シン・日曜美術館『深読み 夏目漱石の坊っちゃん』⑳「余談 風立ちぬ partⅢ」
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1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋 りうていの間
堀辰雄の小説『風立ちぬ』の序章「序曲」は、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの引用から始まる。
Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
PAUL VALÉRY
「序曲」は、その言葉の後にこう続く。
「私」が「お前」と呼ぶ人物の仕事は「絵描き」であり、「私」は日中の間ずっと「お前」が絵を描く姿を横の木陰で眺めていた…
序曲
それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色(あかねいろ)を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……
僕の気のせいだろうか…
さっき木又先生が歌った荒井由実の『ひこうき雲』の歌詞って…
なんだか『風立ちぬ』の序曲っぽい…
ハハハ。それは君の考え過ぎだろう。
いつもミス・キマタのことばかり考えているから、そんな風に思えてしまうんだよ。
まさにサザンの歌だな。
♬思い~過ごしも恋~♬
そ、そんなんじゃないってば…
桑田佳祐は言っているぞ。
男は「立て」と。そして「心に残る言葉を言え」と。
ん? なんだかこれも『風立ちぬ』の序曲っぽいな(笑)
もういい。わかった。
それなら顔に出すな、顔に。
君の弱点は、頭の中で考えてることが表に出てしまうところだ。
君の脳内の妄想が、こっちにまで伝わって来る(笑)
き、君だってそうだぞ。
いつも冷静なキャラを演じてるつもりだろうけど、動揺するとすぐに汗をかくからわかる。
ハハハ。負け惜しみを言うなよ。
さてと。冗談はこれくらいにして、堀辰雄が書いた「序曲」のカラクリの件だ。
『風立ちぬ』全体にも言えることだが、文章の構成や使われる単語の意味を注意深く考えれば、作者の意図が理解できる仕組みになっていた。
序曲
それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。
「序曲、それらの夏の日々、」だから、語り手の「私」は「それらの夏の日々」が「序曲」だと言っていることになる。
「序曲」とは「はじまりの曲」という意味…
つまり「創世記」のこと…
日本語では「創世記」と堅苦しく呼ばれるが、ヘブライ語では「בראשית(ベレシート)」、シンプルに「はじめに(IN THE BEGINNING)」と呼ばれる。
そしてこの「はじめに」のギリシャ語訳がΓένεσις(ゲネシス)」で、これが英語の「GENESIS(ジェネシス)」になった…
バンドの名前でも有名だな。
「序曲」が「それら夏の日々」であることには、大きな意味があった…
なぜなら「それら」は、「秋の前」でなければならないから…
語り手の「私」が言う「それら夏の日々」とは「神による創造の日々」を指す…
おそらく堀辰雄は、バチカンにあるシスティーナ礼拝堂の天井画を念頭において、この「序曲」を書いている…
巨匠ミケランジェロが描いた『創世記』の、『天地創造』から『アダムとイブの創造』までの部分を…
「お前が立ったまま熱心に絵を描いている」のは…
ミケランジェロも椅子に座ったりせず、立ったまま熱心に天井画を描いていたから…
そして「お前」が熱心に絵を描く姿を観察している「私」が「いつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていた」のは…
ミケランジェロの天井画にも、何かを創造している神の傍らに、白い柱に身を横たえている若い男が描かれているから…
『The Separation of Light from Darkness』
Michelangelo
そして私たちは「縁だけ茜色(あかねいろ)を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていた」と説明される…
