描くことは、祈ること
これは以前、東山魁夷の展示に行った際の記事です。
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「描くことは、祈ること」---東山魁夷
東山魁夷の展示に行った。あまりにも深く感動してしまい、途中から涙が止まらなかった。それもそうか、と思う。
東山魁夷の生き様や想いが絵の中に詰まっているから。
その一生が、此処に、集まっている。
彼の描く四季折々を見て、思い出した。
消えてほしくないと必死に目に焼き付けようとしていた風景と思い出の数々を。
どうにか目に焼き付けようと見つめても、忘れてしまっていた。
忘れていたことさえ、忘れてしまい、寂しさも感じる間もなく。無常。
でも、それは失くなったわけではなくて、ちゃんと片隅に閉まってあった。
あの時感じた想いも一緒によみがえってきて、東山魁夷が見たであろう風景に重なる。
東山魁夷が感じたであろう想いが、重なる。
留めておきたかった想いが、景色が、思い出されて涙があふれる。
東山魁夷という人の想いが、人生が、胸を激しく打つ。
なんて、美しい人。
自然を祈り、人々を祈った。
ただひたすらに彼は筆を握った。そして、祈り続けた。命を懸けて。
込められた想いは、消えることはない。立ち止まって何を感じ、何を思うのか。
絵に込められた東山魁夷の想いは、褪せることなく、人々に届き続けるだろう。
幻想的な白馬の作品群が、素晴らしいと思った。
青い風景の中にいる白馬の作品、これは圧倒的で思わず手を合わせていた。自分でも不思議だった。本殿に入るときと同じような気持ちになった。
これは込められた想いの力が半端ではない。まるで菩薩像を見ているみたいだ。
ルドンのグランブーケを観たときもこのような気持ちだった。
彼は後に、この馬のことを「自らの祈りのあらわれ」と語った。
以下美術館本文
白馬に導かれるように《唐招提寺御影堂障壁画》を完成させる中で東山は描くことが祈りであり、それであるならばこそ、そこにどれだけ心が籠められたかが問題で、上手い下手はどうでもいいことなのだと思うに至る。
信じがたいことではあるが、これまでずっと自分には才能がないと思い続けていた画家はようやく自分が描き続ける意味を悟り、価値を見出だすことができたのだ。
より一層多忙を極め、70歳を越えた身では新たに写生することも難しかったが、これまでに見つけてきた無数の風景を描いてきたスケッチを元に迷いなく創作を続ける。
そうして生み出された作品は、もはや日本でも外国でもなく特定の地を離れ、自らの心の中に形づくられた風景を描いたものとなっとおり、それどころか大きな自然の一部を切り取ったような画面の中を東山の線は軽やかに自由自在に動き輝きを増している。
その集大成として凝縮された自然を、自らの生命を描き続けた作品群を残し、東山魁夷は、平成11年に惜しまれつつ生涯を終えた。
しかし、その作品は未だに日本だけでなく、世界の人々の感動を呼び続けている。
(美術館パネル -心を写す風景画- 参照)
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パネルの言葉を必死にペン(美術館で借りたもの)で書き留めた。これは忘れたくない大切な言葉だと思ったから。勢いよく書いたので、手が痛くなった。
書き留めたものを読解して書き起こしたのだけれど、多分それほど間違っていないはず。
唐招提寺の作品を描く際、鑑真の故郷で命懸けで旅をしたそうだ。
それは震えるほどに、素晴らしい作品だった。
私の心は、感謝の気持ちで満ちている。
最後に彼の言葉を載せて締めくくる。
「私にとって絵を描くということは、誠実に生きたいと願う心の祈りであろう。謙虚であれ。素朴であれ。独善と偏執を棄てよ、と泉はいう」
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