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「今の自分を辞めて、別人になりたい」という願望の普遍性

別人になってしまいたい…という願望は誰もが少なからず持っている。こんなことを思ったのは一冊の小説を読んだことがキッカケだ。

その本は、平野啓一郎さん著の『ある男』。衝撃的な小説だった。ストーリーは前々から聞いて気になっていたのだけど、読んでみて納得した。

ある女性の最愛の夫が事故で死んでしまった。死後の身辺整理をしているなかで、夫が名前も経歴も戸籍さえも全くの別人だったことが発覚する。では彼は何者だったのか…。主人公の城戸がその正体を追いかけるこで物語は展開していく。

信頼し合って一緒に生きてきたパートナーが、名前も経歴も違う別人だった、という事実はなかなかショッキングなものがある。

とはいえ、いまの自分をやめてまったくの別人になりたい…という願望には共感できるところもある。仕事、家庭、介護…人生における責任が増えれば増えるほど、そのしがらみから逃れることができなくなる。プツンっと何もかも捨てて、逃げ出してしまいたくなることもあるだろう。

「ある男」の正体を調査している主人公も同様だった。本文を引用したい。

何もかもを捨て去って、別人になる。──そうした想像には、なるほど、蠱惑的な興奮があった。必ずしも絶望の最中だけでなく、きっと、幸福の小休止のような倦怠によっても、そんな願望は弄ばれるのだ。

名前や経歴まで偽って別人に成り代わることを本当に実行する人はいない。けれども、それに近い経験を僕たちは日常でしているのかもしれない。

たとえば、◯◯デビューという言葉がある。高校デビュー、大学デビューとか。環境が変わったことにより、大きく変身した人のことを指す。変化できた人を揶揄するニュアンスがある気がして好きな言葉じゃないけど。

所属するコミュニティが変われば、それまでの自分と異なる顔を見せるようになることはよくある。ある意味、別人になっているとも言える。

僕の場合、20年以上の付き合いになる親友がいる。彼とは年に1回ほど飲みに行く。その場では、小学生のときとかの思い出話をしたり、かつての旧友達の近況の話をしたりする。あの時はアホだったなあ、みたいな話だ。そして、思い出話をしているときの僕が彼に見せている顔は、高校生の時ときのそれとまるで同じ顔なのである。喋り方すらもかつての自分に戻ることに驚く。

このように、普段会社で見せている顔と旧友に見せる顔は同じものではない。意識的に使いわけようとしている訳ではない。結果的にそうなっているのだ。

つまり、僕たちは相手との関係性の中で、さまざまな顔を自動的に使い分けていると言える。まったく新しい関係性が生まれれば、そこには当然、まったく新しい自分の顔がそこにある。

だから、今の自分を変えたいと思っている人は、所属するコミュニティを変えてしまうことが変化するためには最も手っ取り早いのかもしれない。


最近では、現実世界でコミュニティを変えなくても、SNSやゲームアバターなどで容易にもうひとりの自分を作り出すことができる。

Twitterには、大量の匿名アカウントが存在し、それらのアカウントの主達は、現実世界と違った人格を形成している。オフラインで自分に満足できなくても、SNSやゲームの世界では違う自分になれる。

いまよりテクノロジーが進化し、オンライン上でも現実世界と変わらないリアリティを再現することができるようになれば、多くの人が仮想現実の世界に住まう未来がくる可能性もある。

外見を自由に加工できるし、ゲーム上でポイントを稼いで達成感を味わうこともできる。その世界では、手軽に理想の自分になれる。そうなると、仮想現実の世界のほうが楽しい。こっちが本当の自分だ!と現実の世界を飲み込んでいくことが起こりうるのだ。

今でも半分そうなっている。オフラインで人と会話するよりも、SNS上の自分の方が好きで、そちらが本物の自分だと感じている人も多いのだから。


僕たちは、割とカジュアルに別人になることができる。そして、その手段はどんどん多様になっている。

こんなに物質的に恵まれた世の中になっても、苦悩している人がたくさんいる。現実の生きるということは、大変なのだ。いまの自分になかなか満足ができない。だからこそ、別人になりたいという願望が生まれる。もしかすると、これは人間が苦悩する限り、普遍的な願望なのかもしれない。

そして、テクノロジーが進化して解決できるか、はわからない。むしろ変身願望を増幅する結果になるかもしれない。


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