October 7 イスラエルで何が起きたのか 生存者たちの証言

2023年10月7日早朝。イスラムテロ組織ハマスは、イスラエル南部の町々や音楽祭を襲撃…

October 7 イスラエルで何が起きたのか 生存者たちの証言

2023年10月7日早朝。イスラムテロ組織ハマスは、イスラエル南部の町々や音楽祭を襲撃し、老人、女性、子供を含む罪のない1200人以上の市民を殺害、誘拐しました。この残忍な無差別テロを目撃した生存者たちの証言に耳を傾けてください。https://www.october7.org/

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早朝ランニングが死へのランニングに

週末を前に、スデロット、ネティボット、そしてその周辺地域(ガザとの国境付近)の人々が参加しているWhatsAppグループに招待状が送られた: 「おはよう、明日の朝、ヤド・モルデガイ(イスラエル南部のキブツ)を出発して22~24キロのランニングをしよう」。 私はこのメッセージに反応して、ランニングに参加することにした。ナオミが集合時間を尋ねてきて、午前6時に決めた。2023年10月7日土曜日の午前5時55分、3人のランニング仲間がヤド・モルデガイのガソリンスタンドに集合した

    • 父の携帯電話が切れてしまい、両親の消息は全くわからなくなった。

      午前2時まで、19時間半もの間、私たちはセーフルームに閉じこもっていた。 子供たちは、眠りについては爆風のたびに目を覚ます、というのを繰り返していた。救助されるまでの7時間、停電のため、セーフルームは真っ暗だった。私たち夫婦はそれぞれ、子供たちのそばに寄り添った。 両親が生きているかどうかはわからなかった。最後のメッセージのやり取りで、両親は「家に火がつけられた」と言っていた。テロリストがセーフルームのドアを破ろうとし、濃い煙が部屋に入ってきたという。両親は床に這いつくば

      • 放火された家のセーフルームには、車椅子に乗った人たちが取り残されていた。

        朝6時半ごろ、レッドアラートから全ては始まった。私たちは子供たちの寝室でもあるセーフルームへと急いだ。子供たちをなだめながら、今度はどこに避難すれば良いのかと考えた。ジクロンにある妻の実家か、それともエイラトに向かうべきか。 何度も爆発があった。激しい音だった。そして数分後、とても近くで銃声が聞こえた。いまだかつて経験したことのない事態だった。私はすぐに銃を手にし、戦闘服を探した。カーゴパンツ、スポーツシューズに履き替え、外に出た。 キブツ・レイムのセキュリティ・コーディネー

        • すぐ外で人が殺されているのに、私たちには身を守る武器が何ひとつなかった。

          私たちは奇跡によって救われた。 私はネティヴ・ハアサラに住んでいた一人として、実体験をシェアしたい。今でも、当時の記憶は衝撃的で、自分なりの考察を通して説明しようと試みることしかできない。 10月7日、私たちは凄まじい数のロケット弾攻撃と共に朝を迎えた。ロケット弾攻撃には慣れていたが、今回は全く異質だった。 防空壕に身を寄せ合い、私と姉は極度の不安に襲われた。 爆発の不協和音に包まれ、続いて不穏な銃声が空気を貫いた。 それは今までかつて私たちが遭遇したことのない、非常に厳し

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          午前8:10、息子からの連絡は途絶えた。

          2023年10月7日、土曜日。 午前6時。携帯電話のアラームが鳴り響き、いたるところにレッドアラートが表示された。「爆弾が仕掛けられたのだろう。防空壕にこもっていれば終わるはずだ」と私は思った。そのあと数時間におこることが、私と家族にどんな苦痛を与えることになるのか、想像もできなかった。 息子のアミットは、キブツの若者居住区にある自分の部屋に一人で暮らしていた。アミットは、母親であるアディに電話をかけ、どう行動すべきかと尋ねてきた。「シェルターにいて、外には決して出ないよ

