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シン・日曜美術館『夏目漱石の坊っちゃん』⑨


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1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋


おかえもん 17歳 浴衣

次に語られるのは、清(キヨ)さんの度を過ぎた「坊っちゃんへの妄信的な愛」についてだな。

クリス君 ノーラン 浴衣

まずは、清が坊っちゃんだけに色々と物を買ってくれる件。

散々非人道的な行為を繰り返しているくせに自分を正義感の強い人間だと思い込んでいる坊っちゃんは、清が兄には何も買ってあげていないことを指摘し、自分だけが得をするのは公平ではないと清に訴える。

すると清は、坊っちゃんの父親が兄だけに物を買ってあげているからだと主張する。

坊っちゃんは父親のことが嫌いだけど、そういう依怙贔屓をする父親ではないことを知っていた。

だから坊っちゃんは、こう結論づける。

自分のことを我が子のように溺愛している清だから、そういうふうに「ありもしないこと」を考えてしまうのだろう、と…

おかえもん 17歳 浴衣

つまり坊っちゃんは、清さんの強すぎる愛から来る「妄想」だと考えた。

クリス君 ノーラン 浴衣

しかしここには重要なことが隠されている。

物語のカギになる重要なポイントが。

おかえもん 17歳 浴衣

何だいそれは?

クリス君 ノーラン 浴衣

坊っちゃんは清の口から「父親が陰に隠れて兄に物を与えている」という情報を聞いた。

坊っちゃんは「そんなはずはない」と感じるが、深く考えることなく清の主張を受け入れ、その後も物を受け取り続ける。

つまり坊っちゃんは、この件について当事者である父親にも兄にも確かめることをしなかったんだ。

坊っちゃんは、第三者である清の情報を、そのまま鵜呑みにしてしまったんだよ。

おかえもん 17歳 浴衣

あっ…

これは松山での坊っちゃんの行動すべてに当てはまることだ…

第三者から噂話を聞き、それを当事者に確認することをせず、思い込みのまま次の行動に出る…

クリス君 ノーラン 浴衣

その通り。「妄信」していたのは清だけではなく、坊っちゃんもだ。

だから次の「未来の話」でも、坊っちゃんは清の語る「未来」を「そんなはずはない」と思いながらも、結局そのまま受け入れてしまう。

その時の坊っちゃんからしたら、何の根拠も実現性も無いはずの「未来」を。

まずは、未来において坊っちゃんが「出世する」という預言。

清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。(中略)おれはその時から別段何になると云う了見もなかった。しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。

おかえもん 17歳 浴衣

なぜ清さんは坊っちゃんの出世に、あそこまでこだわったんだろう?

クリス君 ノーラン 浴衣

名前が「清」だから「出世」にこだわるのは当然だよ。

おかえもん 17歳 浴衣

は? どうして?

クリス君 ノーラン 浴衣

「出世 清」と言うだろう?

奇面組 出瀬潔 しゅっせきよし

おかえもん 17歳 浴衣

それを言うなら「出瀬 潔(しゅっせ・きよし)」だ!

『3年奇面組』の!

クリス君 ノーラン 浴衣

ははは。冗談だよ冗談。

清が坊っちゃんの出世にこだわった理由は知らん。

だが、我が子のように可愛いがってきた坊っちゃんの出世を願うのは、乳母として当然のことだろう。

おかえもん 17歳 浴衣

普通は「出世」じゃなくて「健康」を願うんじゃないのか?

「健康であってくれさえすれば、それでいい」って。

クリス君 ノーラン 浴衣

女は口ではそう言うが、本心は違う。

君は女性心理というものがわかっちゃいないな(笑)

おかえもん 17歳 浴衣

知ったような口をたたくなよ。君だって大して変わらないだろ。

クリス君 ノーラン 浴衣

それから清は、坊っちゃんが「いい暮らしをする」という預言もする。

ただ手車(てぐるま)へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。

おかえもん 17歳 浴衣

だけど清さんの預言は、どちらも成就しなかったよね?

坊っちゃんは、人を導く立派な仕事である教師をやめ、給料が半分くらいの地味な肉体労働の仕事に就く。

もちろん人力車を雇えるような経済力はなく、家も「玄関付き」ではなかった。

クリス君 ノーラン 浴衣

そうだな。坊っちゃんが清から聞いた未来とは、少し違う。

正直「これじゃない感」があった。

おかえもん 17歳 浴衣

それにしても「玄関が付いていない家」って、どういうことなんだ?

いったい中にどうやって入るんだろう?

クリス君 ノーラン 浴衣

ははは。「玄関付き」とは、そういう意味ではない。

君が今イメージしているであろう「玄関」、つまり世間一般の家にある「玄関」は、厳密には「玄関」とは呼ばんのだよ。

おかえもん 17歳 浴衣

ええっ?そうなの?

