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「今が逃げるチャンスだ!」と思って外に出たら、テロリストに捕えられてしまった

レッドアラートのサイレンとミサイルが鳴り止まない状態が30分ほど続いた後、ハマスのテロリストがキブツのあちこちにいるというメッセージが届き始めた。息子のサギからも「病院の近くを2人のテロリストが歩き回っている」「2人のテロリストがバイクに乗っている」という連絡が入った。2023年10月16日現在、息子はまだ行方不明だ。

サギは私にドアに鍵をかけるように言ってきたので、私はその通りにし、1人でセーフルームに入った。アラビア語を話す人たちの声があちこちで聞こえ始めた。彼らは私の家に入り、何もかも壊していた。私はベッドシーツ類をしまっていた戸棚に身をひそめた。
義理の娘から、「家にテロリストがいる」とメッセージが届いた。私も「この家にもいるわ」と返信した。
ほどなくして、テロリストたちが家々に火をつけ始めていること、そしてセーフルームのドアの周りに濡れタオルを置いた方がいいなどとメッセージが流れてきた。

彼らが家から出て行った音が聞こえたので、私は素早くタンスから出て、ペットボトルの水を取ってすぐにセーフルームに戻り鍵をかけた。しかし、それでも煙がどんどん染み込んできた。部屋の窓を開けたが、ベランダのパーゴラも燃えていた。窓を閉めると、部屋全体が煙で充満し始めた。外に飛び出すと、隣人が2人のテロリストを射殺していた。

「今が逃げるチャンスだ!」と思い、外に飛び出したが、間違いだった。私も隣人も他のテロリストに捕まってしまった。私は裸足のままで、逃げられないようにきつく拘束された。アラビア語は一切理解できないが、逃げようとするなと言っていることは理解できた。彼らは裸足の私を畑の方角、キブツの裏門、つまりガザの方へと歩かせた。その道すがら、炎に包まれた家々を目にし、燃えている家からは誰も生きては出られないのだと理解した。私は生きるために、出るしかなかったのだ。

ガザへと向かう道を150メートルほど歩いた。テロリストたちが略奪品の数々をいれた膨れあがったスーツケース、テレビ、さらにはお年寄りたちが使っていた電動ワゴンなどを持って歩いているのを見た。彼らはキブツからあらゆるものを略奪していた。私と一緒に捕まった隣人は息子を殺され、夫を連れ去られたと言った。「私たち離れないで一緒にいて、次にどうするべきか考えましょう」と、彼女に言うだけで精一杯だった。

さらに150メートルほど歩くと、荷車を引いたトゥクトゥクが私たちの横に停まった。荷車には5人乗っていて、みんなキブツの人たちだった。私の良き友は3人の小さな女の子を連れていた。3人のうち2人はまだ立ったの3歳で、みんな泣いて途方に暮れていた。
私たちも荷台に乗せられ、ガザに向かって走り続けていると、上空にイスラエル国防軍のヘリコプターが現れた。そして、ヘリコプターはテロリストや運転手たちを銃撃した。トゥクトゥクから悲鳴が上がった。

テロリストたちは全員死んでいた。そして、私たちは生きていた。一緒にいた一人の女性を除いて。彼女は、キブツにちょうど遊びに来ていた娘の腕の中で死んでいた。その娘はその母から離れようとはしなかった。
私と友人はそれぞれ荷台にいた女の子を1人ずつ抱きかかえ、荷台を降り、荒野に向かって走り出した。そこには、双子の女の子を持つ若い夫婦もいた。(でもカートには双子のうち1人しかいなかった)。この夫婦も私たちと一緒に走り出した。母親が撃たれた女性は荷台を離れようとしなかった。私たちは、荷台にまだ残っていた、死んだ母親を抱きかかえている娘に向かって叫んだ。母親はもう死んでしまったのだから、私たちと一緒に逃げなさいと呼びかけたが、彼女は泣き叫んだ。「母は私の腕の中で死んだ!娘たちのことも守れなかったの!」

荒野を50メートルほど走ったところで、私は頭、膝、背中に飛んできた破片が刺さった。私は血を流して地面に倒れ込んだ。そこに1台のトラクターが現れた。それは普段、私が仕事で使っている私のトラクターだった。しかしそこにはテロリストたちが乗っていた。彼らは私たちを見つけ、トラクターに乗せて連行しようと向かってきた。
私は、助かるなら今しかないと思い、死んだふりをすることにした。彼らは私を無視して過ぎ去った。しかし、3人の幼い女の子、双子の少女の両親、その場でまだ生きていた全員がガザに連れて行かれてしまった。

多くの車がテロリストたちと略奪品を積んで通り過ぎた。IDFのヘリコプターが頭上にいたので、私は自分が生きていることを彼らに知らせ、前に進もうとした。そしてテロリストが通り過ぎるたびに死んだふりをした。血まみれだったので、この作戦は成功した。
正午になると暑くなり、畑の灌漑パイプから水を飲んだ。そしてタマリスクの並木に向かって進んだ。畑の中の道はすべて知っている。顔を上げると炎に包まれたキブツが見えた。キブツ・マゲン、キブツ・ニール・オズ、キブツ・ニリム…みんな燃えていた。

帰る場所があるかどうかわからなくても、私は子供たちのもとへ戻り、彼らの安否を確認しなければならない。そう自分に言い聞かせ続けた。私には2人の子供と4人の孫がいる。そのことだけが私を突き動かした。

私は荒野を2時間這って進み、ようやく自分のキブツにたどり着いた。燃えていない場所を探した。もう足の感覚がなかった。目に映る全てが破壊し尽くされていた。
ポグロム(大虐殺)を表現できる言葉などない。すべてが焼け、壊れ、家は残っていなかった。木造家屋は炎に焼かれ、金属製のセーフルームだけが残骸の中に残っていた。恐ろしい光景だった。
娘の家にたどり着くと、家は放火を免れていた。ドアを叩いたが、開けてもらえなかった。「オフィール、お母さんよ!」と叫んでも、彼らは私をテロリストだと思ったのか、開けてくれなかった。ようやくドアを開けてくれ、私は部屋のマットレスに倒れこんだ。私はあちこち出血していた。その時から、私は未だ行方不明の息子の情報を探し続けている。

私が生きていることをキブツのみんなに知らせるようにと家族に言った。
後にレスキュー隊が到着し、応急処置をし、ベエルシェバのソロカ病院に避難させてくれた。実際は、彼らが到着するまでに何時間もかかった。私がキブツに戻ったのは13時30分だったが、その時点で軍はまだ到着していなかった。テロが始まったのは朝の6時30分だ。7時間が経っても1人の兵士も助けに来ていなかった。キブツにたどり着いた時、私は、子どもたちを見つ出すと心を決め、家までの道を歩いた。テロリストに背後から撃たれるのではないかと怯えながら。

これが私の生きるための戦いだった。子どもと孫たちに会うために。キブツは完全に破壊されてしまった。帰る場所も、再建の見込みも全くない。どうしてこんなことになってしまったのか、途方に暮れている。

私の心はトラクターで攫われてしまったあの人たちとともにある。けれど私は、自分自身を救い出し、自分の子どもたちを助けに行かなければならなかった。

ネオミット・D (63歳)


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