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永井荷風『あめりか物語』感想(その2)


永井荷風『あめりか物語』あれこれ(その1)の続きです。「船房夜話」の登場する永井ほか3名の人生模様です。


船上で出会う「和服大島羽織の」岸本君

既に豪州に滞在したことのあり2度目の渡航に就く「ハイカラの」柳田君は、西洋式を好み洋服を着こなす紳士です。「ハイカラ」ということばは明治維新以降に流行った造語で、和式の服装ではなく西洋式の襟が高い(high collar)シャツ・上着を好んで着る人々を揶揄する意味が込められていたようです。「大陸の文明島国の狭小」を声高に語る柳田君にぴったりはまる枕詞のような表現ですね。しかし、永井は決して柳田君を揶揄しているのではなく、やはり30才近くですが、やせて背の低い紬の袷せにフランネル一重の重ね着した上大島羽織を着た和風の岸本君を柳田君と対照的に写実したかったのでしょう。和服に大島羽織の岸本君と洋服に外套の柳田君、当時の貨客船の一等、二等船室乗客の様相が分かります。

洋服ではあまりにも寒いので和服を着ているのだと言うと、柳田君は逆に「日本服は襟首が寒くて風を引いてしまう。」と返します。それに逆らうことなく「私はまだ洋服に慣れないんですな。」と折れます。船が向かう先のアメリカでの生活を考えればいずれ洋服に変えなければいけない、そう思いつつも寒さしのぎでよんどころなく和服をきたのでしょう。自らの行く末にもつ岸本君のやるせなさ、心細さが窺い知れます。

大嵐に揺れる船についても二人は対照的です。柳田君は「成程少し動揺するね。まァ、可さ、今夜は一つ愉快な雑談会を催したいもんだな。」と安楽そうに足を踏み伸ばしますが、岸本君は「どうしたんです。非常に汽笛をならうじゃありませんか。」と恐れます。

渡米に再起を期しての渡米という点では二人とも共通しますが、柳田君は(その1)で述べた事情で「日本なんかに居たら到底心の底から快」するのは無理、「これ幸いにいい塩梅」とばかり、自身のみか「同胞諸君が渡米されるのを見るとじっさい嬉しくなる」ほどに前向きです。他方の岸田君は以下の経緯で後ろ髪を引かれるように気が重いのです。柳田君は前を、岸本君は後ろを見ながらの渡米です。すぐ目的に着いてしまう今日の空の旅と違い、波濤を超え半月以上掛けて徐々にたどり着く当時の船旅は旅人にとって否が応でもそれまでの人生の振り返る機会になったのでしょう。

岸本君の渡米への経緯

柳田君は、岸本君が渡米して学校に入ると言っていたことを思い出してそれを質します。岸本君は和服の襟を引き合わせ、あらたまってから「そうです。」と答えます。柳田君が「大学にでも入られるのですか。」と聞き返すと、「そうです。」と岸本君。「大学」が岸本君のキーワードなのです。当時の大学の重さが伝わってきます。なにせ日本には帝国大学8校しかない時代ですから。

他方アメリカにはHow Did Higher Education Develop in  The United Statesというサイトを見ると1900年にはアメリカには総合大学、単科大学が1000校で、その殆どが学生数は1000人以下だったようです。現在日本には約700校、アメリカには4,500校もあり、学生数1万人以上の大学は沢山あります。日本でもアメリカでも大学卒の「学士さん」は、今とは比較できないほど重用されたのでしょう。

岸本君は大学に行くつもりだが語学ができません。アメリカの大学事情も疎かったものと思われます。当時は留学であれ海外派遣であれ「洋行」と言えば、イギリス、ドイツ、フランスなどのヨーロッパ主要国へ渡ること、アメリカはもっぱら移民で洋行の対象としては二番手、三番手であったと思われます。大陸文明の崇拝の柳田君でさえ「焼け出されて亜米利加三界へ逃げ出す」と言っていることを考えれば、渡米自体軽んぜられ、ましてやアメリカ大学留学など話題にも上らなかったと思われます。実際、本稿筆者がアメリカ留学に踏み切った1968年でもそんな風潮がありました。

当時のアメリカは高等教育は共学ではなく、また、アフリカ系、アジア系、アボリジナルなど有色人種に門戸を開いたのはBooker T. Washingtonも学んだHumpton 大学など限られて大学しかなかったようです。筆者は1991年に同校を訪ねたことがありますが、明治時代のある著名人も学んだという記録があると述べていました。

