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つまらない映画が、思わぬ結末につながっていた。

「よかったら今度、映画を一緒に観に行きませんか?」

お誘いを受けて、私はある人と映画を見ることになった。

その人とは何度か会ったことがあったけれど、映画へ行くのはこれが初めて。私が映画が好きだと知っていたから、映画をきっかけに二人で会おうと誘ってくれたのだと思う。
その人が選んでくれたのは有名な監督と知れた俳優も起用された、わかりやすく大作のハリウッド映画だった。

誘ってくれた人を嫌いでもなかったし、その映画も観たいし……ということで、私はお誘いに乗ることにした。


待ち合わせは有楽町だった。
当時有楽町の駅前には今よりも映画館があって、中には客席が400を超えるような大スクリーンのところもあった。
私たちが観ようとしている作品も公開前から話題で、しかも公開日当日か次の日くらいに行ったから、とても大きなスクリーンをあてがわれていた。

劇場は数百席もあるのに、ほぼ満席だった。
チケットは事前に取ってあったのでスムーズに入場し席につくことができたけれど、内心ドキドキしていた。


私は映画へ友達とも行くけれど、一人で行くほうが圧倒的に多い。
「本当に見たい映画は一人で見に行くことにしてるから」とバトーさんをクールに袖にする「攻殻機動隊」の素子さんみたいなオシャレな話ではない。
(例えがわからない人もいると思う、申し訳ない。アニメを観てください)


単に昔から1日に2,3本まとめて観る、混雑に巻き込まれたくないから休みの日の早朝に行くなど、友達を付き合わせるにはハードな鑑賞スタイルになってしまうので、誘いにくいのだ。
友達から誘われるときは1本でも、混雑必至な土日の午後でも喜んで行くのだけれど、観たいもののときは行きたい気持ちが強すぎて、自分の予定と上映スケジュールを合わせるので精一杯になってしまう。

映画好きの友達も似たタイプが多く、各々好きなタイミングで観て集まったときに話したり、SNSなどを通じて語り合うということが多かった。
だから日程を合わせて一緒に観るという機会があまりなかったのだ。



そんなわけで、「知人の中の知人」みたいな人の隣に座って同じスクリーンを観ているという状況が、思えばかなり久しぶりだった。
話すこともあまり見つからず、ソワソワした。


落ち着かない心地のまま、映画が始まる。
劇場が暗くなり、大きなスクリーンには予告編が流れ始めた。
そしてスクリーンが横に少し広くなりながら本編が始まった。





その映画は簡単に言うと、つまらなかった。
つまらないというか、予告編などで見ていた映画のイメージとはかけ離れていた。
全体的に出来事が唐突で「どういうこと?」という言葉ばかりが頭に浮かぶ。そしてその疑問は最後までほとんど回収されないまま、映画のエンドロールが始まった。ほかの観客たちも驚いたのか、エンドロールが始まった途端、ちょっとざわついたのを覚えている。

その監督の作品は何本も観てきてけれど、こんなにわからないと思ったことはなかった。だからきっと、その作品は私との相性がよくなかったのだと思う。

たくさん映画を観ていると「自分の今の感性ではこれは面白いと思えない」とか「こういうものは今の自分の気分には合わない」ということは結構ある。
映画を観たことによって、今の自分の感性や気分に合うものは「これではない」ということがわかる。消去法で、「自分」が浮かび上がってくる。

それもあってか、「こんな映画に2000円弱と2時間以上を使ってしまったのか!」と愕然する作品も稀にあるけれど、私はそこまで思うことはあまりない。
映画が好きだからというのもあるけれど、気分や感性のマッチングのほかにも、色々考えさせられることが多いからだと思う。
自分の好きや許容できることの「境界線」を知るために時間とお金を使ったと考えれば、そこまで悪いことでもない気がする。


だから私は、あまり触肢が動かない作品をあえて観に行くこともあるし、レンタルや配信で観ることもある。
そうやっていろいろな映画に出会いながら、自分の中にあるぼんやりとした「好き」という気持ちや、自分がまだ気づいていない感性を彫り起こしていくのが好きなのだと思う。




だがしかし。
今日はほとんど二人で会ったことがない人と一緒に映画を見ている。
この映画をどう思ったのだろう? 同じ感覚でいるのだろうか?
もし隣にいる人は面白いと思っていたら、私はどういう姿勢でそれを聞けばいいのだろう?
当時も今も、つまらないと思ったものを「面白かったです」とは言えない人間だし、観点をずらしながら褒めるのにも限界がある。


どうしようと思っているうちにエンドロールが終わって、劇場が明るくなった。
お客さんがコートを羽織りながら席を立つなか、私は隣に座る誘ってくれた人を見た。

その人はとても困ったような顔をしていた。
「どうでした……?」
聞くと、その人は余計に渋い顔をして、周りを気遣いながら「ちょっと……僕には微妙でした。わからなかったです」と小声で言った。
同じ感覚を持っていたその人にとても安心して「ですよね!? 私もです」と思わず言った。


その映画は面白いと言えなかった。
けれど、映画に誘ってくれた人が似た感性を持っていることが確かめられて、私はとてもホッとした。
ここでこの人と、少し打ち解けられたような気がした。

映画館を出た後、観た映画について語ろうということになり食事をすることになった。
入ったのは沖縄料理屋さんだった。
海ぶどうやラフテーを食べながら、お店が地下のせいで電波の通じにくいなか作品の概要を改めて調べつつ、あの映画のどこに引っかかったかや、こうしたら良かったんじゃないかなどという話で盛り上がった。
そこから好きな映画やものの話やお互いの仕事や日常など、ほかのことでも話がはずんだ。
つまらないと思ってしまった映画をきっかけに、自分と感性の合う人であると知れたこと、短時間でこんなにも打ち解けられたことがとても嬉しかった。



お察しの人もいるだろうが、そのとき一緒に映画を観に行った人が私の夫だ。
こんな結末になるとは自分でも想像していなかったけれど、この縁を「つまらない映画」が繋いでくれたのは間違いない。
その作品に出会い一緒に観たからこそ、一気に打ち解ける機会をもらえた。
それはそのとき、この映画にしかできなかったことだと私は思う。



数年前、そのとき行った映画館が閉館することになった。
その映画館にもお礼をしたくて、二人で映画を観に行った。
そのとき上映されていた作品はお客のリクエストによって決められた人気映画で、とても面白かった。それそれでいい時間を過ごすことができた。
今はもうその映画館はないけれど、今もふと思い出してはその作品と劇場に感謝している。


いい作品、面白い作品といわれるものばかりが人に影響与え、人生を変えていくと思われがちだけれど、決してそんなことはない。
きっとそれは、苦しい経験や挫折が人としての厚みを生み、人生を豊かにしていくことと似ている。
そこに他人の意見は関係ない。映画を観て自分はどう感じるか、そして沿う感じる自分を知ることが、人生を変えていくのだと思う。

そういう意味では、観る価値のない映画なんて、この世に一つもないのかもしれない。


#映画にまつわる思い出

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