【エッセイの書き方に悩むあなたへ】│これもあれも、どれも私なりのエッセイ。
随筆を、ポストした。
文末には「#エッセイ」のタグもつけて。
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note更新のお知らせ以外に、兼ねてから苦手意識がある「考え感じていることの自己開示」の練習をするためにもXを利用している。
それらに加え、最近は詩や短歌を書いたり作ったデザインを添付したりと「作品を発表する場」として選ぶことも多い。
この部分をふくらませたら後々エッセイにできるかも、という下心もなくはない。
それでも、私はこれまで随筆と称して文章を書くことはあれど、エッセイ自体はXで公開したことはなかった。
それなのにどうして急にエッセイを投稿したのかというと、「もういっか」と思えたことがいちばん大きい。
この考えに至るまで、割と長い時間を要したのだけれど。「もういっか」としか言いようがないのが現実だったりもする。
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元来、「~ねばならない」「~あるべき」といった考えに左右される性格だった。
完璧主義という言葉を知る遙か昔から、自分で自分をがんじがらめにしては感情を押し殺して生きてきた。
誰かに言われた訳でもないのに、「ちゃんとしなきゃいけない」という呪いを自らにかけて悶え苦しんでいたのだ。
冷静に考えると、阿呆である。
そう思えるようになったのも、十代前半から二十歳にかけて複数回強いストレスにやられて身体を壊した経験が大きい。
苦しみの渦中にいるときは、どうしても視野が狭くなるもので、中々自分のヤバさや阿呆加減が見えないものだ。
一度落ちるところまで落ち、あらゆる感情を味わいきること、深く自分と対峙することで見えてくる視点というものがある。
この経験が、前述した「もういっか」に繋がることになる。
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人と違う部分を排除せずに「きみの個性」と尊重してくれた存在と出会えたおかげで、徐々に己を縛っていた「ちゃんとしなきゃ」の呪いは解けつつあった。
それでも長年積み重ねてきた思考のクセというものは厄介なもんで、「もっとちゃんとしなきゃ」と魔が差す瞬間も確かにある。
執筆活動においてはまさに「ちゃんと書かなきゃ」という考えがソレで、こんなのエッセイじゃないから言葉を紡げない、とエディターを開けない期間がしばらく続いていた。
が、そもそも「ちゃんと書く」とは、どういう状態を指すのだろう。
ペルソナを想定した定型文?
それっぽい言葉を羅列した薄い文?
大多数にのみ向けているとしか思えない文?
違う、そんなの私が「ちゃんと書きたい」文章なんかじゃない。
書店に行けどもネットを漁れども、「文章の書き方」ないし「エッセイの書き方」はごまんと存在しているし、発表の仕方や提供する場だって山ほどある。
──だからといって、なにも既存のやり方や大多数が勧めている方法に則りすぎることはないのではないか。
この境地ににたどり着いたことで、もういっか、と「ちゃんと書くこと」を諦め、自分なりのやり方で執筆活動・表現活動を続けていくことに私は決めた。
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もし、「エッセイの書き方がよく分からない」と悩む人が方法論に振り回されていたとしたら、身につけた情報をポイッと捨て去って表現技法を変えてみるのもアリだと思う。
エッセイを書く目的やどんな内容を収録したいのかは人それぞれだということも承知の上で、「自分だけのやり方を模索するといいよ」と私はあなたに伝えたい。
中には私の文章や書き方を見て、「こんなのエッセイじゃない」「わざわざXでエッセイを書く意味が分からない」と嘲笑する者もきっといるだろう。
我々は別の人間同士なので、理解できない部分や行動はどうしたってあるものだと重々承知しているからこそ、別にどう思われても構わない(だからといって安易に誹謗中傷をする行為は絶対に許されるものではないが)。
たとえ140字のつぶやきだって、3000字以上ある想い出を綴った記事だって、どちらも立派なエッセイだ。
生き方にしろ書き方にしろ、「これしか方法・道は存在しない」ということは決してなく、あなたに合ったやり方は必ず存在するはず。
「これも、あれも、どれもエッセイだ」と肝に銘じ、これからも変わらず表現方法を模索しながら筆を執って私は生きていく。
▽中山かず葉の𝕏アカウント
自己開示の練習として日頃思うことや考えていること、日記や随筆、詩やデザイン、大好きな音楽についてつぶやいています。ご興味がある方がいましたら、遠慮なくお気軽にお立ち寄りくださいませ。
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