日々は「はじめまして」と「DT卒業」の繰り返しじゃないすか。
なんとなくでも生きていれば「はじめまして」なんて幾らでもある。この「はじめまして」のおかげで日々の景色が移ろいで楽しめるし、逆に、新しい何かに適応していくために体力が必要でちょっと疲れてもしまう。ただ基本的には、その疲れは、そこでかける汗は、いい成分で出来ているとは思う。
ボクがこわいのは、年を積み重ねるごとに「はじめまして」とやってくるものを拒絶するようになること。それは、自分の変化力をあきらめ、過去の時代性と若さに恋い焦がれるばかりになったら、人間として終わりじゃねーかと感じちゃうから。
だから、「はじめまして」のことを受け入れ、向き合い続ける姿勢は持っていたいし、今まさにそういったプロジェクトをがんがん進めさせてもらえてるとも思う。数か月~年ごとに「○○童貞卒業!」と大人の階段を上がっていってる感覚がある。
今までやったことはないけど、やれそう(見込みがある)ものは、その任務遂行ための環境を整えられることを前提に「やります」と伝える。で、実際にはじめてみると、これがまあ大変だったりする。何が大変かというと、何度もやっていたことであれば、これまでの経験(フォーマット)の中から技術と知恵を抜き出してただ進めればいいのだけど、経験がないものに関しては、それを進めていくための自分なりの「やり方」を開発しなくちゃいけないことである。
そう、この「かた」を考え、つくる作業のことっすね。体力がむっちゃいる。
けど、ここで一度「型」と「~方」をつくっておけば、似たような業務を次回やるときの処理スピードは軒並み上がる。経験値があることで不安は減るし、やり方も改善アップデートできる可能性がグッとある。
時間/納期との戦いってのあるし、身体も一つしかないから、その限界点ってのは決まってるけど、基本は、「はじめまして」に出会ったら、それに今後向き合っていくための自我琉メソッドを開発するチャンスと思って、がむしゃらにやってみる。その繰り返しでしかないと思うのよね、日々、というのは。
そうしないと目がかすんで移ろいを楽しめずにただ固まっていく心を眺めるだけの老いが待っているだけなような気がしちゃって。そういう向上心はつねに持っていたい(ヤなじじいになりたくないってのが大きいかもだけど)。
気づけば、フリーランスになってからは、これまでの自分のできる範囲をちょっと超えたことに挑戦させてもらいながら、できることを増やしてきた感覚ばかりがある。RPGでいうレベルがあって新たな呪文や特技が増えていくようなイメージで。
趣味でブログで書いて基礎体力をつけてたところから始まり、ライターとして人に読んでもらう記事づくりへ。リサーチものやったし、英語からの翻訳ものもやったし、イベントレポートも、インタビューも、扱うテーマについても、Webマーケについて、移住について、小商いについて、と「はじめまして」の連続だった。
いつの間にか、編集だとか、webだけじゃなく紙もかじらせてもらったり、メディア立ち上げみたいことも、書くワークショップみたいなこともやらせてもらったり。で、その派生から書くこと以外にも、映像制作もやったり、コピーライティング、なぜか場の運営もやるようになって、イベントの企画運営ファシリ、拠点の開発みたいなこともやったり。そっから地域の組織設立、事業づくりとやれることも増えてきて。
来年でいえば、集落の区長業務、自分のお店づくり、本づくりなどまた新たな「はじめまして」が待ち受けている。想像するだけでグムムム...なのだけど、それで自分が出来ることも増え、新たな立場・コミュニケーションツールのおかげで拓ける関係性もあるだろうし、とにかくやってみることで気づける自身のポテンシャルもあるかもしれない(自分のわからない自分がわかる)。
ってなわけで、「はじめまして」はどんどん来い、ってかんじだ。できるかできないかは、わりと「やるか/やらないか」に懸かってる比重大きいぞ。できないことはやらなければいつまでやってもできない。
今の脳みそでわかることなんてたかが知れてるわけで、その脳みそでシュミレーションできることも限界も出てくる。やってみることで脳みそが事象の理解に追いつくスタイルのほうが、ターニングポイントポイントをつくるときには重要だったりする気がするのよね。
— omija (qeqeqe) (@radi0mija) November 13, 2020
あと何年生きれるかはわからないけど、それまでにどれだけの童貞を捨てれるかはわりと楽しみなんだよな。たくさんの生産手段を知り持てたうえで死にてぇのよ。
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