「縁が茜色を帯びた、むくむくした入道雲」とは、天地創造の一枚目の絵のこと…
あれはどう見ても「縁が茜色を帯びた、むくむくした入道雲」のようにしか見えない…
私たちは「夕方の入道雲」を眺めながら「ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのよう」と感じた…
これはまさに神が「無限の闇から光を創造したこと」を言っている…
そして、この後に行(ぎょう)があく。
これは「これら夏の日々」が終わったこと、つまり「天地創造・アダムとイブの創造」が終わったことを意味する。
だから堀辰雄は「事件」が起きた日を「もう秋近い日だった」と説明した。
そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧(かじ)っていた。
木陰で「私達」が齧った「果実」とは、エデンの園で食べることを禁じられていた「知恵の実」…
ミケランジェロが天井画に描いた、有名なこの場面だ…
『禁断の果実とアダムとイヴの楽園の追放』
ミケランジェロ
アダムとイブの楽園の追放「失楽園」は、英語で「Expulsion from Paradise」とか「Paradise Lost」と呼ばれる…
だけど、もっとシンプルに、短い言い方もあった…
その通り。
まさに、この曲のようにな…
英語の「秋」である「fall」には「(物理的に)落ちる・(精神的に)堕ちる」つまり「堕落」という意味もある…
「The Fall」と大文字で書けば「楽園でアダムとイブが禁断の果実を食べたことにより人間が背負うことになった原罪」のことを指す…
そして、この原罪「The Fall」を自らの命と引き換えに文字通り相殺させたのが、神の子イエス・キリスト…
だから『You've Got a Friend』のCメロでは、こう歌われる。
人々はあなたを裏切り、ひどく傷つけ、見捨てるでしょう
あなたが抵抗しないなら、彼らはあなたの魂まで奪おうとするかもしれない
だけど彼らにそうさせておけばいい
(あなたの魂を奪うことなど誰にも出来ないから)
つまり「You just call out my name(私の名を呼んで)」というのは「キングと呼んで」という意味…
イエスの十字架には「INRI」つまり「ナザレのイエス、ユダヤ人のキング」と書いてあった。
キャロル・キング自身もユダヤ人の家庭に生まれている…
自らの出自も織り込み、「春夏秋冬」を「冬春夏秋」とし、最後の秋を「autumn」ではなく「fall」にして「原罪」を重ねたキャロル・キングは天才だな。
「旧約での失楽、新約での復楽」は、キリスト教における根幹思想で、『風立ちぬ』に隠されたテーマでもあった…
ちなみに、聖母マリアの「受胎告知」を描いた絵の中に、アダムとイブの「失楽」が組み込まれるのは、それを端的に表している…
おいおい、このネタはまだ早いぞ。
フラ・アンジェリコの『受胎告知』は『風立ちぬ』第二章『春』のトリックだろう?
あっ、そうだった。ごめん。
それでは「秋近い日の事件」の続きを見ていこう。
秋近い日、つまり原罪を背負うことになる日、私達が果実を齧った後は、こんなふうに描写される…
そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色(あいいろ)が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。
小説『風立ちぬ』の中の「2つの重要アイテム」の1つ「ヒロイン節子の絵」の登場だ。
ここでのポイントは、絵の「内容」が伏せられること、そして「画架」だったな。
「画架」に掛けられていた絵の「内容」が伏せられるのは当然のこと…
なぜなら「お前」が描いていた「絵」とは、原罪を償う「十字架での死」を描いたものだったから…
それはまだ「失楽園」の時点では伏せられていた未来…
すべてを計画した神だけが知っている結末…
ヒロイン節子のモデルは、堀辰雄と婚約した後に亡くなってしまった、画家の矢野綾子…
『風立ちぬ』の序曲で「果実を齧った後に風で倒された絵」とは…
矢野綾子のこの絵のこと…
三つ並んだ木…
その背後に見える三角屋根の家…
石の祠のそばで、それらを見上げるひとりの人物…
この絵の構図は、アンドレア・マンテーニャの『磔刑図』を下敷きにしたものに他ならない…
