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自分を規定して「やらない人」は、この先もずっと「やらない人」。

「わたし/ぼく、〇〇なんですよね」

 20〜30代と話をしてると、こういう発言をよく耳にする。◯◯には人のタイプを表す「人見知り」や「根暗」、「優柔不断(フッ軽じゃない)」などの言葉が入る。みなさんも、そういうやり取りに巻き込まれたことはあるんじゃないだろうか。

 たとえば、これがアメトークの「人見知り芸人」のように、「いやあね、ぼく人見知りなんですけどね!」と自虐したり、誰かにいじられたりするようなネタとして昇華されてるのであれば、正直すげぇなと思う。

 そうではなく、その人が何かを「やらない」理由、あるいは「自己防衛」としてのネガティブな言葉であったとき、「めんどくぇせな」と心の中で舌打ちをしてしまう。

「甘え」と「変わらない」のスパイラル

 一言でいえば、言い訳がましく聴こえるのだ。何かの行動を選ぶときに、「自分はこういう人間だから」と"自分で規定した自分(像)"に甘えて、やらない理由をつくってるだけじゃないか、と。

 逆にいえば、「そういうの自分には無理かも」と決めこんで、できそうなことも選択せず、行動してなかったことが、自分が思う自分から抜け出せない結果に繋がってるだけじゃないのか、と。

 つまり、「〇〇だから」と動こうとしないかぎりは、ずっと同じ負のスパイラルにいることになる。

「予防線を張る人は、ただの横着な人」

 ここでオアシズ・光浦靖子さんの言葉から引用させてもらう。

光浦:最近よろしくないのは、ニセ人見知りが多すぎる。私も人見知りの代表みたいな感じだったけど、本当の人見知りは自分からそんなことは言えないってことがだんだんわかってきました。逆に自分から「人見知りです」って予防線を張る人は、ただの横着な人。そう言っておけば大丈夫、みたいな。

 これは「人見知り」について指摘なんだけど、どんな〇〇のタイプにも置き換えられそうで、かなり共感させてもらった言葉である。人見知りを盾にしてる人は、自分で自分に蓋をする(レッテルを貼り付ける)ことで、楽な方へ逃げているように見える。

 正直、人の性質だからすぐに変えられるものじゃないし、もしかしたら変わらないのかもしれない。ただ変わらないのは”性質”であって、心持ち一つで"選択"や"行動"は変えることでできる。

三十路を過ぎてからガールズバーで人見知りを克服

 さっき触れた「人見知り芸人」のなかには、オードリー・若林正恭さんがいる。彼はその著『社会人大学人見知学部 卒業見込み』『ナナメの夕暮れ』 や、ラジオで「人見知りは克服できる」と話す。彼の場合、「ガールズバーに通って」という特殊な方法ではあるが、自分の性質と向き合ってきた。

MCの仕事を頂いていたんです。そしたら、マジで人見知りで、懐に入れないという自分に気づいていて。ゲストの方をもうちょっと掘ったらおもしろいのに、僕の人見知りのせいで、番組がもうひと盛り上がりできるチャンスを逃しちゃっていたので、初めてまずいと思って。

 ただこれも、おそらく、根っこの性質が変わったわけではない。「MCが人見知りだと困るだろ!」などの発言をしており、それは確かにそうで(笑)、仕事を円滑にすすめるための”処世術として”のコミュニケーションを身につけた(人と話す慣れを得た)だけのこと。

 当然ながら、「人見知りなんです」→「だから、どうした!」というような世知辛い状況はいくらでもあるわけで、じゃあいかに”リハビリ”をして克服するか、という視点が大事になってくる。

「(あえての)選択」が「(ニューノーマルな)行動」を誘う

 私事でおそれおおいが、ボク自身も人と会うのが基本おっくうで、コロナ以前からすでに自主的ステイホームを繰り返すほどに「人見知り」で「根暗」だとは思っている。

 その自覚すらも「あんたは、勉強だけできてもしょうがないんだから、とにかく人付き合いをどうにかしなさい」と18歳の上京前の春に母親に言われてやっとできたほど。母親にそう言われたことがムカついたから、「なら克服してやろうじゃねえか!」と、学生時のアルバイトはあえて苦手な「接客系」を選ぶようにしていた。

