シン・日曜美術館『夏目漱石の坊っちゃん』⑨
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1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋
次に語られるのは、清(キヨ)さんの度を過ぎた「坊っちゃんへの妄信的な愛」についてだな。
まずは、清が坊っちゃんだけに色々と物を買ってくれる件。
散々非人道的な行為を繰り返しているくせに自分を正義感の強い人間だと思い込んでいる坊っちゃんは、清が兄には何も買ってあげていないことを指摘し、自分だけが得をするのは公平ではないと清に訴える。
すると清は、坊っちゃんの父親が兄だけに物を買ってあげているからだと主張する。
坊っちゃんは父親のことが嫌いだけど、そういう依怙贔屓をする父親ではないことを知っていた。
だから坊っちゃんは、こう結論づける。
自分のことを我が子のように溺愛している清だから、そういうふうに「ありもしないこと」を考えてしまうのだろう、と…
つまり坊っちゃんは、清さんの強すぎる愛から来る「妄想」だと考えた。
しかしここには重要なことが隠されている。
物語のカギになる重要なポイントが。
何だいそれは?
坊っちゃんは清の口から「父親が陰に隠れて兄に物を与えている」という情報を聞いた。
坊っちゃんは「そんなはずはない」と感じるが、深く考えることなく清の主張を受け入れ、その後も物を受け取り続ける。
つまり坊っちゃんは、この件について当事者である父親にも兄にも確かめることをしなかったんだ。
坊っちゃんは、第三者である清の情報を、そのまま鵜呑みにしてしまったんだよ。
あっ…
これは松山での坊っちゃんの行動すべてに当てはまることだ…
第三者から噂話を聞き、それを当事者に確認することをせず、思い込みのまま次の行動に出る…
その通り。「妄信」していたのは清だけではなく、坊っちゃんもだ。
だから次の「未来の話」でも、坊っちゃんは清の語る「未来」を「そんなはずはない」と思いながらも、結局そのまま受け入れてしまう。
その時の坊っちゃんからしたら、何の根拠も実現性も無いはずの「未来」を。
まずは、未来において坊っちゃんが「出世する」という預言。
清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。(中略)おれはその時から別段何になると云う了見もなかった。しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。
なぜ清さんは坊っちゃんの出世に、あそこまでこだわったんだろう?
名前が「清」だから「出世」にこだわるのは当然だよ。
は? どうして?
「出世 清」と言うだろう?
それを言うなら「出瀬 潔(しゅっせ・きよし)」だ!
『3年奇面組』の!
ははは。冗談だよ冗談。
清が坊っちゃんの出世にこだわった理由は知らん。
だが、我が子のように可愛いがってきた坊っちゃんの出世を願うのは、乳母として当然のことだろう。
普通は「出世」じゃなくて「健康」を願うんじゃないのか?
「健康であってくれさえすれば、それでいい」って。
女は口ではそう言うが、本心は違う。
君は女性心理というものがわかっちゃいないな(笑)
知ったような口をたたくなよ。君だって大して変わらないだろ。
それから清は、坊っちゃんが「いい暮らしをする」という預言もする。
ただ手車(てぐるま)へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。
だけど清さんの預言は、どちらも成就しなかったよね?
坊っちゃんは、人を導く立派な仕事である教師をやめ、給料が半分くらいの地味な肉体労働の仕事に就く。
もちろん人力車を雇えるような経済力はなく、家も「玄関付き」ではなかった。
そうだな。坊っちゃんが清から聞いた未来とは、少し違う。
正直「これじゃない感」があった。
それにしても「玄関が付いていない家」って、どういうことなんだ?
いったい中にどうやって入るんだろう?
ははは。「玄関付き」とは、そういう意味ではない。
君が今イメージしているであろう「玄関」、つまり世間一般の家にある「玄関」は、厳密には「玄関」とは呼ばんのだよ。
ええっ?そうなの?
明治時代における「玄関」とは、ここの蕎麦屋のような、武家屋敷風の「玄関」のことを指す。
入ると「式台」と呼ばれる木の台があり、その向こうに待合室みたいな部屋があるのが、正式な「玄関」だ。
そうなの? これじゃあ庶民には「玄関付きの家」を持つことは難しいなあ…
相当出世しないと住めないよ。
ちなみに君は、そもそも「玄関」という言葉がどういう意味で、どこから来たのか知ってるか?
「玄関」の意味や由来?
「玄」は玄人の玄で、「関」は関所の関だよね…
つまり玄人だけが通ることを許された場所であり、素人が気安く立ち入るような場所ではない、ということかな…
うーむ。ニュアンスは近い。
「玄」とは幽玄の玄であり、人知を超えた奥深さ、計り知れないことを指す。
いわゆる神や仏しか理解し得ぬ「宇宙の法・悟り」のことだ。
つまり「玄関」とは「この世」と「あの世」の境目ってこと?
その通り。
元々「玄関」とは仏教用語で、かの達磨(ダルマ)がサンスクリット語の「ディヤーナ」を漢訳したのが「玄」だ。
のちに「玄」という訳は「禅」に置き換えられ、それが日本に伝わった。
ええっ?「玄関」の「玄」は「禅」のことでもあるの?
そうだ。「達磨禅師」は元々「達磨玄師」だった。
『達磨像(月百姿、破窓月)』
月岡芳年
「禅師」と「玄師」じゃ、なんかイメージ違うな…
だけどなぜ最初に「玄」と訳したんだろう?
