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最近の5冊:日本語の運用が気になっている

90年代後半、ニフティのホームページ用ドメインでテキスト主体のサイトを開設していた。そのときしばらく続けていたのが「最近の10冊」というコンテンツ。10冊読んだら感想を書く。10冊読まないと書けない。

コンパクトにポンポンと並べる構成。自分の履歴と「受け取ったもの」がすぐ分かるので便利だった。じゃあ、今度は5冊でやってみよう。

石牟礼道子『苦界浄土』(講談社文庫)

何について書かれているか知っているだけに、しばらく怖くて読めなかった。優れた記録ほど読むと没入しすぎてその場にいるような錯覚に陥り、体が不調をきたす。呼吸が浅くなって血の気が引いてしまう。『黒い雨』も同じ理屈で高校に入るまで読めなかった。

意を決して「読むか」と手に取ったのが去年。何とか読み終えた。呼吸は大丈夫だった。というより、むしろまだ美しかった頃の水俣湾の描写が心に残る本だった。

「第三章 ゆき女きき書」は、体の自由が利かなくなる苦しさや水俣病の怖さを身も心も抉るような生々しい方言の語りで伝える。悲惨さを描いている点で評価する人も多い。でも自分はこの章で語られる海の豊かさ、懐の深さ、色の艶やかさが好きだ。かえって汚れてしまった海の記述がもの悲しいのだけれど。

手に取って読むまで、著者の石牟礼さんがもともと水俣の近くに住む主婦であること、本人たちの言葉を採録したルポタージュではなく想像や創作を交えた作品であることを知らなかった。でも、水俣の言葉と社会が染み込んでいた人だから危機感を持ってこの大作を仕上げられたのだと思う。外からの目ではなく、内からの目で訴えかけた。

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山名文夫ほか『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(ダヴィッド社)

終戦間際の新聞広告から興味が広がって、その頃の広告業界を描いた馬場マコト『戦争と広告』(白水社)をまず読んだ。

昭和10年代はどんどん国家総動員体制が広がって、贅沢品も嗜好品も統制されて手に入らなくなる。当然それらを売るために作られていた広告は不要になり、広告制作者たちの行き場もなくなる。

そのとき降ってきたのが、戦争遂行のプロパガンダという宣伝広報業務だった。予算は国から出る。何より「広告を作りたい」というクリエイターたちの一番の受け皿になった。『戦争と広告』にはその経緯が詳しく書かれている。

ストーリーの主軸となった「報道技術研究会」の中心メンバーだったのが山名文夫氏。実は1978年刊の本で当時を振り返っていると知り、図書館にあるのを見つけて借りてきた。著者は山名文夫氏だけではなく、メンバーだった人たちが会で活動していた頃を振り返る回想録集だ。

第一印象は「当時を知る人の言葉は違うな」だった。太平洋戦争の頃を30代や40代の働き盛りで過ごした人たちが「あの日はこうでした」「こんなやり取りをしましたね」と日付や部屋の様子まで踏まえて記述している。

ただ、気になったのは「研究会」が戦争遂行のプロパガンダのために活動し、少なからぬ人々の心を動かした成果も確認しつつ、やっぱり「あの頃は大変でしたが良かったです」という話に終始していた点だった。仕方ないと言えばそうかもしれない。

この本が出て40年以上が経ち、終戦からは75年が経っている。「あの頃に何があったのか、どこで戻ることができたのか、反省しないといけない」という論調も何年も前から出ている。「そうだよな」と思い始めた今になって当時の人たちの「でもよくやった」という話が並んでいるのを見ると、正直違和感がある。いや、この昭和50年代に直せる軌道もあったんじゃないか。

同時に、同年代だった祖父の昔語りを思い出して、そんな人たちに「ここから間違ってたんじゃないですか」と突きつけるのも酷だと思ったりする。複雑なまま本を閉じた。

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木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』(ナナロク社)

読み終えてすぐ投稿したツイートがある。

もう本当にこの「あぁ」に尽きる。ちょっと煽り気味の入口に戸惑いつつ読み進めていくと、心当たりと納得だらけだった。短歌というものを難しく考え過ぎていたのかもしれない。読んで安心したのか、作詠は前より捗るようになった(出来はまた別の話)。

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ディーリア・オーエンズ/ 友廣純訳『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)

ミステリーだけれどAmazonの紹介文冒頭を引用するのは問題ないだろう。

ノースカロライナ州の湿地で男の死体が発見された。人々は「湿地の少女」に疑いの目を向ける。

著者のディーリア・オーエンズ氏は動物学者で小説は初めて書いたという。彼女が長年培った知識がミステリーのスリルの中にふんだんに織り込まれて、湿地の少女を取り巻く自然と社会がこれでもかというくらい細かく描写されている。

生き物たちの生態や外見、海や風の流れ、太陽や水、季節と人間の関係。自然を味わいながらその間で営まれている人間社会のミステリーを読んでいる感もある。

後半は登場している人間の行動の意味が明るみに出てくる。たぶん読者は著者の思い通りに右に振られたり左に振られたりする。テニスで言えば何往復もコートの端から端まで走らされるのだけれど、その振られ幅が潔いのでかえって心地よい。

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鬼海弘雄『誰をも少し好きになる日 眼めくり忘備録』(文藝春秋)

自分にとっては、早くも2021年のNo.1と言えるかもしれない。いろんなエッセイを読んだ中でこれほど「物事の解像度が高い文章」はないと思った。写真家である著者が何を見て、どこに注目して、どう捉えるのか。言語化されて、なおかつその文章が水の流れのように自然に読み手へ伝っていく。

逆に言うと、自分はそれまで「何も見ず、そこに注目せず、捉える前兆すらなかった」というのが判明してしまった。ただし凹むより先に「この解像度で世の中を見られる目が欲しい!」と思った。もう嫉妬や反発が無意味なくらい。あまりにも違い過ぎる。

主観が前面に出るエッセイではない。むしろ本当にレンズが景色を追うように客観の観察が続いている。並んでいる事実の行間に独自の空気やニュアンスが立ち上ってきて、文体やカラーを形作っている。客観の連続、でもファクト以外の情報が一緒に伝わる日本語。

一旦、ちゃんと書き写してみようと思う。

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日本語は自分にとって母語で、通じるのは当たり前、意味を絞ったり何かを指し示したりするときも結構自由に応用できるものだと思っていた。でもその範囲はまだまだ狭い。言葉はもっといろんな描き方ができるし、もう一度学び直してもいいと思える5冊だった。

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