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僕が見た世界【ネパール エベレスト街道】No.12

2018年11月21日

八日目②(ゾンラ)

■ゾンラ

ゴーキョとエベレスト街道を繋ぐ道を歩き、氷河の峠を越えたところに、ゾンラ(Zonglha,4830m)と言う集落はあっこの区間は宿も少なく。登山シーズンになると寝床の少ないこの集落人でいっぱいになるそうだが、この日は人の流れなど無いに等しく、昨日のタンナ同様のんびりするにはおあつらえ向きの環境に迎えられた。

空は青く、相変わらず風は穏やかだった。遥か上空には、大きな二羽の鳥が大きな翼を広げて悠々と飛んでいた。鳥はクルクルと旋回し、高度が下がると気流を見つけて上昇した。そしてまたヒマラヤの山々を眺めながらゆっくりと旋回を繰り返した。その様子を見ながら僕は表に出されたイスに腰掛け、そして本を開いた。

■旅の適齢期

ゆっくりと読み続けた沢木耕太郎の本も、ようやく終わりが見えてきていた。元々読書が得意な性格ではなかったが、氏の著書は好んで読んでいた。多分【旅が好き】と言う共通項があったからかもしれない。

そう言うわけもあって、氏の名著''深夜特急''には相当入れ込んだ。シルクロードを旅する姿に自分を重ね、いつかこんな旅がしたいと夢を見ていた。夢を見るだけでは終わりたくないと思い、実際にマレー鉄道に乗ってバンコクからクアラルンプールまでを旅した事もある。その旅で氏の真似事がしたかったというよりは、確認の意味合いを込めて僕はマレー半島に訪れたのだった。

「沢木氏の感じた旅の熱量は、果たしてそこにあるのか?」

と言うことを確かめたかった。更に言えばその確認に、自分らしさを色付けられたらより旅は充実したものになると考えた。結果旅は充分に満足し実り多きものになったが、その話はまた別の機会に話すことにしよう。

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ともあれ、僕は今手元にある''旅する力''からも大きな気づきを得ようとしていた。

その一節には、旅をするにあたって人には適齢期があるという言葉がある。

つまり今歩いているこの旅は、仮に僕が10年若くとも味わえないものであり、仮に20年の歳月を経て経験を重ねたとしても同じ旅にはならないと言うことだ。今する旅は今だからこそ出来るものであり、今だから感じるものがあるのだ。だからこそ尚更今この一瞬を貴重なものとして大切にしなければならなかった。今この一瞬の価値を、僕は確かに胸に刻み込まねばならなかった。

これは旅に限ったことではなく、日常においても言えることだと思った。

二十歳の時にこれをすれば良かったなと思っても時間を巻き戻すことはできない。大切なのは、過去や未来に囚われず今出来ること、やりたいことは恐れずにやってみると言うことなのだろう。自分が自分自身と身に起こることに向き合えれば、必ず学びはあるはずなのだから。

沢木氏の綴った「恐れずに。しかし、気をつけて」という一文は、まさに明日この旅のクライマックスへ向けて歩き出そうとする僕自身に向けられたものだと思った。本を通して筆者と向き合えるのなら、読書というものも悪くないなと初めて思えた昼下がりだった。

■未到着の老夫婦

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僕はゾンラに滞在中、日の出ている時間のほとんどを外で過ごした。それには理由があった。タンナで一晩の宿を共にしたフランス人の老夫婦の到着が気掛かりだったからだ。

今日の行程は若い僕でも厳しいと感じた。それを、老夫婦がガイドなしで歩けるのだろうか。昨晩夫人は激しく咳き込んでいた。体調が悪いのではないか。朝方聞いた話では、彼らもまたゾンラに向かう予定だと聞いた。それならばもういい加減到着してもおかしくはない。しかし二人は来なかった。遠くチョラパスの入り口まで見渡しても、後に続くトレッカーはいなかった。そして、要らぬ心配とばかりに日は沈もうとしていた。夕日に燃えるアマ・ダブラムはとても美しかった。美しかったが、その絶景を素直に喜び切れない自分がいることについても認めざるを得なかった。ただ、無事に着いていればいい。思い過ごしや勘違いであってほしいと願うばかりだった。

■母なる首飾りと呼ばれる山

アマ・ダブラム(Ama Dablam,6856m)は、シェルパ語で「母の首飾り」を意味する急峻な山だ。切り立った山容が美しく、人々の人気を集めるのもうなずける。その姿が首飾りに見えると言うことから、 地元の人々からも愛される山だということは容易に想像できた。出会ったトレッカーに「どの山が好き?」と聞くと、大体がアマ・ダブラムと答える。

この姿を気に入ったのは僕もまた然りで、この美しい山の様々な顔を記憶に刻みたいと思った僕は、凍えるように冷えきった外に出てみることにした。

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月明かりが照らし出したアマ・ダブラムは、もはやこの世のものとは思えない格別の美しさを放っていた。荒野の先にスッと聳えた姿は暗闇の中でもハッキリと雪を携えているのが見てとれる。それが辺りの山の黒いシルエットと対比されて一層輝いて見えた。どの山にも神は宿ると言われるが、この山にもまた常識で語れない不思議な力が宿っていることに間違いはないと感じてしまった。

口から思わず「来て良かったな」と言う言葉がこぼれた。それは心からの気持ちだった。明日僕は予定ではゴラクシェプと呼ばれる集落へ辿り着き、そこで恐らくエベレストを見るだろう。

しかし、それはそれとして僕の心が満たされていることは確かだった。それだけ僕は、ここまで思いを積み重ねてきたのだ。遥か日本では想像も及ばなかったうすぼんやりとした理想を現実のものにするために、僕は自らの足でここへ来て、そして理想を具現化させた。自分の目で見ることで、自らの夢を現実のものへ変えたのだ。

しかし、僕の夢はここで終わりではない。次は僕が見た美しい世界を、世の中の誰かに伝えられるよう言葉を紡ぎたい。その言葉が誰かの踏み止まった足を一歩踏み出す僅かな助けになるのだとしたら、これほど嬉しいことはない。それは使命感にも似た感覚だった。

万感の思いを抱くには少々早すぎたが、それでもその思いに値する景色だった。僕は溢れ出す想いと決意を胸に、いつまでも山を眺めていた。

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