万治万三郎【岩手の伝説⑯】
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館
昔々、上野の国、赤城の山に赤城大明神なるものが住んでおりました。
※上野の国・・・こうずけのくに。現在の群馬県。
※赤城大明神・・・あかぎだいみょうじん。赤城神社の祭神。
この赤城大明神は、十丈余り(三十余米)の大蛇に化け、附近の住民、男女の別なく襲って取り食らい、或いは住民が丹精して育てた作物を食い荒らすなど、実に目に余るほどの悪事の限りを尽くしておりました。
※丈・・・じょう。長さの単位。1丈は約3メートル。10丈は約30メートル。
これを伝い聞いた日光権現は、この赤城大明神の悪事を憎み、退治してしまおうと四度も戦いを挑みましたが、いつも戦い利あらず敗退しておりました。
※日光権現・・・にっこうごんげん。日光二荒山神社(ふたらさん)に祀られた祭神。権現とは、仏が人々を救うために神の姿になって現れること。
赤城大明神の悪を憎む日光権現は、しかしどうしても諦めきれませんでした。
いつかは攻め滅ぼして住民の安泰をと願っておりました。
或る日、たまたま通りがかりの人から、下野の国、日光山の麓に住まい、弓を使って猟をしているという万治万三郎(まんじまんざぶろう)なる人の話を聞きました。
※下野の国・・・しもつけのくに。現在の栃木県。
何でもこの人は、元参議の要職にまで上ったのでしたが、主命に背いた廉(かど)で解職、以来転々と諸国を流浪、弓を射ては僅かの猟で糊口をしのぎつつあるというのでした。
※参議・・・国家の政事に参加して、政策などの大事を議すること。
※糊口・・・ここう。粥をすすること。転じて、暮らしを立てること。生計。
日光権現は、これを聞くと小躍りして喜び、早速会って、赤城大明神を退治してくれと頼みました。
しかし万治万三郎はその懇願に首を縦に振ってはくれませんでした。
だが日光権現もそれに容易く手を引きはしませんでした。
色々と手を替え品を替えして説得しましたが、なかなか万治万三郎の首は縦には動きませんでした。
日光権現、それでも諦めた訳ではありません。
万治万三郎の猟好きと、弓の自慢を利用して、ある日三米(メートル)近くの白鹿に化けて、万治万三郎の前に現れました。
万治万三郎はびっくりいたしました。
猟好きと弓の上手から、彼は全国の山野を歩いておりましたが、こんな素晴らしい獲物は初めてでした。
万治万三郎はすぐさま愛弓に矢をつがえ、満月のように弦を引き絞りましたが、よく見ると白鹿は見えません。
目を見張って尋ねると、彼方の叢(くさむら)の蔭からこちらを見つめているのです。
その距離は、彼の矢の届かない遠い所でありました。
万治万三郎は足早に急いでその距離を詰めると、再び弓に矢をつがえて白鹿を狙いました。
しかしその時は、白鹿は彼の視界にはありませんでした。
尋ねるともう白鹿は、彼の矢の射程距離から遥かに遠い所におりました。
こうした、いたちごっこに似た、追い追われを繰り返しているうちに、万治万三郎はいつしか日光山の麓に来てしまっていました。
ここに至って白鹿は、本来の日光権現の姿に返り、改めて万治万三郎に赤城の大明神征伐をお願い致しました。
万治万三郎もさっきまでの経緯(いきさつ)から喜んで承知致しました。
日光権現も非常に喜び、一本の霊矢(れいし)を賜り、そしてこの十五日が合戦の日であることを告げました。
日光権現には手強い相手の赤城の大明神も、日本一の弓の名人、万治万三郎には敵ではありませんでした。
三十米余りの大蛇に化けて躍りかからんと、地を蹴って天空に飛び上がったのを見た万治万三郎は、頃も良しと、日光権現より賜った霊矢を力いっぱい弓に引き絞り、放てば矢は唸りを上げて空を斜めに切って、憎々しげに空から万治万三郎を睨んでいた大蛇の眉間にぐさりと突き立ち、たちまち血は吹いて雨のよう。
地上に落ちた大蛇は万雷のような呻きを上げて苦しみ、のたうち回りますが、その振動はまるで大地震のようでした。
完全に征伐し終わった万治万三郎の、その報告を受けた日光権現の喜びは大変なものでした。
そして日光より東の方の山々、岳々の猟を営む自由をお許しの巻物をお授けになりました。
即ち万治万三郎は、関東以東の山の支配者となったのでした。
以来万治万三郎は、好きな猟をしながら山野を歩いていましたが、たまたま慈覚大師が山寺を開いて教化に努めていましたので、好奇心から一寸覗いてみましたが、その説教の中で、殺生の罪の如何に深いかを聞いて大いに改心、弓矢を捨て、開拓に心を打ち込むことになり、かつて原野を闊歩した頃を振り返り、印象の深かった胆沢の地を思い出し、弟を連れて来たのでありました。
※慈覚大師・・・じかくだいし。平安時代の下野国出身の仏教僧、円仁(えんにん)のこと。最澄の弟子。東北地方など各地に布教した。
兄万治は牛転橋(うしころびばし)に居を構えて開拓、しかし次兄の万内(まんない)は血の気が多く開拓になじまず、相変わらず山野に鳥獣を求めて猟を楽しんでおりましたので、兄万治は立腹、兄の目の届かぬ場所でやれと叱りましたので、或る夜密かに脱出、秋田の阿仁村(あにむら)に住み着いて猟を続けていました。
静かな末弟万三郎は、兄の忠言に胆沢川を越えて鹿合(ししあわせ)で開拓を始めました。
今、鹿合部落の旧家のほとんどがこの万三郎の子孫だと誇っております。
兄万治はその後この地を去りますが、今尚、万治屋敷として牛転橋部落にその地名が残っており、その規模の広大さから見て、昔の繁栄が充分推察されています。
秋田に逃れた万内は、子孫も猟に従事しているらしく、猟の多い下嵐江(しもおろしえ)まで紛れ込むこともあって、猟の巻物を紛失して、鹿合に問い合わせの手紙を出したりしていたといいます。