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共有するのが楽しくて大好き

共有するのが楽しくて大好き。
つまり相手、人が、前、周囲に存在する状態。
一方的に誰かに伝えたいのではない。
娘達が子どもの頃、絵本の読みかせをした。小学校の読み聞かせボランティアもしてきたが。
子ども達の真剣な眼差しと、ドッと湧き上がる笑い。
娘達は大人になって表現した台詞が
「お母さんの好きな絵本」
あれ?私が楽しく絵本を読んでるのを聞いてもらってたのかな。たぶん共有してきたのだ。
親子合唱もしてきたが、コーラスも正しく共有空間だ。練習してる時も、本番直前に着替えてガヤガヤお喋り。すべて共有で、楽しい。更に、観客を巻き込み巻き込まれて、歓喜する。どんな素人の歌であろうと伝わる。それは生である要素、共有空間だと。
ミニコンサート終了後の反省会に何故か残る観客の男の子は言う「僕がここで、一番に手拍子し始めたんだ。だから盛り上がったんだ」客席も一員となって作りあげる。
もちろん、友人、諸先輩方とのおしゃべり。
お仕事でもチーム戦で、ピークを乗り切って、途中には冗談、世間話したり、最後には、皆でやり切ったという共感。
若い子に仕事の楽しさを知ってもらうように導くのも趣味だ。


さあ、はて。
詩だ。
詩は、わかってもらうと思っていない。伝えようと思っていない。読んで頂く方もわかろうとしようというスタイルでなくていいですよ。
死後20年後、誰かがこそっと読んでこんな人がいたんだと思ってもらえればいい。
欲を言えば金子みすゞさんのように映画になれば。
詩は一人よがりだ。
私が詩をかいてると言うと鬱々とひとよがりと思われて「ふーん」だ。20年もなゆたなので、久しぶりに会った人に、まだなゆたなんだね。「まだ詩かいてるの。何してるの。」くらいな人もいる。
もちろん、掲載されものを読んでくださった方の反応は違う
私は詩をかきたいと思ってない。書こうと思ってない。どんなの詩をかきたいとかない。
「アイデアがどんどん湧き上がってくる状態ですね」と言われ。
自身が、何ができる事はなんだろう。できる事からやっていこうと思うと
私には詩を書き出す事だった。
エッセイ「しながらしながらしながらしながらしながらしながら」にもかいたが。
夜、眠りつきそうになってるのに、詩かわ浮かび。「眠いのにめんどくさい。ヘッドライト。眼鏡。スマホ」こんなのじょくち。あー、めんどくさい。
好きでもない、苦しい、人からは、蔑まされる。私はそこまでして詩を書き出し続けなければいけない。
note をやるのに、道具として持っていた詩を毎日並べる。
コメントは書いてもらいにくい。書かれて、困った事も。
共感という感覚がない。
今、伝わってる。
ただひたすらに恥ずかしい。
「いや、作品よ」と
シュっとすましていこう。
私が中1からかいてるのをみてる、母、妹には、やはり作品として位置付けてくれる。
独りよがりなまんまでも作品と思って下さる人がいらっしゃるなら・・・
シュとモデル歩きで歩いてこう。

ごめんなさい。詩に夢も憧れもありません。できる事をしよう。書き出すしかない。書き出す努力してる。結構苦しい。でも、一生書き出す覚悟はできた。最期までお付き合いいただけますか?