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永井荷風『あめりか物語』感想(その3)...「船房夜話」永井の渡米経緯

はじめに


「永井荷風『あめりか物語』感想」(その1)(その2)に続く(その3)です。

明治36年(1903年)9月22日横浜港出港した信濃丸が暴風で荒れるアラスカ沖を航行中のある夜、夕食後に一等(二等?)の永井の船房(キャビン)で雑談会が始まりました。参加者は永井を含め柳田君と岸本君の3名、本作最初の一話目「船房夜話」はその様子を綴っています。主として柳田君と岸本君の旅たちまでの経緯は分かりますが永井自身の経緯については触れておらず分かりません。

本作は永井のアメリカ紀行文、すなわち、旅日記で、折りに触れ執筆したものを順次日本の雑誌に発表し、帰国後全22話を集め『アメリカ物語』として出版しました。永井自身は話の語り手であり、彼の生い立ちを含めアメリカに行くことになった経緯は読者も知るところでもあり省かれたものと思われます。120年後の現在の読者は永井の伝記などから再現するしかありません。

永井荷風自身の渡米に至るまでの経緯

永井荷風はペンネームで本名は永井壮吉、明治12年(1879年)12月3日に東京小石川(文京区春日)で生まれます。「船房夜話」の雑談会で柳田君と岸本君の身の上話を聞いた明治36年10月には23才10か月ほどです。当時の平均寿命42才ですから人生の折り返し点に差し掛かり残り人生20年余、正業に就き身を固めるよう周囲からあれこれと言われたことでしょう。照れ隠しで「米国に遊びて」と言っていますが、物書きに走る永井を見るに見かねた父親に「アメリカに行って事業を学んで来い!」とプレッシャーをかけられての渡米なのです。後日交流があった元老西園寺公望から父君がそう嘆いていたと明かされています。

永井家の祖は徳川家康に仕えた戦国武将永井直勝、一族はエリート

永井一族は徳川家康に仕えた戦国武将永井直勝に始まり、江戸時代は旗本、大名(下総)でした。明治維新以後は一族から作家高見順、衆議院議員、外交官・ロンドン海軍軍縮会議全権大使、台湾総督民生長官・神奈川県知事、福井県知事・名古屋市長・枢密顧問官、そして、昭和の戦後は永井荷風自身と童謡歌手小鳩くるみなどの名士が出ています。それはそれは名家です。

永井の父久一郎は内務省衛生局勤務エリート官吏で、プリンストン大学Princeton University、ボストン大学Boston Universityに留学経験があります。幕末から明治維新の動乱時の留学ということですから近代アメリカ留学史の幕開けを飾るエリートであったのでしょう。そして母は幕末尾張藩の儒者鷲津毅堂(きどう)の次女で、永井の文才は母方の遺伝のようです。

華々しい学歴、江戸時代の文芸、邦楽、美術、漢学に心酔

東京女子師範学校(現お茶の水大学)付属幼稚園、黒田小学校初等科、東京尋常付属師範(現学芸大学)付属小学校高等科、東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学付属高等学校)とエリート・コースを歩みます。その後、第一高等学校(現東京大学駒場)を受験するも失敗し、官立高等商業学校(現一橋大学)附属外国語学校(現東京外国語大学)清語科(中国語科)に入学します。でも1年で中退します。

附属中学校時代、母が芝居好きであったため芝居や歌舞伎や邦楽が好きなり、また、漢学者・岩渓裳川から漢学を、画家岡不崩からは日本画を、内閣書記官の岡三橋からは書を学んだようです。病気休学中は『水滸伝』、『八犬伝』、『東海道中膝栗毛』や江戸戯作文学に読みふけったようです。

中学校(現高校)卒業まもなくエミール・ゾラ没頭し『地獄の花』など発表

一高入試に失敗すると、家族と上海に行き1898年に処女作『上海紀行』を出版します。この間にフランス語を勉強し、エミール・ゾラを読み影響を受けます。その後1902年4月『野心』、1902年9月森鴎外に絶賛された『地獄の花』、『夢の女』、1903年9月ゾラの『ナナ』翻訳などを立て続けに出版しています。

要するに、1903年9月22日横浜港を出港する直前の永井は、ゾラの自然主義に影響されてか、既にこのような反骨精神が旺盛な作品で知られた若手作家であったわけです。1902年にはこともあろうに父の弟で叔父の阪本釤之助福井県知事をもじった『新任知事』を発表してしまいました。当時官僚を定年退職し日本郵船に天下った父親は、おそらく相当困り果ててアメリカに送りビジネスを学ばせようとしたのでしょう。

「船房夜話」は三人三様のバックグランドー明治の私費による企業派遣、留学、遊学

このように永井、柳田君、岸本君は3人3様、柳田君はアメリカに進んで事業の視察で行くのですが、永井は親の意向で事業を学びに行くことになります。「視察」と「学び」では大いに違います。柳田は多分永井と同じ大学ではないが専門学校の出身者で、日本と豪州の会社で働いた経験があります。事業の面で豪州などに後塵を拝している日本が不満でアメリカに活路を見出そうとしています。永井ほどではないが社会的にはエリート層であると思われます。永井は親の顔を立てただけで事業にあまり関心がなさそうです。3人の中では経済的にも社会的にも一番恵まれており、「遊学」とは言い得て妙で他の2人と比較すると余裕が感じられます。岸本君は3人の中で経済的にも社会的にも最も切羽詰まった状況に置かれています。

同じ一等船房の乗客も一様ではありません。柳田君は私費(企業)派遣、岸本君は私費留学、永井は私費遊学。永井は自分自身の境遇については一切触れていません。柳田君と岸本君の仕草と身の上話のとらえ方、そして後の自伝から間接的に抽出するしかありません。とても想像力を掻き立てられます。但し、この渡米後の3人については永井は多くが周知するところです。彼にとっての「遊学」はアメリカでの自然主義的文学的実験の場を与えました。当時のアメリカは遅れてきた自然主義が流行っていたころで、『アメリカの悲劇』The American Tragedyの作者Theodore Dreiserらが活躍していました。本作『あめりか物語』はタイトルからドライサーを意識しているのが分かります。いずれにせよ直後に渡るフランスでは自然主義は過去のものになっており、永井自身も転換する耽美主義が流行っていたようです。

柳田君と岸本君はその後どうなったのでしょうか?想像するに柳田君は1903年創設フォード自動車工場の流れ作業などを視察したかもしれません。日本に帰り黎明期の自動車産業に貢献したかもなどと勝手な想像をしてしまいます。

岸本君についても想像してみました。同じく当時輝いていた中西部のシカゴにたどり着き持ち前の生真面目さである成功し、日本から妻子を呼び寄せて、後にシカゴのシカゴ日本人コミュニティの礎を作った一人として活躍されたかもしれません。あるいは日本に帰国したのでしょうか。皆さんはどう想像しますか?










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