おそらく老子の影響だろう。
幽玄の教えである道教には「玄の又玄なる衆の妙なる門」という言葉がある。
『老子騎牛図』晁補之
つまり、寺の門をくぐって世俗から離れ、幽玄なる「宇宙の法・悟り」を探究する…
それが「玄関」か…
自分の半生を回想している語り手「坊っちゃん」は、まだ「玄関付きの家」には住めていない。
つまり「まだ世の中の法を知らない」とか「悟りの境地に達していない」ということなのかもしれないな。
漱石、深いね…
ああ。やはりこれは一筋縄ではいかぬぞ…
「谷神不死 是謂玄牝…」
え?
「玄牝之門 是謂天地根
緜緜若存 用之不勤…」
その声は、ミス・キマタ!
どう? 深読みの方は捗っていますか?
いえ、まだ第一章の途中で…
ところで今のは?
谷神(こくしん)は死せず、
是を玄牝(げんぴん)と謂(い)う…
玄牝の門、是を天地の根(こん)と謂う…
緜緜(めんめん)として存するごとく、
これを用いて勤(つ)きず…
『老子道徳経』の一節ですよ。
あなたたちは「玄」のことを話していたでしょう?
その漢詩は、どういう意味なのですか?
そんなこと、私の口からは言えません。
は? どうして?
聖母(マドンナ)たちのララバイ、とでも言っておきましょうか…
『聖母(マドンナ)たちのララバイ』って…
おせいさんだけでなく、ミス・キマタまで、そんなことを…
男たちは皆「マドンナ」から生まれ、いつか「マドンナ」へ帰るのです…
生まれ故郷である「マドンナ」へ…
確かにそうですが…
ミス・キマタのいう「マドンナ」には、何か他の意味が含まれてるような気がする…
まぁ、どんな?
なんちゃって。
ところで木又先生、どうしてここへ?
もう送別会は終わったのですか?
いいえ。送別会は宴もたけなわ。まだまだ終わる気配はありません。
仲居さんを呼びに行くついでに、ちょっとあなたたちの様子を覗いてみただけです。
おせいさんは、呼んでもないのに現れたり、肝心な時には居なくなったりするからなあ。
「おーい、きまたせんせー!
酒はまだかー!?」
あら、教頭が怒り心頭だわ。
こんなところで油を売ってる場合じゃなかった。
急がなきゃ…
あっ、ミス・キマタ…
掛け軸のマドンナ像の「せいこ先生」とは、いったい…
ああ、行ってしまった…
また聞きそびれたな…
おせいさんといいミス・キマタといい、大事なところで居なくなってしまう…
次こそ、現れた瞬間に聞かなくては…
それにしても、木又先生は何のことを言ってたんだろう?
男たちは生まれ故郷の「マドンナ」のもとへ帰る、って?
もしかすると「ハレルヤ」のことかもしれん…
ハルレヤ?
「ハルレヤ」は宮沢賢治だ。
僕の言ってるのは、レナード・コーエンの名曲『Hallelujah(ハレルヤ)』のこと。
聴いたことあるだろう?
ああ。知ってる、この歌。
美女とお風呂が出て来たり、台所で諍いがあったり、理不尽な天の父が出て来たり、なんだか『坊っちゃん』みたいだよね。
でも、これのどこが「マドンナ」なんだ?
歌の中の「僕」は、愛する人に、こんなことを言う。
「僕はこの家を知っていた。旗がビラビラしている門をくぐり、通路の先にあるこの部屋を。昔、僕はここに1人で住んでいた。君を知るずっと前のこと…」
昔「僕」が住んでいた家に、女の人が今住んでいるってこと? たまたま?
そうじゃない。ここで歌われているのは「女性の生殖器」だ。
は?
昔「僕」が住んでいて、今「僕」が帰ってきた「部屋」とは、「子宮」のことなんだよ。
ええっ!?そうなの!?
レナード・コーエンの名曲『ハレルヤ』は…
フラ・アンジェリコの名画『受胎告知』を下敷きにしているのだ…
天の父なる神と聖母マリアの子宮がつながって描かれる、この絵を…
『Annunciation』Fra Angelico
あっ… 確かに「白い鳩」とか出て来た…
ミス・キマタの「マドンナ」の喩えは、これのことだったのかもしれない…
だから「私の口からは言えない」と…
だけど、さすがにそれは君の考え過ぎだよ。
第一『坊っちゃん』と何の関係もないじゃないか。
坊っちゃんは女を知らない童貞だよ。
坊っちゃんは童貞?
だって坊っちゃんは女性とお付き合いしたことないだろう?
松山では芸者遊びもしなかったし、東京に帰ってからは清さんと二人だけの世界に引き籠った。
停車場で「うらなり君」の婚約者「マドンナ」を見かけた時なんて、テンパりまくってフリーズしてたじゃないか。
どう考えても坊っちゃんには妙齢の女性に対する免疫がない。
なるほど。確かにそうだな。
坊っちゃんは清以外の女性と上手く付き合うことができない。
ある種の精神的な病、「清コンプレックス」だ。
小っちゃな頃から清さんが洗脳していたからね。
自分と坊っちゃんが将来二人で住む家の場所や間取りについて細々と。
麹町にしますか、それとも麻布にしますか、と聞いていたな。
まるで「お風呂にしますか、それともお食事にしますか」みたいに。
さらには、庭にブランコを置いて、西洋間は1つだけで充分だとも。
あの嬉々とした清さんの様子は、冷静に考えると、ちょっと怖いかも…
たとえ実の母だったとしても、あれはちょっとヤバい…
まるで結婚に憧れる乙女の夢物語のようだったな。
母のそれではない。
漱石は、いったい何の意図があって、あんなふうに書いたんだろうね?
わからん…
しかしどこかにヒントがあるはずだ…
第一章の深読みを続けよう…
つづく
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