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財団法人日航財団常任理事中村忠男氏に聞く(その1ー2)...世界が舞台 そして今日本文化を世界に発信する

「財団法人日航財団常任理事中村忠男氏に聞く」(その1ー1)の続きです。


 ジョージタウンでの留学生活

鈴 木: ジョージタウンでは何を専攻したのですか。

中 村: Master of Science in Foreign Serviceという大学院のコースで す。日本語の訳が難しいのですが外交学部、とか国際関係学部 とでもいいましょうか。そこで国際経済、国際ビジネス、国際 政治について理論と実践を学びました。

鈴 木: ジョージタウンでは看板学部ですよね。そこでついていくには 相当の英語力が必要ですね。そこでどういう勉強をしたんです か?TOEFLテストが600点には足りないから英語のクラスを取 れと言われて。

中 村: 夏休みの間に英語のクラスに2週間くらい行ったのですが、それ はそんなに難しくないんですよ。言葉がスムーズに出るように なりましたね。ただ、TOEFL 580点の人が英語の補習をちょ っと取ったからって、それだけでは大学院の授業に最初からつ いていけないです。そんなに甘くはありませんね。

鈴 木: ジョージタウンって言うのは知る人ぞ知るものすごく厳しい学 校で、すごい勉強させられる。Foreign Serviceっていったら看 板学部だから特に授業についていくのは大変ですね。

中 村: 外国人は私を含めて3人だけ。あ とは50数人全部がアメリカ人。 だから最初はとてもしんどかっ たですね。特に政治学関連の授 業がしんどかった。政治理論は 英語でやるのは難しいですね。 我々は会社員なので、経済学と かビジネスの授業は英語でもい いんです。授業で先生の言って いる英語が全部わからなくて も、資料やテキストを読めばわ かるし、読んでわかればその後 先生の言ってることもわかるよ うになってくる。でもオーソドックスな政治学の授業はとても 苦労しましたね。アメリカ人のクラスメートに教えてもらって も、やはりよくわからないことが多かったです。具体的な政治 事象は時間をかければ理解できるのですが。

鈴 木: マキャベリとかそういう?

中 村: そうですね、政治哲学や政治理論、英語でやるのは非常に難し かったです。苦労しました。

鈴 木: どのくらい読まされました?

中 村: 1週間に4科目とって、各科目毎週2冊くらい読めと言われてい ました。1冊200ページとか400ページとかの本を。そんな、無 理でしょう?日本語で読むのだって大変なのにどうするんだろ うと思いましたよ。最初のセメスターは4科目とらなくちゃいけ ないのに2科目しか終わらなかった。だから夏休みを返上して残 りの2科目をとりました。でもそのうちだんだんコツがわかって きました。アメリカ人だって全部読んでるわけではないんです ね。まじめに精読して全部読もうとしたってとっても読めな い。

鈴 木: ネイティブでさえもついていけないくらいの量が出るし、内容 は難しいし。

中 村: 1年経ってだんだんコツがつかめてきて、あの先生の話のポイン トはこういうところで、レポートを書けといわれれば、テーマ や焦点はここだ、ということがだいたいわかってきました。そ のポイントを読むわけです。本はそういう風に読まないと頭に 入ってこない。1冊の本を最初から最後まで読んでもなかなか頭 に入らない。非能率ですよね。自分で問題意識を持って、それ についてその本から解答を得ようとして読まないと頭に入って こない。

鈴 木: たしかに。それでどんな授業をとったのですか?

中 村: 政治と経済とビジネス、この3つのテーマについて様々な授業を とりました。たとえば経済学だったら、国際貿易の法的な枠組 みとか、多国籍企業の問題など。それぞれ1セメスター4科目掛 ける2年間4セメスターで全部で16科目とりました。その中で政 治学だけ2つCをもらいましたよ。

鈴 木: そのくらい難しかったんですね。日本もアメリカも大学院では だいたいAやBをくれるんですよね。だけどジョージタウンでは 大学院生にCやDを平気でつける。ごまかしができない大学院で すね。言語学でも何人も落とされて他の大学院に行ったり国に 帰った留学生を何人も見ました。そのなかでもSchool of Foreign Serviceは一番きつい。そこを2年間で出られたんです か?たいしたもんだ。

中 村: でも会社に成績表を送らなければならないんだけど、はじめは 送りたくなかったですね。最初のセメスターは2科目しか終わら なかったですし。最終的にはAが他よりも多いくらいで終りまし た。帰ってきてから半年くらいは夢をみました。あ、レポート 出さないで帰国しちゃった、卒業させてもらえない、と言う夢 です。

鈴 木: 私も似たような夢をみました。タイピングをしながらペーパー を書いている夢。ヴェトナム戦争中には、アメリカ人は、大学 や大学院に残らないとヴェトナムに送られてしまう、そんな時 代でした。だから大学も兵役逃れをさせているという印象を与 えたくないので、どんどん落第させたものです。私は1968年か らアメリカにいましたので、今でもよく覚えています。1976年 はそんな厳しい空気がまだ残っていた時代ですね。

鈴木の一口コメント

中村忠男氏にはじめて会ったのは、1976年の7月か8月で、私たちの 友人の家でのパーティーでした。当時、ジョージタウン大学の言語学 の博士課程に在籍していた私は、10月に、博士候補者試験を控えて 猛勉強中で、しばし頭を休めようと思い顔を出したのですが、中村氏 はすでにすっかり出来上がっていて、大声で英語を話していました。 碁も将棋もできない私に、You play neither go nor shogi? I can teach you how.などと言っていたのを覚えています。当時から日本 文化に精通している教養人で、かつ、真摯に英語に取り組んでいまし た。それ以来、中村氏とは共通の友人を挟んでずっと交友が続いてい ます。次回は、1970年代後半から始まる航空業界の戦国時代に、中 村氏が英語でどのように交渉し国際路線を開拓したか聞きます。

その2)に続きます。


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