クリス君 ノーラン 浴衣

明治時代における「玄関」とは、ここの蕎麦屋のような、武家屋敷風の「玄関」のことを指す。

入ると「式台」と呼ばれる木の台があり、その向こうに待合室みたいな部屋があるのが、正式な「玄関」だ。

玄関 武家屋敷

おかえもん 17歳 浴衣

そうなの? これじゃあ庶民には「玄関付きの家」を持つことは難しいなあ…

相当出世しないと住めないよ。

クリス君 ノーラン 浴衣

ちなみに君は、そもそも「玄関」という言葉がどういう意味で、どこから来たのか知ってるか?

おかえもん 17歳 浴衣

「玄関」の意味や由来?

「玄」は玄人の玄で、「関」は関所の関だよね…

つまり玄人だけが通ることを許された場所であり、素人が気安く立ち入るような場所ではない、ということかな…

クリス君 ノーラン 浴衣

うーむ。ニュアンスは近い。

「玄」とは幽玄の玄であり、人知を超えた奥深さ、計り知れないことを指す。

いわゆる神や仏しか理解し得ぬ「宇宙の法・悟り」のことだ。

おかえもん 17歳 浴衣

つまり「玄関」とは「この世」と「あの世」の境目ってこと?

クリス君 ノーラン 浴衣

その通り。

元々「玄関」とは仏教用語で、かの達磨(ダルマ)がサンスクリット語の「ディヤーナ」を漢訳したのが「玄」だ。

のちに「玄」という訳は「禅」に置き換えられ、それが日本に伝わった。

おかえもん 17歳 浴衣

ええっ?「玄関」の「玄」は「禅」のことでもあるの?

クリス君 ノーラン 浴衣

そうだ。「達磨禅師」は元々「達磨玄師」だった。

月岡芳年 『月百姿』の内、達磨を描いた「破窓月」

『達磨像(月百姿、破窓月)』
月岡芳年

おかえもん 17歳 浴衣

「禅師」と「玄師」じゃ、なんかイメージ違うな…

だけどなぜ最初に「玄」と訳したんだろう?

クリス君 ノーラン 浴衣

おそらく老子の影響だろう。

幽玄の教えである道教には「玄の又玄なる衆の妙なる門」という言葉がある。

宋 晁補之 「老子騎牛図」 文人画 1

『老子騎牛図』晁補之

おかえもん 17歳 浴衣

つまり、寺の門をくぐって世俗から離れ、幽玄なる「宇宙の法・悟り」を探究する…

それが「玄関」か…

クリス君 ノーラン 浴衣

自分の半生を回想している語り手「坊っちゃん」は、まだ「玄関付きの家」には住めていない。

つまり「まだ世の中の法を知らない」とか「悟りの境地に達していない」ということなのかもしれないな。

おかえもん 17歳 浴衣

漱石、深いね…

クリス君 ノーラン 浴衣

ああ。やはりこれは一筋縄ではいかぬぞ…


「谷神不死 是謂玄牝…」


おかえもん 17歳 浴衣

え?


「玄牝之門 是謂天地根
  緜緜若存 用之不勤…」


クリス君 ノーラン 浴衣

その声は、ミス・キマタ!


きまた 木俣先生 浴衣

どう? 深読みの方は捗っていますか?

クリス君 ノーラン 浴衣

いえ、まだ第一章の途中で…

ところで今のは?

きまた 木俣先生 浴衣

谷神(こくしん)は死せず、
是を玄牝(げんぴん)と謂(い)う…

玄牝の門、是を天地の根(こん)と謂う…

緜緜(めんめん)として存するごとく、
これを用いて勤(つ)きず…

『老子道徳経』の一節ですよ。

あなたたちは「玄」のことを話していたでしょう?

おかえもん 17歳 浴衣

その漢詩は、どういう意味なのですか?

きまた 木俣先生 浴衣

そんなこと、私の口からは言えません。

おかえもん 17歳 浴衣

は? どうして?

きまた 木俣先生 浴衣

聖母(マドンナ)たちのララバイ、とでも言っておきましょうか…

クリス君 ノーラン 浴衣

『聖母(マドンナ)たちのララバイ』って…

おせいさんだけでなく、ミス・キマタまで、そんなことを…

きまた 木俣先生 浴衣

男たちは皆「マドンナ」から生まれ、いつか「マドンナ」へ帰るのです…

生まれ故郷である「マドンナ」へ…

クリス君 ノーラン 浴衣

確かにそうですが…

ミス・キマタのいう「マドンナ」には、何か他の意味が含まれてるような気がする…

きまた 木俣先生 浴衣

まぁ、どんな?

なんちゃって。

おかえもん 17歳 浴衣

ところで木又先生、どうしてここへ?

もう送別会は終わったのですか?

