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夫に1時間ごとに連絡をした。私がまだ殺されていないことを知らせるために。

リオル・ワイツマンと私は、夜明けとともに出発することにした。私はベエリからネティボへ、彼はスデロットからネティボへ向かった。私たちはネティボで落ち合い、いつもの土曜日と同じように一緒に走ろうと計画した。

午前6時10分(10月7日)、リオルは出発するという連絡と共にリアルタイムの位置を送ってきた。私は靴を履き、サイクリングレーダーとパルスモニターを装着し、リオールとリアルタイムの位置を共有して出発した。この時間、キブツ・ベエリはまだ眠っている。すべてが静かで平和だった。私はキブツを出て、アルミム方面に向かった。

200メートルほど走ると、ひどいロケット弾が始まった。アイアンドームが作動し、ロケット弾を一つ一つ迎撃していた。私は自転車から飛び降りて道路脇の溝に横たわり、両手で頭を覆った。リオルに電話をかけ、激しいロケット弾が飛んでいるから気をつけるようにと伝え、落ち着いたら引き返して家に帰ろうと付け加えた

道路を走っていた車が私の隣に止まった。何人かは降りてきて私の隣に横になり、ロケット弾の写真を撮る人もいた。ほとぼりが冷めた頃、私は自転車にまたがり、キブツ・ベエリの分岐点まで200メートルほど戻り、ミグニット(ドアのない小さなコンクリートのシェルター)に入った。近くで開かれていたNOVA音楽祭に参加していた人たちや、サイクリングを計画していた他のサイクリストたちも加わって、シェルターは混雑した。私は機会を見て、混雑した防空壕を出て家に帰ろうと決めた。

道の真ん中を走る3人の人影が見えた。私は彼らに見覚えがあった。(ベドウィンの町)ラハトから来たキブツの食堂の従業員で、手を振りながら何かを叫んでいた。最初は、彼らが何を叫んでいるのか理解できなかったので、私は自転車のスピードを落とし、完全に立ち止まった。彼らは私のところまで来ると、苦しそうに、テロリストがキブツに侵入し、(キブツに駐屯していた)軍の治安部隊長や他の人々を射殺したと言った。彼らは私に逃げろと言った。また彼らは、テロリストに彼らの車と携帯電話を奪われたが、アラビア語を話して「私たちはパレスチナ人だ」と言ったので見逃してもらえたのだと言った。

私は迷わず自転車を横に投げ出し、彼らと一緒に交差点に向かって走り出した。サイクリングシューズは走りにくかったので、ある時点で脱いで走り続けた。一緒に走っていた従業員の一人が私に言った。「誰も信用してはいけない。車に乗せてもらってここから出よう」
私たちは交差点にいた人たちに向かって、「テロリストがいるから逃げろ!」と叫んだ。でも、彼らは私たちの言うことを理解しておらず、聞こえてもいないようだった。私たちは道路の反対側に渡り、車を止めようとしたが、一台も止まってくれなかった。

すると、私たちを追い越していった車が突然、向きを変えて引き返してきた。そのうち一台の車から「前方で銃声がした」と叫ぶ声が聞こえた。私はショケダに向かって(東に)走り、そこからネティボに向かうことにした。私は以前一人で走っていたので、そのあたりの地理はよく知っていた。しかし、兄からメッセージが届き、私が走ろうと思っていた方向でキブツのサイクリストが撃たれたと告げられた。その事実で計画は変更を余儀なくされ、私たちはテロリストたちに包囲されているのだと理解した。

私は一緒にいた従業員に、「逃げ場がないから茂みに隠れよう」と言った。棘があろうがなかろうが、鬱蒼とした茂みを探し、私たちは何も考えずに茂みの下、棘の間に横たわった。私たちは何も話さなかった。かろうじて息をしていた。私の携帯電話を通して、従業員は家族にメッセージを送り、警察に通報するか、ラハトの誰かに来てもらい、私たちを救出してくれるよう頼んだ。

そのとき、道路からテロリストの声が聞こえてきた。彼らはオートバイ、車、耕運機付きのトラクターなどに乗っていた。ヘリコプターが空を飛んでいた。銃声、レッドアラートのサイレンが辺り一帯に鳴り響き、私たちの隣で爆発した何かからの強い爆風があった。今思えば、それはついさっきまで私が隠れていた防空壕に投げ込まれた手榴弾だったのだと思う。そこにいた人たちは殺され、火の匂いがした。様々なロケット弾や銃弾が飛んできて、もう立ち上がれないと思った。

