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独善的世界認識のすヽめ

 正直、読まないで欲しい。このノートは、どれだけ人の世が絶望で溢れているかを書き連ねる掃き溜めにすぎない。なぜなら、人の世、つまり世界はそれくらい絶望的であるからだ。この記事は、世界そのものだ。この一説を知っているだろうか。

山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 (『草枕』夏目漱石)

 「夏目漱石なんて、堅苦しくて」なんて、人は純文学を敬遠するが、意外と悪くないものだな、と思う。純文学だけに没頭するということもなければ、特に詳しいわけでもない。「純文学最高だぜ?」みたいな奴はイキってるとしか思えない。もちろんイキるのは許す。誰しも何かしらイキってる。とにかく、草枕くらいは触れたことがある。その一説。

 取り上げた冒頭はあまりにも有名。確かに、この日本社会では、賢く動けば「卑怯だ」「ずるい」と貶され、感情に流されて都合主義で過ごせば騙され「自己責任だ」「お前が悪い」と罵られ、我を通そうものなら全エネルギーを持ってぶたれる。出る杭はなんちゃら。明治時代からさほど日本社会は変わっていないようだ。


 妬み嫉妬社会、とは良く言ったもので、人間は他者の変化を好ましく思わないらしい。そういう文章を数日前に書いた。

 さて、不歓迎であることの何が問題なんだろうか。上の記事では特に触れなかった。敢えて言語化するのであれば、「不歓迎は決して分かり合えない溝をつくってしまう」という事実である。歓迎的でない人は、変化はおろか、現状の存在/事実すら受け入れようとはしない。分かり合おうとも、分かち合おうともしない。適当な言い訳をつけて、自己の価値観を押し付けることに終始する。それも、無意識に。機械的に。嫌になるね。

 ぼくのような歓迎的な世界観を志向するタイプの人間にとっては(いや、狼的なたぬきだった)、現状かなり厳しい世界である。日本人の意識の奥底にびっちりこびり付いた油汚れがあるからだ。正解を志向し、対話に開かれておらず、一方的なコミュニケーションしか取れず、自分の本心および欲望に素直になれず、その鬱憤を八つ当たりすることしかできない典型的症状。自己を社会に投影して嘆く最悪のウイルスに犯された、醜い実存。生きる意味を自ら見出すフリをしつつも、油汚れみたいな規範から決して逃れられない社会的知性の浅さ。想像力の低さ。よく生きてるなぼく、偉いぞ。

 そうだ、こんな醜い文章を投稿しているぼくも含めて、この社会は病んでいるんだ。誰かがどうにかしなきゃいけない。表面的な旗揚げはダメだ。Twitterでたくさんリツイートされている内はダメだ。もっと、現在の社会に承認されない、悲しいほど支持者が少なく、それでいて熱狂的な信頼を抱かれるような哲学が、今この世界に必要なんだ。

 そもそも、世界とか社会という言葉がややこしい。世界も社会も、認識にすぎないのだ。意識高い系が揶揄する社会は、あくまで自己と周りに広がる認識可能な世界における問題点であって、ほとんどそれは自己の問題点と同様である。そこまで極端ではなくとも、極めて近似している。

 漱石だってそうだ。人の世は住みにくいなんて言って、漱石ほど内気な人間が認識していた世界なんてたかが知れている。ほとんど自分の頭と心の中で構築した世界認識に対する批判を、自己に対する批判を連ねているにすぎない。

 狼だぬきだってそうだ。実は気づいている。不歓迎社会だなんて言って、実は自分が一番誰かが変わることを恐れている。誰かが自分の周りから煙のように消えてしまう可能性を、見て見ぬフリをしている。自分の手の届かない世界まで飛躍しようとする人間を見ては、顔を思い切りしかめてしまう。何より、自分が変わることに対して歓迎をできていない。不歓迎社会が問題なのではない、不歓迎人間なのが問題なのだ。不歓迎自分。わかっている。そんなことは。畜生。

 独善的世界観をすヽめる、と掲題に書いた。事実、勧めさせてもらう。この世界は絶望だ。当分、日本に住む僕らが分かり合い、分かち合う日は来ないだろう。そういう日を夢見て頓挫していくことは、一番生きづらい。不幸とは、理想と現実のギャップであるという旨を、ヘーゲルだかフッサールだかが言っていた。歓迎社会への可能性は、今のぼくらを取り囲む世界の現状からすると、隔たりが大きすぎる。叶わないことを中途半端に祈るのはやめておけ。希死念慮だけが募る。しかも、死んでも世界は1ミリも動かない。なんの変哲もなく、地球は回る。感情がないかのように、機械的に、無機質に。人間はその程度にはちっぽけだ。

 だから、独善的世界観は一つの救済措置であり得る。どうせ世界は、力を持つ誰かの独善的世界観で成り立っているのだから、自らも認識している世界に対してエゴイスティックに信念を立てて、それに雑魚を洗脳するのがいい。楽だよ。自分の信念が正解になる、一つの国。途方も無いようで、案外楽だ。僕らは、独善的であることを通して自らを硬く鉄壁で守り、同時に独善を持って鋭い鉾で別の世界を殺すんだ。そうやって、生きながらえているんだ。おれも、お前も。正直終わってるけど、そういうシステムになっているんだ。笑っちゃうけど、酒飲んで痴話話して誰かを批判して排除して脳みそを麻痺させることでしか、独善的世界観を守って生きることはできない。最高だろ、独善的世界観。最低だろ、独善的世界観。

冒頭で、草枕の序文を記した。再掲すると

山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 

 だそうだ。概ね、このノートに吐き出した絶望は、やはり明治期から変わってない。日本社会に染み付いた、決して取れない悪臭。父親が30年以上煙草を吸い続けた実家のリビングのように、壁の内側、柱の中心にまで染み渡る絶望。


 と、このまま終わってもいい。事実、それくらいに世界は絶望的だ。少なくとも、ぼくが認識してしまっている世界は。しかし、冒頭に「このノートは世界そのものである」と書いた。もう少し、付き合ってほしい

草枕の冒頭は、序文から始まりこう続く。

住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。

人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三件両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりだ。

人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容て(くつろげて)、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。

ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。

「束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。」

「あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」

 芸術的な何かを持って、束の間の命を少しでも住みやすくするために、人の世を少しでものどかにし、人の心を豊かにするために、ぼくらは命を使うことができる。漱石は、世界に絶望していた。しかし、諦めはしていなかった。創造性を持ってすれば、そのような使命を全うすることができれば、人の世は住みやすくなり得る。分かり合い、分かち合う世界はあり得る。歓迎的で公平な世界はあり得る。少なくとも、そのような希望を抱き、立ち向かう意志は尊重され、人はそれこそを芸術的だと直感する。

 独善的世界認識は、やはり勧めたい。しかし、それとは別に、公平的世界認識はあり得る。もう一度いうが、このノートは世界そのものだ。絶望に溢れているが、希望も、あり得る。世界は認識にすぎないからだ。

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