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小説『パチンコ』と私の物語②

 自分の物語を語ろうとして、一体どこから始めればいいのか途方に暮れてしまったが、私が在日コリアンの歴史に深い関心を抱いた日のことから書いてみたいと思う。

2004年、北海道の大学で

 それは、北海道・札幌の大学に通っていた2004年。就職活動のため大学を休みがちだった4回生の頃、当時所属していた教育史・比較教育ゼミの先生が担当する「在日韓国・朝鮮人の歴史」という講義を開いたのがきっかけだった。

 なぜ今日本に多くの在日韓国・朝鮮人が暮らしているのか?第二次世界大戦が終わり、やっと祖国に帰れると喜んだはずの人たちが、なぜ日本に多く留まることになったのか?この講義を受けるまで、ほとんど知ることのなかった日韓の歴史に触れ、こんな大事な歴史を知らずに生きてきたのかと、恥ずかしくなったことを覚えている。

 また同じ時期、大学に元従軍慰安婦のハルモニ(おばあさん)が来られ、そのお話に耳を傾けるという機会にも恵まれた。それは確か札幌の、あるキリスト教会を通して設けられた場だったと記憶している。

 当時の私は韓国どころか海外に全く関心がなく、海外旅行もしたことがなかったのだが、大学の講義やハルモニとの出会いにより、日韓の歴史をもっと知りたいという欲求が静かに芽を出そうとしていた。私は今でもその講義のレジュメと、ハルモニのお話し会の案内チラシを大事に大事にとっている。

2006年、関釜フェリーで初めて韓国へ

 大学を卒業し、編集記者として働き始めた1年目。2006年の夏、ついに初めて韓国旅行をする機会が訪れた。「一緒に韓国へ行かない?」と誘ってくれたのは、日本人の父と朝鮮籍の母を持つ大学時代の先輩だった。「祖母が生まれ育った国を見てみたい」というのが、先輩の一番の目的だった。

 山口県の下関港から関釜フェリーに乗ると、乗船するなり2等客室で円座を組んで、キムチやおかずを広げる行商の韓国人女性たちがいた。船内の匂いは、すでに韓国だった。行商のアジュンマ(おばさん)のうち何人かは、乗船前から何度も私に何かを訴えかけてきた。韓国語がわからないので返事ができず、無視する形が続いてしまった。

 すると、こんなことが起こった。大浴場で身体を洗っていたら、行商のアジュンマと思われる人が真っ裸で近づいてきて、すごい剣幕で唾を飛ばしながら、また何かを訴え去っていったのだ。その翌朝、下船前に言葉を交わした子連れの女性に聞いて驚いた。アジュンマたちは「お酒を運んで」と言っていたのだ。

 「絶対手伝ったらだめですよ。中に何が入ってるかわからないんだから」と教えてくれたその女性は、日本で生まれ育ち、韓国人男性と結婚。2児を連れた日本への里帰りを終え、釜山の家に帰る途中だという在日コリアンだった。

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▲早朝、フェリーの窓から見えた釜山の様子

 初めての韓国は、言葉ができなかったにも関わらず、韓国の人の温かさや親切心に何度も触れる旅となった。中でも印象的だったのは、韓国料理のそのおいしさ。茹でた豚肉を葉っぱで包んでいただく「ポッサム」、ごま油の香りに食欲がそそられる海苔巻き「キンパ」、生のニンニクと葉物野菜をこれでもかというほど味わえる韓国式の焼き肉など、何を食べても口に合い、なぜ今まで韓国料理を知らずに生きてきたのだろう、と思うほどだった。

 次に韓国へ行く時は、せめてメニューだけでも読めるようになり、自分の食べたいものを注文できるようになりたかった。食への強い欲求が、外国語習得に全く興味を持てなかった私の心を駆り立てたのだ。しかし、私が実際に韓国語を学び始めたのは、それから4年後。ある在日コリアン3世の女性に出会ってからのことだった。

