。眉も目も鼻もなく、大きな口だけがぶつぶつと呟いている。そばに立つオペレーターが私の肩をぐいと押した。反発する感覚はなく、押された部分の肉はへこんだままだった。へこんだ肉が徐々に元に戻ろうとする隙に、別のオペレーターが私の腹を押した。やはり腹の肉もへこんだままだ。私の肉は元に戻ろうとするが、それよりも早くオペレーターたちの手が次々と私のいろんな肉を押しこんだ。次第に私の腕は胴体にめりこみ、両脚は一本にくっついて折り曲がり、頭はもぐら叩きみたいに両肩の間に押しこまれた。まるで巨大な手にじわじわと握りしめられるように私の体は突起と鋭角を失い、丸みを帯びた球体として椅子からぐにりと転げ落ちた。
 布団の中で目覚めたとき、私は反射的に右手を確かめた。何も映っていない。薄暗い常夜灯の下で見慣れた皺が刻まれているだけだ。そしてフルードも握られていなかった。枕元に腕を伸ばす。だけど触れるものは畳の目のざらつきだけだ。私は起き上がって電気を点け、掛け布団を引き剥がした。どこにもフルードが見あたらない。いつものように握りしめながら、眠りに入ったはずだ。夢で見たように私とフルードはもはや一体だった。薫や理湖がこっそり和室に侵入して、フルードを私の手から引き離したとは考えにくかった。たとえ眠っていたとしても、二人の気配が近づいてきた時点で私はすぐに目覚めるはずだ。移動履歴のことを思い出した。理湖と話してから、地図アプリが残している移動ルートを確認してはいなかった。私は怖かった。私の知らない間に、私が真夜中の街を徘徊していることを確かめたくなかった。私がどこへ向かおうとしているのかを知りたくなかったのだ。だけどあのときの移動ルートは記憶に残っている。それを辿ればフルードが見つかるかもしれない。
 襖を開け、リビングで洋服に着替えた。壁の時計は午前二時を過ぎていた。部屋の明かりを消して、できるだけ足音を立てずに廊下を進み、玄関の鍵を開けようとしたとき、服の袖が引っ掛かったように私はふと振り返った。暗闇の中で二枚のドアがこちらを見ていた。それぞれのドアの向こうで薫と理湖は本当に眠っているのだろうか。あるいはドアの向こうで立ち尽くして、私が出ていくのを身動きもせずに窺っているのか。私が真夜中に目覚めてフルードを探しに行こうとしているのと同じように。私は呼吸を止めながら鍵をそっと開け、ドアの隙間から身をよじらせて廊下に出て、鍵穴を回したところでそっと息を吐いた。
 雲が重々しく広がっていたが、それほど暑くはなかった。絶え間なく吹きつける生温かい風が、私の体温を真夜中の空気に溶けこまそうとしていた。人も車も見あたらない。私はズボンのポケットに両手を突っこみ、歩いて向かうことにした。車に乗ると見落とす可能性があるし、以前みたいにすれ違ってしまうかもしれない。窓明かりの消えた住宅を通り過ぎ、坂道を下り、児童公園の前を通り過ぎて、橋を渡った。坂道を上がると、信号機の色は赤になっていた。交差点で待っている者も進んでいる者もいない。誰もいないのに私は青に変わるのを待った。というより信号機の赤をじっと見上げていた。フルードを巡る鮮血色の電流を思っていた。それは私の電気だった。私を巡り、私を動かし、私に記憶させるはずの電気だった。それまでの私は本当に私の内部を巡っていたのだろうか。いつも誰かの視線に固定され、誰かの言葉に遮断されていた。いや、本当は私自身が私を固定させ、遮断していた。私の電気を受け取ったフルードは自由な形をとりながら、鮮やかに色に変わり、いくつもの虹を出現させた。私はフルードを失うわけにはいかなかった。私自身が乱れ、壊れ、失われるとしても、私のものはフルードの内部をすでに巡っているのだ。やがて信号機は青に変わり、私は歩き出した。
