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投げ込まれた手榴弾が爆発したとき、私は一度死んだ。

これは、私の10月7日の記憶だ。

5:30、イタマル(私のボーイフレンド)、アロン、セゲヴ、アイレット(イタマルの友人)、そして私は、NOVA音楽祭の会場に到着した。私はみんなと別れ、南から別の車で到着した友人たちのもとへ向かった。音楽祭は予定通り行われていた。すべてが順調だった。

友人のゲフェンと話していると、彼女は「イスラエル緊急情報アプリで、レッドアラート(ガザ地区からのミサイルを知らせるサイレンのこと)の警告がたくさん鳴っている」と教えてくれた。突然、ロケット弾の発射音が聞こえ始め、私たちの頭上にロケット弾が飛んでくるのが見えた。これらの出来事はすべて、私たちがパーティー会場に到着してから1時間のうちに起きた。

私はすぐにイタマルに電話し、どこにいるのか尋ねた。彼はすでに友人たちと私の方に向かっていた。私は彼を見つけて電話を切り、一緒に車へと急いだ。
そのとき、私の携帯は、私が気づかないうちに母に電話をかけていた。寝ていた母は起きてしまい、すぐに電話をかけ直してきた。「アガム、なぜ電話をかけてきたの?」「お母さん、パーティー会場でサイレンとロケットの音が聞こえているの。今から車でここから離れようとしているから」

NOVAの上空で打ち上げられるロケット

私は、アイアンドームがロケットを迎撃する様子や、人々が走って逃げている様子を写真を撮って友人に送った。実は今日、その写真に写っている人が、その後避難した防空壕で私と一緒にいたことに気づいた。
私たちは全員車に戻り、幹線道路に向かって車を走らせた。ようやくたどり着き、私たちは北に向かおうとした。しかし、警察官が北側の道路を封鎖していたので、私たちは南へ向かうしかなかった。

しばらく走った後、私はキブツ・レイム交差点にバス停とミグニット(ガザ地区付近の道路沿いにあるドアのない小さなコンクリート製の防空壕)があると言った。ミサイルが当たらないように、事態が落ち着くまで防空壕の中で待つのが一番賢明だと思った。まさかその時、何百人ものテロリストが国境に侵入し、何千人もの市民を殺害し、強姦し、斬首し、焼き殺し、怪我を負わせるなどというシナリオは想像もしていなかった。

私たちは避難所に入り、徐々に多くの人々が到着し始めた。サイレンが聞こえたらシェルターに入り、静かになったら外に戻った。「オテフ(ガザ地区と国境を接する町や村)の住民が、ここでずっとこんな生活をしているなんて信じられない」と私は自分に言い聞かせた。和やかな雰囲気だった。人々は笑い合い、心を通わせた。

すると突然、ガザ方面から銃声が聞こえ始めた。何が起きているのか理解できなかった。避難所には、とても親切な地元のムスリムの男性も避難していた。周辺をパトロール中だった彼は、「テロリストが潜入しているのかもしれない」と言った。

防空壕にいた誰かの携帯に、彼の叔母から電話が入った。「テロリストがすべての車に向かって発砲しているから、南へ車を走らせてはいけないそうだ」と彼は言った。その瞬間、私たちは防空壕に隠れる必要があることに気づいた。防空壕の中には、スズメバチの巣が2つ、土、ゴミ、人糞が散乱していた。

数分後、オレフ部隊のアナー兵士が到着した。彼は「テロリストが国境に潜入しているが、比較的遠くにいるから問題はないだろうと友人から聞いた」と言った。彼はまた、「レイム軍の基地はそう遠くないし、国内で最も大きな基地のひとつだから、落ち着いて行動すべきだ」とも言った。「では、なぜこんな近くで銃声が聞こえるの?」と私は尋ねた。アナーは「開けた場所で撃っているから、近くのように聞こえるんだよ」と答えた。私は楽観的でいようと努めた。

さらに時間が経ち、突然アナーが言った。「テロリストたちは、南へ向かう道の次の左折地点まで近づいてきている」
彼は自分の部隊の友人数人と連絡を取り合っていた。
私たちは全員、できる限り身を寄せ合った。その狭い防空壕に、25人ほどの人々がいた。私はシェルターの左端にいて、イタマルは私の隣にいた。

