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人間”らしく”あるために学び続ける

<注意>
残酷、残虐な表現や写真があります。 また、暴力的、精神的虐待や差別に関する内容があります。 大丈夫な方のみ、読み進めて下さい。

2年ぶりに、お出かけらしいお出かけをした。行った場所は、カナダ・ウィニペグの観光名所である「Human Rights Museum(人権博物館)」。

「ウィニペグ市の観光地」とググると必ず出てくる名所だけど、「人権」という言葉が堅苦しくて退屈そうな印象。あと、いつでも行けるとなるとわざわざ出向かないものだな。

最近は歴史の勉強をしていて、人間は差別と争いを繰り返してきたのを知った。

人間として生きる「権利」って何かな?

という興味が湧いてきたから、この博物館に行ってみようと思った。

いつも私たち夫婦がどこかに行く予定を立てると必ず、雨。旦那さんは外に出て数分で雨が降る、奇跡の男。本当は動物園に行くつもりだったけど、お決まりの雨予報だったため、室内の博物館に変更。

行く前は正直、動物園より退屈だろうと思った。英語のレビューは多くて高評価だけど、実際にどんな物が展示されているのかよく分からないから。日本語だとウィニペグに関する留学情報や住んでいる人のブログはいっぱいあるけど、この博物館に関してのレビューがない。日本の人には不人気なのかな?

結果を先に言えば行って良かったし、「人権」という言葉ほど堅苦しいものではなかった(一部、心が重くなるエリアもあり)。

Wikipediaの内容を読むよりも楽しめたし、展示物やアートは好奇心と知識欲がくすぐられる場所。英語が分からない部分は、旦那さんに質問して教えてもらった。彼も歴史好きだから楽しそうだったな。

存在感がある!

この博物館のエリアで私が一番印象に残ったのは、ナチス・ドイツのホロコーストについての展示だ。

「人権」というものを語る上で欠かせない歴史のひとつ。そのエリアに入ると空気が変わる。展示物だけでなく、見る人たちの強い思いも吸収されているような感じがした。

本までも燃やされていく…


驚いたのは、当時はゲイってだけで”病気”と診断されて、収容所などで”治療”される。収容所の子供たちは人体実験にされる。

裸の女性が列を連ねている写真があったのだけど、その人たちは処刑待ち。「何番目が自分」、「次は自分」と列が減っていくのを想像しただけでも足がすくむ。

人間が生ゴミのように穴に捨てられて、山積みにされている写真もあった。殺す側からすれば、ユダヤの人たちは虫けらと同じなのか?

アウシュヴィッツ収容所の見取り図や設計図と、収容所全体を上から見たマップに絶句。2000人を収容して、その人たちをいかに効率よく殺せるかを考えて作られている。正気の沙汰ではない。

一番ゾッとしたのは、収容所で働くスタッフたちのフリータイム写真だ。収容所で誰かが苦しんで死んでいるのに、この人たちはすごく楽しそう。もういろんな感覚が麻痺しているのか。

結婚式でも行われたみたいな笑顔。

ホロコーストの展示物は、怒りと涙を抑え込みながらでないと見ていられなかった。避けて通りたいエリアだったけど、言ってしまえばこれは人類史上最大の汚点のひとつ。さすがにここを素通りするわけにはいかない。自分が辛くなりすぎない程度に知る努力をしたい。

旦那さんもこのエリアの展示物や説明書きを食い入るように眺めていたけど、私の気持ちを察してか説明は控えめだった。

「Maiが英語を理解するのに時間がかかって良かったんちゃうかな。ものごとを素直に受け取ってしまうMaiには辛い内容だと思う」と言われた。写真を見るだけでも胸が痛いのに、内容はもっと残酷なのか…。

次に印象に残ったエリアは、カナダの人権の歴史だ。ウィニペグにはIndigenous(インディジネス)/ First Nations(ファーストネーション)の人たちが多く住んでいる。

この言葉はアボリジニの先住民を指すけれど、最近ではアボリジニという言葉には差別要素が含まれているので、このように呼ぶのが一般的となっている。彼らとカナダという国には、今もまだ多くのわだかまりが残っているそうだ。