 国道でも車はほとんど走っていなかった。ときおり地震を起こすようなエンジン音を立てながら車高の低いスポーツカーが突き抜けるぐらいだ。歩道ではシャッターを下ろした店舗が並んでいた。移動履歴はこの道をまっすぐ進んだことを示していた。その先は角を曲がって、自宅マンションへの帰路を辿ることになる。フルードらしきものは、それまでの道でどこにも落ちていなかった。歩調を緩めて、公園の植え込みや川の水面やコンビニの電灯の下に目を凝らしたが、小さな虹型の物体はどこにも見つからなかった。そんなに早く移動できるはずはないと私は思った。モーターが備わっているわけでもなく、あのサイズと低電力でそう遠くまで行けるはずがなかった。いつのまにか首の後ろに汗が滲んでいた。糸を引くような粘ついた汗だ。途端に足取りが重くなり、ただ一人の思いこみによって自分は訳のわからない行動を取っているだけなんじゃないか──そう私自身を固定させ遮断しようとした。
 そのとき人影が目の前を走った。気づいた瞬間、人影はすぐに建物の陰に隠れた。そこは中古車販売店の前だった。フロントガラスに値札を貼られた国産車が、闇で横たわる大型動物たちみたいに沈黙を守っている。人影が消えたのは商談スペースとして使用されているガラス張りの建物の向こうであり、さらに先には回転寿司店の看板が夜空を突き刺している。見憶えがある場所だ。映画館からの帰り、車を運転しながら、細長い路地に男を見た。中古車販売店と回転寿司店との僅かな隙間でズボンを下ろし、ネクタイを揺らしながら、あらわにした性器を固く握りしめていた。理湖が言っていた変質者かもしれなかった。理湖の父親かもしれなかった。いや、変質者は女だと理湖は言っていた。商談スペースのすぐとなりは回転寿司店の駐車場で、敷居のブロック塀が間近に迫っていた。商談スペースとブロック塀との隙間に一体誰が潜んでいるのか、私が立っている場所からは様子を窺うことができなかった。
 私は確かめなければいけなかった。そこにいる者を目にしなければいけなかった。私は私を固定させ、遮断させるわけにはいかない。ポケットから手を出して、ゆっくりと隙間に近づいた。ゴム靴の底がアスファルトの地面に接地する音が鈍く響いた。歩道に人の姿はなく、通り過ぎる大型トラックが乱暴な風を巻き起こした。そういえば漏れていなかった。ゴムの鈍い音が鼻腔に広がったり、トラックの排気ガスが夜空に亀裂を走らせたりしなかった。私は元に戻ろうとしているのか。それとも漏れ尽くして、巡るものが失われようとしているのか。いずれにせよ真夜中の国道で吹いているのはやはり風だけだった。私の首筋は冷たくなっていた。汗が乾き、体温が奪われようとしていた。私は風だけに反応していた。風の中に誰かがいる。特別な誰かがいる。
 そこにいたのは裸の者だった。隙間を注意深く覗きこむと、電灯の光が途切れそうな奥まった位置に、その者は体を横に向けて立っていた。卵型の頭にはマネキンのように髪がなく、貧弱な乳房を一切隠そうとせず、尻の緩んだ肉を垂らして、汚れたアスファルトを素足で踏みしめていた。薄い闇と弱い光が混ざり合う狭い空間で、だがその者の肌だけは艶やかに光っていた。色白のきめ細かさが電灯の反射から伝わってくる。いつも握りしめていたフルードの手ざわりが手のひらに呼び起こされる。フルードは人の形をとっていた。私が運転する車の助手席で脚を組んでいたフルード。だけどあのときみたいに赤い色のままではなく、私と同じように人の肌の色をしている。私と同じように二本の腕と二本の脚を生やして、きっと自力でここまで歩いてきたのだ。これまで私が眠っている隙を見はからって、変質者みたいに街を忍び歩いていたのだ。フルードの右手は股に当てられていた。指先が微かに蠢いているように見える。顔は眼前に迫るブロック塀にまっすぐ向けられたままだ。車の助手席に座っていたときのように見覚えのある横顔。私は確かめるために路地に一歩足を踏み入れた。その瞬間、フルードの首がぐにりとこちらを振り返った。やはり私だった。一本も髪の毛がないつるりとした頭部と一致させることに違和感はあったが、目鼻立ちの造形は鏡に映る私のものとまったく同じだった。
 恐怖はなかった。私になったフルードは首を傾け、うっすらと微笑んだ。まるで私がここにやってくるのをずっと前から予測していて、それがただ現実という名に変更されたことをエンターキー一つで処理するみたいな微笑みだった。フルードの下半身では五本の指が昆虫の脚のように変わらず動き続けている。しかし体はぴくりとも反応を起こすことはなく、顔の表情からも微笑みが絶やされることはなかった。
