シン・日曜美術館『深読み 夏目漱石の坊っちゃん』⑬
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1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋 りうていの間
~♬
ゴキゲンだな、クリス君。
そうさ。僕は気づいてしまった。
気付いたって、何を?
君が「うなずいていた」と言っていた、あのマドンナの目だよ。
えっ?あの掛け軸のマドンナの目のカラクリに気付いたってこと?
あれは、僕たちを見ているんだ。
それじゃあ、やっぱり『ルパン三世 カリオストロの城』みたいに…
誰かが向こう側から僕たちを…
そうじゃない。
「誰かが僕らを監視している」と思うから気味が悪くなり、漱石や坊っちゃんのように精神を病んでしまうんだ。
発想を転換して「誰かが僕らを見守っている」と思えばいいだけのこと。
見守ってるって誰が? 守護天使か?
御先祖様や大好きだったおばあちゃんかもしれないし、父や母かもしれない。
父や母って…
僕と違って君の御両親は健在だろう?
ああ。しかし僕の両親は、ここ東京から遠く離れた異国の地にいる。
親というのは、常に我が子を心配するもの…
どんなときも我が子を見守っていたいという強い想いが、海を渡って時空を超えて、あんなふうに絵や書棚の中に宿るのだ。
まあ、確かに親の愛というのはそういうものだろうけど…
君の親の生霊にずっと見られてると思うと、それはそれで落ち着かないな…
君の親かもしれないぞ。
遠い遠い世界へ行ってしまった、君の父親…
まさか…
生きているのか死んでいるのかなんて、そんなことはどうでもいい…
たとえこの世にいないとしても、親というものは、愛する我が子の成長する過程を、ずっと見守りたいと強く願うものなんだ…
何気ない日々の一瞬さえも、記憶に焼き付けておきたいと…
なるほどね…
たとえ遠くにいようとも、僕の毎日を、一瞬一瞬を、見守ってくれている…
そう思えば、たとえ壁に掛かった絵の中の目が動いたり、書棚から物が落ちたりしても、気にはならない…
そういうことだ。心持が楽になっただろう?
うん。ありがとうクリス君。
それじゃあ『坊っちゃん』第二章を見ていこうか。
よしきた。
新橋から東海道線に乗り込んだ坊っちゃんは、一瞬で「四国辺の城下町」に着く。
これは意外だったな。
なぜだ?
てっきり僕は、坊っちゃんの鉄道の旅が「珍道中」みたいに描かれているかと思ってた。
東海道を西へ進み、さらに山陽道を広島県まで…
他の乗客と仲良くなったり、車内でスリに遭ったり、車窓から各地の名所を眺めたり…
ははーん。
それはモンキーパンチのアニメ『坊っちゃん』の影響だな。
そうそう!これこれ!
ルパンが「うらなり」で、銭形警部が「山嵐」の!
それを言うなら、山田康雄が「うらなり」で納谷悟朗が「山嵐」、だろ?
確かにこのアニメ版『坊っちゃん』では、オープニング曲のバックで東京から広島県尾道までの「珍道中」が描かれている。
夏目漱石の原作を読まずにこれを見ると、そういうストーリーだと思うかもしれないな。
だけどそうじゃなかった。
新橋駅のホームで見送る清(きよ)さんが小さくなったと思ったら、もうその次の一文で瀬戸内海を渡り切り「四国辺の城下町」へ着いている。
ぶうと云って汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。
「ぶう」はいいな。
なんとも間の抜けた田舎っぽいテイストが醸し出されている。
第二章のアタマに、いきなり汽笛の音を持ってくるとは、さすが漱石だ。
そういえば第一章のアタマは「無鉄砲」だった。
汽笛は合図、つまり空砲みたいなものだから、なんだか通じるものがある。
ふうむ。確かにそうだな。
そして「ぶう」の後すぐに「赤ふんどし」の船頭が出て来て、さっそく坊っちゃんは「赤ふん」と呼ぶ。
全裸に赤ふんどし…
この「赤ふん船頭」は、後に出て来る「赤シャツ教頭」の予兆だろうか。
坊っちゃんは、赤ふん船頭の姿を見て「野蛮な所だ」と感じるが、「もっともこの熱さでは着物はきられまい」とも思う。
このあたりの海は「日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくらむ」状態だった。
「野蛮」は酷いよね。自分だって子供の頃は「野蛮」そのものだったくせに。
第一章の冒頭では、二階から飛び降りたり、ナイフで手を切り裂いていたぞ。
そういえば、あのナイフも眩しいくらい光るナイフだったな。
いろいろと共通点がある。
そして坊っちゃんは、これから上陸する港の小さな集落を赴任先の町だと勘違いし、こんな感想を述べた。
見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。
「大森ぐらいな漁村」って、ずいぶんマニアックな喩えだよね。
東京に住んでても「大森」と言われて咄嗟にイメージがわかないのに…
せいぜい「蒲田の隣」とか「羽田の手前」くらいだ。
当時の人はイメージ出来たのかな?
おいおい。「大森」は有名だぞ。
君はここの風呂にあった「東京の温泉の歴史」というパネルを見なかったのか?