この博物館ではカナダの違う一面を見た。移民をたくさん受け入れて、実際に差別らしい差別を多く受けた経験もないし、いい国だという印象がある。だけど他の国と同じで、カナダも人種差別や性差別をしてきた/している。

ファーストネーションの人たちは、自分たちの言語や文化を奪われた。無理やり英語を話すように言われ、カナダの文化に従わないといけない。それができないと暴力を振るわれる。

植民地にする際は、最初に文化と言葉と教育を奪って、相手の抵抗力を封じ込めるのが効果てきめんらしい。人間は欲のためなら、いくらでも残酷になれる。自分の中にもそういう一面があるのかな、と考えると怖い。

この写真の子供たちは親から引き離されて、学校で”教育”を受けている。この子たちは自分たちの言語と文化を奪われていくのだ。

こういった学校の跡地からは、子供たちの白骨が掘り出されたのが最近の問題になっている。その骨には虐待を受けた跡も見受けられるそうだ。

明日から、利き手を逆にしなさい。できないのなら、利き手を切断すると脅されたらどうする?利き手を逆にするのは容易ではないと思う。

それ以上に、望んでやりたいわけではないのに自分たちの文化や言語を奪われるのって、受け入れ難い。

言葉を習っている身としては、うまく気持ちを伝えられないのはストレスがかかる。私が日本語と文化を奪われたら、したくないことを押し付けられたら、「自分」っていう人間が分からなくなる。

それに、人種差別だって他人事ではない。

太平洋戦争時はカナダ国籍を持った日本人でも、見た目や親が「日本人」というだけで収容所へ送られた。これまでの地位や財産も没収される。今まで普通に行けてた場所のほとんどが立ち入り禁止になる。その時の新聞記事や勧告書などが展示されていた。

この新聞記事を読んでたら、今!まさに私たちが収容所へ行かないといけない気分になった。明日は我が身。そんなの経験したくないけど、絶対に起こらないとも言い切れない。

身分証を見ると、さらに現実味が増す…

私が一番怖いのは、衣食住が整った安全に生活できる当たり前の日常を奪われてしまうこと。お金は頑張れば稼いで何とか生活できる、賢さも勉強すれば養えるけど、当たり前の日常を奪われるとそれすらも難しくなる。

日本人としてカナダにいて、周りに受け入れられているのは当たり前じゃなかったんだ。

この博物館に来ている人は年代も、性別も、人種もバラバラで、聞こえてくる言語も違う。かつては敵同士だった人種もここにいるかもしれない。

でも今はそれぞれがお互いの領域を侵害することなく、気遣いながら展示物を眺める。歴史で理不尽に殺された人の中には、この状況を望んだ人もいるかもしれない。性別関係なく、好きな人と一緒になるのを認める社会を望んでいたと思う。

人の権利って何だろう?

ここに展示されているものは、”人間”扱いされなかった人たちの歴史だ。「自由」と「権利」という言葉が難しいから、人権についても深く考えることはしなかった。

この博物館の至るところに書かれている言葉、

All human beings are born free and equal in dignity and rights.
(すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。)

を読んでもよく分からなかったけど、旦那さんが分かりやすく説明してくれた。

”自由”は「自分で考え、選び、決めること。(それに伴う結果まで含めて自分のもの。)」
”権利”は「自分の自由を”してもいいよ”と認め、他人のそれを認めて成立し合うもの。」

「英語では、Human Beingsがいわゆる”ひと”とか”人類”の訳になるよね。HumanがBeing(s)と組み合わさっているのは、人っていうのは”人らしくあってこそ・そういう行動をしてこそ”という意図が汲み取れるよね。英語圏的には、個人が人間らしく振る舞ってこそ人間だ、っていう感覚があるんやろうね。

対して日本語の”人間”という言葉。これってオレは良く出来てるなと思っていて、”人の間”、つまり人同士の関係性の中に人間らしさを見た、ってことなんじゃないかな。人の間に生まれるものっていうと、信頼とか絆、愛情とか憎しみとか色々。それってやっぱり人間に顕著に備わってるものやからね。」