そして「私」の口から無意識のうちに不思議な言葉が湧いて出て来る…
「私」はそれが、どこから来た言葉なのかわからないまま、ブツブツと繰り返す…
風立ちぬ、いざ生きめやも。
ふと口を衝(つ)いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠(もた)れているお前の肩に手をかけながら、口の裡(うち)で繰り返していた。
これは「アダムの創造」と「アダムの想像」の駄洒落…
ミケランジェロは神を人間の脳の中に描き、神が「人間の妄想」とも取れるようにした…
『アダムの創造』ミケランジェロ
このトリックに気付けば、堀辰雄がポール・ヴァレリーの「il faut tenter de vivre」を「生きようとしなければならない」ではなく「いざ生きめやも」と「誤訳」したことも自ずと理解できる…
「生きめやも」とは「生きるだろうか、いや、生きない」という意味で、つまりは「死ぬ」ということ…
禁断の果実を食べてしまったアダムとイブには、その罰として「死の定め」が科せられた…
そして、この人類の原罪を取り除くには「死と再生」というデモンストレーションが必要だった…
しばらくして「お前」は「私」のそばを離れ、倒れた絵と画架を元通りにし、まだ乾いていなかった油絵具に付いてしまった草をパレットナイフでこすり落としながら、こんなことを言う…
「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……」
お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧な微笑をした。
「曖昧な微笑」というのが上手い。
「こんなところをお父様に見つかったら」発言はネタバレ寸前のジョークだからな。
まだ「物語」が始まったばかりだというのに「十字架での死」というオチを出してしまったら「お父様」に怒られるのも当然…
例え、読み手が神の子の物語の顛末を知っているとしても、それを初っ端で堂々と言ってしまってはシラケてしまう…
最後にどうなるか皆がわかっていても、淡々と物語を進めねばならない…
そして、それこそが『風立ちぬ』の、もうひとつの重要アイテム…
主人公の「私」が書くことになる手記…
つまり、この「小説」だ…
ヒロイン節子の「絵」は、アンドレア・マンテーニャの『磔刑図』…
そして、その節子をそばで見守り続けた「私」が書いた「手記」とは…
「福音記者ヨハネ」が書いた『ヨハネによる福音書』…
『福音記者ヨハネ』
ピーテル・パウル・ルーベンス
だから最初にポール・ヴァレリーの「言葉」で始まり…
「序曲」として天地創造から原罪までが早足で再現された…
なぜなら、『ヨハネによる福音書』の冒頭が、そうなっているから…
1元始(はじめ)に御言(みことば)あり、御言 神の御許(おんもと)に在り、御言は神にてありたり。 2是(これ)元始に神の御許に在りたるものにして、 3萬物(ばんぶつ)之(これ)に由りて成れり、成りしものの一(ひとつ)も、之に由らずして成りたるはあらず。 4之がうちに生命ありて、生命 又人間の光たりしが、 5光 闇に照ると雖(いへ)ども、闇 之を曉(さとら)ざりき。 6神より遣(つか)はされて、名をヨハネと云へる人ありしが、 7其(その)來(きた)りしは證明(しようめい)の爲にして、光を證明し、凡(すべ)ての人をして己に籍(よ)りて信ぜしめん爲なりき。 8彼は光に非ずして、光を證明すべき者たりしなり。 (中略) 14斯(かく)て御言は肉と成りて、我等の中(うち)に宿り給へり、我等は其光榮(くわうえい)を見奉(たてまつ)りしが、其は父より來れる獨子(ひとりご)の如き光榮なりき、卽(すなは)ち恩寵(おんちよう)と眞理(しんり)とに滿ち給ひしなり。
『公敎宣敎師ラゲ譯 我主イエズスキリストの新約聖書 ヨハネ聖福音書』
実に見事、鮮やか過ぎる…
『風立ちぬ』が名作と言われる所以だ…
堀辰雄に感心している場合じゃないぞ。
僕らは『風立ちぬ』から『坊っちゃん』を読み解くヒントを見つけねばならない。
そのためにミス・キマタの「深読みアート論 風立ちぬ」を思い出しているんだからな…
そうだった…
それじゃあ次に「序曲」の後半部分を見ていこう…
つづく
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