教える、教えない
教えるということ。育っていく上で欠かせないものだ。勉強やマナー、色々な技術、集団でのルール。教えてもらうだけでなく、こちらが教える側にもなる。人間関係を築いていくものでもあると思う。
社会人になってから気づいたことがある。教える人と教えない人。相手によって教えなかったりする人がいる。
職場で新人の教育係になった時、教えない人は簡単な説明はするが、詳しくは教えない。教えている人が分からなくて困っていても、声をかけなければ話を聞かない。教える人は、自分の知っていることを全て差し出すかのように、惜しみなく教える。何か困っていないか、自分から寄っていく。相手によって変える人は、ひととおり教えるが、内容を選ぶ。これは、この人には教えよう。この人には、あえて言わないと考えている。
子供の習い事で、ある団体に入っていた時のこと。最初にひととおり説明があったものの、母親たちの間での文書にないルールは教えてもらわないままだった。基本的に試合の時はずっとその場にいないといけないとか、用事で親がいられない日は報告がいるとか、ずっと一緒に過ごしていないと分からないようなルールがあり、その決まりを知らずに破っていると陰口をたたかれ、グループから外される空気になる。誰がリーダーというのはないのだけれど、この人たちには嫌な顔をされないような気配りがいる。後から入ったら、辛抱強く付き合っていかないといけない。子供同士は仲良くなっても親の間に何かがあると、どうも気持ちが落ち着かなくなる。
「教える」というのは、その人を認めるかどうかの基準なのかもしれない。自分と一緒にいてもいい。だから教える。困らないようにする。
しっかり教えてもらったという感覚がない人は、誰かを教える状況になったとき、不安だ。教えるのは、自分にも更なる知識や自信が必要になる。できる限り教えたくない。関わりたくない。そうすると、中途半端になる。教えられる方も、何度も聞くと嫌そうな態度をとられたりして、他の人に聞いたり、自分で判断してやり始める。信頼関係がうすく、すぐ切れそうな細い糸のようになる。
わたしは、何か聞かれたとき、できる限り知っていることを答えるようにしている。人との関わりが得意でない分、そのやりとりがキッカケで新たな何かを発見できるかもしれない。この先も、ずっとそうしたい。
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