見出し画像

猫のように暮らしてみたい(その21)

壊れた心を治したい一心で宗教にすがってみようかと考えた。

私は特別どの宗教に傾倒しているわけでもなく、
正月は神社に初詣でに行くし、
親族が死ねばお寺で葬式と何の疑問もなく考える。

クリスマスも楽しむ。
日本人の多くはそうなのではないかと思う。

毎日お経を唱えているかと言えば
それは坊さんの仕事だろう程度の認識だ。
だから仏教徒かと問われると違うと答えるだろう。

外国映画でよくキリスト教が登場する。
キリスト教は彼こそ崇め祈りを捧げる対象だと非常に分かりやすい。

少しでも理解を深めようと聖書を読んでみた。
だが読破は途中であきらめた。
何を伝えたいのかまるで理解できなかった。
長々とした説明文のようで要領を得ない感じだ。

ただ信者は一途にキリストやマリアを崇めている。
それは否定できない。
信者たちの行動や習慣、生活、人間関係などの不具合を
宗教が補っているのだ。

だから祈る、そして救われる。
それで解決できていると思っている以上、
その祈りは有効なのだ。

こういう言い方をすると
ストレス解消法と少し似ていると感じる。


それでは日本人にとって心の拠り所となる宗教とは何だろう。

神様?仏様?今一つ違いが分からない。

日本には神々がいらっしゃる。

神社に祭られているアマテラスノオオミカミなど
様々な神様はみな実在していたらしい。
日本書紀や古事記などの歴史書に書かれている。

ということは、私たちは神々の子孫ということになる。
そして日本には八百万の神という言葉がある。
森羅万象に神の発現を認める日本古来の神観念だ。

たとえば壮大な山、飛沫を上げる滝、
人の力では動かしがたいような大岩、何百年もの樹齢の大木。
土地にも森にも畑にも井戸にも家にもトイレにも神様は存在する。

だからどんな物でも綺麗に丁寧に大切に接しなければならない。

日本人の魂とも言うべき根幹は「感謝」する気持ちなのだ。

「有難い」とその恩恵に素直に感謝と畏敬の念をもって
接することのできる寛容さこそ私たちの魂だ。

物を大切にして手入れをして大事に長く使う。
掃除するのは汚した所をきれいにするだけでなく、
後から使う人のために片づける。

何事にも丁寧に接し決して粗末に扱ってはいけない。
神様が宿っているんだよ、神様が見ているよ。
私の子供の頃でぎりぎりそういった風潮が残っていたように思う。

万物に神々を見出し敬うことで質素でも心豊かに暮らしてきたのだ。
そのことを伝える人がいなくなってしまったのか、
若い世代が聞く耳を持たなくなってしまったからなのか、

あまりに大きな時代の変化に
その大切な事を置き去りにしてきてしまったようだ。



ある日、子猫がたくさん生まれてしまって
里親を探していると、いとこから話が回ってきた。

ウチはもうひびきとしゅうがいるし、
ぶんの世話もあるし無理だよと断ったのだが、
写真を見せてもらった。

まだ1か月ちょっとでひげがげじげじで可愛い。

その後も里親は見つかったのか気になって
聞いたらあと2匹いるという。

ためらいながらも我慢できずにじゃあ一匹引き取るよと言って
三毛っぽいメス猫をつれて帰ることにした。


家に連れて帰ると娘たちから厳しく叱責された。

ウチにはもういっぱいいるのにどうするの!
と文句を言いながらも
ちんまりした子猫には抗えず、
いつもは部屋にこもる娘たちが一向にリビングから離れない(笑)。

かわいくてたまらないのだ。
マーブルチョコ色の子は、ちょこと名付けた。

新しい家族がまた増えた。

                                                        つづく。。。


今日も読んでくださった方ありがとうございます。


田中もなかは読者様のサポートをパワーに執筆活動をしています!よろしくお願いします!