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ぱっと見、どんな人間か。

「自分のことは自分が一番わかってる」vs「自分のことほど自分じゃわからない」

10~20代を通じて「わかる」だと思い込んでいたものが「わからない」と感じるようになっていった。目から鱗体験。おそらく自分という人間がわからぬまま死していくんじゃないだろうか。

あくまで主観は主観であり、自分の中にある「我思う」は軸として生きてくうえで大事ではあるんだけれども、(他人からの)客観としての自分もいったん受け入れた上で立ち振る舞いを考えてみるのも悪くはない。

どこぞのお笑い養成所では、授業で生徒が一人ひとり前に出て、見た目や雰囲気から「どんなふうに見えるか」、キャラをそれ以外の生徒が指摘するという内容があるらしい。どんなに自分がやりたいネタがあっても、そのキャラでは「言葉や行動と合ってない」という問題に陥ることは多いようで、この擦り合わせのために客観的な自分をまず知るという。「爆弾つくってそう」「陽キャなようで実はめちゃくちゃ根暗」「身体弱そう」「正義感強そう」など、そういった目線を受け入れたあとに、どう芸人として磨いていくのかを学んでいくんだとか。

そう、自分のことは意外とわかっているようでわからないことが多く、主観と客観が噛み合いながら活動できる人なんて一握りなんだろう。自分に嘘をつきながらも客観にすり寄せながらピエロになって苦しくなるのもなんか違うし、主観ばかりで我が強くてずっと同じことをループしてるだけの大人もなんかダサい。

だからこそ、自分の「あたりまえ」とか「普通」とか思ってることをまわりに確認してもらう作業だったり、シンプルに人の話を「聴く」という姿勢が必要になってくる。聴かない人は、ずっとわからないし変わらない。

自分の「こう見せたい」というプライド(固執)から離れてみて、「こう見られてる、なら(こうしよう)…!」というやわらかな思考のほうが運と縁を引き寄せるんだろうなあ。

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