見出し画像

側溝を這って避難した。目をあげると、殺された友人の遺体が見えた。

土曜日、朝の6時半。最初のロケット弾の音は偵察機のようだったから、テルアビブを狙っているのだと思った。いつもは、上空を通過するだけなのでセーフルームに避難することはない。しかし今回は、あまりの激しさにセーフルームに入らなければと思った。夫のナフムと私は防空壕に向かって走った。その途中、家の外の小道に黒い服を着て頭に白い帯を巻いた3人の人影が、台所の窓から見えた。ナフムはキブツの緊急対応部隊だろうと言ったが、私にはそうは見えなかった。

彼らがアラビア語で話す声が聞こえ始め、次第にあちこちから大勢の男たちが集まってきた。私たちはセーフルームに駆け込み、鍵をかけた。テレビをつけると、スデロットに侵入したテロリストたちが映し出された。彼らは窓の外、私の家の入り口に立っている男たちとまったく同じ格好をしていた。もしあの時、3人のテロリストたちが別の角度に立っていたら、私を見つけていただろうし、違った結末になっていただろう。なぜ彼らは我が家に侵入してこなかったのだろう?なぜ彼らは私たちをスキップしたのだろう?おそらくあの時点ではまだ、テロリストたちは統率が取れていなかったのだと思う。彼らは時間が経つにつれて組織化されていったのだ。

あちこちで狂ったように銃声が鳴り響いた。銃声自体は、いつもガザ地区から聞こえてくるし、特別なことではない。しかし、今回はまったく異質な事態なのだと気づいた。銃声、ブーンという音、爆発音がどんどん激しさを増していった。それがロケット弾なのか、アイアンドームの迎撃なのかは、もはやわからなかった。一体誰が、どのくらいの人数キブツに侵入しただろう。私たちは何も知らなかった。何一つ。

私たちは、キブツや家族など3つのWhatsAppグループで情報を集めようとした。すぐに、指示が届いた。「セーフルームに鍵をかけ、取っ手を持ち上げ、持ちこたえろ」
恐怖に加え、強い孤独感と見捨てられたという絶望が、心に忍びこむ。そして、続々とメールが届き始めた。
「助けてください!」「テロリストがいる!」「軍はどこ?」
何の返信もなかった。全くなかった。この襲撃の中、私たちは孤立無縁だった。この時点で私たちは、兵士たちがキブツにたどり着こうとして門前払いされていたことや、即応部隊が全員殺されたことも知らなかった。襲われ、傷ついた人たちの知らせしか聞こえてこなかった。

私はジャーナリストのタミール・スタインマンにメールを送り、一体何が起きているのか教えてほしいと頼んだ。私たちは、自分たちがまるで射撃場にいるアヒルのように感じていた。返信はなかった。テレビを見ると、タミールがテレビで私たちからの着信について話していた。
午後になって初めて、外でテロリストとその銃撃に応じた誰かとの間で銃撃戦が行われていることを感じ取った。つまり、軍隊がテロリストと戦っていたのだ。しかしその時までに、すでに多くの家屋が破壊されていた。

私たちは、この事態が始まった当初から、息子と連絡を取っていた。彼はPTSDで、私たちは彼のことがとても心配だった。彼の友人たちが様々な場所から彼に電話をかけ、彼を支えてくれていた。
午後12時20分、娘との連絡が途絶えた。そして彼女の家の近くで死傷者が出ていることがわかった。娘はガザ辺境にとても近い新しい地区に住んでいた。夫が事故で入院療養中だったため、娘は小さな子ども2人を連れて1人でいることだけはわかっていた。死傷者がいるという報告ばかりが幾度も届いた。日曜の午後に会うまで、彼女と子供たちに何が起こったのか、一切わからなかった。

私はWhatsAppグループに、娘がたったひとりで2人の子供と家に隠れていることを連絡した。とても心配だった。子供たちはまだ幼く、もし娘に何かあったら、子供たちはどうしていいかわからないでしょう。神様どうかそれをお許しにならないでください…しかし、彼女たちに助けは来なかった。

ひどい銃撃戦。あちこちに銃が乱射され、手榴弾が投げられる音が響いていた。私たちの家はシンプルなキブツの家で、つまりセーフルーム以外は段ボールハウスみたいなものだった。日常生活においては、セーフルームは家の中の一室に過ぎない。普段、そんなに長くそこにいることはない。だから水道も通っていないし、特別な設備もなかった。あるのは1台のソファとテレビと携帯電話の充電器。しかし私たちはそこに24時間以上座っていた。食べず、飲まず、トイレにも行かなかった。娘のところへ駆けつけたかったし、子供たちと一緒にいたかった。しかし、家から5メートルも動けば殺されることはわかっていた。選択の余地はなかった。私たちはただ、座って待った。

実際は何もせずに座っていることなど耐えられなかった。爆発があるたびに、新車と接続した携帯アプリに揺れ感知のアラートが表示され、私はあることに気づいた。その新車はドライブレコーダーをつけていたので、アプリから車のカメラにも接続できたのだ。そうして私は、セーフルームの中から外の様子を見ることができ、外で何が起きているのかを追跡し始めた。

午後5時、車のカメラを通して、武装した3人のテロリストが向かいの家に向かっていく様子が見えた。私はキブツにいた軍人のひとりに電話し、何が起きているかを説明した。彼に車のカメラで撮った写真を送って見てもらい、地図でその家の場所を伝えた。昨日、そこに住んでいた隣人に会った。彼らは、「あなたのおかげで、私たちはまだ生きています」と言ってくれた。テロリストは銃を撃ち始め、隣人の家に手榴弾を投げ込んだ。私が提供した情報をもとに、武装した仲間がその家に速やかに到着し、テロリストたちが家に侵入するのを防ぐことができた。

