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【目印を見つけるノート】503. 門を越えて外に出ると

おはようございます、こんにちは、こんばんは、どれでもいいように書いておきましょう。今日は俳句の日で、バイクの日だそうです。

今日も雨が来ていますし、他のこともあります。どうかお気をつけて、ご自愛ください。



お盆前後の期間でいくつか、たいへん難しい場面に遭遇しました。5つでしたか。ネットではなくて現実の場面です。「難しい」というのは自分でどう対応するか、向き合うか考えなければいけないということです。
個々のことがらがそれぞれどのようなものだったかを書かないでおきますが、すべて自分自身のことではなく、他者との関わりについてです。

わかりにくいと思いますのでひとつだけ。
電車の中で暴れる人に遭いました。
車両を移動することもできましたが、
その方がほうぼうに叩きつけたり、投げつけているものがぶつからないように祈りつつ、「このような場合はどうしたらいいのだろう」とずっと考えていました。
何駅かあとで、その方は駅員さんと一緒に去っていきました。

ネット上の人間関係は濃いのかなと思います。「交流が盛んなのだな」とよくnoteを見ていて思いますし、1000を越えるスキがついている方もいらっしゃいますね。他のSNSもそうです。
私などはもう、一人相撲もいいところで😅お越しいただけるだけで最高です✨

一方、現実で人と直接会って交流する機会は、私の場合ですが激減しました。もともと多くないからかもしれません。そうか💡

人と、特に知らない人と直接交流することが減ったからだと思うのですが、「どう対応したらいいのだろう」ということに出くわすとうーんと考えてしまうのですね。きれいなことはいくらでも書けますが、スッキリするような解決にいたらないのです。
そのスッキリしない感じは前より増えたようにも思えます。このご時世だからというのもあるのかもしれません。ものを叩きつけたりするのではなくとも、それに近い気持ちを持つ人も多いのだと思います。

私はよく、愛という言葉を使います。そのような気持ちをずっと抱いていたいと思います。ただ、それをいつなんどきでも、特に今は現実で堂々と使えるかというと、そうではないなあと。
仲のいい人たちと和気あいあいとしたり、
愛している人に「愛してる」といわれたりするときならば容易にできるのに、どうしても使えない。

お釈迦さまがまだ出家する前に、自城の東西南北の門を出て4人の人に会いました。
一人は老いた人、
一人は病にさいなまれる人、
一人は亡くなった人。
出くわすたびにお釈迦さまは悩んで考え込みます。お城の中ではそのような人を目にすることがなかったからです。自分もあのように苦しんだり、はかなくなったりするのかと。

そして最後の門から外に出ると、
さっぱりとしたなりの、涼やかな顔をした僧に出会いました。
この頃はもちろん、お釈迦さまのはじめた仏教はないですが、古来からのバラモン教などがあり、僧侶がいました。
その僧と対話をして、王子だったお釈迦さまは出家することを決心するのですね。
ちなみに、このお話は私が小学3年生のときに読んだ、子ども向けの伝記に書いてあったことです。もしかしたら記憶違いがあるかもしれませんので、ご了承くださいね。

5つのことに出くわしてから、このお釈迦さまのエピソードをしきりに思い出します。出家はしないですが😅

お城に住んでいるわけではなくとも、自分のいる場所、属している場所、あるいはネット上のコミュニティでもいいのでしょうが、それらが安全なシェルターになっていることもあるのではないでしょうか。
それはもしかすると、見たくないものは見なくていい世界といえるかもしれません。

そして、
私が今回出くわした難しいものは、門から外に出たときの風景なのかもしれません。そこから私が何を見つけるのかはまだわかりませんが。
それにしても5つって……いったいいくつ門があるのでしょう。なかなかワイルドな門でした。

今日はこちらの曲で。
AZTEC CAMERA『Backdoor To Heaven』

いっとき、ネオ・アコースティックというジャンルが流行りました。縮めて『ネオアコ』ですね。この前、プリファブ・スプラウトを引用しましたが、アズテック・カメラも好きでした。おとなしめできれいなのですが、この曲の歌詞はこう、象徴のオンパレードのように読めます。硬派です。
今日の文章もやや象徴的ではありますが、ものの数ではない。音楽と詞をきれいに合わせる才能に敬服します。

それでは、お読みくださってありがとうございます。

尾方佐羽


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