「私はそういうとき、石になる」
 私になったフルードは海江子の声を出した。「体を固くして、ずっと動かない。何も食べないし、お風呂に入らないし、トイレにもほとんど行かない。雨が降っても風が吹いても、何の反応もしないでやる。何日間もね。すると、本当に石になるの。何も受けつけないで済むし、何でもやり過ごせる。そしていろんなものが通り過ぎた後、少しずつ体を柔らかくしていくの」
 確かにフルードは私の顔に造形されていた。だけど言葉を発しながら私を見つめる目は海江子のものに見えた。いつもとなりに座って私を包むように視線を向けてきた海江子の瞳。フルードの目は濡れていた。光の加減でそう見えただけかもしれない。フルードから液体が漏れるなんてことはあり得ないはずだ。ただ私の目には、私の顔をして海江子の声を出すフルードが涙を流しているように見えていた。
「この部屋で海江子と住むのよ」
 私はそう口に出した。そして路地を進み、フルードに近づいていった。背後で車のエンジン音が近づき、一筋の光が路地の暗闇を刃物みたいに切りつけた。フルードは濃い闇に紛れ、視界が一瞬閉ざされた。だけど私は立ち止まらなかった。闇が引いた浅瀬でフルードの像は再び結ばれた。私はフルードの前に立った。そして両肩にそっと触れ、フルードが石になってしまう前に唇を重ねた。肩の感触も唇の感触もフルードのものだった。私を受け入れ、私を沈みこませ、私と同化しようとする柔らかさだった。私は腰を下ろして、フルードの前にひざまづいた。自らの股間をまさぐり続けるフルードの指を制止し、かわりにフルードの性器を舐めてあげた。腰を少し低くさせ、指で肉を押し開きながら、フルードの滑らかな内部へと舌先を侵入させた。やはりフルードは声を上げることもなく、体を痙攣させることもなく、フルード自身の液体を漏らすこともなく、ただ静かに立ち尽くしていた。それでも私の肉体に変化したフルードが私からの愛撫を求めていることはわかっていた。なぜなら私自身が求めていたからだ。やがてフルードが基本設定の形状に戻ろうとするまで──その僅かな隙間がぴたりと閉じて埋まってしまうまで、私はフルードの性器を母のように舐め続けていた。

 夜明けまで私は一睡もしなかった。マンションの浴室に新聞紙を敷き、服も下着も脱いで、かつて理湖が使っていた工作用の鋏を手にすると、鏡に向かって自らの髪を根元から切った。作物を収穫するかのように髪の束を掴んで、ぱさぱさと新聞紙の上に落としていった。頭皮が見えてくるまで時間はそれほど掛からなかった。あとは芝生ほどに残った毛をシャンプーで泡立て、薫の剃刀かみそりで丁寧に剃っていくだけだった。私は何も考えないことに集中した。頭の上で剃刀を滑らせる力加減に、息を止めて注意を払わなければならなかった。後頭部を剃るときは目を閉じて、手ざわりだけを頼りにさらに時間を掛けた。手鏡と浴室の鏡とを向かい合わせにして後頭部を確かめたが、初めてにしてはむらなく器用に剃れていた。鏡の中に映るのは、真夜中の路地に立っていたフルードそのものだった。左右対称のきれいな半円を描いた頭部。フルードは私が来るのを待っていた。フルードに反応する私を求めていた。そして反応した私の姿をフルードは暗い路地の中で表示していたのだ。髪が散乱した新聞紙を片づけた後、私はそのまま風呂に入った。熱めの水温に設定して、見えない細かな汚れもすべて落とすように肌を洗った。排水口に流れる湯の中に鮮やかな経血が混じっていた。ふと、もうすぐ閉経するかもしれないと頭をよぎった。まずは一つの解放が訪れるのだと思った。新しいバスタオルで体を拭き、新しい下着と洋服に着替えて、リビングのカーテンを開けるとすでに日は昇っていた。
 最初にリビングに現れたのはパジャマ姿の薫だった。私は一人ぶんの朝食をテーブルに用意していたところだった。
「今日は出社? 在宅?」
