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ケケケの日記

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日記(のようなもの)
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#芸人

憧れを断つ

憧れる人がいるってのはいいこと。だけど、憧れすぎちゃいけんよな。その人を追いすぎると、その人に影響されすぎると、なんかよくはないかも。そう考えて、その人たちの情報を遮断する術を探りはじめている。 その人を知るための最低限のバックボーンまでの情報はいい。ただ最近の発言だとか、その人たちの作品に触れすぎると、自然とまねようとしちゃうというか、いつの間にか脳みそをハックされてるようなこわさがある。自分らしい表現のつもりでも、他人の受け入りでしかなく、自分を失ってる状態(それを自覚

『カミナリの記録映像』はしびれ悔しい

一日のうちにYouTubeを開かない日はあるのだろうか。ってくらい、毎日だれかのチャンネルのなにかを必ず視聴してしまっている。同時に「う、おれのパソコンとスマホをぶっ壊してくれ…!」とデジタルデトックス願望もありつつ、それがなかなかできない我が身にどうしようねぇなとツッコミを入れ続ける日々でもある。 何はともあれ、YouTubeは観ていて飽きない。もちろん毒にも薬にもならないようなコンテンツ、似たり寄ったりで嘘くさいコンテンツもあるのだけど、ちゃんと探せば、のめり込めるもの

どの感情(あるいは無意識的行為)に社会性を持たせるか

「好きなことで、生きていく」の読解については、ぼくもわりと眉唾ものでその文言とその周りにぶらさがる人たちを観察している。 人は楽なほうに楽なほうにと流れていく生き物だけど(意思なくそっちに流されてきた20~30代がそろそろ痛い目に遭う頃だろうし、そういった積み重ねが日本の先々の危うさにつながってる気もしてるけど)、そう容易くものごとは展開するわけもなく、一瞬うまくいったとしても、人生はうまいカラクリでできてて、どこかで天秤のようにバランスをとるようにできているはずなのだ。落

「メモを見返せてない」問題'23

見返さないメモは、ただの紙。汚れてるし、かさ張るだけの紙。 年始になり、すでにあるもの(状況資源)の棚卸しをしばらく続けている。その中で、ふと気付いたのが、「メモ(帳)」を最大活用できていねぇんじゃないかということ。 高校生のときからずっとメモ魔なぼくは、ノート、手帳、ラインキープなど、アナログからデジタルまで記録を撮り続けてきた。ここをもうちょいうまく使えるかもしれない。 そんなことをふつふつ考えてるときに、とある芸人の動画を思い出した。それは、ルシファー吉岡さんが「

技量よりも熱量、魂を正しくぶつけた漫才に、我(日常)に返る。

M-1グランプリ2022の視聴を終え、風呂をためてから入浴剤を浴槽にぶち込み、その間、反省会を観ながら待って、あったまった浴室へゴー。湯に浸かりながら、ウエストランドの最終決勝ネタを見返す。 ふり返ってみると、10組中10番目のトリとなりネタを披露。テレビを通じて察する笑いだと最終決勝はちょっと怪しいかもと思ってしまった。劇場に足を運ぶような人でなく、”きれいな”笑いを求める層が観客席にいたんじゃないかと感じたから。ただその予想をいい意味で裏切って、審査員の評価が乗っかり、

雑巾と経験知と芸人

「経験したことがなければ、想像できない」 しごとを通じ、自分の学びを深め、さまざな世代の学びに関わっていると、この「経験」と「想像(力)」の関係性については油断するとつい考えてしまっている。というか、もはや年中考えているんじゃないだろか。 特にここ2~3年は、地域の求人(移住)に関わる機会が増え、相談を受けることもだいぶ増えた。その中でつよく感じるのは、どんなに条件を整えようが、選択肢を提供しようが、最終的に決断するのは本人でしかなく、新たな未来を想像して決断するにはこれ

ぱっと見、どんな人間か。

「自分のことは自分が一番わかってる」vs「自分のことほど自分じゃわからない」 10~20代を通じて「わかる」だと思い込んでいたものが「わからない」と感じるようになっていった。目から鱗体験。おそらく自分という人間がわからぬまま死していくんじゃないだろうか。 あくまで主観は主観であり、自分の中にある「我思う」は軸として生きてくうえで大事ではあるんだけれども、(他人からの)客観としての自分もいったん受け入れた上で立ち振る舞いを考えてみるのも悪くはない。 どこぞのお笑い養成所で

