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岩手県の民俗学(胆沢の民話)

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岩手県の胆沢という地域に伝わる民話や伝説を紹介しています。 民俗学的に価値のあるものだと思うので、目にとまった人の記憶に、少しでも残って伝わっていけばいいなと思います。
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#平安時代

替馬壇の地に行ってみた【プチ・フィールドワーク①】

替馬壇の地に行ってみた【プチ・フィールドワーク①】

かえまだん、俗称ではキャマダと読む。

平安時代後期の東北地方で、源頼義・義家親子が、東北の豪族、安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)親子を鎮圧する戦がありました。(前九年の役)

源義家(通称・八幡太郎義家)が安倍貞任を追って見分森の近くを通った時、愛馬の香月が倒れてしまいました。

その地に丁重に香月を葬り、新しい馬に替えました。

後にそこは壇山と呼ばれ、牛馬の埋葬地となりました。

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替馬壇の由来【岩手の伝説㉓】

替馬壇の由来【岩手の伝説㉓】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

※替馬壇・・・かえまだん。俗称キャマダ。

平泉に拠って、四囲(しい)を睥睨していた安倍貞任(あべのさだとう)を攻落した八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)は、晩秋の風に吹きさられるる木の葉のように逃ぐる安倍氏の軍勢を追って、森(御殿場)まで来ると、愛馬香月の手綱を静かに引いて留めました。

※拠る・・・よる。あてにしてそれにたよる。 たよって

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大堤の由来【岩手の伝説⑱】

大堤の由来【岩手の伝説⑱】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

小山字油池と前大畑の境する所を、昔から俗に大堤と呼ばれ、今なお大きな堤防の残骸が判然としている所があります。

灌漑水路のなかった時代に、ここに大きな溜池が作られ、松の木沢を通じ、一帯の稲作りの水源となっていたのであります。

※灌漑水路・・・かんがいすいろ。作物栽培に必要な水を、水源から農地まで、人為的に取水・配分・供給する水路のこと。 水源は

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万治万三郎【岩手の伝説⑯】

万治万三郎【岩手の伝説⑯】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

昔々、上野の国、赤城の山に赤城大明神なるものが住んでおりました。

※上野の国・・・こうずけのくに。現在の群馬県。

※赤城大明神・・・あかぎだいみょうじん。赤城神社の祭神。

この赤城大明神は、十丈余り(三十余米)の大蛇に化け、附近の住民、男女の別なく襲って取り食らい、或いは住民が丹精して育てた作物を食い荒らすなど、実に目に余るほどの悪事の限り

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民話前九年の役【岩手の伝説⑧】

民話前九年の役【岩手の伝説⑧】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

※前九年の役・・・平安時代後期の、陸奥国(東北地方)で起こった戦い。永承六年から康平五年まで。源頼義らの軍が、陸奥国の豪族安倍氏を滅ぼした。名称や期間は諸説あり、奥州十二年合戦とも呼ばれる。様々な伝承が残る有名な戦い。

安倍の貞任をして落城などありえないと、豪語せしめた衣川の館は、なるほど堅固なものでありました。

※安倍の貞任・・・あべのさだ

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