          7時間、出血が止まらない状況で、息をひそめ、救助を待ち続けた。

          私はナハール・オズ基地に所属する見張り兵だ。そして、ミグニット(ドアのないコンクリート製シェルター)の地獄から生還した唯一の見張り兵だ。見捨てられ殺された友人たちの記憶を受け継ぐために、あの場所で何が起こったのかを説明し、事実を明らかにすることが私の使命だ。 午前6時30分、私は爆発音に飛び起き、パニックになりながら、素足にパジャマ姿のままミグニットに飛び込んだ。同僚である見張り兵の女の子たちも全員ミグニットに避難していた。私たちは孤独の中、終わりの見えない攻撃の下にいた。

          7時間、出血が止まらない状況で、息をひそめ、救助を待ち続けた。

          側溝を這って避難した。目をあげると、殺された友人の遺体が見えた。

          土曜日、朝の6時半。最初のロケット弾の音は偵察機のようだったから、テルアビブを狙っているのだと思った。いつもは、上空を通過するだけなのでセーフルームに避難することはない。しかし今回は、あまりの激しさにセーフルームに入らなければと思った。夫のナフムと私は防空壕に向かって走った。その途中、家の外の小道に黒い服を着て頭に白い帯を巻いた3人の人影が、台所の窓から見えた。ナフムはキブツの緊急対応部隊だろうと言ったが、私にはそうは見えなかった。 彼らがアラビア語で話す声が聞こえ始め、次

          側溝を這って避難した。目をあげると、殺された友人の遺体が見えた。

          「家に火がつけられて、窒息しそう!」親友とその家族に助けは来なかった

          それは土曜日の朝のことだった。10月7日の悲劇からもう1週間が経ったのだと、頭ではわかっている。けれど、何が起こったのか、私はまだ全く理解できていない。 10月7日 6:30 携帯電話の振動が止まらない。私は徐々に目が覚め、異変が起きていることに気づく。ベッドから飛び起き、急いで服を着て、兄弟のナティに無事かどうかメールする。 ナティは、より穏やかでのどかな場所で暮らすために、2人の娘を連れてキブツ・メフラシムに1カ月前に引っ越したばかりだ(もともとはベエル・シェバ出身)。

          「家に火がつけられて、窒息しそう!」親友とその家族に助けは来なかった

          投げ込まれた手榴弾が爆発したとき、私は一度死んだ。

          これは、私の10月7日の記憶だ。 5:30、イタマル(私のボーイフレンド)、アロン、セゲヴ、アイレット(イタマルの友人)、そして私は、NOVA音楽祭の会場に到着した。私はみんなと別れ、南から別の車で到着した友人たちのもとへ向かった。音楽祭は予定通り行われていた。すべてが順調だった。 友人のゲフェンと話していると、彼女は「イスラエル緊急情報アプリで、レッドアラート(ガザ地区からのミサイルを知らせるサイレンのこと)の警告がたくさん鳴っている」と教えてくれた。突然、ロケット弾の

          投げ込まれた手榴弾が爆発したとき、私は一度死んだ。

          脱出しようとセーフルームの窓を開けた瞬間、銃弾が私の手を撃ち抜いた。

          すべては10月7日土曜日の午前6時30分に始まった。ロケットの弾幕が始まり、レッドアラートのサイレンが鳴り響いた。 私はすぐにセーフルームに避難した。爆撃はすぐに収まるだろうと思いながら。しかし、セーフルームの中で時間が経つにつれ、これは普通の攻撃ではなく、テロリストがこの地域に潜入したということが明らかになった。 セーフルームから出ることができず、充電器、水、メガネなどの必需品が足りなかった。両親や友人とはWhatsAppで連絡を取り、互いの無事を確認し合った。 しかし、

          脱出しようとセーフルームの窓を開けた瞬間、銃弾が私の手を撃ち抜いた。

          私たちは疲れ果て、道の真ん中に立ち尽くし、助けを求めて手を振った。

          午前6時、ダンスフロアは熱気に包まれ、幸福に満ちた美しい人々が日の出を待っていた。音楽祭の日の出ほど素晴らしいものはない。最高のシーンだ。 しかし日の出は、空いっぱいに広がる大量の「光」にその座を奪われた。音楽が止み、レッドアラートのサイレンの音が響いた。「光」は大量の弾幕だった。ニュースでしか見たことのないような、そして南部に住む人々しか知らないような激しさだった。体はショックで硬直したが、今すぐ逃げなければならないとわかっていた。 数秒で下したその決断が、おそらく私たち