2010年、韓国語を学び始める

 韓国語を教えてくれた女性は、私がのちに通うことになる韓国・ソウルの延世大学語学堂を卒業した人だった。2002年、日韓ワールドカップが開催された年に留学していたというオンニ(お姉さん)は、当時韓国で流行っていた音楽や街の様子、ワールドカップの思い出などをたくさん聞かせてくれた。

 その頃日本から韓国に留学していた人たちは、「自分のルーツである韓国のことを知りたい」、「韓国にいる親戚と会話ができるようになりたい」という目的を持った在日コリアンが多かった、とも聞いた。

 オンニの家はその街で老舗の焼き肉屋で、古くからの常連客も多かった。オンニの母であるオモニは自分でキムチを漬け、焼き肉ダレも手作り。肉はもちろんだが、海鮮チヂミやキムチチャーハン、冷麺などのサイドメニューも絶品で、韓国に行かずとも本場の味が楽しめる貴重な店だった。

 オンニは韓流スターやKpopアイドルのファンだという店の常連客に教えを請われ、月に数回、韓国語教室を開くようになった。そうとは知らず、ある日何気なく「昔韓国語を勉強したいと思ったけど、すぐ挫折しちゃって」と話したら、オンニが「簡単だから教えてあげるよ。お客さんと一緒に勉強する?」と誘ってくれたのだ。それが、私と韓国語の長い付き合いの始まりとなった。

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▲2010年、韓国語を学び始めた時のノート

出会いに導かれ韓国へ

 私を初めて韓国へ連れて行ってくれた人。そして、私に初めて韓国語を教えてくれた人。そのどちらも、小説『パチンコ』の主人公ソンジャのように日本へ移り住んだ祖父母を持つ、在日コリアンの血を受け継ぐ人たちだった。小説に出てくるソンジャの孫、ソロモンと同じ立場ともいえる。

 先輩の祖母は亡くなる数か月前、私の手を握りながら、日本に移り住んだ時の話や、終戦後どうやって生きてきたかについて詳しく話してくれた。それはまさに、ソンジャを思わせる波乱万丈な人生だった。また、韓国語を教えてくれたオンニの家族と過ごした時間は、韓国人でもない、日本人でもない、在日コリアンとして生きることの現実を見聞きした時間でもあった。

 この2人との出会いがなかったら、私は一度も韓国旅行をすることなく、韓国語を学ぶこともなかったかもしれない。もっと遠くへさかのぼって考えると、2人の祖父母が韓国から日本へ移り住んでいなければ...私は2人と出会うこともなく、今、結婚移民者として韓国で暮らしていなかったかもしれない、ということだ。

 ミン・ジン・リー氏が小説『パチンコ』を「私たちについての物語でもある」と記したのは、つまりそういうことではないだろうか?

 もし「私は韓国とは関係ない」、「昔の歴史なんて知る必要はない」と思っている人がいるなら、ぜひ一度胸に手を当てて考えてみて欲しい。果たして本当にそうなのだろうかと。自分の親は?祖父母は?育った街は?口にしてきた食べ物は?自分や先祖は一体どうやって、今日まで生きてきたのだろう?

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▲小説『パチンコ』下巻には、著者ミン・ジン・リーによる謝辞と、エッセイスト/洋書レビューアーの渡辺由佳里氏による解説、そして渡辺氏の依頼により実現した「著者からの日本の読者へのメッセージ」が掲載されている

 最後に少しだけ、私のルーツの話をしたい。私は20歳の頃に鹿児島出身の母方の祖父を亡くし、それから数年経って初めて、祖父が幼い頃に家族で植民地支配下の朝鮮半島へ渡り、終戦間近の19歳頃まで京城(現ソウル)で暮らしていたことを知った。