私は自分がまだ生きていることを知らせるため、1時間ごとにオムリにメッセージを送った。キブツのWhatsAppグループのメッセージを通して、私は向こうで何が起きているのかを理解していた。どうかテロリストが我が家に侵入しないように、そして私の家族が命からがら脱出できるように祈った。ありとあらゆる考えが頭を駆け巡ったが、自分を落ち着かせ、パニックにならないように自分に言い聞かせた。様々な呼吸法を使った。爆発と銃声の多さから、うつぶせと仰向けの体制を何度も繰り返した。頭を守るために自転車用のヘルメットをかぶり、サングラスを隠し、太陽の光で反射しないようにした。

7~8時間後、ラハトの人たちが助けに来てくれた。彼らは私たちに写真を送ってきて、「すぐ側まできたからこちらに走ってくるように」と呼びかけた。私たちは彼らのいる方向に走り始め、そして乗り込んだ車は発進した。
この時点ですでに多くの軍隊がこの地域を捜索していたようで、兵士たちは私たちの車を見つけると、止まれと叫んだ。彼らはアラブ人とベドウィンの区別がつかず、彼らをアラブ人だと思ったのだ。私たちはすぐに車から降り、兵士たちに撃たないでくれと叫んだ。兵士たちは用心深く私たちに近づき、身分証明書の提示を求めた。彼らはベドウィンと一緒にいる私を見た時、私が人質に取られているのかもしれないと不審に思ったのだった。

この時、私は立ち上がることもできず、泣き崩れた。
兵士たちは怪我はないかと尋ねたが、私はないと答え、そこから逃がしてくれるよう頼んだ。彼らは、私たちと一緒にいたベドウィンの人たちはただ私を助けに来たのだと理解してくれた。そして私たちに、茂みで見つけた別の2人と合流するよう指示し、私たちを解放した。さらに私たちに、パティシュで集会があるから車で向かうように言った。ベドウィンの人々はこのあたりの地理を把握していて、どの方向に車を走らせればいいかを知っていた。

途中、放置され、焼かれ、破壊された車を見た。生き残っている人影はなかった。地平線上、ガザ国境付近のキブツの方角には、暗い煙が立ち上っているのが見えた。拘束されたアラブ人たちが、イスラエル国防軍の軍隊の横で、目を覆われ手を縛られているのを見た。

私たちはパティシュに到着し、そこからオファキム警察署に向かった。NOVA音楽祭から逃れてきた多くの人たちがそこにいた。ある人は血を流し、ある人は茫然自失としていた。みんな地面に横たわっていたので、砂埃で汚れていた。それぞれが自分の体験談を持っていた。さらに何度かロケットのサイレンが鳴り響き、オファキムをうろつくテロリスト集団がいるという情報が入ってきた。私は不安になり、防空壕に入りしばらくそこにいた。

この時、兄弟たちに連絡をした。義理の姉と甥が殺害され、兄と姪が病院に避難し、他の兄弟たちも駆けつけるところだと聞いた。母ともなんとか話すことができた。
私は泣き崩れた。座り込んで泣き続けた。しかしそのすすり泣きは、この悲劇の甚大さと、この試練を通して私が得た幸運の大きさにまだ気づいていない、ただ心が折れた者の嗚咽だった。

警察官の一人が、ベエル・シェバ行きのバスがあることを教えてくれた。オファキムには誰も残ることができないので、私もここを去らなければならないということだった。
バスに乗った後、ラハト出身でキブツ・ベエリの食堂の支配人から電話があった。「あなたを守りに行きます。あなたが行きたいところどこへでもお連れしますよ」と彼は言ってくれた。私は「ベエル・シェバ行きのバスに乗っているんです」と答えた。彼は車で私の乗るバスのすぐ後ろを走ってくれた。「バスが止まったらすぐに車に一緒に乗ってください」と彼は言った。それで私はバスを降り、仲間の車に乗った。彼らは私に何か飲み食いするものを買うためにラハトに立ち寄った。オムリの父親はキルヤット・ガットで待っていてくれた。彼が危険な地域に近づきすぎないようにと、私たちが待ち合わせ場所を指定したのだった。無事オムリの父親と合流し、私は彼の車に乗り換えた。そこから車でクファル・ハナギドに向かった。