テロリストの足音、オートバイやトラックで近づいてくる音、そして銃声と叫び声が聞こえた。

アナーは非常に勇敢で、入り口に最も近い一人だった。もしテロリストが手榴弾を中に投げ入れたら、できるだけ多くの手榴弾を外に投げ返すことを自分に課し、また、自分一人ですべてを投げ返せない場合に備えて、近くにいる人たちにも手榴弾を投げ返す準備するように頼んだ。テロリストの声を聞いた瞬間から、私は床に座り込み、目も耳も固く閉ざした。イタマルは、私の上に乗りかかった誰かに、「彼女が窒息してしまうから退いてくれ」と頼んだ。

そこにいる全員が、今から何か悪いことが起こると悟った。私は1分間に200回も鼓動する心臓を落ち着かせるために、ずっと「シーッ」とささやき続けた。人がひしめき合う防空壕で、私たちはできるだけ息を潜めた。テロリストが入り口に近づいてくるのが聞こえ、誰かが「シェマ・イスラエルの祈りを唱えよう」と言った。

次の瞬間、私たちと一緒にいたムスリムの男性が外へ飛び出して叫んだ。「私はムスリムだ!私はムスリムだ!彼らを傷つけるな!」怒鳴り合う声が聞こえたが、彼がどうなったかはわからない。
テロリストたちは手榴弾や閃光弾を投げ始め、さらに防空壕のなかにRPGを乱射した。いくつかの閃光弾はシェルター内で爆発し、すべてがスローモーションのようだった。入り口付近で爆発したものもあれば、入り口のすぐ外で爆発したものもあった。私は「死にたくない、死にたくない」と言い続けた。8~11個の手榴弾が投げられる間、この状態が続いた。

アナーは最大限に本能的で勇敢な行動を繰り広げ、いわゆる爆発手榴弾を含め、ほとんどの手榴弾を投げ返した。さらに別の人も、1、2個の手榴弾を投げ返した。しかし、そのうちの1つが内部で爆発してしまった。

その爆発の中で、私は一種の死を体験したと思う。自分の体が小さな生き物に変わっていくような、誰かが自分を折り畳んでいるような、黒い空間に吸い込まれていくような感覚を覚えた。何も聞こえなかったし、何も見えなかったが、安らかな気持ちで、「死後には何が起こるのだろう、自分の人生が自分より先に過ぎ去るのはいつなのだろう」と考えていた。心臓の鼓動は感じなかった。頭の中で霊が私に何かを囁いているような声が聞こえ、私にはもう体がなく、すべてが無に縮んでいくのを感じた。頭のてっぺんから大きな光が浮かび上がってくるのを見た。それは私の魂のように感じた。

突然、頭の中でイタマルの声が聞こえた。
「そばにいてくれ、そばにいてくれ」
私は「イタマル、私は死ぬのよ」と言った。
「死なないよ。僕と一緒にここにいるよ」と彼は言った。
「私の声が聞こえるの?」と尋ねると、彼は「ああ、美しい声だ。大丈夫だ」と言った。
「もう耐えられないわ。死んでしまう」
「君は僕と一緒だ、そばにいてくれ」
「今戻ったら、元の自分に戻れなくなるのが怖い」
イタマルは私の言葉をほとんど聞かず、ただ一緒にいてくれと言った。その時、私は魂が戻ってくるのを感じた。目を開けると、オレンジ色の塵しか見えなかった。

そして、叫び声が響き渡っていた。人々は殺されたり、重傷を負ったりしていた。「手がない!」と誰かが叫んでいた。私は再び目を閉じた。そしてまた、テロリストたちが叫びながら入ってくるのが聞こえた。誘拐と銃の乱射、どちらが先だったかは覚えていない。誘拐だったと思う。彼らは人々を引きずり出し、ここから出て行けと言った。

人々は「行きたくない!」と叫び返し、テロリストたちと戦おうとした。また人々はアラビア語や英語でテロリストに話しかけようともした。「サラーム」「頼むからやめてくれ」と言った。
私はできるだけ目立たないよう、必死で身をかがめた。
彼らが連れて行った少女のうち一人だけ、トラックに乗せるスペースがないからと防空壕に戻され、結局彼女は生き延びた。のちに、友人のアロンが人質に取られたことがわかった。

そして再びテロリストがやってきて、あちこちで銃を乱射した。私はできるだけ縮こまり、死んだふりをした。イタマルが生きていて、私の近くにいることを確認するために、再び目を開けた。イタマルは生きていた。「アガム、手を撃たれた」と彼は言った。そして後先考えずに、どんなに痛くても、開いた傷口を押さえて止血した。その間も、外ではロケット弾が降り注ぎ、テロリストが銃を乱射していた。人々は叫び、血を流し、死んでいった。

