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さぬき
2021年10月28日 12:47
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館【五章】小夜姫【二節】筑紫はもう、春が過ぎようとしていました。博多から馬を捨てて、船に乗りました。船路は必ずしも穏やかなものばかりではありませんでした。奈良から再び陸路に変りました。しかし路銀の都合もあって、馬を雇うことはできませんでした。したがって吉実一行はもちろん、姫も硬い草履の旅でなければなりませんでした。慣れぬ
2021年10月2日 16:04
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館【三章】吉実の苦悶吉実一行が釣りに来た日は、贄(にえ)を上納する八月十四日の一ヶ月前に当たっていました。数えてみると確か、今年の贄上納の当番は、机地庄兵ェ尉でありました。※机地庄兵衛尉・・・つくえじしょうべえのじょう。おそらく机地という地域の庄兵衛という老翁。そうすると、来年は吉実であらねばなりませんでした。吉実はすっかりふさ
2021年9月14日 15:58
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館※夜話・・・やわ。夜の余暇にする話。秋田街道といえば、水沢を南北に通ずる往還(現在の国道四号線)を、駒形神社あたりから右折して、板谷林(いたやりん?)、浅野、広岡を経由、尼坂にある追分(指導標)を左に見ながら、林福野(りんぶくの)を通って、供養塚の東端に入り、あとは一直線に出店(でだな)、土橋(どばし)、愛宕、市野々(いち
2021年7月30日 16:48
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館今を去る三百七、八十年前、当時の領主によって御種松(おたねまつ)が植えられ、その善政でわが村も、いたる所に人家が見られるようになりました。しかし、そこここの林という林は、用材や薪炭材(しんたんざい)として、頻りに(しきりに)伐採されましたが、植林はしなかったので、果ては切株さえ掘り起こされるようになり、再び蝦夷時代の草原を思わせる有様にな