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財団法人日航財団常任理事中村忠男氏に聞く(その2)...世界が舞台 そして今日本文化を世界に発信する



はじめに

「財団法人日航財団常任理事中村忠男氏に聞く...世界が舞台 そして今日本文化を世界に発信する」(その1-1)(その1-2)の続き(その2)です。2008年TOEFLメールマガジン筆者のコラムForLifelong Englishに掲載したインタビュー記事です。以下そのままお届けします。中村忠雄氏の略歴は(その1-1)にあります。


機動力を求められた航空路線の開拓

鈴 木: ジョージタウン留学を終えて帰国してからはどうされました か。

中 村: 国際業務室という、国際航空の枠組みを担当する部署に行きま した。民間航空の国際的な取決めは、路線、便数、運賃、この3 つで決定されます。これが決まらないと定期便は飛べません。 当時はこれらを基本的に2国間で決めていました。日本からある 国に飛行機を飛ばすとき、日本とその国の政府で便数などを取 り決めるんです。たとえば日本とタイだったら、2国間の航空協 定で、日本側はタイに何便、タイ側は日本に何便、どこの地点 に飛んでいい、といったことを決めるんですね。当時は運賃は IATA(国際航空運送協会)で決めてそれを各国政府が認可し、 路線と便数は2国間で決めていました。

鈴 木: その交渉は全部英語で?

中 村: 基本的には政府間の交渉なので、双方の航空当局が交渉しま す。当時日本では国際線は日本航空しかなくて、オブザーバー として交渉に参加したり、相手の航空会社と下打合わせをして お互いに理解を深めておいてから、意見を航空局に上げる、と いうことをやっていました。

鈴 木: するとそういう場に立会って交渉をするのですね。

中 村: そうですね。留学中は割と緻密な勉強をしてきたのですが、帰 国して担当した分野は、結構機動力や大胆さを要求されるよう な仕事でした。南回りのヨーロッパ便の担当になったものです から。

鈴 木: 南回りのヨーロッパ便と言うとどういう便ですか。

中 村: 今は日本の航空会社は飛んでいませんが、日欧間の路線はこの ルートが最初のものです。それからアンカレジ経由の北回りが 入り、今は、シベリアを飛ぶ直行便が主流です。当時はシベリ ア上空はいろいろな制限がありました。南回りヨーロッパ便と いうのはバンコク、デリー、テヘランなどを経て、パリやロー マへというとても長い路線で片道30時間近くかかりました。長 い路線だったことと、多くの国と結ぶためにそうなったので す。

鈴 木: なるほど。

中 村: また、今は、直行路線が主流になりましたし、航空自由化も進 んできましたが、当時は協定上の権利で厳格に規制されていた 時代でした。そのため、協定上の権利がないところへは飛べな かったのです。例えば、東京・バンコク間でしたら、日本・タ イ間の航空協定のみで済みますが、私の担当はそこから先、バ ンコクから例えばデリーに寄り、次にテヘラン、そしてアテネ に、ということになりますから、日本とインド、日本とイラ ン、日本とギリシャ、というようにそれぞれの国との航空協定 上の権利が必要となります。すべての関係国との間で権利がな いと定期便を飛ばせない。会社がこういうルートで、どういう 便を、何便飛ばすというような計画を立てると、その国との航 空協定を調べ、権利がない場合には相手国と交渉しました。そ ういう仕事は、面白かったですね。

鈴 木: はぁー・・・気が遠くなる話 ですね。さきほど機動力や大 胆さを要求されると言ってい ましたが、具体的にはどうい うことでしょうか。

中 村: 例えば日本とオーストラリア 間のルートなどでは、旅客需 要の実績や見込みといったも のを考えて話をするわけで す。ところが、私が担当して いたルートは、そういうもの よりも二国間の協定上飛べる か飛べないか、ということが 大きな問題でした。

鈴 木: 数字ではなく、航空権益上また運航の安全が確保できるかどう か、という問題ですね。さきほど、テヘランと言ってましたが 当時はイラン革命がありましたよね?

中 村: ええ。私がアメリカから帰国した翌年、イラン革命は79年でし た。当時テヘランは、南回りヨーロッパ線の大きなステーショ ンだったので、革命が起こるとそのルートを通れなくなりまし た。そこで別の場所に寄るのですが、そこの国との航空協定上 飛べるかどうかということを調べるんです。その他、救援便を 出す出さないの話が出まして。

鈴 木: 救援便と言ったって、大変な紛争ですよね。

中 村: 革命が起こり空港も閉鎖していました。イラン在住の日本人は たくさんいましたから、その帰国のための便を飛ばしたい、と りあえず、アテネとかアンカラに飛行機を待機させて、飛べる 状況になったらすぐに行くようにしました。そのような通常の 定期便ではない飛行機を飛ばすのにもまた関係先と交渉や連絡 をしました。

鈴 木: そういうのを全部?