イタマルは銃弾に腕を貫かれた。私も撃たれて脚に穴が開いたが、おそらく壁か前にいた人に当たった弾丸だったため傷口はそれほど大きくはなかった。こういうときは宝石を身につけてはいけないということを何かで聞いたことがあったので、宝石をすべて外していたが、兵役に入る前に母からもらったブレスレットだけは外すのを忘れていた。腕に火傷を負ったが、それでもブレスレットが腕に残っていてよかった。

それからは、テロリストが戻ってきて私たちを殺さないように、できるだけ静かに過ごすようにした。シェルターの外で声が聞こえるたびに、私たちは遺体の下に頭を下げて死んだふりをした。顔についた血を落とすため、シャツを脱いで歯で引き裂いた。イタマルに止血帯を作ろうとしたが、うまくいかず、シャツが破れてしまった。イタマルはできる限り傷口を押さえた。最初は穴が1つ開いているだけだと思ったが、後で2つ開いていることに気づいた。その間、私たちの足の上には遺体が折り重なり、身動きがとれなかった。私たちの友人や、ほんの少し前まで一緒に話したり笑ったりしていた人たちが、今は私たちの隣で息絶えていた。

この時点でイタマルは、爆発音のせいで耳がほとんど聞こえなくなっていた。何時間もの間、誰かが近づいてくる音がするたびに、彼らがシェルターに入ってくるのか、それともただ外を歩いているだけなのかを見極めようとした。何十人ものテロリストが近づいてきて、話したり叫んだりしている声が聞こえた。シェルターの出口に一番近かった生存者5人は携帯電話の電波があったので、友人や警察に助けを求めようとした。彼らは警察に20回くらい電話した。最初は信じてもらえず、次は助けられないと言われた。その後、警察が来ると言ってくれたので、少しは希望が持てたが、いつまで経っても助けは来なかった。私たちの周りでは、私たちの知らないことがたくさん起こっていたのだ。外のテロリストが入ってこないようにできるだけ静かにしていた。
私たちの足は遺体の下敷きになっており、私は足を失ったと確信していた。後に足を動かせるようになったとき、確かに私には足があった!私の足だと思っていたのは、実は私の上にあった誰かの死体の一部だったのだ。

数時間後、大きな車が近づいてくる音が聞こえ、人々が降りてきた。救急車のサイレンが聞こえ、誰かが 「マゲン・ダビデ・アドム(イスラエル赤十字)だ!」と叫んだ。
出口付近にいた人たちは2つのチームに分かれ、状況をくまなくチェックした。「動くものは撃つな。イスラエル人や車がいるかもしれないのだから」と誰かが命じる声が聞こえてきた。私たちは全員一致で、彼らが本当にイスラエル人でない場合に備えて防空壕から離れないことに同意した。

その直後、銃声が聞こえ始めた。テロリストの発砲なのか、イスラエル国防軍の発砲なのかはわからないが、発砲はいつも防空壕の側からだった。私たちは10分待ち、さらに20分待った。時間は動かず、誰も来なかった。その間、私たちは楽観的でいようと深呼吸をし、互いに微笑み合った。持っていた水筒は銃で撃たれて破裂し、水はまったくなかった。イタマルと私は彼の傷口をしっかりと押さえ、出血が再発するたびに止血した。

さらに1時間ほどすると、外から誰かが「兄弟、車を持っているか」と言うのが聞こえ、彼の友人が「鍵が見つからない」とできるだけイスラエル訛りで答えるのが聞こえた。私たちは、彼らが本当にイスラエル人でないことを恐れて、まだ外に出ようとしなかった。20分ほどすると、アラビア語で2人が話しているのが聞こえた。こんな時、兵士ならどうするだろうか?私は兄のことを考え、テロリストの頭になって考えた。そして、彼らは殺したことを必ず確認しにくるだろうと思った。結局のところ、彼らはイスラエル人をできるだけ多く殺したいのだから。

数時間後、イタマルは自分の携帯電話がどこかにあると思うと言った。私は自分の下を探し、携帯電話を見つけた。持ってみたら血だらけだった。服で拭いてみたが、電波がしばらくの間届かなかった。私たちは外で何が起きているのか理解できず、完全に無力で、状況についての情報も不足していた。もしシェルターの外に出れば、ハマスの占領地域にいることは明らかだっただろう。