 親戚の話によると、祖父の父は朝鮮ホテル(現ウェスティン朝鮮ホテル)に勤めており、家族は官舎で暮らしていたというが、事実を確認できそうな唯一の資料———当時の居住地がわかる祖父の戸籍謄本の写しは日本に置いてきてしまったので、曖昧な話である。いずれにしても、祖父は生前、私の前で一度も自分の生い立ちについて話したことはなかった。

 ただ、高校生の頃、韓国旅行のお土産として、派手な韓服を着た男女の人形と、重々しいキーホルダーのセットを買ってきてくれたことがあった。後に祖父の遺したアルバムを見て知ったことだが、その旅行は、卒業した京城公立工業学校(現ソウル工業高等学校)の開校100周年記念に参加するのが目的だったようだ。

 時は1999年。祖父は同窓の韓国人男性の家に招かれ、食事を共にしていた。同行していた祖母は「いただいたご飯、とてもおいしかったよ」と言って笑った。

 一方、父方の祖父は静岡の少年戦車兵学校に入り、米軍の攻撃に備え、鹿児島の海辺で待機していた18歳の時に終戦を迎えた人だった。大阪の下町で生まれ育った祖父は、生涯ニンニクを苦手としていたのだが、それは子ども時代に在日コリアンのクラスメイトが発していたニンニクの匂いが、祖父にとっては耐えられないものだったからだそうだ。

 小説『パチンコ』には、祖父が語ったような学校でのニンニクの匂いに関するエピソードが登場する。ただし、それは在日コリアン側の視点でだ。

 祖父はもしかして韓国に対して良い印象を持っていないのかも、と思っていたのだが、数年前のある日、祖父は突然私に向かって「韓国人と結婚するかもしれんなあ」と予言めいたことを口にした。

 結婚前、夫と初めて対面した時には、彼の体格の良さに目を細め、「昔は日本人もええ身体しとったんやけどなあ」と言って笑った。私が結婚移民者として韓国へ渡った1週間後、祖父は帰らぬ人となった。

 父方の祖母からは、大阪大空襲に遭い、高下駄を履いて火の海の中を必死で逃げまわった話を何度も聞かされた。小説『パチンコ』の中では、主人公ソンジャが最初に愛した男であり、闇社会とつながる実業家となったハンスが、いずれ大阪に空襲があるから田舎へ疎開しろと話すシーンがある。

 祖母は結局、着の身着のまま、父親と共に淡路島の親戚の家に身を寄せることになったが、空襲の前に、ハンスのように助言してくれる人がもしいれば、早めに疎開して恐ろしい思いをせずに済んだのだろうか。そんな祖母も、私が韓国に移住し、息子を妊娠したと知らせて間もなく、眠るように逝ってしまった。

 生まれてきた息子が見せる様々な表情から、両家の祖父母の面影を偲ぶ時。私は、彼らが苦難の時代を生き延びてくれたおかげで自分が今ここにいるのだなと、何度も実感するのであった。

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▲息子の1歳の誕生日を祝うトルチャンチで

 小説「パチンコ」は4世代にわたる在日コリアン一家の物語ではあるが、そこに描かれている人の姿は、誰もが経験する普遍的なものばかりとも言える。他者を思う気持ちや、性への目覚め。自分とは何かという問い。どこで、何をして、誰と生きるのかという選択や覚悟の連続。希望と失望。努力と諦め。夫婦・親子の絆や葛藤…。

 神を信じようとしながらも、それ以上に自分自身を信じ、できることに最善を尽くしてきた主人公ソンジャのたくましさは、今を生きる人たちに小さな光を与えてくれるはずだ。結婚移民者として韓国で暮らし、新型コロナウイルスのため仕事や生活の先行きが見えない今。私はこの本に出合えたことを本当に幸せに思う。

 私はこの長々しい文章を著者のミン・ジン・リー氏や、訳者の池田真紀子氏に手紙を書くつもりでつづった。素晴らしい読書体験と、私がなぜ今ここにいるのか、自分自身の物語について考える機会を与えていただき、本当に感謝している。

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