中 村: はい。一番下っ端でしたけれど。

鈴 木: すごいですね、それは。私は航空会社というのは、一般的には 外国の乗客の対応のために英語を使うとかしか考えていなかっ たけれど、実際にはまったく違う仕事に携わっていたのです ね。

中 村: 実際に飛行機が飛べるか飛べないかという根本の取決めのとこ ろですね。

鈴 木: それともう一つ重要なのは、その頃と較べてずいぶん航空法が 変わったのではないですか。

中 村: これはもう少し後になりますが、カーター政権以降の米国のと った自由化政策でアメリカを中心に航空の自由化が随分進みま した。その後、日本も、航空会社を沢山認めよう、乗り入れを 自由にしよう、と規制を少なくする方向に向かいました。こう した動きは、航空だけではありませんね。

鈴 木: お話を聞いていると、航空会社の仕事も以前は随分とユニーク な仕事があったように思います。航空法規や幅広い国際的な知 識、現地の文化などを理解していること、英語力、そして相当 の交渉能力と言うんでしょうか、そういうものが要求されるわ けですね。

中 村: そうですね。自分でやってきたことを振返って見ると、そうい うことになるでしょうか。うまくいかなかったところもあるけ れど、割合うまくいったのかな、と思います。

◆ 経験を広げるためホテル事業へ

鈴木: 航空協定の仕事をやった6年ぐらいの後はどうされたんです か。

中村: それまでかなり専門的な仕事でしたので分野が限られて、その 専門家になってしまうと思い、もう少し幅の広いビジネスをし たいと思いました。ちょうどその頃日本航空がホテル事業を海 外に拡張していて面白そうだと思っていたところ、声がかかっ たので、「ホテル日航」の仕事をすることになり、駐在員事務 所を香港の日本航空オフィスの中につくりました。肩書きは 「アジア・オセアニア地区主席駐在員」でした。

鈴木: それは何年頃ですか?

中村: 1983年ですね。中国が開放政 策を推進し外資導入に熱心にな っていた頃です。そのため、シ ンセンや広東省はじめ中国のあ ちらこちらからホテルをやって くれとお声がかかり、当時の JALホテルズが、北京のホテル のマネジメントを請け負いまし た。当時北京では、ウエスタン スタイルのホテルは、2つしか なかったんですね。するとその ホテルに、海外からのビジネス マンが皆泊りたがるんです。当 時、中国ではホテルの宿泊料金がものすごく高くて、それでも ホテルが足りないからなかなか予約が取れない。そんな中であ ちこちからホテルプロジェクトに参加しませんかと声がかかり ました。それから、その頃英国と中国の間で香港の返還交渉が 成立して、香港の土地のリース権のオークションがありまし た。それで、その土地をオークションで取得して、そこにホテ ルを作るということで、私も色々と直接関わりました。

鈴木: 実際に実務をされたのですか。

中村: はい、マーケット分析をして、ホテルの基本コンセプトを作っ たりしました。それから香港政庁の土地オークションに参加し ました。翌日、私の上司が大きく新聞の一面に出ました。「こ んな高い値段で」と。

鈴木: 日本はバブル前の時でした?

中村: そうです。香港の中国への返還が決まって最初のオークション だったので、皆慎重だったようです。その土地を取得して建物 を作り、87年に営業を開始しましたが、その後香港では、観光 客が増え土地の値段もものすごく上がって、結局その投資は成 功でした。オーストラリアなど他のところにもホテルプロジェ クトがあってそのマーケティング調査もしました。

鈴木: 今度はマーケティングが入ってきたんですね。

中村: ええ。それで、その前に比べるとずいぶん幅広いビジネスを経 験しました。

鈴木: ジョージタウンでやった勉強の中でこれはビジネス部分が活き た事例ですね。ジョージタウン後の仕事の中で、前半は航空法 規だとか交渉といったコンテンツが重要でしたが、ホテル日航 ではビジネスも非常に重要だったと。

中村: その後また幾つかの部門を経て、ホテル関係では日本航空の関 連事業室のホテル部長をやりました。昔は拡張していたのです が、その頃は残念ながら整理の時期で、リストラクチャーの一 環で売却交渉といったことを行ったわけです。あちこちのホテ ルの売却価値や条件をどうするか、交渉で詰めるわけです。そ れを契約書に落とし込んだり。ここがジョージタウンでの勉強 が最も役に立ちました。

鈴木: 例えば、どういうふうに?

