組織の経済学を知るための5人
経済学とは「市場取引を分析する学問」であり、経済学に登場する企業は、組織にもマネジメントにも言及されない「ブラックボックス」的な存在である―これが少なくとも伝統的なミクロ経済学の見方であった。このように単純化された企業のモデルは、複雑な資源配分の仕組みを分析する上では有効だが、その内部で経営者・従業員がどのように関与しているかについては、何も記述されていない。
しかし現実には、むしろ取引の大部分が、非市場的な組織の内部取引として、価格メカニズムとは異なる方法で取引を行っていることが明らかになってきた。この企業組織を分析対象とするミクロ経済学の応用分野が「組織の経済学」である。その目的は、第一に企業のブラックボックスを開け、内部組織の様々な機能や特徴を明らかにすること、第二に、企業と市場を異なる資源配分のための仕組み・制度と位置付けて比較分析を行い、市場と企業の境界やある企業と別の企業との境界がどこで決まるのかを明らかにすることである。本エントリーではそんな組織の経済学のイントロダクション的な位置づけとして、組織の経済学の進展に貢献したノーベル経済学賞受賞者5人の主要な業績の概要を紹介する。
ハーバート・サイモン/Herbert Simon
Herbert Simonは、1978年に「経済組織内での意識決定プロセスの先駆的研究」でノーベル経済学賞を受賞した。彼の1951年の論文「雇用関係の公式理論」は、雇用契約が通常の財の取引における契約とは異なり、不確実性が解消してから決定を行う権限を一方の取引当事者に与えるという特徴を持つことに注目し定式化を行った。Simonは不確実性が解消する前に決定を行う契約と比較して、雇用契約には柔軟性のメリットと権限保有者による搾取のデメリットが存在することを明らかにし、どのような条件で雇用契約が選択されるのかを考察した。組織の重要な特徴である権限関係を厳密に分析した先駆的研究である。
ロナルド・コース/Ronald Coase
伝統的には市場への参加者でしかなかった企業に対する見方は、1991年にノーベル経済学賞を受賞したRonald Coaseの1937年の古典的論文「企業の本質」によって大きく変わった。Coaseは企業を市場と対比させ、市場と同様に様々な人々の交わる場であるが市場とは異なるルールで機能する取引様式と見なし、共通の経済学の枠組みで分析する可能性を開いた。
そもそも企業とは、そして企業と市場を分かつ境界とは何か、更にどのような取引を企業内で行い、どのような取引を市場で行うか、という問題設定が本質的に重要になってくる。
なぜ企業が市場の代替的な仕組みとして存在するのだろうか。この問いに対するCoaseの答えは「価格メカニズムを利用するための費用が存在する」であった。市場における取引の仕組みは、価格メカニズムと呼ばれるように価格が中心的な役割を果たす。しかし、適切な価格を見出すこと、価格を決めるための交渉、価格を明記した契約の起草、価格を巡る争いの解決など、価格メカニズムを利用するためには多くの労力と時間がかかる。
Coaseは、企業が存在し取引を企業内に取り込むことによって、これらの費用が大幅に減少すると考えた。その主な理由は2つあり、第1に互いに取引を行う労働者、供給業者、顧客などの間でそれぞれ取引のための契約を結ぶよりも、企業という法人格が各当事者と契約を結ぶことによって、必要な契約自体の数を減らすことができる。この視点は、企業を契約の束と見なす企業モデルとして知られており、企業統治や会社法の分析枠組みに応用されている。第2のより本質的な理由は、企業内に取り込まれた取引の管理は権限関係が基本となる点にある。Coaseは権限の範囲を明確にすることによって、上記の価格メカニズムを利用するための費用が大幅に節約されると考えた。この考え方は、続くWilliamsonによる「取引費用」に繋がっていく。
オリバー・ウィリアムソン/Oliver Williamson
2009年にノーベル経済学賞を受賞したOliver Williamsonは、Coaseの洞察を精緻化し、企業の境界問題を取引費用という概念を用いて分析する枠組みを完成させた。WilliamsonはCoaseが論じた「価格メカニズムを利用するための費用」を取引費用として整理し、取引費用の存在によって契約は、(i)取引主体のとるべき義務が規定されていないという意味で「穴」がある、(ii)契約が観察可能な事態に不十分な形でしか条件づけられていない、という2種類の意味で不完備なものになりやすいことを指摘した。更に取引が進行するにしたがって市場取引で競争による規律付けが働きにくくなること、およびその条件を明らかにした。そして、統合し権限関係の下で取引を統治することによって、市場を通じた取引で生じる取引費用を節減できる場合に、取引が企業に内部化されると論じた。
Williamsonは、競争による規律付けが働きにくくなることによって、生み出された総価値を奪い合う交渉が円滑なものとならず、無駄な時間や労力など資源の出費、交渉の行き詰まり等によって、生み出された総価値が減少すると論じた。
また統合の費用についても「組織の肥大化・官僚化」を指摘するのみでは不十分であることを明らかにし、市場の方が上手く機能するならば、なぜ組織内に市場の機能を取り込めないのかという問題設定を明確にして、重要な分析を行った。
オリバー・ハート/Oliver Hart
2016年にノーベル経済学賞を受賞したOliver Hartと次のBengt Holmströmの授賞理由は「契約理論への貢献」である。
契約理論とはインセンティブ設計の理論である。インセンティブとは「期待というアメと、恐れというムチを与えて、人を行動へ誘うもの」であり、契約理論の「契約」とは、文字通りの契約よりも広く、インセンティブを与える仕組み全般を意味している。人や組織(を動かす人)の行動に問題がある時、人のその行動に導いたインセンティブに注目することで、人自身の問題に帰着させず、人を取り巻く契約、制度などの仕組みを分析できる。
Hartとその共著者であるGrossman、Mooreなどによって展開さ有れた理論は財産権理論と呼ばれ、この理論は組織の経済学のみならず産業組織論、企業金融、法の経済分析、国際貿易、企業統治、開発経済など多様な分野に応用されている。この理論はWilliamsonの理論と同様に、不完備契約を前提としているが、生み出された総価値を奪い合う事後の交渉は円満だが、事前の活動を控えてしまうという「ホールドアップ問題」の観点から企業の境界の決定を分析している。
ベント・ホルムストローム/Bengt Holmström
Holmströmの主要な貢献は、インセンティブを与える契約に利用可能な業績指標がある状況(完備契約)の分析にある。1979年のHolmströmの古典的論文「モラルハザードと観察可能性」でエージェンシー関係を分析するための決定版となる枠組みを確立するとともに、どのような業績指標を用いるべきか、あるいは用いないほうがよいのか、を明確にする結果を導き出した。
更に1987年の論文で、経営者にとってもっとも好ましい報酬制度が「固定給プラス歩合給」というシンプルな形であることを示し、契約理論を成果主義や業績連動報酬制度を分析する有効なツールとして発展させた。Holmströmの確立した分析モデルは雇用・賃金分野だけでなく、不祥事などのコーポレートガバナンス問題、保険会社の保険契約設計、金融危機における流動性問題、学校教育における教師のインセンティブ、医療分野での診療報酬制度など幅広い分野に応用されている。
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