          私たちは疲れ果て、道の真ん中に立ち尽くし、助けを求めて手を振った。

          夫に1時間ごとに連絡をした。私がまだ殺されていないことを知らせるために。

          リオル・ワイツマンと私は、夜明けとともに出発することにした。私はベエリからネティボへ、彼はスデロットからネティボへ向かった。私たちはネティボで落ち合い、いつもの土曜日と同じように一緒に走ろうと計画した。 午前6時10分(10月7日)、リオルは出発するという連絡と共にリアルタイムの位置を送ってきた。私は靴を履き、サイクリングレーダーとパルスモニターを装着し、リオールとリアルタイムの位置を共有して出発した。この時間、キブツ・ベエリはまだ眠っている。すべてが静かで平和だった。私は

          夫に1時間ごとに連絡をした。私がまだ殺されていないことを知らせるために。

          「逃げるチャンスだ!」そう思ったが、テロリストに捕えられてしまった。

          レッドアラートのサイレンとミサイルが鳴り止まない状態が30分ほど続いた後、ハマスのテロリストがキブツのあちこちにいるというメッセージが届き始めた。息子のサギからも「病院の近くを2人のテロリストが歩き回っている」「2人のテロリストがバイクに乗っている」という連絡が入った。2023年10月16日現在、息子はまだ行方不明だ。 サギは私にドアに鍵をかけるように言ってきたので、私はその通りにし、1人でセーフルームに入った。アラビア語を話す人たちの声があちこちで聞こえ始めた。彼らは私の

          「逃げるチャンスだ!」そう思ったが、テロリストに捕えられてしまった。

          私は心の中で懸命に、死ぬ覚悟を固め始めた。

          今朝目が覚めた時、自分の体験を証言しようと思った。自分でもなぜかはわからない。おそらく、あの体験を振り返る心の準備ができたのだろう。経験した恐怖を世界中の人に知ってもらうためなのかもしれない。一番は、自分自身に刻み込むためだろう。愛する人たちと祝杯をあげ、疲れを癒すべき場所で起きたこの恐ろしい出来事の中で、自分が迂闊に命を落としそうになったことを。 私とユヴァルはNOVA音楽祭の会場に着いた。私たちはコロンビアのどこかで出会ったのだが、私たちが初めて一緒に行ったのは、数奇な

          私は心の中で懸命に、死ぬ覚悟を固め始めた。

          「耳を塞いでいなさい」と子供達に言った。もし、生きてここを出られたとしても、この喧騒を覚えているべきではないのだから。

          私自身の精神的なリハビリのため、2023年10月にキブツ・レイムで起きた虐殺について、実体験を記すことを決めた。 最後の週末は楽しいものになるはずだった。子供たちのスコット休暇の2週間の締めくくりであり、子供たちが学校に戻る準備をする週末だった。いよいよ日常に戻らなければ。 木曜日には友人たちの助けを借りて凧揚げをした。そのわずか3日後、同じ空いっぱいにテロリストが襲来し、破壊と殺戮の限りを尽くすことになるなんて… 10月6日金曜日には、2年間にわたる子供たちと夫のシャイの

          「耳を塞いでいなさい」と子供達に言った。もし、生きてここを出られたとしても、この喧騒を覚えているべきではないのだから。

          彼は命乞いをしたが、拉致されて行った。私たちはなす術もなく、彼を助けることは出来なかった。

          一体何がどのように始まり、どのように終わったのか… 午前4時半にNOVA音楽祭に到着した。笑顔、ハグ、たくさんの友人たち、そして溢れるほどの愛で会場は満たされていた。まもなく幕が上がろうとする悲劇について、私たちは知る由もなかった。 午前6時15分頃、ロケット弾で空が光り始めた。イスラエルに住んでいれば、珍しいことではない。しかし、その5分後に起こった出来事は、完全に不意打ちだった。 とにかくミサイルが次々と飛んできたので、みんな一気に車に戻った。しかし入口付近がすぐに

          彼は命乞いをしたが、拉致されて行った。私たちはなす術もなく、彼を助けることは出来なかった。