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誰でも”おかしくなれる”状況:『阿Q正伝』レビュー

こっわ!!!

阿Q正伝あきゅうせいでん』を読んだ直後の感想。これは、中国の小説家である魯迅ろじんが書いた物語。

無知と無自覚で、自分がいつでも”おかしくなれる”という状況にゾッとする。自分がまともだと思っていても実は、おかしいのかもしれない?そのおかしさに気がついていないとしたら…?

私は漫画版を読んだけど余韻がすごい。短い物語でこんな強いメッセージを放つことができるのか…。物語の内容は全く違うけど、太宰治『人間失格』を読んだ後みたいな気分になった。

『阿Q正伝』は101年前に書かれたものだけど、他人事とは思えない内容。

Kindle Unlimitedは、こういう教養系の本がたくさん読めるのが有り難い。

※以下からネタバレありです。


阿Qは無知で、モテない男性で、その日暮らしで生計を立てている。平気で嘘をつくため、周りからは馬鹿にされてケンカも絶えない。阿Qは弱いからいつも負ける。だけど不思議なことに、彼の中では完全勝利しているのだ。なぜなら「精神勝利法」で、心の中で自分は相手に勝ったと思い込めるから。

そうやって彼は何でも都合よく解釈して、自分の生活や自分のことを省みようとせずに、酒に溺れる。それでも楽観的なのがまた痛い。

短絡的にものを考えるため、危うく女性にも危害を加えるところだった。というか、勘違いされる。

村八分にされた彼は、村からしばらく姿を消して帰って来る。豪華な服を着て、高価なものを持って。村人たちはこれまでと打って変わって、阿Qを尊敬して褒めちぎる。

阿Qは無知が災いして、”ある事”で冤罪を着せられる。裁判する側も彼に罪を被せているのは、誰が見ても明らか。阿Q本人は裁判が何なのか分かっておらず、誘導されるがままに答えていくだけ。阿Qの処刑が決まっても、村の人たちは何の疑問も持たずに「アイツが悪い」と言う。

そして公開処刑の日。晒し者として、阿Qは処刑場まで村を連れ回される。民衆はお祭り騒ぎだ。

処刑場に着くと、銃をかまえる役人たち。それを見ている民衆は「やれ〜!殺せ〜!」と言っている。まるで格闘技を観戦しているような雰囲気。

初めて阿Qが見せた、懇願と涙の「助けて」が辛かった。その声虚しく、銃殺。

私が一番怖かったのはここから!

公開処刑を見ていた5歳くらい?の子供が「つまんな〜い」と発したシーン。おもしろくない映画を観終えたあとの感想みたい。

それに合わせて、大人たちも「銃殺なんか面白くね〜の」とブーイング。最終的に「まぁ、阿Qだから仕方ね〜か」と言って処刑場を去っていく。

人ひとりが死ぬ時に発する言葉ではない。

いや、でも。民衆が満足する殺し方だったとして…「おもしろかったな〜!」と言って帰るのもまた、怖いように思う。

阿Qのバカ正直さに呆れるのだけど、阿Qがバカでいないと困る人たちがいるのかもしれない。

もし彼が人に恵まれていたら、こんなことにならなかったんじゃないだろうか。生きていたとしたら、まだ救いがある気がした。

それ以上に、民衆の無知と無自覚は狂気的だ。

人が死んでつまらない?
銃殺なんかおもしろくない?

いくらこの時代が公開処刑や戦争などで、人の死に慣れているにしても、命が軽んじられているように思う。民衆は阿Qのこと、役人のやること、それに何ひとつ疑問を持たずに楽しんでいる。

作者の魯迅さんは、今が絶望的でも未来までそうとは限らないと書いている。魯迅さんは未来に希望を託し、当時の絶望を未来にまで引き継がせたくないと思ったのかな?

ここまで極端ではなくとも、今もこの物語みたいな世の中かもしれない。

私もだけど、人は自分の都合の良いように解釈する。
聞きたいことしか聞かない。

自分とは関係ない事故や事件が目の前で起きた時、平気でカメラを起動させて、SNSで「バズ」を狙う人もいる。好奇の目は、『阿Q正伝』の民衆と似ていると思った。

自分で考えないということは、阿Qとその民衆に近づくことになるのかもしれない。

無知や無自覚は、自分で考えないからどんどん楽な方、世間が流行っていることに流されていく。人が良いと言ったものだけを信じている。知らない間に犯罪をしている、誰かを傷つけている、不満だらけの毎日を送っている。

引き寄せの法則を信じているときの私はまさに、阿Qだった。

「幸せになりたい」からセミナーで高額の受講費を払い、講師の言うことを崇拝。そこに行くためなら交通費も、食費も、宿泊代も、講師の本やグッズを買うのもためらわない。給料の半分は、それらに消えた。

でも思った通りの生活や自分になれなくて…。何が間違えているのかも考えずに、まだ講師の教えや受講が足りないんだ。そう思ってお金を使い続けた。

講演会で、講師が「あなた方はほしいものを手に入れられる!『できる』と一緒に大きな声で叫びましょう」と言った。

講師「私が『できる』と言ったら、あなた方も『できる』と言って下さい。いきますよ!できるー!」
みんな「できるー!」
講師「もう一度!できる!」
みんな「できるー」

人気歌手のコンサートみたいに熱を帯びていく。私はそんな周りを見て、会場から逃げ出したくなった。みんなげっそり痩せこけていて顔色も悪い。だけど、目だけがギラギラしている。

「できる」と言うだけで、何の努力もしないで、明日から無敵の人間になれると信じている感じだ。何の疑いも持たない。

ここを出たら、私も周りからこんな風に見えているのか?

私も今までは周りに”布教活動”をしていたが、友達は「やめたほうが良い」と何度も忠告してくれたのに聞き入れなかった。

初めて自分で考えた。

学校の勉強もせず、社会に関心も持たず、周りが良いと思うものだけを信じてきた。自分が「幸せ」と思えるようになったのは、自分で考え始めてからだった。

  • 〇〇が流行っているけど、私はほしいのか?

  • SNSで「〇〇が良い」と言われているけど、私は「良い」と思うのか?

  • 私が欲しいのって、大量のお金?

  • 私にとっての「幸せ」って何?

30代になって歴史の勉強を始めた。福沢諭吉や論語、歴史上の偉人たちが声を揃えて「教養は大事」と言うからだ。

やってみて思うのは、自分がより良く生きるために、人から搾取されないために学ぶ。だから教養が大事なんだと思う。

もう無知に戻りたくない、と『阿Q正伝』を読んで思った。自分の頭でしっかり考えて行動し続けよう。


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