突然、一瞬、携帯電話がメッセージを受信し始めた。私たちの身を案じる人たちからのメッセージだった。彼らは、ばら撒かれた虚偽の情報に基づいて、私たちがツェリムやサアドにいれば安全だと考えていた。電波が届かないので返事はできなかったが、私の母やイタマルの父、軍に従事する友人に個人情報とともにメッセージやスナップ写真を送った。もしメッセージが届いたとしても、ハマスではなく私たちからだと理解してもらえるようにした。シェルターの入り口に一番近いところにいた人に、数分間電話を持っていてもらったが、メッセージは届かなかった。

もう一度試してみると、数分後、メッセージは届き始めた。多くの人たち、イタマルや私の友人たち、そして私たちの家族が、私たちの居場所を送るようにと連絡をしてくれた。あまり電波が届かなかったし、外のテロリストに聞かれるのを恐れて電話で話すこともできなかったから、居場所を送るのは難しかった。それに防空壕の中にいる人たちも私たちが電話で話すことを望んでいなかった。私たちは、全員を救出しようとしているのだと彼らを説得しようとした。その間も、何十台もの車が私たちのそばを通り過ぎていった。時折、単発の銃声が聞こえ、大きなブーンとレッドアラートのサイレンが何度も鳴り響いた。私たちはできるだけ多くの人に私たちの位置を送り、私たちの位置とそこにいる人の数を説明しようとした。

その時、女性の悲鳴が聞こえた。キブツから聞こえたのだと思う。そうこうしているうちに、外から奇妙な音が聞こえてきた。誰かがシェルターの入り口のそばを歩いているような、あるいは何か動物が新聞紙を破ったり、枝や木を引きずってシェルターの入り口まで来ているような音だった。その瞬間、私はイタマルに、「テロリストが私たちみんなに火をつけるのではないかしら」と言った。一秒一秒が命の危機だった。

アガムとイタマルは血まみれで隠れていた

さらに30分ほど経過し、車が到着する音、そして足音が聞こえた。私たちはこれまで通り、死んだふりをした。
一瞬の静寂。そして、入り口に携帯電話をかざす手が現れ、すぐに消えた。その手は防空壕内の写真を撮り、テロリストがいた場合に備えてすぐに隠れたのだった。写真を撮った男が、そっと中を覗き込んで、誰かいないか尋ねた。
私たちは頭を上げ、全員が泣き出した。

この防空壕で生き残ったのは、私とイタマルを含めて7人だった。怪我をしたのは私とイタマルだけで、他の5人の生存者は身体的には大怪我をしていなかった。それでも彼らが精神的に傷を負ったことは確かだと思う。歩ける人はみんな歩いて防空壕を出た。防空壕には手榴弾、死体、血、体の一部であふれ、ひどい臭いがし、ハエがたくさんいた。手榴弾がいつ爆発するかもしれない状況だった。

私ともう一人の女の子は、立ち上がることができなかった。私の足は銃弾の衝撃でひどく痛んだし、やっとの思いで遺体の下から足を救出した状態で、立つことなど不可能だった。彼女の足も遺体の下敷きになっていた。私は彼女の手を握り、「私たちはここに一緒にいよう。きっと大丈夫」と言った。しかし、そうこうしているうちに、防空壕の外で銃声が聞こえ、また襲撃されるのではないか、生きて帰れないのではないかと不安になった。付き添ってくれた民間人のエリさん(仮名)と大佐が、大丈夫だと言ってくれた。

大佐は私を担いで車に乗せてくれた。私は上半身裸だったので、大佐はすぐにシャツとタオルをくれた。防空壕を出る時、私は右も左も見ず、ただ車だけを見つめていた。大佐たちは他の生存者や負傷者が集まっているというベエリ交差点のガソリンスタンドまで私たちを送ってくれることになった。
車内で私はエリさんに質問した。「あなたたちが防空壕に着いたとき、そこいたのはテロリストでしたか?それとも兵士?」彼は「テロリストだったよ」と言った。テロリストたちがヘブライ語で話すのを聞いたとき、私たちが防空壕を出ていかなかったことは最善の判断だったのだ。

