【うつ闘病記】地宙人、家を買う - 01_仕事でお金をもらうこと
ボクは、東京都江戸川区に生まれた。父は普通のサラリーマン(ただし最高で一千万プレイヤー)。母は専業主婦。七歳年上の姉が一人いる。
公立共学の小中高校を中の上の成績で卒業後、千葉にある理科系の大学・大学院に入学、卒業した。専攻は理学部の生物学と化学である。
この大学は付属病院が有名で、医学部と看護科の大学と一般には思われている(大学名を知っている人は、だが)けれど、実は理学部もあって、割と優秀なのである(自分で言う)。
実のところは、主に国立や有名私立大学の滑り止めとして機能しているようで、ボクの同級生には、入学早々「こんなはずでは……」とひがんだ心情の者も多くいた。しかし、ボクは高校の推薦で入学していた(入試勉強で自身の無能ぶりを感じていたので受験は避けたかった)ので、ホクホク顔で入学したことが懐かしい。
ともあれ、理系の大学へ行ったからには研究者になるのだ、と息巻いていたのだが、いざ研究室に配属されて実験の段となると、自身のあまりの不器用ぶりに愕然とした。それだけではなかった。
「手がプルプル震えている……?!」
あまりのプルプル具合に実験どころではなく、病院で精密検査をうけたところ、具体的な原因はわからず、あくまでも体質なのだという。対処療法的に薬が処方され、少しは軽減したが、相変わらず実験は失敗続き。モラトリアム的に大学院まで行かせてもらったものの、研究者の夢はあえなく挫折することになった(地宙人は不気味が多いとの報告もあるらしい)。
さて、夢が無くなったぞというところで、就職活動である。就職先はどこでもよかった。とはいえ相手の会社たちは「大きな夢、見ませんか?」と煽ってくるので、そのモードに合わせ「私の夢は云々、御社で実現云々」と方々で能弁を垂れていたわけだが、本心は隠せないようで(特にボクは極度の人見知りあがり症で嘘も上手くつけない、性格も不器用なのだ)、なかなか内定はもらえなかった。数打ちゃ当たる戦法で、心に傷を負いつつも、なんとか二社の内定を獲得した(騙せるもんだ)。二社ともIT関係の会社であったが、社会的にも有名な「この~木何の木、気になる木~」関連のシステム子会社に入社することに決めた。
内定後に入社までの宿題として資格学習と開発言語習得が課せられたのだが、それがつまらないのなんの……。全く進まないのであった。この時点で「あぁ、人生、失敗したな……」と打ちひしがれたものだった。
このころから、就職活動で数多の企業からお祈りをくらい自尊心を失ったこと、社会にでることの恐怖、当時付き合っていた彼女にふられたことなどにより軽いうつ状態であったため、大学も休みがちとなっていたが、寛大な大学の先生のおかげでなんとか単位を大目にみてもらって卒業することができた。
二○一二年、春。そんな状態のままついに入社、社会人である。入社研修はがんばっているのに中の下の成績であったが、同期との交流もそこそこに(誰ともそこまで親しくなれなかった。こんなこと慣れっこだ)、なんとか研修期間の三ヶ月をこなして、配属されたのは特許庁の基幹システムの一部を扱う部署であった。特許庁のシステム全体はその前年に刷新プロジェクトに失敗しており、発注先を変えて、いざ仕切りなおし、というタイミングであった。
ボクのいた会社は、ITゼネコンの中間管理職的なポジションであり親会社とプログラマがいる下請け会社の間でモノゴトを調整する役割が主であった。当然ながらシステム開発の知識が必要なことから、最初は下請け会社のチームの一員として(とはいえ、部外者的な扱いであったのでなにかと辛かったが)、修行を積むことになった。
配属当時、担当システムは三ヵ年計画のプロジェクトが遂行中であり、多くのメンバーがいて活気があった(多いときで四十人はいた)。分からないだらけの毎日であったが、最初の数年はボクも頑張った。というのも、幼少期から父親から刷り込まれた「石の上にも三年」という言葉がある種の呪いのようにボクの思考を縛っていたからである。
紆余曲折、涙あり感動あり(?)三年間が過ぎ、プロジェクトを完遂したころ、ボクはこう考えるに至っていた。
『仕事でもらうお金は、つまるところ我慢料である』
入社してから三年間、たったの一度も仕事で心の底から笑ったことはなかった。
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