リオルとの出会いは、私たちがハル・ラーメク(「山から谷へ」毎年開催される長距離自転車レース)の運営を始めたときだった。彼がグループに加わった当初から、昔からの仲間のように感じた。彼はトライアスロンの世界に入ったばかりで、多くの質問をし、いつも積極的に学ぼうとしていた。彼はトライアスロンのため、そして私はイスラマン(イズラマン・ロングディスタンストライアスロン)のために準備をしていたので、私たちは土曜日に一緒にサイクリングをすることにした。大会が近づくにつれて長くなる土曜日のサイクリングを調整するために、リオルはこの地域のサイクリストたちとWhatsAppグループを開設してくれた。私たちはアシュケロンとアシュドッドのトライアスロンを一緒に完走した。私たちはお互いにゼッケンを書いて待ち合わせし、土曜日のライドはおしゃべりと笑いに満ちていた。リオルはユーモアのセンスがあり、いつも笑顔だった。

アシュドドのトライアスロン大会の最後、私が表彰台に上がり、リオルが写真を撮った後、彼はこう尋ねた。「アヤ、僕が表彰台に上がれるのはいつだろうか」私は答えた。「私が知っているあなたと、あなたの決断力を持ってすれば、表彰台に立つあなたをこれから何度も見ることになるわ」
そして、土曜日のサイクリングと大会のパートナーだったリオルが、スデロットの入り口で撃たれて亡くなったことを知った。私たち全員にとってあまりにも辛い喪失だ。

失意のどん底で、気を失いそうだった。誰かがMDA(マゲン・ダビデ・アドム:救急救命士と救急隊員の組織)に電話して、私のバイタルを測ってくれたが、身体的には大丈夫で、すべてのバイタルは正常だと言われた。病院に行くことを勧められたが、私は行かないことにした。目を閉じると、銃声と戦争の音が聞こえた。眠れなかった。キブツのWhatsAppグループを常にチェックし、オムリと子供たちを避難させることができたかどうかを確かめた。
翌日の早朝、IDFがセーフルームの窓からオムリと子供たちをなんとか救出させることができたと連絡があった。家のドアは全く動かなくなっていたそうだ。さらにみんな無事にクファル・ハナギドに到着した。

私の自転車は私の命を救い、すべてが始まったときから私がキブツにいないように導いてくれた。子どもたちを守ってくれた夫の命も、おそらく私の自転車が救ってくれた。もし私がその場にいたら、彼は救急隊に加わっていただろうから。

ベエリでは戦闘が続いていたため、私の両親はかなり遅れて救出されたが、無事だった。兄は2度の手術を受け、大量に出血してしまった足を切断することになりそうだ。姪は脚に突き刺さった破片を取り除く手術を受けたが命は助かった。クファル・ハナギドのWhatsAppグループで衣服を募り、なんとか全員の服と靴を手に入れることができた。

まだ銃声の幻聴が聞こえるが、自分を落ち着かせ、すべては気のせいだと思い直すよう努めている。子供たちのためには彼らが友達と一緒にいるのが一番なので、今はみんなで死海に行く準備をしているところだ。

友人の訃報や、行方不明になっているという連絡が次々と入ってくる。何が起きたのか、まだ全貌が明らかになっていない。起きてしまったことは決して元には戻らない。

ささやかなブラックジョークで、この証を締めくくろうと思う。私のガーミン・ウォッチ(高性能スマートウォッチ)は、私が乗り捨てた自転車の上に置き忘れてしまった。もし、どこかの警備隊が私の自転車と時計を見つけたら、ウォッチのアクティビティを終了してほしい。今、私たちは傷ついた心を修復することに集中しなければならない。それが修復できるのかはわからない。私たちの心は壊れ、打ち砕かれ、平静を失ってしまった。今も時折心が折れそうになるが、子供たちのために自分を取り戻している。
私たちが(まだ)生きていることを、幸運の星に感謝している。

アヤ・M

出典:Runpanel

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