我が家の愛情物語 悲しみ編、毒母の娘だから お姉編


にょろちゃん。


いよいよお金はないし、胃腸もダメだから綴っておきます。


お姉は生きて損した。
最近ずっと、いつ死ねば良かったか?とそのことばかり考えている。


生まれなければにょろちゃんとパパに会えなかったからやはり生まれて良かったが、


父亡き後のお姉の人生はハチャメチャで、良い事は皆無、苦しく辛いだけだ。

お姉が生きたばかりに、にょろちゃんに辛い思いをさせてごめんなさいね。


父に申し訳ない。



すべて、毒母が原因だ。




父が亡くなり、婚約者にサヨナラしてお姉はひどいうつ病とパニック発作に見舞われた。


1年後くらいに、メンタルクリニックの亡くなられた大先生から言われた。



アンタが結婚して子供を産んだら、自分の子供をロボットにしてしまうだろうなと。


傷ついた。


泣いた。


心底、傷ついた。



私が完璧主義に近いからか。とも思ったが、20年後毒母が認知症になり、


自分の子供のにょろちゃんとお姉の私、回りの人間すべてが毒母の奴隷だと解った時に、



ああ、この母親の娘のお姉は母親と同じになるのだなぁと理解した。

悲しい。
寂しい。


しかし、毒母のおばあちゃんを父亡き後、にょろちゃんとお姉の私がほとんど介護して11年、1995年におばあちゃんが他界したら、


メンタルクリニックの大先生は、私の中学の同級生の女性に、長野県野尻湖でセイリングで一緒だったらしく、私に同級生で良い男性は居ないか?と尋ねられた。


同級会で彼女からその話を聞き、ビックリした。



大体、彼女と私が同級生だという事実を何故、大先生はご存知だったのか?


大先生の子供さんとは全く中学は違う学校だったから。彼女も不気味だと話していた。


どこから仕入れた話かわからない。





そして、毒母が認知症になりにょろちゃんとお姉の私に凄い暴力をふるい、世間中にウソをばらまき始めたら、


毒母が、



親子、父娘そろって稼ぎが少ない。


45年、働かされたわ。これは父の悪口だ。



うちは、貧乏絵描きだから。

これも父の事だ。


1人の人間として毒母を見たら、なんて酷い事を言うのか。と許せなかった。


父は昭和20年代、まだ抗生物質がない時代に肺結核を患い何度も死にかけていた。7年間サナトリウムに居た。


片肺がなく肺活量は1000以下の障害者だった。


絵の才能があったから、水彩画家として我が家は路頭に迷う事はなかった。

限りない愛情を、にょろちゃんとお姉の私、家族、回りの人達に注いでくれた。


父が他界した時、菩薩様のような方だったと言われた。


いわば、父のおかげで生きてきた。


メンタルクリニックの息子先生は、私を初診の時に、


Mさんは、お母さんと違って強い人だから大丈夫とおっしゃって下さった。


また、母方の静岡県掛川市大須賀地区の菩提寺のご住職は、



にょろちゃんと私と、毒母、毒母の弟2人の叔父と1997年に初めて伺った時、


顔はお母さんや叔父さんに似ているが、明らかに性格は違う。お母さん達は神経質だが、


あなたはもの凄く芯が強い。信念が強い。


とおっしゃられた。




それを聞いた時すぐに、ああ父の遺伝子だと解った。


ご商売の方とかからたびたび同じ事を言われた。


この事実は父に感謝しても足りない。



しかし、毒母が父娘そろってなど話したら、私は毒母を許せず毒母に手を上げた。やはり毒母の娘だ。



父を悪く言う毒母を許せなかった。


しかし、毒母の暴力、ウソは止む事なく、パワーアップした。



家中のガラスを割り、修理を頼むと業者に私がやったとウソをつく。


毒母は、まず私のメガネを鷲掴みして放り投げ壊し、強度近視の私の視力を奪い暴力を奮った。

厚い単行本の背を、私の目を目掛けて投げて命中させ、私の目をつぶしたがった。





真冬ににょろちゃんとお風呂に入っていたら、突然毒母が太い棒とタライを 持って現れ、まさに鬼の形相で湯船の中のにょろちゃんと私を叩く。

にょろちゃんも私も逃げ場がない。逃げたくても毒母の暴力で逃げられない。




また、にょろちゃんと私の部屋にいきなり入って来て、わざわざ私が昔好きだったピアニスト、ポリーニの CDをまたまた顔面、目を目掛けてケースごと投げる。壊れる。好きなCDだからわざわざ壊す。



CDデッキをお腹の柔らかい所にのせて押して、お腹を潰そうとする。



にょろちゃんと私の部屋は出入り口はひとつしかない。逃げたくてもそこまで毒母の暴力が酷くたどり着けない。


毎朝起きれば、また毒母の暴力かとうんざりした。


包丁やナイフはみんな隠した。


毒母は、にょろちゃんと私に包丁も向けた。


とにかく奴隷でない娘達には死んで貰いたいのだ。


メンタルクリニックの大先生は毒母に、20年娘達を虐待してきたから暴力は止めろ。と諭して下さったがダメだった。


その話を私がメンタルクリニックの大先生からお聞きして、虐待という言葉に愕然とした。


父亡き後の凄い日々は、虐待だったのか。と。




虐待。




だが毒母が施設に連れて行かれた時は、何故か高齢者虐待防止法を適用された。


警察官は、お母さんの暴力だとわかっていると言いながら、私を畳に押しつけた。にょろちゃんは私の頭にしがみ付いていた。



あまりに酷いので、長野県警察に電話したら、警察官がそんな事をするはずないと大慌てだ。


次の日は、Mさん、具合が悪かったらお医者さんに行って下さい。に変わった。


まあ、何故、高齢者虐待防止法かすぐに解ったが。




理不尽過ぎた。



こんな事の連続で、機能性胃腸症や膠原病疑いになり完治はない。働かけない。ピアノも弾けない。教えられない。





父とにょろちゃんがいるから生きている。



ヘルパーやアメブロやらのいじめで障害年金を貰えない。


警察には何度も話したが、動かない。


弁護士費用は法テラスも払えない。



必死だ。



パパ、助けてね。




因みに、私は統合失調症ではありません。精神はうつ病です。










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