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まだ名前のない感情に出会う旅 ―山本文緒『自転しながら公転する』を読む―

前作『なぎさ』以来実に7年ぶりとなる山本文緒の小説が刊行された。
『自転しながら公転する』。
震えながら手に取った長年のファンは多いことだろう。自分もそのひとりである。

本編では主人公の32歳から34歳までが描かれる。
日本の恋愛小説や恋愛ドラマにおいて、主人公が未来あふれる20代までの若者ではなく生きづらさを抱える30代であること自体が少ない。
それだけでもう、いわゆるアラサー世代の女性たちに布教したくなるのだが、読み進めるにつれ、夫にも両親にも将来の子どもたちにも読ませたい衝動を抑えることができなくなった。
それどころか、読み終えた電車の中で「これ! これ読んで!!」と車両いっぱい響き渡る声で叫びたくなってしまい、感情の制御に苦労した。

アウトレットモールに入っているアパレルブランドで働く与野都が出会ったのは、中卒で定職のないヤンキー崩れの貫一だった。
更年期障害に苦しむ母親や古い価値観を持つ父親と折り合いをつけながら恋をし、頼りない店長やスタッフたちに翻弄されながら働く都。
よく気の回るセンスのいい人として認知されているが、私服は旬を過ぎた森ガールだし、いっぺんに人望を失った過去もある。結婚や出産を考えれば、貫一とぬるい関係を続けるわけにもいかない。そもそもこれは「恋愛」なのかと自問したりもする。
ベトナム人ニャンくんとの不思議な関係やマーチャンダイザーによるセクハラ、そして父親までもが病を得て、都の生活は揺らぎ、心はかき乱される――。

誰にとっても他人ごとじゃないエピソードがみちみちに詰まった、まさに現実世界から切りだしたような一冊だ。
恋愛、仕事、家族、友情といった普遍的なテーマに、国際結婚、学歴社会、介護問題といったこの世のしがらみを絡めて、奥深いところのさらに一歩深いところをさらりと描きだす山本文緒の卓抜な文章力。
この上なくリーダビリティが高く、自分が誰なのか忘れるくらい物語の一部になってしまう。
ひとつひとつの文章の美しさ。多彩で奥の深い表現力。華麗なミスリードを誘う構成力。すべてにセンスと技術が行き渡っている。

はてしなく遠くへ魂がさらわれて、やさしく激しく心の底辺から揺すぶられ、感情が行きどころをなくしてしまう。メンタルのアップダウンの激しい時間が待ち受けている。
予定調和やご都合主義はどこにもなく、容赦のないリアリティが胸に突き刺さって抜けないからだ。
意外な展開に何度も息を飲み、やりきれなさに溜息をつき、そして子どものようにわあわあ泣きたくなる。
どうしても見つからない。この読後感をひと言で表す言葉が。あえて言えば感傷。いやそれだけじゃないし。
ああそうか。これはまだ名前の付いていない感情なんだ、きっと。
読書という旅を終えた後に残る、ぼろぼろになった旅程表みたいな。

個人的には、舞台として出てくるホーチミンや熱海が大好きなのでことさら嬉しかった。
学歴は低くとも読書家で、飄々としているのに情の深い貫一が愛おしくなってしまっただけに、辛い場面では忘我してしまった。
終盤の……ネタバレは避けたいが某被災地でのシーンでは、頭を撃ち抜かれるような衝撃を味わい、深い自省を得た。
そして、どこへ行っても容姿ジャッジされ性的消費される女性の生きづらさ――。

泥くさく生きてゆく人も、光を訴求する人も、冷めたマインドで乗りきる人も、絶対に手にとってほしい。
そして、まだ名前のない感情に出会ってほしい。


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