 するとどうか。確かにえらく時間はかかったが、「こういうときは、こういうふうに相手に伝えたり、耳を傾ければいいんだな」と処世術が身に付いてくる。むしろ、苦手意識があっただけで、「じつは接客がわりと向いてるんじゃないか。楽しいぞ」とすら思うようになった。

 今では、初見の人に「人見知り」だとか「根暗」だとかはあまり思われないほどにまではなっているはずだ。とはいえ、根っこの性質は変わらないまま。

 克服してやろうという”選択”が処世術を身に付けさせ、そのおかげで”以後の行動”パターンが如実に変わってきた。ああ、人って変われるもだなぁと実感できた。

「興味もないし嫌い」なのにプロ野球観戦に行った"腐り芸人"

 ハライチ・岩井勇気さんの著『僕の人生には事件が起きない』を読み終わったあとに、芥川賞作家・羽田圭介さんの本の解説動画を見つけた(ちなみに、最近漫画『少年アシベ』を読み直していて、羽田さんが登場人物のスガオくんにしか見えなくなってきている.....笑)

 羽田さん曰く、岩井さんは「何か物事に対して『感じる』だけで終わらず、『仮定』を持ち、『行動』してみて、その結果からまた考える」人だと分析している。

 たとえば、その著では「スポーツ観戦に興味ないし、野球は嫌い」と思ってはいたものの、プロ野球観戦に誘われ、行ってみたら案外楽しく「(熱量を押し付けてくる)野球好きのイメージは変えられないが、野球観戦にはまた行きそうだな」と感想を記していた。

 ここには「興味もなけれ嫌い」という観戦に行かない理由があったにもかかわらず、わざわざ行くことを選び、その結果、スポーツ観戦についての考えを改めた彼の基本姿勢を見てとれる。「自分はこう思うんだけど」をいったん手放して、行動してみてから考え(直し)てみるか、というとても柔軟な姿勢(人間性)が。

  岩井さんは、実際のところ、『ゴットタン』のようなテレビ番組でフィーチャーされがちな偏見が強く"腐ってる"人だとは到底思えない(本人も「腐ってるわけでない」と言っているし)。

「経験」からおニューな自分を「想像」していく

「わたし/ぼく、〇〇なんですよね」 

 最初のこの話に戻そう。各芸人さんの話からも、自分の考えをいったん手放して行動してみることで、新たな自分に出会えることは、なんとなくわかってもらえたんじゃないだろうか。

 いろいろやってみて、「やっぱり〇〇だった!」と思ってもいいわけだし、それは行動が伴ってるから、その言葉に説得力もある。それに、どんな性質であろうと、(反復と鍛錬で)処世術を見つければ、ある程度のことはどうにでもなる。

「経験したことがなければ、想像できない」

 そんな言葉あるように、たくさんの経験を積む中で、具体的に想像できるものが増えていく。それによって、自分という人間もどんどん浮き彫りになってくる。ぶっちゃけ、これは死ぬまでずっとじゃないかなぁ。

 だからこそ、若くて経験も少なく想像力も貧困なくせに、自分で自分を規定して、選択できる可能性を狭めるのはもったいないと思う。

 こんなことを偉そうに書いてるボクだって自分がこれから何ができるどんな人間だかよくわかっていない。だから、選択に迷うこともまだ多い。でもまあ迷ったときほど、”思い込みかもしれない”自分の考えを手放すようにし、わからないから面白がることを心がけている(し、このnoteは自分が今後ヒヨったときに読み返すものとしたい)。

 それに、自分が描いた自分では役不足で「できることに限界が見えてきて」ワクワクしないし、正直なところ、そういう自分にすでに「飽きちゃって」もいる。自分が描けなかった自分に出会いたい。そんな願望がふつふつと沸き起こっている。

 とりあえず今思ってるのは、今まで手を出してこなかったデザインや動画編集をアドビで学ぼうってのと、絵心なく一度諦めてたけどやっぱり4コマ漫画描けるようになりてぇなってのとで、それぞれちょっとずつ練習をし始めた。もしかしたら、大学も入り直すかもなぁ。

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