 私は紙パックの牛乳をコップに注ぎながら訊ねた。薫の足は止まっていた。言葉にならない声も出ていた。おそらく薫から薫の一部が漏れたのだろう。それが薫の目に見えるものを歪めたのだろう。
「なんだよ、それ」薫はやっと口にした。
「たしか在宅だったわね」私は手を止めた。
「まさか寝てる間に抜け落ちたわけじゃないだろう」
「私、これから外出してくるから」
「昨日のことを怒ってるのか」薫は冷静な声で言った。「朝から風呂場でごそごそしてると思ったら」
「朝ご飯は自分で用意してくれると助かる。出かける準備をしなくちゃいけないから」私はコップを手にしてテーブルの席に着いた。
「そんな頭で外に出るのか」
「心配してくれてるの?」私は立ち尽くしている薫に顔を上げた。「ありがとう。私は平気よ。むしろあなたは大丈夫? 妻がある日いきなり剃髪したことで、外を歩きにくくなるかもしれない」
 薫はその場に立ったまま、しばらく私を見つめていた。私が構わずパンをちぎり、牛乳を飲んでいると、何かを振り払うように髪をかき上げ、ゆっくりと足を進めて、ソファの上に沈みこんだ。
「これからは在宅勤務を選ぶことにしたよ」薫は目の前のカーペットを見下ろしながら言った。「昨夜ずっと考えていたんだ。これまで家族のためと思って働いてきたけど、家族と向き合うことはまるでしてこなかったんじゃないかって。ただひたすら外で仕事をして、金を持って帰るのが自分の役目。それさえ果たしていれば自分の居場所を確保できるとどこかで思ってきた。結局、俺自身なんだよ。そういう場所に自分を追いこんできたのは。家族との関係を金に置き換えてきたのは俺自身だった。誰のせいでもない。俺自身が俺を金の稼ぎ手としか捉えていなかったんだ」
 薫の背骨は曲がっていた。顎が前に突き出て、言葉を押し出す呼吸が弱かった。私はフルード班のチームリーダーとのやりとりを思い出した。そんな当たり前のことを薫は一晩もかけて考えていたのか。私と同じように、きっと薫も当たり前のものが見えてこなかったのだろう。同じ屋根の下で私も薫も歳をとってきた。でも過去をいたわることなんてしない。同じように歳をとってきた私と薫の現在が、今このリビングで夏の朝日に照らされているだけだ。
「これからはできるだけ家族との時間を過ごしたいと思っているんだ」薫は言った。
「プロボウラーは目指すのね」
「趣味を持った方がいいと思ってる。熱中できるものを持った方がいいと思ってる。昨日言ったのはそういう意味だよ」
「会わせたい人がいるの」
 私は薫を見た。薫も私を見た。薫は狼狽えていなかった。いつかそういう話を切り出されることを覚悟していた表情をしていた。深呼吸を一つしてから薫は訊ねた。
「それはいつ?」
「まだわからない。タイミングがあると思うから」
「でも、近いうちなんだな」
「そう。もうすぐ決める」
 薫は黙ったまま自分の手のひらを見つめていたが、やがて区切りをつけるようにソファから立ち上がった。仕事の準備をしてくるよ、そう言ってリビングから出ようとした。
「なんか変な感じだな」薫は私のそばで立ち止まって微笑んだ。「灯子と話しているつもりなのに、いつのまにかそのまんまるな坊主頭と話しているような気がしてきた。最初はびっくりしたけど、思いのほか話すことができたよ」
 薫はそう言い残して、リビングのドアを閉めた。
 私は食器を洗った後、理湖の朝食の準備をした。登校するのに起きなければいけない時間は過ぎていたが、そんなことは理湖自身がわかっていることだった。わかっていて部屋から出てこないのだ。昨日、理湖は私でも薫でもなく自分自身を責めていた。だからそれ以上理湖を責めることはしたくなかった。何かの役割として理湖を責めることはもうしたくなかった。これから引きこもろうとしているならば、そうすればいい。義務教育だろうが環境保護だろうが両親だろうが、十三歳の少女は何からでも逃げることができる。すべてから自分を自由に切り離すことができるのだ。私はヨーグルトの器にラップを巻いたり、果物を載せた皿を冷蔵庫に入れたりした後、身支度を整えてバッグを持った。そして玄関から出ていく前に、理湖の部屋のドアをノックした。
「朝ご飯、冷蔵庫に入れておいたからね」