彼らは私たちに、もうすぐ軍隊が助けに来てくれると言った。その一方で、テロリストは兵士に変装するかもしれないから、惑わされないように、ドアを安易に開けないようにと警告してくれた。「誰かがドアをノックしても、返事をしてはいけません。もし相手が軍隊のふりをしたら、イスラエル人でなければ答えられないような質問をしてください」と。

真夜中、激しい銃声が聞こえ、煙がセーフルームにまで到達した。その直後、家のドアをノックする大きな音がした。私たちは返事をしなかった。何か言う声がしたが、判別できなかった。ドアが蹴破られ、叫び声が聞こえた。「IDF!IDF!誰かいますか?」
私たちはセーフルームの中から、彼らが誰なのか尋ねると、部隊名と分隊番号で答えてくれた。それはイスラエル人だけが知っているパスワードだ。セーフルームを開けると、兵士たちがいた。彼らは私たちに貴重品を1つか2つだけ持つように指示し、すぐに私たちを家から連れ出した。

写真クレジット:Haim Goldberg / Flash90

しかし、その後、私たちの周りで銃撃戦が始まり、兵士たちは私たちにセーフルームに戻るよう命じた。私たちはまだテロリストに囲まれていたのだ。私は兵士たちに言った。「こんな無防備な家に置き去りにしないでください!」しかし、兵士たちはテロリストと戦いに行った。約1時間半後、彼らは戻ってきて、そのまま私たちを連れ出した。私たちは何も持たずに家を出た。

早朝で、まだ暗かった。私たちは、ゴミ捨て場や畑のある家の庭に連れて行かれた。私たちは畑の溝に降りて、キブツの入り口にあるガソリンスタンドに向かって這い始めた。私たちと一緒にいたのは年配の人たちや、赤ん坊や幼児を連れた親たちだった。側溝の中を這いずり回っていると、周りに死体が見えた。その中に、殺された友人がいた。

ガソリンスタンドでは陸軍が待機していて、私たちにバスで避難するよう命じた。私は、子供や孫たちを置いては帰らないと言い張ったが誰も応じてくれなかった。彼らはできるだけ多くの人を危険から避難させたがっていたのだ。しかし私たちは、「幼い子ども2人を連れた母親よりも、大人2人の方が持ちこたえることができる」と主張した。なんてひどい話だろう。私は司令官から司令官へと渡り歩き、娘たちを救助してほしいと懇願した。すると突然、予備司令官が私のところに来て、驚くことに「私がロテム(私の娘)を助けに行きます」と言った。どうして私がロテムの母親だとわかったのかと尋ねると、彼はロテムの高校時代の親友で、私たち親子がよく似ていたことで分かったそうだ。彼は彼女を助けに行くと言ってくれた。

午後12時30分、セーフルームに子どもたちと一緒に閉じ込められること32時間。ロテムは私たちの元へ生還した。兵士たちは、ロテムの家の中で繰り広げられた銃撃戦の末、彼女を助け出した。テロリストを殺し、銃撃戦のなか軍のジープで娘たちを避難させたのだ。

キブツ・クファル・アザは強いコミュニティだった。しかし今、そのコミュニティは跡形もなくなってしまった。あるのは分断された個人だけだ。人々は互いにとても愛し合い、いつも抱き合い、お互いの面倒を見ているが、それはコミュニティとは言えない。キャスト・リード作戦、ピラー・オブ・ディフェンス作戦、そしてプロテクティブ・エッジ作戦では、私たちはそれを見事に実行した。私たちはは素晴らしいコミュニティだった。特にプロテクティブ・エッジ作戦は非常に厳しい戦争だったが、私たちは世界最強のコミュニティとしてその危機を切り抜けた。私たちはコミュニティを支え、強化することができた。スリリングな勝利だった。若い世代を惹きつけ、レジリエンスを備えたコミュニティを築き上げた。
しかし、私たちのリーダーは全員殺されてしまった。公民館を管理するはずだった者は、朝のうちにパートナーとともに殺害された。緊急対応部隊もキブツの重要人物も、みな殺された。指揮を取る人がいなくなったその結果、あの大混乱が起きたのだ。
今、私たちは皆、バラバラになったものを拾い集めている。キブツのコミュニティ・マネジャーは夫と一緒に入院中で、復興の議論には参加できていない。ビジネス・マネージャーは家族を失った。一家全員が殺された人たちもいる。

私たちの心の傷はまだ癒えていない。私たちのコミュニティの半数の人々が行方不明となっている。私たちは、殺された人々、そして誘拐された人々についてはわかっているが、その身に何が起こっているのか手掛かりもない行方不明者がまだたくさんいる。
昨日の朝もクファル・アザでテロリストとの戦闘があった。昨日は車のカメラを通して、家の前の芝生の上に軍隊が立っているのを見たし、屋根の上にも兵士がいた。

いつまでここに疎開することになるのか全く目処が立っていない。2ヶ月?3ヵ月?どうなるんだろう?もし、クファル・アザに戻ると決めても、物理的に戻る場所は1年以内にはないだろう。どうすれば良いのだろう。経済的にゼロから生活を始めることはできない。娘はキブツに新しい家を建てたばかりで、まだローンを払っている。娘のために何ができる?ナフムと私は70歳だ。私たちは人生のすべてをキブツに捧げ、そこで年を取っていくと信じてコミュニティを築いてきたのだ。今、私たちは一瞬一瞬を生きるので精一杯だ。子供たちが経験したトラウマから彼らを救い出してやることもできない。

バティア・H

オリジナル記事:


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?