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どの感情(あるいは無意識的行為)に社会性を持たせるか

「好きなことで、生きていく」の読解については、ぼくもわりと眉唾ものでその文言とその周りにぶらさがる人たちを観察している。

人は楽なほうに楽なほうにと流れていく生き物だけど(意思なくそっちに流されてきた20~30代がそろそろ痛い目に遭う頃だろうし、そういった積み重ねが日本の先々の危うさにつながってる気もしてるけど)、そう容易くものごとは展開するわけもなく、一瞬うまくいったとしても、人生はうまいカラクリでできてて、どこかで天秤のようにバランスをとるようにできているはずなのだ。落ちるところでストンと落ちる。SNSとかウェブを絡めてたらほんとすぐに。「好きなことで~」は、瞬間最大風速力をつくりやすいかもしれないけど、その後どうなるんよ?とアフターセルフフォローはまあまあしんどいものがある。

そう考えたときに、「なんかやっちゃうこと」に強みがあるんじゃないかと思う。「なんかやっちゃうこと」ってのは、おそらく本人が「好き」と自覚してないことが多い。大事なことは、水面下の氷山、つまり無意識にある。なんとなく「好き(かもしれない)」ことを人気YouTuberのようにやろうとしても、すぐにメッキが剥がれ、持続力がなく、消滅しがちだ。没頭というのは、没頭してる最中には本人はなかなか意識できるものでなく、過ぎ去ったあとに「没頭してた」とはたと気づく。

「自分がどうしてもやってしまうことに社会性を持たせる」

そんな言葉をラジオパーソナリティの伊集院光さんが「あちこちオードリー」で言っていたような気がする。他の番組でも似たようなことを話していた。そう、まさに「なんかやっちゃうこと」と「社会」との接続できる感覚なのか発想(着眼点)なのかを持った人が、窮屈なところから抜け出し、自身の居場所をつくっていく

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そういえば、7月から弊社TENGで、はじめてのアシスタントが入ったのだった。

高校生のときに某プロジェクトでゆるく関わってた子がいつの間にか大学生になり、「バイトを探してるんです」という流れから話が決まった。企画・デザイン・執筆、どの方向を磨いていくかはこれからだけど、どれか特化して軸足をつくってもらえれば、ぼくがプレーヤーから離れられ、マネジメントなどに集中できるから、会社としてやれることはだいぶ広がる。

勤務のたびに共有スプレッドシートにふり返りを書いてもらってるのだけど、そこにコメントを付けるのも意外とたのしく、あらためて交換日記みたいな静的な(テキストの)やりとりが好きだということを再認識した。あ、あのですね、この「好き」はきっと本物の「好き」で、「なんかやっちゃうこと」で大学生くらいから続いてきたものの延長線上にあることっぽいです。

(「兎に書く」より一部修正して転載)


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