いずれにせよ岸本君は新開地シアトルに上陸するや英語を勉強し、大学情報を収集して応募し、あわよくば4年間で学士号を取って日本に帰る、紆余曲折、気が遠くなるような生活が待っているわけです。

岸本君、妻子持ち、留められるも単身で渡米

しかも独身ならまだしも岸本君は結婚して妻子持ちです。責任がずっしり重く、渡航に至った理由はまさに”a heavy story”そのもの。東京のある会社にに雇われたが、人の後ろに蹴落とされてばかりで出世の見込みはありません。「書生上がりの学士さん」に先を越され、どこの学校をも卒業しておらず肩書が無いからだ、と思っていた折、社内改革で解雇されてしまうのです。(当時もリストラがあったのですね。)

路頭にまようところ、幸いにも妻にはその亡父から譲り受けた幾ばくかの財産がありました。妻は良い折だからさわがしい東京を捨て何処かの田舎に引き込んで子供3人で安らかに過ごそうと懇願します。ところが岸本君はなんとその妻の財産で1年なり2年なりアメリカへ行って学問をして来たい、と持ち掛けたのです。妻は金を惜しむのではなく、ただひたする岸本君を愛し、人相応の働きをして平和に暮らしたい、と懸命に説得を試みますが、岸本君のたっての願いを断り切れずに折れてしまいます。岸本君はかくして「万里の異郷の地」に旅立つことになりました。

岸本君曰く「なりたけ短い時間を短くして何なり学校の免状をもってかえりたい。」これが彼の悲願です。「卒業免状が妻に見せる一番のみやげなんですから。」と愛する妻へのせめてもの心づくしです。彼は、ここで「大学」ではなく「何なり学校」と言い換えています。それはそうです。今も昔も1、2年で大学を卒業し学士号を取るのはしょせん無理です。大学ではなく各種学校のことでしょう。

こう言い終わると「自ら勇気を励ます為に苦そうな顔をしながらもぐっとウイスキーを飲みほす」のです。柳田君が「然し何かにつけ(細君を)思い出すでしょうな。」と言うと、岸本君は「ここまで来てそんな意気地のないことを。」と答えます。しかし「その様子はいかにも苦し気に見受けられた」のでした。

こうして岸本君は妻の一財産をつぎ込んで渡米決起したわけですが、英語は不得手、アメリカの学校事情には暗く、大学はおろか彼曰くの「何なり学校」の当てさえ無いのです。

夜の11時になり雑談会は散会、柳田君も岸本君もそれぞれの部屋に戻ります。そして「岸本君が淋しい寝床に其の身を横たえるのであろう」隣室から彼が「ベッドのカーテンを引き寄せる音がかすかに聞こえた」と綴っています。

Japan Dataによると100年前1920年の日本人の平均寿命は現在の半分の女性43才、男性42才だそうです。もちろん日清戦争、日露戦争などがありそれも含めてかもしれませんが、岸本君、柳田君共々約30才、人生のほぼ4分の3を過ぎ、現在でいえば60才位の感覚で考えてよいのではにでしょうか。

そうすると岸本君はこれから1,2年アメリカに滞在し、帰国は明治37、8年で33才か34才になっています。無事とれたとしてもアメリカの「何なり学校」の免状がどれほどのものか、柳田君が豪州から帰国し会社で冷遇されたことを聞いたに違いなく、さぞかし不安になったことでしょう。当然妻が亡父から受け継いだ財産を使い果たすことになるでしょう。残してきた妻子のことを思うと、内心は妻の言うとおり田舎にひっこんでおけば良かったなどと後悔し葛藤していたかもしれません。それが人情というのものです。隣室の永井には他人事ながら、岸本君が船室の小窓のカーテンを引く音を、 渡米という小窓のカーテンを引くメタファーと感じたかもしれません。なんとも沁みいる話です。

"Les sanglots longs des violons de l'automne blessent mon cœur  d'une langueur monotone….”「秋の日のヴィオロンのためいきの身に染みてひたぶるにうら悲し…」

ポール・ベルレーヌの詩「秋のうた」(1867)の一節です。和訳をしたのは(確か4年後永井がその後フランスに渡り会うことになる)上田敏です。この時の岸本君の心境にぴったりです。

(その3)に続きます。





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