中村: 国際取引とか法律関係の本をかなり読んでいましたから、早く 理解した上で交渉に臨めました。ただ、交渉自体は、攻めると きと比べて撤退するときは難しい。こちらが弱いことを読まれ ていますから。入札などで適正な価格は決まる訳ですが、入札 に適さない交渉もある。そういう場合、状況次第で条件が動く んですね。そういう意味では、基本方針と状況に応じた機敏な 対応っていうのが大切ですが、なかなか難しい。

鈴木: なるほど、本当にビジネスですね。特に香港のような場合は、 色んな事がうごめくわけでしょ?日本的な考えは通用しないと か。 中村: 香港や東南アジアの富豪という人達と話したり、一緒に仕事す ることがありましたが、彼らは経済分析、景気動向にも注目し ますが、仲間同士のネットワーク情報網から色んな情報を仕入 れたり、相場勘を相当働かしていたようです。安くなったとこ ろでホテルなどを買うんですね。彼らは自分のお金でやってい ますから、即決です。

◆ 体験や知識を生かして教育分野へ

鈴 木: そういう仕事をしながらも、だんだん今度は教育に向かってい ったっていうのは、興味深いところですね。日本航空は航空会 社だけれど、教育や文化的なビジネスをやっているのですか?

中 村: 80年代の多角化が叫ばれたバブルの時期もありましたが、バブ ルがはじけて、日本中が本業重視になり、付随的な事業は整理 したり、あるいは独立していくというスタイルに変わっていき ました。そんな会社の動きの中で今度は何をやろうかと思った ときに、私は教育が面白いんじゃないかと思いましてね。だん だん自分も歳をとってきましたから、若い人の役に立つような 教育をと思ってJALアカデミーに行きました。ここに国際教育事 業部というのがあって、主に企業向けに異文化間コミュニケー ションのスキルを教える研修をやっています。そのほか接遇・ 接客マナーとかカルチャースクールなどもやっていますが、私 が興味があったのが、海外ビジネスをする日本の企業のビジネ スマンに英語も含め、異文化コミュニケーションスキルを研修 するという仕事です。そこでは従来自分が大学や大学院で勉強 した分野ではなく、カルチャーやコミュニケーションがテーマ でしたから、とても面白かったし役に立ちました。

鈴 木: そのころ多くの企業の海外進出が多かったから、その研修をし たんですね。

中 村: たとえば海外に技術者とし て派遣される方は、英語能 力をアップするということ で外国人英語講師が担当す るのですが、マネージャー として現地の人を含めマネ ージする立場で行く場合に は、ただ語学の問題だけで はなく現地の習慣や文化な どをよく知らなくてはいけ ない。そういう人たちに対する研修の企画をしました。文化が 違えば習慣とか価値観とか違いますから、日本では当たり前の ことが違うということや、専門的なことでは雇用関係のことな どを教えました。例えば昇進とか昇給は国によってはきちんと 説明しなくてはいけない。あなたはこうだから昇進させます、 昇給しませんとか、毎年きちんと本人に言って、もし苦情申立 てがあればそれに対して説明できなければいけない。あいまい な評価では済みません。それからハラスメントも含めセキュリ ティですね。どこの国に行っても日本と相当違います。実体験 を持つ講師を招き、諸外国でのセキュリティに関する企業向け 研修を催しました。

鈴 木: 日本の旧来型の企業経営と相容れない部分や違いがありますよ ね。中村さんがその責任者をやったのには、それまでの色々な 体験がベースになっていると思うんです。色んなところにも行 かれたでしょうし、そういった経験を持ってる同僚もまわりに 沢山いるでしょうから、会社の仕事の過程でそういうノウハウ を蓄積していったわけですね。

鈴木の一口コメント

中村さんは淡々と話をしていましたが、1970年代後半からも世界は 激動の時代でした。イラン革命の時には確かアメリカ大使館は占拠さ れて、逃げ遅れたアメリカ大使館の関係者がカナダ大使館に助けられ て帰国できたとかなどという話も聞いたことがあります。また、モス クワ・オリンピックの直前にアフガニスタンで内紛があり、当地を旅 行中の日本人観光客が何台ものバスを乗りついで命からがら隣国に逃 げたなどという話も聞きました。世界がモザイク状に分断されていた 時代に、その紛争地域に空路を開発するのは並大抵の努力ではなかっ たと想像します。今ではロシア上空を越えてヨーロッパに行けます が、これも中村さんのような専門家の地道な交渉がなければ実現しな ったのではないでしょうか。中村さんが「文化の違い」と言うたびに 重みが伝わってきました。いつか実体験を一冊の本にまとめられるも のと期待しております。

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