【昭和4年】エッケナー博士の話聴かんとてラヂオ屋の前にわれも立ちたり/加藤雪畝

エッケナー博士の話聴かんとてラヂオ屋の前にわれも立ちたり
加藤雪畝「報知新聞」昭和4年9月21日

『昭和萬葉集』第一巻(昭和55年)所収の一首です。加藤雪畝という作者の情報は現在全く確認できません。新聞歌壇に投稿するのを旨とした人物だったのではないでしょうか。

掲出歌、「エッケナー博士」とは、ドイツの航空技術者ヒューゴー・エッケナー(Eckener, Hugo、1868.8.10~1954.8.14)です。当該歌の成立時期にはツエッペリン飛行船会社の取締役会長でした。この年、自身の設計したツェッペリン号での世界一周航行を行い、途中で日本にも立ち寄っています(*1)。この出来事は日本国内でも大きな関心を集めていました。当該歌の「話」というのはおそらく、日本のラジオ放送局が、博士の講話か、あるいは氏の業績の解説のようなものを放送しようとしたのでしょう。

「われも」というからには、他の聴取者もいます。日本のラジオ放送は大正14年にはじまっていますが、放送網が全国に広がった昭和3年の受信契約者数は50万人です(*2)。各家庭に普及したとはいえない時期でした。それでもラジオを聴きたい人は、ラジオ屋に群れていたのです。電機屋ではなく「ラヂオ屋」という専門の商店がすでに登場していたらしいことには驚かされます。単価の高いラジオを売って、その後の修理も請け負うというだけの商売(他の電機製品も扱っていたのかもしれませんが)が成り立つほどにラジオへの関心は高く、また社会自体が消費経済の時代に突入していたのでしょう。

明治38年の日比谷焼打事件以来、日本は匿名の「群衆」を擁する都市国家になったというのはよくいわれることですが、昭和初年代において、ラジオ屋もまた名もなき都市生活者たちを受け入れる公衆空間だったようです。

ラヂオ屋の前に立ちゐてラヂオより報せる時に時計合せる
小沢環「報知新聞」昭和4年7月10日
ラヂオ屋の前に群る野球ファン小雨降れども去なむともせず
井戸田寿「ポトナム」昭和5年11月号

番組が変われば、店先にたむろする野次馬の面子もまた変わります。エッケナー博士の話を聞きたがる好奇心旺盛な者もいれば、小雨に濡れようと試合を最後までチェックしたい野球ファンもいる。なかには懐中時計の時刻を合わせるために立ち止まる人も。

ラジオ屋は都市の公衆空間であった、ということを理解すると、谷崎潤一郎の佳作『猫と庄造と二人のをんな』(創元社、昭和12年)で描かれる主人公・庄造の図々しい振る舞いも納得がいきます。前妻にやった飼猫リリーに会いたくて、こっそり家の近くまでいく途中、鶏肉でエサを調理する場面です。

甲南学校前あたり迄やつて来ると、国粋堂と云ふラヂオ屋の前で自転車を停めて、外から店を覗いてみて、主人がゐるのを確かめてから、
「今日は」
と、表のガラス戸を半分ばかり開けた。
「えらい済んまへんけど、二十銭貸しとくなはれしまへんか。」
「二十銭でよろしおまんのか。」
知らない顔ではないけれども、いきなり飛び込んで来て心やすさうに云はれる程の仲やあれへん、と、さう云ひたげに見えた主人は、二十銭では断りもならないので、手提金庫から十銭玉を二つ取り出して、黙つて掌へ載せてやると、直ぐ向う側の甲南市場へ駈け込んで、アンパンの袋と筍の皮包を懐ろに入れて戻つて来て、
「ちよつと台所使はしとくなはれ。」
人が好いやうでへんにづう/\しいところのある彼は、さう云ふことには馴れたものなので、「何しなはんね」と云はれても「訳がありまんねん」とばかり、ニヤ/\しながら勝手口へ廻つて行つて、筍の皮包の鶏の肉をアルミニユームの鍋へ移すと、瓦斯の火を借りて水煮きにした。

庄造は、〈知らない顔ではないけれども、いきなり飛び込んで来て心やすさうに云はれる程の仲〉でもないラジオ屋の主人に、たかだか二十銭の借金を申し込み、あまつさえ台所も使わせてもらっています。これはもちろん、「へんにづう/\しい」彼なればこそのふるまいではあるのですが、ラジオ屋の主人の在宅をわざわざ確認していることを考えると、この頼みごとをする相手として適当な人物として、ほかでもなくラジオ屋の主人が思い浮かんでいるわけです。必需品を売るわけでもないので、他の客の相手で忙しくもなく、買い物をしないのに気安く入店できる、それがラジオ屋という都市空間でした。

まあ、こんなに図々しいことをするのは、庄造ぐらいのものだったでしょうけれど。

(*1)『岩波世界人名大辞典』(岩波書店、2013)
(*2)『大衆文化事典』(弘文堂、1994)、「ラジオ」(執筆は野崎茂)


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