道中、ドアが開きっぱなしになっている車や、その横には死体が見えた。ホラー映画の中にいるような気分だった。集合場所のベエリ交差点のガソリンスタンドに着くと、今度はソロカ病院に緊急避難するように指示された。
エリさんに連れられてソロカ病院に着いた。そこにいた医者か看護婦の誰かがおもむろに私の写真を撮ったので私はとても不快に感じ、やめてほしいと叫んだ。本人確認のためだと言われたが、そういう問題ではなかった。

その後、病院のスタッフたちは私たちを十分にケアしてくれ、私たちが大丈夫であることを確認するためにあらゆる検査をしてくれた。私は腕をきつく組み、指をぎゅっとを握り締めていた。身体はトラウマのために震え、縮こまっていた。そうした緊張を緩めることが出来なかった。

イタマルはずっと体を張って私を守ってくれた。私たちが人々の体の陰に隠れている間、イタマルは私に微笑みかけ、そして「きっと大丈夫だから」と言い続けた。イタマルと私は、約束したいことが起こるたびに小指を立てて誓う習慣がある。一連の出来事の始まりにも、イタマルは私と一緒に「生きて帰る」と小指を立てて誓い、私たちは一瞬たりとも希望を失わなかった。

家族や友人が私たちのために祈ってくれていることは感じられたが、彼らが私たちを見つけてくれるという望みは本当は持っていなかった。なぜなら、救助隊は誰も私たちのことなど気にしていないようだったし、食料も水もなく、そこで死ぬのは間違いないと思っていたのだ。
しかし今、私は家にいて、体は回復し、経験したトラウマに対処しようとしている。小さなブーンという音、車が通り過ぎる音、その他いろいろな音が聞こえるたびに、私は左右を確認して、何も問題ない、安全だと自分に言い聞かせている。この証を書き始めて5日以上経った今でも、些細なことを思い出すたびに心臓が高鳴り、全身が震える。

私はまだ20歳だ。誰か教えてほしい。ただ祖国で平和に暮らしたいと願っていただけで、私があのような目に遭い、今後一生トラウマと付き合っていかなければならないのはなぜなのか。

私は普段からSNS上で活発に発信しているが、自分自身についてこれほど多くの情報、感情、弱さを共有したことはこれまでなかった。私たちの体験を世界中の人々に聞いてもらうこと、そして自分自身が情報を処理して体験を受け入れること、どちらも重要だ。
あれからもう数日が経ったことが信じられない。つい昨日のことのように感じる。今、私たちを愛してくれる人々に囲まれ、奇跡的に生き延びることができて本当に嬉しい。
ナハルのオレフ中隊のアネル・シャピラは私たちの命の恩人だ。彼は勲章に値する、私たちの守護天使だ。

イタマルは2人の親友を失い、もう1人の友人は人質に取られた。彼は顔と体に榴散弾を受け、腕は銃弾に撃ち抜かれた。1回目の手術を終え、次の手術を待っているところだ。鼓膜は両方とも破裂している。
私は頭、首、背中に破片を受けた。手には水ぶくれがあり、足には靴を貫通できなかった弾丸の穴がある。血と埃に絡まった髪が、精神的トラウマでごっそり抜けた。私のことを知っている人は、私が髪にうるさい人で、これがどれほどつらいことかも理解してくれるだろう。

もちろん、私は呼吸する一瞬一瞬に感謝している。私は新たな人生を与えられたのだから。合計で7時間、7:20から14:19まで、食べ物も水もなく、なすすべもなく、あの防空壕に閉じ込められていた。

私は、殺害されたすべての人々の家族の大きな悲しみとともに悼んでいる。そして、拉致された人々が一刻も早く家に戻れることを祈る。

アイェレット・アーニン、セゲブ・イスラエル・キズナー、アネル・シャピラ、彼らの安らかな眠りを祈る。
アロニ、早く私たちのもとへ、そしてあなたを愛してやまない家族や友人たちのもとへ、どうか健康で元気な状態で戻ってきてほしい。前を向き、強くあってほしい。

私の物語には欠けている部分がたくさんある。人々が知る必要のないこと、あるいは私が世間と分かち合うべきでないことなど、私は多くのことを胸にしまってきた。実際、私は全てを目撃しているわけではない。テロリストが私たちの近くにいたほとんどの時間、私は目を閉じていたから。
これは私だけの話ではなく、殺された人、誘拐された人、生き残った人たちの話でもある。しかし、これが私の見たもの、そして見なかったものなのだ。

できることなら、イスラエルで私たちが経験していることを世界の多くの人々が理解できるように、私の話をシェアしてほしい。

アガム Y.


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