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「友達」とは、「依存」じゃなくて「共存」がいい。

「共感を得る」
これは今の時代を生きるためのキーワードになっていると思います。


それはビジネスでも、日々の生活においても同じ。
特に人間関係においては、かなり重要なポイントなのかなって思っています。


ただ、気をつけようと思うのは、「共感」と「依存」が結構近いところにあるものだということ。

これを間違えてしまって、
また認識がずれていることで、
人間関係がこじれたり、苦しくなることってあると思うんですよね。


◇◆◇


基本的に、「共感」はとてもいいものだと思います。
同じ考えを持っていたり、賛同してくれる人がいると、嬉しいし、少しほっとしますよね。

それが度々起こるなら、『友達』として一緒にいたい人になる。


noteを始めてからそういう方々にたくさん出会えて、私はとても充実しています。


同じ考えを持っていることを伝えてくださって嬉しいし、
別の考えを丁寧に伝えてくださることもありがたいです。

私は、たとえ家族であっても、思考が完全一致することはそうない思っているので、色々な人の考え方や感じ方を見ながら、「そういう考え方もあるんだなあ」と学ばせてもらっています。


私はもともと、相手と意見が違うことや感じ方が違うことに、違和感や怖さは感じません。


山崎まさよしさんの「セロリ」の歌詞にあるように、

育ってきた環境が違うから 好き嫌いはイナメナイ

正直、これに尽きると思うんですよね。

育ってきた環境が違うから、意見が違うのは当然で、違うのが「普通」。
意見はそれぞれお好きにどうぞーって感じですし、もしすり合わせが必要なら、お互いの意見をテーブルに出して、どうしていていくかを考える。


簡単に言うなら、
相手に苦手な食べ物があるのなら、それがメインで出てくるようなお店へ行かなければいいし、逆に私に苦手があれば、言って調整してもらえばいい。
そのくらいのかるーい感じです。



自分と相手が何かで「部分一致」して、それについて思いが共感できたら、それで充分。


人生のパートナーとなると、多少多めの一致(シンクロ率)が必要でしょうが、それ以外はその時々に合わせて、都合の良い者同士仲良くなる。
無理じゃなければ、支え合い、励まし合う。



お互い「違い」もありながら、
一緒にいることが心地よかったり、
刺激を交換し合える。

相手も縛らないし、自分も縛られない。

そんな関係でも続くのが、私にとっての『友達』です。


◇◆◇


一方で、『友達』の定義が少し私と違う方々がいます。

それが、

『友達=思考が完全一致する人』

と考えている方々です。

思考が完全一致する人を見つけるのはかなり難しいことだと思いますが、もし見つかったなら、それはすごいことだし、一生ものの友達になると思います。


思考が完全一致する人が傍にいてくれれば、「共感」がいつも自分の傍にあるのと同し。
常に安心もできるし、自信にもなります。

そんな人がいてくれたら、鬼に金棒という感じですよね。


そんな超ラッキーな話は、今回おいておいて・・・(笑)



一方で、そんな超ラッキーを頑張って作ろうとする方々がいます。


それは「完全一致」を求めて、自分を相手に寄せてしまう人です。


本人たちはそんな意識がないようですが、どんどん思考や選択を相手に合わせていってしまう。それによって「相手と一緒」になって安心する、という気質の方です。


◇◆◇


こういう「相手に寄せることで共感する人」ですが、そうすることで2つの、安心というか「得」を得ている気がしています。

・他の人と考えを同時にすることで目立たない
・自分で考えて決めなくていい

人と同じ意見にすることで、とりあえず仲間が増える分、自分だけが異端になったり、矢面に立たされるリスクが減ります。人の意見が、自分の盾になってくれるんですよね。

そして自分で考えなくていいから、余計に悩んだり、考える必要もなくなります。
多分「楽」になれるんですよね。


でもこの関係は「友達」なんですかね?
これってただの「依存」だと、私は思うんです。


◇◆◇


「依存」そのものは、生き方として1つの戦略ではあると思います。
人間だけじゃなく、地球にいる生物でそうやって生きてるものがいますよね。



必要なことは依存相手に任せ、自分は安心できるし楽もできる。過酷な環境を生き抜ける。

でも、人間が同じ人間にそれをやるのは、フェアじゃないと私は思うのです。


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例えば、カクレクマノミとイソギンチャクは、
イソギンチャクはカクレクマノミに隠れ家を提供します。
カクレクマノミはイソギンチャクの餌になるものをあげたり、イソギンチャクを捕食する生き物から守ったりするそうです。