そういえばクリス君、脱衣場で壁に貼ってある何かをずっと眺めていたね。
あれがそうだったの?
「東京の温泉の歴史」には、こう書いてあった。
現在の東京23区内で最古の「温泉」は、明治時代に発見された大森の「森ヶ崎鉱泉」だと。
もりがさき、こうせん?
身体にいいミネラルの入った「含鉄アルカリ性食塩泉」だが、源泉の温度が低い「冷泉」だから、温泉と区別して「鉱泉」と呼ぶ。
漱石が『坊っちゃん』を書いた明治三十年代後期、大森の森ヶ崎鉱泉は、江戸っ子が気軽に出掛けられる「温泉保養地」として、中々の人気スポットになっていたそうだ。
多くの著名人や文人も訪れている。
そうなの?
だけど僕はずっと東京に住んでるけど、そんな温泉地、聞いたことないよ?
昭和に入ってからは廃れて無くなってしまったそうだ。
東京近郊の温泉地がどんどん大型観光地として整備されていったから。
じゃあ大森が有名だったのは、ほんの一瞬ってことじゃんか。
そんなことはないぞ。「大森」は江戸時代から有名だった。
風光明媚な「浅草海苔」の産地として。
大森が浅草海苔の産地?
浅草海苔の産地は浅草じゃないの?
よく考えてみろ。浅草で海苔が取れるか?
あっ…
「浅草海苔」の産地は、江戸川の河口付近である葛西や浦安、そして品川から大森羽田にかけての海。
そこで取れた海苔を浅草に運び、商品化されて「浅草海苔」になるんだよ。
歌川広重の『名所江戸百景』にも、南品川の鮫洲海岸から大森海岸にかけて広がる海苔漁村が描かれている。
『名所江戸百景 南品川鮫洲海岸』
歌川広重
坊っちゃんの言う「大森ぐらいな漁村」というのは、こんな感じなのかな。
明治二十年代なら、浮世絵に描かれた江戸後期の風景とそんなに変わらないはずだ。
おそらくな。
というかクリス君、この画集はどこから持って来たの?
そこの書棚だよ。
さっき君が帰って来なかった間に、どんな本があるのか調べてみたんだ。
なかなか興味深いラインナップだったぞ。
記紀万葉から明治大正までの代表的な古典や画集が一通り揃ってる。
それって「りうていの間」という名前に関係しているのかな…
あの掛け軸と同様に…
どうだろう。そこまではよくわからん。
まあ、そんなことよりも今は「大森」だ。
大森を描いた浮世絵には、もうひとつ有名なものがある。
大森のシンボルである「松」を描いたものが。
『名所江戸百景 八景坂鎧掛松』
歌川広重
はっけいざかの… よろいのかけまつ…?
何だいそれは?
「八景坂」とは、現在のJR大森駅西口、池上通り付近の山王地区にあった坂の名前だ。
高台になっているこの場所から「笠島夜雨、鮫洲晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」という8つの美しい風景が見えるので「八景坂」と呼ばれるようになったと言われている。
なるほど。広重が描いた通り、絶好のビュースポットだったわけだ。
それにしても「鎧掛松」とは変わった名前の松だな。
いったい誰が鎧を掛けたんだろう?
八幡太郎だ。
はちまんたろう?
聞いたことあるけど、誰だっけ?
八幡太郎とは「武家の棟梁」こと源義家(みなもとのよしいえ)のこと。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の「ひいひいおじいちゃん」と言った方がわかりやすいかな。
この本に肖像画と解説が載っている。
『前賢故実 源義家像』
菊池容斎
なるほど…
山城国(京都)の石清水八幡宮で元服したから「八幡太郎」なんだね…
だけど出生地は諸説あるらしいな…
山城国説、鎌倉説、そして足柄下郡、つまり箱根の近く説…
ん?
どうした?
山城国、鎌倉、箱根…
坊っちゃんの実家の隣の質屋は「山城屋」で、坊っちゃんが松山で最初に泊まった宿も「山城屋」だった…
そして坊っちゃんは、東京の外は「鎌倉」しか行ったことがなく…
清は「箱根」しか知らなかった…
あっ… 八幡太郎 源義家の出生候補地がすべて『坊っちゃん』の中に…
これは偶然か?
わからん…
しかし源義家は、坊っちゃんが先祖だと豪語していた「多田満仲」の曾孫でもある…
偶然ではないかもしれない…
あっ!こっちの絵も見ろよ!
この絵の源義家は…
『八幡太郎義家 三河前司女馴衣』
歌川国芳
角を切り落とした碁盤をひっくり返し、碁石をぶちまけている…
対戦相手の女はビックリして、外で誰かがカンカンに怒っている…
坊っちゃんも、将棋を指していて、同じようなことをしたぞ…
対戦相手の女形っぽい兄はビックリして、父はカンカンに怒った…
これは偶然だろうか?
ここまで来ると、偶然とは思えんな…
漱石は、あえて「大森」という言葉を入れることで、この絵が元ネタであることを示そうとした…
だけど、何のためにそんなことを?
わざわざそんなことをする必要があるだろうか?
どうだろうな…
もう少し第二章の先を見ていけば、何かわかるかもしれん…
つづく
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