きまた 木俣先生 浴衣

いいえ。送別会は宴もたけなわ。まだまだ終わる気配はありません。

仲居さんを呼びに行くついでに、ちょっとあなたたちの様子を覗いてみただけです。

おかえもん 17歳 浴衣

おせいさんは、呼んでもないのに現れたり、肝心な時には居なくなったりするからなあ。


「おーい、きまたせんせー!
酒はまだかー!?」


きまた 木俣先生 浴衣

あら、教頭が怒り心頭だわ。

こんなところで油を売ってる場合じゃなかった。

急がなきゃ…

クリス君 ノーラン 浴衣

あっ、ミス・キマタ…

掛け軸のマドンナ像の「せいこ先生」とは、いったい…

おかえもん 17歳 浴衣

ああ、行ってしまった…

また聞きそびれたな…

クリス君 ノーラン 浴衣

おせいさんといいミス・キマタといい、大事なところで居なくなってしまう…

次こそ、現れた瞬間に聞かなくては…

おかえもん 17歳 浴衣

それにしても、木又先生は何のことを言ってたんだろう?

男たちは生まれ故郷の「マドンナ」のもとへ帰る、って?

クリス君 ノーラン 浴衣

もしかすると「ハレルヤ」のことかもしれん…

おかえもん 17歳 浴衣

ハルレヤ?

クリス君 ノーラン 浴衣

「ハルレヤ」は宮沢賢治だ。

僕の言ってるのは、レナード・コーエンの名曲『Hallelujah(ハレルヤ)』のこと。

聴いたことあるだろう?

おかえもん 17歳 浴衣

ああ。知ってる、この歌。

美女とお風呂が出て来たり、台所で諍いがあったり、理不尽な天の父が出て来たり、なんだか『坊っちゃん』みたいだよね。

でも、これのどこが「マドンナ」なんだ?

クリス君 ノーラン 浴衣

歌の中の「僕」は、愛する人に、こんなことを言う。

「僕はこの家を知っていた。旗がビラビラしている門をくぐり、通路の先にあるこの部屋を。昔、僕はここに1人で住んでいた。君を知るずっと前のこと…」

おかえもん 17歳 浴衣

昔「僕」が住んでいた家に、女の人が今住んでいるってこと? たまたま?

クリス君 ノーラン 浴衣

そうじゃない。ここで歌われているのは「女性の生殖器」だ。

おかえもん 17歳 浴衣

は?

クリス君 ノーラン 浴衣

昔「僕」が住んでいて、今「僕」が帰ってきた「部屋」とは、「子宮」のことなんだよ。

おかえもん 17歳 浴衣

ええっ!?そうなの!?

クリス君 ノーラン 浴衣

レナード・コーエンの名曲『ハレルヤ』は…

フラ・アンジェリコの名画『受胎告知』を下敷きにしているのだ…

天の父なる神と聖母マリアの子宮がつながって描かれる、この絵を…

Annunciation 受胎告知 フラ・アンジェリコ

『Annunciation』Fra Angelico

おかえもん 17歳 浴衣

あっ… 確かに「白い鳩」とか出て来た…

クリス君 ノーラン 浴衣

ミス・キマタの「マドンナ」の喩えは、これのことだったのかもしれない…

だから「私の口からは言えない」と…

おかえもん 17歳 浴衣

だけど、さすがにそれは君の考え過ぎだよ。

第一『坊っちゃん』と何の関係もないじゃないか。

坊っちゃんは女を知らない童貞だよ。

クリス君 ノーラン 浴衣

坊っちゃんは童貞?

おかえもん 17歳 浴衣

だって坊っちゃんは女性とお付き合いしたことないだろう?

松山では芸者遊びもしなかったし、東京に帰ってからは清さんと二人だけの世界に引き籠った。

停車場で「うらなり君」の婚約者「マドンナ」を見かけた時なんて、テンパりまくってフリーズしてたじゃないか。

どう考えても坊っちゃんには妙齢の女性に対する免疫がない。

クリス君 ノーラン 浴衣

なるほど。確かにそうだな。

坊っちゃんは清以外の女性と上手く付き合うことができない。

ある種の精神的な病、「清コンプレックス」だ。

おかえもん 17歳 浴衣

小っちゃな頃から清さんが洗脳していたからね。

自分と坊っちゃんが将来二人で住む家の場所や間取りについて細々と。

クリス君 ノーラン 浴衣

麹町にしますか、それとも麻布にしますか、と聞いていたな。

まるで「お風呂にしますか、それともお食事にしますか」みたいに。

さらには、庭にブランコを置いて、西洋間は1つだけで充分だとも。

おかえもん 17歳 浴衣

あの嬉々とした清さんの様子は、冷静に考えると、ちょっと怖いかも…

たとえ実の母だったとしても、あれはちょっとヤバい…

クリス君 ノーラン 浴衣

まるで結婚に憧れる乙女の夢物語のようだったな。

母のそれではない。

おかえもん 17歳 浴衣

漱石は、いったい何の意図があって、あんなふうに書いたんだろうね?

クリス君 ノーラン 浴衣

わからん…

しかしどこかにヒントがあるはずだ…

第一章の深読みを続けよう…



つづく






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