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雑巾と経験知と芸人

「経験したことがなければ、想像できない」

しごとを通じ、自分の学びを深め、さまざな世代の学びに関わっていると、この「経験」と「想像(力)」の関係性については油断するとつい考えてしまっている。というか、もはや年中考えているんじゃないだろか。

特にここ2~3年は、地域の求人(移住)に関わる機会が増え、相談を受けることもだいぶ増えた。その中でつよく感じるのは、どんなに条件を整えようが、選択肢を提供しようが、最終的に決断するのは本人でしかなく、新たな未来を想像して決断するにはこれまでの経験が物を言ってしまうこと。

実践経験が少なく、動いてない人ほど渋る渋る、あぁもう、めちゃくちゃ渋る! 表現が適切ではないかもしれないけど、「掃除のとき、どんなに磨いたところで、そもそもその雑巾が汚れまくっていれば、綺麗にはできない」。汚れちまった雑巾をどうするか。一度洗い直してみる、あるいは新品に替える、という選択は、経験知を得ることに似ている。

今いる環境の内だけなく、その外(未知の価値観・文化を感じざるえない人や事、場所)へ出かける経験をもっとカジュアルに、フッ軽で、できたらいいのにね。

年を増すほどに、変わらない人はまじで変わらねーなと思うし、”そっち”側で留まりつづけ「わたしなんて/ぼくなんて…」「社会がいけないんだ!」「〇〇の準備ができるまで待つ…」と言いつづけ思いつづけたところで、求めてるシチュエーションは運良くやってきてくれることは果たしてあるのだろうか。死ぬのが先じゃね? とわりと真顔で想像しちゃう。

1.「予防線を張る人は、ただの横着な人」
2.三十路を過ぎてからガールズバーで人見知りを克服
3.「(あえての)選択」が「(ニューノーマルな)行動」を誘う
4.「興味もないし嫌い」なのにプロ野球観戦に行った"腐り芸人"
5.「経験」からおニューな自分を「想像」していく

むかし書いたことを未だにおなじ温度感で思いつづけている自分にハッとしつつ、ああやっぱり芸人(の生き様)が好きなんだなぁと再確認したわけですよ。M-1、もう明後日じゃないすか。たのしみだ。

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