つまり依存じゃなく「共存」なんですよね。

他にも、美味しい実を差し出す代わりに種を遠くまで運んでもらったり、蜜をあげる代わりに受粉に協力してもらったり、共存する生き物って多いと思います。「共生」とも言いますね。

相手に一方的に依存し、栄養を吸い取って殺してしまうような生き物もいますが、そんな関係、普通に嫌だと思いません?(笑)


どちらかが辛くならないようにするためには、「依存」ではなく「共存」の関係が必要です。

友達でいるには、一方的にメリットを得るのではなく、お互いがメリットを感じられる状態が良いと思うのです。


多分ニュアンス的には「共生」に近いのですが、
「共生」は等価交換を強要する感じというか、「支え合わないといけない」っていう義務感のようなものが強い気がするので、お互いを理解してそれとなく寄り添う「共存」くらいが私は心地いいと思います。




◇◆◇


私はどちらかと言うとはっきり意見を持っている方なので、完全一致したい系の方の依存先にはもってこいらしく(笑)、ときどき寄りかかられます。



これ、私にとって、とてもとてもとても重いです。(笑)



そういう人たちって、最初は「私も同じ意見だよ」と私の考えに共感してくれ、応援してくれるなどのメリットをくれるのです。

でも途中から、本性のようなものが出てきて(笑)、自分と考えが一致(シンクロ)しないことに不満を持ったり、「なんで一緒にしてくれないの」と怒る人すらいます。


気づけば私が相手に支配されそうになっていることに気づいて、全力で逃げる、そして距離を置く、みたいなパターンがよくあります。


もちろん別パターンもありますよね。
相手の思考を奪って、周りを自分の支配下に置きたい人。
いわゆる「ボスな心」を持つ友達です。

そんな方の支配に巻き込まれてしまうという話もよく聞くので、それはそれで苦しいことだと思います。


こういう様々な関係性を見ていると、
「友達」ってなんなんだろうなって改めて思うのです。


◇◆◇


私にはおそらく、下は10代後半、上は70代くらいの方々まで、友達と呼ばせてもらっている方々がいます。

「おそらく」というは、私は友達に年齢はあまり関係ないと思っているので、なんとなく話したりお姿から年齢を察する程度だから。

そんなあやふやな感じでも、仕事や家庭環境、趣味や興味のあることなどが、何かしら共通していて、情報交換や意見交換を楽しくさせてもらっています。


また、「友達」はその時々で関わる人が変わったり、関わり方の比重は変わったりします。
数年前までは毎日のように連絡をとっていたのに、ここ1年はほとんど連絡してないとか、会う回数が激減したとか。


一見不義理に見えたり、雑に見えたりするのかもしれませんが、私はそれが「自然」だと思うのです。


なぜかと言えば、
人はそれぞれのタイミングで変化していくから。



それぞれの人生を歩んでいて、その時々で「共存」が成立する者同士が自然と繋がり、関係が深まっていく。

みんな生き方は違うし、それぞれ変化していくから、それに合わせて友達や付き合い方も変化するのが普通だと思うんです。


だから「友達」がずっと同じ人じゃないといけないとは思わないし、
ずっと一緒にいる人だけが「友達」とも思いません。


10年以上逢ってなくても、再会したら「久しぶり、元気?」と言い合って、友達として話せばいい。


ゆるく繋がり、必要なときに関係を深めていく。
そして必要な時が終わり、つながりが薄くなってしまっても、固執しない。


それでも自分をちゃんと持っていられることが、
私が考える「大人」だし、「友達付き合い」だと思うのです。


まだまだ迷ったり自信をなくしたりをグラグラしている私ですが、いつかそんな素敵な関係が築ける大人になるんだ!と日々夢見ています。


誰とつながっていても自分が自分でいるって、結構難しいことのような気がするので、そこまでいくには時間がかかるような気がしていますが・・・
60代くらいまでには、そんなカッコいい大人になっていたい。

なれるかな・・・いや、なるぞ!(笑)


そんな心づもりです。
さあ、がんばろーっと。(ゆるい)


ではでは、最後まで読んでくださりありがとうございました♪

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