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「学ぶこと」から得られる最大の学び


私たちは日々何かを学んでいる。仕事で必要なスキルや資格、学校での勉強や研究、日常でふと気づいたことに至るまで、あらゆる場面において。

例えば先週、あなたはどんなことを学んだ(あるいは知った)だろうか?アクアパッツァのレシピ、ビジネス書に書かれたSWOT分析の手法、三平方の定理と証明、推しのライブスケジュール、近所のパチンコ屋の跡地に建つ店、ソシュールと構造主義、明日の天気、などなどさまざまであろう。

では、それらの学び全般から得られる最大の価値はなんだろうか?当然それぞれの学びから得られるものは違うが、今回は敢えて「学びの共通点からの学び」を考えるために、3つの視点から「学びの性質」を紐解きたい。

①なぜそれを自分の「学び」と捉えたのか

1つ目は「なぜそれを自分の『学び』と捉えたのか」、言い換えれば学びの目的は何だったか、という視点である。上の例では、

  • レシピ習得:アクアパッツァが食べたいから、上達したいから

  • SWOT分析習得:スキルアップ、実務上の必要性に迫られて

  • 三平方の定理:宿題や受験勉強、数学パズルを解くにあたって

  • ライブスケジュール:推しを応援したいから

  • 近所のお店:日常生活を快適に過ごしたいから

  • 構造主義:知的好奇心の充足、研究テーマの深堀

  • 明日の天気:外出時の雨具の要否判断、以前雨に降られたから

など、どんなに何気ない気付きであっても、基本的に私たちがそれを学びだと捉えるのは、それを学ぶことで知りたい、解決したいテーマがあるからである。逆にこの目的が無ければ、同じ事象に遭遇してもそこから学びを得られない可能性がある。

②何故それを「学ぶ」ことができたのか

2つ目は「なぜそれを『学ぶ』ことができたのか」、言い換えれば学ぶための前提や基礎は何か、という視点である。これも上の例では、

  • レシピ習得:包丁の使い方など他の料理で習得した基本技術

  • SWOT分析習得:戦略が重要との背景知識、論理的思考力

  • 三平方の定理:二乗の計算や直角三角形の知識

  • ライブスケジュール:推し活の自認、予定の更新時期の把握

  • 近所のお店:近所の歴史的変遷の把握

  • 構造主義:学問的な前提知識の習得

  • 明日の天気:天気図の知識、以前雨に降られた苦い経験

があったからこそ、それらのことを学ぶことができたと考えられる。仮にこの基礎が無ければ、やはり十分に学ぶことができない可能性がある。

つまり学び全般の共通点として「目的と手段(前提知識)の両方を有する」とき、私たちはその事象を学びの機会と捉え、前提知識を駆使してその事象を理解することが可能になる、と言えよう。

③その前提知識は、どのように得たのか

最後の問いは「では、その学びを得るために使った前提知識は、どのように得たのか」という視点である。おそらくその前提知識は、学びによって得たのではないか。例えば上の事例では

  • アクアパッツァのレシピの習得に必要な基礎的な調理法は、別のより簡単な料理を作った際に覚えた

  • SWOT分析を習得する前提として、戦略と競争優位の重要性を知った

  • 三平方の定理の理解に必要な累乗の計算は去年習った

  • ライブスケジュールを知るためにチェックすべきサイトはググった

  • 近所のお店が最近変わったという事実は、毎日歩いている通り沿いのため、変化にすぐ気づいた

  • 構造主義を理解するための基礎知識は、人文科学の入門書から学んだ

  • 天気予報が新聞のここに載っているのは、読んでいて知った

つまり学びを得るためには「目的と手段」が必要だが、手段となる前提知識もまた学びによって得ている。つまり今の学びは、前の学びによってもたらされた、と考えることができるであろう。

学びから得られる最大の学びとは

我々は何かを学ぶとき、学ぶ対象となる事柄の知識や経験を得ること自体が学びの価値と捉えがちである。もしくは例えば仕事で使う知識であればそれを使うことまで見据えるが、その場合は知識の「習得」と「実践」を切り分けた上で、実践に必要な知識の習得が学びのゴールとなる。

当然学ぶ対象の知識や経験を得ることも学びの大きな価値であるが、これは学びの価値をその対象の知識や経験の価値に依存させることでもあり、学ぶ内容も個別性が高い。この尺度で学びの価値を捉える限り、学んでも役に立たなそう/面白くなさそうだと思えば、そのことを学ぶ価値は低下する。

しかし上記の通り、学ぶこと一般に備わっている共通の価値に着目すると、それは学ぶ内容によらず普遍的で、しかもその価値は決して小さくないと考える。つまり「学びの普遍的かつ最大の価値とは、(学ぶ対象そのものにはなく)次の学びの障壁を劇的に下げること」であると私は捉えている。このように「学ぶこと」の価値を見直すと、「学ぶこと」が連続的になり、今の学びを駆使して次の学びの障壁を下げ、それがまた次の学びの障壁を下げ…とどんどん学びが連鎖していく。

学ぶことを対象の知自体の価値から分離させ、かつその後の学びの糧として価値を定義すれば、学びの価値は複利的に増大することが示唆される。裏返すとそれは、学びにかけても良い機会費用を増やす効果もある。「学んでも何の役に立つか不明だが、次の学びの血肉となり視野が広がると思えば、学んでみても良いかな」と思え、学びの選択肢が広がることにもなる。

自分なりの知の活かし方を知っているからこそ、その対象を学ぶことの価値を人よりも多く見出すことができれば、より多くの機会費用(金銭や労力)をかけても十分ペイすると言えるだろう。その価値は長期的かつ自身の保有している知とのシナジスティックな文脈でもたらされる。

―ところで、M&Aの世界では、ある会社を時折ファンドの目線では決して採算がとれないような高値で同業のストラテジックバイヤー(事業会社)が買収していくことがある。高々10年弱という有期限の間尺で価値を創出する必要があるファンドには「高値掴み」に映るが、事業会社にはそのようなファンドには見えない価値が見えているのかもしれない。それは同業ならではの既存知とのシナジーであり、かつ長い目線でコツコツと事業を育むことで得られる長期的な価値である。数十年かけてもシェアNo.1まで育てきる確固たる自信と勝算があれば、十分ペイする投資と見ることもできるのではないか。

このような投資が必ずしも肯定されるとは限らない。事態は急を要し、すぐに目に見える効果を出す必要があることもある。しかし学びをある種の投資と捉えれば、そこに色々な価値の描き方があるように、学びにも多様な価値の見出し方があるのかもしれない、とふと思いつき備忘にしたためてみた。

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