 そう声を掛けると、間を空けて「うん」とくぐもった微かな声がドアの向こうから聞こえた。
「少し出かけてくる。お昼には戻るから」
 反応はなかった。思案しているのかもしれないが、衣擦れの音もしない。ドアの前から離れようとしたとき、理湖が言葉を発した。
「ねえ、お母さん」さっきよりもしっかりした声だった。「私、やっぱりフルードいらない。ほんとは欲しくない。今のままでいいから」
 もしかしたら理湖がドアを開けてくるかもしれなかった。私は返事をせず、訳を訊ねることもしなかった。だがしばらくドアの前で耳を澄ましていても、理湖が姿を見せることはなかった。
「わかった」私はドアの向こうに言った。「新しい誕生日プレゼント、考えておくから」
 玄関のドアを開け、鍵を閉めると、駐車場への通路を進んだ。地下へ降りると、ちょうど他の住人が自分のスペースに車を停めている最中だった。二台同時に出入りができない作りの都合上、私は駐車場の隅で住人が車から降りてくるのを待っていた。現れたのは白い不織布のマスクを着けた女性だった。新型ウイルスについての報道を一切目にしなくなっても、私はマスクを外している女性の顔を見たことがなかった。そのときは細かな花柄のシャツのボタンをきっちり首元まで留めていた。そして歩きながら、眼鏡の奥から私にちらちらと視線を向けていた。彼女の目には重い病気の後遺症とでも映ったのかもしれない。すれ違うときに「毎日暑いですね」と声を掛けても、彼女は何も言わずに会釈だけをして去っていった。
 運転席に乗りこむと、私はバッグの中に手を突っこんだ。そして石になったフルードを取り出した。昨夜、暗い路地で元の卵型に戻ったフルードは完全に軟性を失った。いくら力をこめても一ミリも形状を変化させることがなく、冷たくて硬い石のようにアスファルトの上にごろりと転がった。だがデバイスとしての機能は維持されていた。充電の減りは早くなったが、ウェブサイトを開いたりメッセージを受信したりすることはできた。私はエンジンをかけてアクセルペダルを踏む前に、フルードの硬い表面をタップした。海江子からのメッセージが届いていた。
〈フルード、発売中止になったみたい〉
 メッセージと共にURLのリンクが貼られていた。タップすると、フルードの販売会社のホームページに遷移した。フルード販売中止に関する告知文を私は読んだ。どうやらハード面に致命的な欠陥が見つかり、システムプログラムの改善によってこれまで対処しようと試みたが、個人情報の漏洩やハードの動作そのものを制御できない可能性をゼロにすることができないと結論づけられたようだった。フルードの販売中止ならびに回収を行なうので、契約者はすみやかにフルード本体を下記のサポートセンターまで送付してほしいと締め括られていた。
 私は可笑しくなった。なぜだかわからないが、エンジンをかけたままの車の中で一人、大声を出して笑うことを堪えられなかった。石のように硬いフルードを強く握りしめながら、笑いが収まるのをしばらく待った。フルードを返却するつもりなんてなかった。ハードの致命的な欠陥、個人情報の漏洩、動作を制御できないプログラム──それらが一体どうしたというんだろう。それでもこうやって動いているじゃないか。それに私は私自身をどこかに返却することなんてできない。
〈会わせたい人たちがいるの〉
 笑いで目尻に滲んだ涙を拭きながら、そう私は海江子に送信した。
 きっと今は石になっているときなのだ。体を固くして、ずっと動かない。雨が降っても風が吹いても、誰かに後ろ指をさされて貶められても、石のように何の反応もしない。そうすることで私は私の内部を温めることができる。私のための温もりを記憶させることができる。そしてこの世に何の役割も持たない私をもう一度生み出すことができる。
 バックミラーに映る無防備な頭を包むように手のひらで触れた後、私はアクセルを踏んで、海江子のマンションへと車を走らせた。

〈了〉2023年作

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