ネタは(つくって)あるか。

Facebookタイムラインは、ぼくを的にして、「しらべぇ」のグラビア記事を集中砲火してしてくる。その主な内容が、「グラビアアイドルの〇〇がtwitter/instagramで投稿した画像に反響」というものばかりで、そこにファンのコメントがいくらか載っかっている。ふと思うのが、この記事をまとめたライターについて。 「この人たちはどんな志を持ってライターになったのやら。タレントのSNS張り付きまくって薄っぺらい中身の記事を量産してそこにやりがいはあるのだろうか。もうあるいはク

「おれはバカなんですよ!」という魂の叫びを感じたマヂカルラブリー。誰が何と言おうとあれは漫才でいいじゃない。

”予想”と”願い”はちゃんと分けなきゃいけないよなぁ、みたいなことを思った。M-1グランプリ2020を観終えての感想。 鳥取は放送がなかったのでアプリ視聴しようと思ったら、サーバーダウンしたみたいで急遽配信停止となり観る術を失ってがっつり仕事をしようとしていたら、公式YouTubeでネタのみアップされたのでそっちでチェック。あとは、お気に入りのTwitterフォロイーさんのつぶやきで流れや点数を追っかけるような感じに。 とりあえず結果として、3連単予想(東京ホテイソン、ア

足りなさが補うもの

  散歩中にハッとするときが多い。あれ、なんでだろうな。科学的立証はできない気もするけど、とにかく真剣に向き合ってはない、油断してるときほど突然やってくる何かがある。 「足りなさが、芸の魅力なのかもしれない」  『たりないふたり』というタイトル通りのオードリー若林さんと南海キャンディーズ山里さんにはじまり、どこか足りなさを持っている人たちの表現力に驚かされ続けている。  それを考えたのも、とある若手芸人の漫才がおもしろいのだけどグッとこないのはなんだろうという疑問が湧い

芸人はなぜ「女」と言いたがるのか

 この時期になると、M-1をひたすら観まくる日が続く。アーカイブされたYouTube公式動画は、なるべくは全コンビを観れたらなぁと垂れ流しにして、ごはん食べたりおやつを食べる休憩中には観るし、作業中には”ながら”で耳で追っかけたりしている。  いろ~んなネタを観てて、見知ったコンビでああやっぱおもろいなぁと思うのもあれば、初見でもなんだこのコンビいいじゃんと思うような組もあって、M-1を通して笑いの選択肢が増える感覚が好きだ。  「シンクロニシティ」「ゆにばーす」「タモン

ちょろいぜ。

 今日も一本また動画を観終わった。最近は毎日のようにアップされるマセキの芸人ライブをついつい観てしまっている。お目当てはルシファー吉岡。ふと気づけば、おじさん見習いである自分が、ど真ん中おじさんの彼のネタを楽しみに待ち構えてしまう切ない構図である。さっきは「通販番組」は観ていたんだけど、やっぱり野性味ならぬ変態味溢れる、もう突き抜けちゃってる、ルシファー吉岡のネタは好きだなぁと。  そういう定期でのぞく芸人/ネタがあるように、思い出したかのように、突然ふと観たくなるものもあ

ツッコミに焦点を当ててみると(「東京ホテイソン」の場合)

「わ わ わ これ これ わ これ これ」  やっぱり面白いなぁ。このツッコミで笑いがとれるってのは凄いなぁ。  阿呆っぽい感想なんだけど、東京ホテイソンのネタを観て、ふと思ったこと。  毎日のように誰かしらの何かしらのネタを観ていると、やっぱり笑っちゃう。でも、ときどき新しい「面白い」に出会っちゃうと、「面白いなぁ」という感想をとびぬけて、「なんで面白いんだろう」という構造について考えたくなるときがある(それは、シンプルにものづくりの裏側に興味があるからだと思う)。

自分を規定して「やらない人」は、この先もずっと「やらない人」。

「わたし/ぼく、〇〇なんですよね」  20〜30代と話をしてると、こういう発言をよく耳にする。◯◯には人のタイプを表す「人見知り」や「根暗」、「優柔不断(フッ軽じゃない)」などの言葉が入る。みなさんも、そういうやり取りに巻き込まれたことはあるんじゃないだろうか。  たとえば、これがアメトークの「人見知り芸人」のように、「いやあね、ぼく人見知りなんですけどね!」と自虐したり、誰かにいじられたりするようなネタとして昇華されてるのであれば、正直すげぇなと思う。  そうではなく