「ほぇ〜。」

「ほぇ〜、て。笑 まぁ、そうやって言語をひとつまたいだだけで、”人”に対する当たり前っぽいニュアンスもちょびっとずつ変わるってことやな。こうやって色んな角度から同じものを見て差とか共通点に気づくと、もっと厚みのある考え方になっていくよね。そういう意味でこの博物館はすげぇよ。」

そこに尊厳や人権があるのかもしれない。人間に”ならない”としたら、人間”じゃない”としたら、絆なんて深める必要もないし、虫のように殺すことに抵抗も生まれないのかも。

人権を侵害されている人って、実は多いのではないだろうか。私自身も、自分で何かを決めて行動することも、決めたことを「してもいい」と親に認めてもらったこともない。

私の親は私をひとりの『人間』として見てなかった。『子供』という弱い立場で、親がコントロールできる生き物として見ていたから、親の所有物のようになっていたんだと思う。

Twitterやニュースを見ていてもセクハラ、いじめ、性差別、人種差別、LGBT差別など色んな人が苦しんでいる。でも多くの人が、ホロコーストや世界の問題に比べて「自分よりも苦しんでいる人がいるから、こんなことで音を上げてはいけない」と思う人もいるだろう。

自分と歴史の出来事の大小を推し量る必要はない。どんな出来事であろうと、どんな人であろうと虐げられるのは辛いに決まっている。

「自分だけが辛い」とワガママに振る舞うのは良くないけれど、理不尽なことには声をあげるべきじゃないか。

 人権というくくりにおいて、今まで人は色んな間違いを犯してきたんだと博物館で目にした。でも実のところ、博物館の5Fから上では、今その間違いをどう認識して、これからどう改めて行こうかという展示になっていた。

4Fまでの陰鬱な史実から学んで、どう行動していくか、希望のある未来に繋げていこうという内容と一緒に階を登っていく構造。

博物館の最上部8Fは「Tower Of Hope(希望の塔)」と名付けられ、広大なウィニペグの街が見渡せる、まさに希望に満ちた景色が一望できる仕掛けになっていた。(ただし私はその光景に足がすくんでもいた。それが未来の重圧から来るものなのか、高所恐怖症だからなのかはちょっとわからない。)

心の師匠、偉大な孔子さんはこう言っている。

子曰く、過ちて改めざる。 これを過ちという。
(間違う事が悪いのではない。 間違いを反省して改めない事が悪いのだ)

人が人として生きていれば、間違いや誤解は必ず起こるものだ。それをそのままにしておくのではなく、改めていくことで前に進み、より良く生きていける、ということだと思う。孔子先生すげぇ。

それをするには、やっぱり色んなことを知って、考えて、体験していく外ないと思うし、それなしでは間違いを間違いと認めることすら難しくなってしまうのではないだろうか。

教養。改めて、死ぬほど大事だと思った。
教養とは自分の心を豊かにして、より良く充実した日々を生きること。

自分の頭で考え、自分の目で見たもの感じたもので、出来事を判断する。判断しかねる場合は、自分の知識や経験を広げられるように努力する。

勉強って学生だけに大切なもので、大人になれば学ばなくて良いと思い込んでた。でもそうではなく、大人になったらそこからはより良く生きるために学び続けて行くべきなんだ。

教養には「養う」という言葉がある。私たちがバランスの良い食事をして、体に栄養を与えるのと同じように、学んで心を養わないといけないんだ。そうすれば自分と考えが違う人に同意ができなくても、尊重できるようになる。だから、学びが必要なんだ。

 「色々考えさせられた。」
 「これからも考えていかないといけない問題だ。」

人権や差別など、大きな問題を議論した末によく見かけるこれらの”決り文句”は、何も考えていないのと同じだと私は思う。根本は解決されないし、少し踏み込んで言えば”これだけ議論したぞ、考えたぞ、偉いだろ”という自己満足な言葉に聞こえる。そこからさらに「なら、こうしてみよう!」というところまで言えないといけないんじゃないだろうか。

そのために、私はこれからも学んで、色んな経験をしていく。人権博物館は、その決意をより強くするきっかけをくれたと思う。素晴らしかったし、心底行ってよかった。

さいごに:
旦那さん特製、唐揚げ弁当が美味しかった。


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